後日談|昴への贈りもの・下

 冷たい風が頬をかすめる。僕はコートの襟を立て、ゆっくりと歩を進めていた。


 今日は水曜日。ついに、昴の家を訪れる日だ。半人半猫として過ごした日々は、ほとんどが昴の家の中だったから、こうして僕の自宅から訪ねていくのは初めてになる。緊張しないほうがおかしい。彼女に早く会いたい気持ちはあれど、何だか会うのが少し怖いような、複雑な感情がないまぜになる。だから一歩ずつ、確実に前へ進む。僕の弱い心がくじけてしまわないように。


 たどり着いた扉の前で、深呼吸をひとつ。慎重に呼び鈴を押そうとしたところで隣の部屋の扉が開いた。


「おや、君はハチくんじゃないか。久しぶりだね」

「お久しぶりです。……松葉さん」


 すんでのところで思い出した苗字で呼ぶと、昴のお隣さんである中年男性はにっと笑った。


「料理の腕は上がったかい? 昴ちゃん、教えるのもうまいって渉くんから聞いているからね」


 彼の言葉で思い出した。そういえば、以前スーパーの買い出し帰りに遭遇した際、僕は渉さんの知り合いで、昴に料理を教えてもらいに来ているという設定にしていたのだった。実際には料理を教えてもらうどころか一方的に作ってもらうばかりだったので、今振り返るとかなり恥ずかしい設定である。


「僕の腕はまだまだです。昴の境地に至るには相当な時間がかかりそうで。でも、彼女の迷惑にはならないように、もっと精進していきたいです」


 料理だけでなく、色々なことを。そんな思いを込めて放った言葉は本心だ。だから彼も納得してくれたのだろう。頷きながら自分の家の扉を閉めた。


「その意気だよ、ハチくん。いくつになっても、精進しようと思ったときが成長のしどきだからね。昴ちゃんも君も若いから、これからどんどん伸びるよ」

「ありがとうございます」

「じゃ、出かけてくるから。昴ちゃんのことは任せたよ」

「はい」


 右手を上げて出ていく松葉さんは軽装だ。散歩にでも行くのだろうか。隣人の生活スタイルを知らないのでわからないが、少なくとも遠出をするつもりではないのだろう。それよりも、彼が残した言葉。


――松葉さん、意外と僕のことを信用してくれているんだな――


 初めて会ったときはかなり警戒されていた気もするが、今はむしろ友好的ですらあった。昴の保護者気取りである彼に、任せたよと言ってもらえるくらいには、警戒心が解けたようだ。これからも昴の家には来ると思うので、お隣さんが穏やかに接してくれるのはありがたい。


 ほんのり和やかな気持ちになっているといきなり、目の前の扉が開いた。約一か月ぶりの昴がいる。心の準備ができているようでできていなかった――松葉さんの乱入のせいで再度準備が必要な状態だった――僕は、反射的に肩をびくつかせた。いつものクールな雰囲気の彼女がふっと笑う。


「やっぱりハチって、ちょっとした動きが猫っぽいよね。魔女は名前の一部をとってトラネコにしたって言ってたけど、本来の気質も影響している気がするな。ま、それより挨拶が先か。久しぶり、ハチ」

「ひ、久しぶり」


 まだ、突然扉が開いた衝撃で心臓がばくばくしている。昴は気にせずにちらりと右隣りの扉を見やった。


「松葉さんに捕まってたんでしょ。災難だったね」

「いや、特に警戒されなかったし、普通に話したよ」

「そう。ならよかった」


 昴は扉を左手で押さえたまま、一歩身体を引く。


「ほら、立ったままだとまた松葉さんに絡まれるかもよ。入りなよ」

「お邪魔します……」


 淡々と、しかし相手に気を遣うことを忘れない彼女の言動にもはやなつかしさを感じる。電話で話したり、チャットでやり取りしたりしていたけれど、生身で会うと全然違った。全身で昴を感じられる喜びと、「きちんと生きている」彼女と相対する緊張感がないまぜになって、動きがぎこちなくなる。


「なんか本当に、猫のハチが戻ってきたみたい。周りを警戒して、何が自分の味方か、どこにいれば安全なのかを見極めようとしているみたいな」


 玄関の扉を閉めた昴が、僕の後を追うようにリビングのほうへ歩いてくる。


「大丈夫だよ。私はハチの味方だし、ここはハチが居ていい場所だよ」


 久しぶりに生で聞く、昴の言葉。彼女はいつだって、僕の存在を肯定してくれる。心がじんわりと暖かくなり、自然と緊張がほぐれてきた。鞄をテーブルの脇に置いて、コートを椅子にかけて腰かける。その斜め前に、昴が座った。机の上には大量のチラシが積まれている。


