開幕
喝采を浴びるリディアーヌ
客席の熱気が楽屋にも伝わってくる。劇場に満ちた人、貴婦人たちの香水、あるいは紳士がくゆらす煙草の香り。無数のグラスに注がれるワインやシャンパン、シャンデリアを煌めかせる蝋燭の炎、焦げる芯。そんなものが集まってむせるような空気を醸し出す。人々が語り合う声が寄せては返す波のように絶え間なく聞こえて、出番を待つあたしたちの神経をも昂ぶらせていた。
「凄いわ、もうほとんど満席よ」
「開演まで時間があるのに」
「装置が別格だもの。みんなオペラグラスであちこち見渡してるみたい」
客席を覗いてきた子たちが囁き合うのを、あたしは鏡越しに見ていた。主役が開演前に姿を見られる訳にはいかないから、客席の様子は想像するしかない。でも、異国の風景を描いた緞帳も、舞台を飾る――木材でできたはりぼてだけど――古代の王墓や神殿も、稽古の時によく見ている。
開幕が近づくと緞帳が上がって、舞台と客席を隔てるのは薄い紗幕だけになる。客席の熱気に波打つ紗幕に舞台がうっすらと透ける様は、灼熱の国の陽炎に炙られた砂漠そのものだ。伝統ある劇場の中にまるまる違う国、違う世界が現れたような。不思議な、けれど心躍る光景が作り出される。目の肥えた皮肉家の観客にさえも、きっと斬