「じゃ、早速始めようか。さすがにハチがうちにきたころのチラシまでは追えないから、いまの物価で考えよう」

「そうだね」


 昴は僕たちにとっておなじみのノートーー僕が居候していた時に食べたものや買ったものがすべて記録されている――を広げ、チラシと照合し値段を書き込んでいく。僕に確認を取ってくれてはいるが、その手際はスムーズで正直彼女ひとりでもできたんじゃないかと思うくらいだ。それでも僕と一緒に考えようと提案してくれた彼女の心意気が嬉しい。僕たちは頭がくっつきそうなくらい身を乗り出して、チラシとノートを見比べていた。


・・・


「そしたら、合計はこうかな」


 スマートフォンの電卓機能を使って計算していた昴が、合計金額をはじき出す。幸い、僕が大雑把に予測していた金額の範囲内だ。お札を数枚渡すと、昴が席を立つ。


「ちょっと待っててね、小銭を持ってくる」


 ここで「おつりはいいから」と言っても聞かないのが昴だ。彼女はお金の貴重さをよく知っているからこそ、小銭を大雑把に扱うことを嫌う。そもそも、今回の会計処理は二人で顔を合わせてきっちりやろうという話を事前にしていた。彼女にとって「きっちりやろう」というのは、端数までお互いに納得のいく数字で清算しようという意味だ。

 僕としては数百円くらい昴が多めに貰ってもまったくかまわない……むしろ、家事をほぼ任せきりにしてしまったので、その分の対価を払っていないことに後ろめたささえ覚えるのだが、彼女は頑として受け取らないだろう。

 それがわかっているから、案の定一円まできっちり数えておつりを渡してくる昴に、「ありがとう」とだけ告げて受け取った。


「よかった。お金のことはしっかりしないといけないって、渉にもよく言われているからね。今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ。呼んでもらって嬉しかった。ありがとう」


 なんだか席を立つ雰囲気になったので、慌てて鞄の中をまさぐる。ハンカチに包んでいたこぎれいな青紫色の小袋を手に取り、昴の前に差し出した。


「今まで、僕はたくさんのものを昴からもらってきた。これだけでお礼になるとは思っていないけど。でも、今僕は昴に贈りたいと思ったんだ。受け取って、くれますか」

「ん? うん」


 口を開くごとにほぐれたはずの緊張が戻ってきて、最後は敬語になってしまった。そんな僕の様子に少し違和感を覚えたのだろう、昴は首を傾げつつも包みを受け取ってくれた。


「今、開けてもいい?」

「うん」


 僕が身を固くして見守る前で、彼女は紙袋を開く。中では、一組の小さなアクセサリーが揺れているはずだ。


「これ、イヤリングだよね? 左右で別のデザイン? 珍しいね」

「うん」


 頷いた僕は、ショップ店員さんの言葉を思い返していた。


『最近は、アシンメトリーなデザインのイヤリングも流行りなんです。例えば短髪の女性で、片耳だけ見えるように目立つ意匠を選んで、もう片方は髪にかからないよう控えめにする。あるいは実用面以外でも、お仕事のときは左右対称のシンプルなイヤリングを付けてすっきりまとめつつ、他方で友だちと遊びに行くときや、楽しいお出かけのときはあえて左右非対称のイヤリングを付けて、遊び心を見せるといった楽しみ方もあるんですよ』

『それって、玄人向けじゃないんですか? その、僕がプレゼントを贈りたいと思っている人は、あまり装飾品を付けないなんですけれど』


 おそるおそる聞き返した僕に、店員さんは笑顔で首を横に振る。


『確かに、イヤリングをよくつける方ほど「今までとは違う楽しみ方」を追求する傾向にはあります。でも、初めて付けるイヤリングが左右非対称というのも、個性的ですてきだと思いますよ。特に、お客さまが悩まれている二つは、可愛らしい猫ちゃんのデザインと落ち着いたリボンのデザイン。左右で全く雰囲気が違うので、いいアクセントになると思います』


 店員さんの熱心な言葉を受けて、僕はアシンメトリーなイヤリングを付ける昴を想像してみた。左耳にリボン、右耳に猫をぶらさげた彼女は、少し変わっていて、でも落ち着いた女子大生らしさと、猫になった人間を受け入れてくれる包容力を併せ持っているさまを表しているようで、意外としっくりきた。


『いいかもしれません。片耳ずつ買うことって可能なんですか?』

『もちろんです。最近は左右別のデザインを選ばれるお客さまも増えているので、バラ売りも承っております』


 そんなわけで、どちらの商品もあきらめきれなかった僕は、片耳ずつ別のデザインにすることで決着させたのだった。


 とはいえ、あのあとネットで少し調べたけれど、アシンメトリーなデザインのイヤリングはそうそう売られていない。装飾品を付け慣れていない昴にとっては、少し奇抜に感じられる可能性がある。僕ははらはらしながら、袋からイヤリングを取り出す彼女の様子を見守った。


「私、イヤリングってつけたことないんだ。これ、猫のが右耳で、リボンのが左耳で合ってる?」

「うん。そのつもりで買ったんだ」

「オーケー。えーっと、後ろが開くのか。じゃあ耳に合わせて、と。ハチ、この辺りで大丈夫?」

「たぶん」


 なぜか昴は鏡を見ずに、僕に装着位置を確かめてくる。僕もイヤリングをしている女性を見慣れているわけではないので、あまり自信のない返答になってしまったが彼女はそれで満足したらしい。初めてとは思えないほど慣れた手つきで左右のセットを済ませた昴は、軽く首を揺らした。リボンの下のガラス玉と、しっぽを垂らした猫がゆらゆら揺れる。

 僕が予想した通りだ。最初はアシンメトリーなイヤリングと言われてぴんと来なかったけれど、大人っぽさと面倒見の良さ。二つの要素が詰め込まれたイヤリングは昴にとてもしっくりくる。


「やっぱり金具の圧力で留めているから、ちょっと圧迫感はあるね。でもずっと着けていたら慣れるのかな。鏡見てきてもいい?」

「うん」


 洗面所の鏡を見てくるのかと思ったが、彼女は手鏡を持って戻ってきた。髪をかきあげてイヤリングのデザインをよく見ている。何だか別の部屋で鑑賞されるより、目の前で観察しているさまを見せられるほうが緊張する。


「いいね。耳元で光りものが揺れていると、なんだか楽しい気分になる。それにこの猫、細身だけどハチにあげたペンダントの猫にちょっと似てるね」

「うん」

「あ、もしかしてそれを意識して選んだ?」


 いたずらっぽい昴の笑みに言葉を返すことができなくて、僕は黙って頷いた。きっと今の僕を昴の手鏡で映したら、ひどく赤面しているのだろう。


「そっか。ハチとお揃いか。両耳を猫にしない、控えめな辺りがハチらしいね。私は猫猫でもよかったけど」

「え」


 それは両耳猫の、思いっきりリンクコーデなデザインでもよかったということだろうか。しかし詳しく問い返せるほどの語彙力が失われているいまは、会話の主導権は昴に握られている。


「でもこのリボンのほうも、けっこう好きなデザインだな。やっぱりハチ、見る目あるね。関係会社とはいえ、服飾店に勤めていると目が肥えるのかな」

「そうかも、しれない」


 やっとのことで相槌を打った僕に、昴はからかうような笑みを引っ込めて頭を下げた。


「私のために選んでくれてありがとう。大事にする。さっそく明日、大学につけて行こうかな」

「こちらこそありがとう。気に入ってくれて嬉しい」


 ショップ店員さんは、オフの日にアシンメトリーなイヤリングをするとメリハリがあって良いと言っていた。でも昴は今までずっと真面目な学生をやってきたんだ。たまにはこういう耳飾りをつけて登校してもいいだろう。それくらい遊び心を見せたほうが、彼女の魅力が引き立ちそうだ。


――そうか。アクセサリーを付ける昴は、より魅力的に映る。僕も早く、彼女に見合う人になるように努力しないと――


 何もつけなくたって昴は魅力的だ。その魅力がより一層、増してしまうなら。他の男が放っておくとは思えない。

 僕はたまたま昴とお近づきになれただけで、まだ彼女と並び立てるようなきちんとした人間になれていないのだ。今のままだと、彼女に親しい異性ができたとしても割って入れる力がない。


――早く、彼女の隣に並べるような人間にならないと――


 再び鏡を手に取り、楽しげにイヤリングを眺める昴を視界に収めつつ、僕は何度目かわからない決意を固めるのだった。




―――――――――

<ハチが昴に贈ったイヤリングは、こちらからご覧いただけます>

https://kakuyomu.jp/users/yuno_05/news/16818023214317573226

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

八時の魔法~記憶喪失の僕は、猫になってクール系タラシの女子大生に拾われる~ 水涸 木犀 @yuno_05

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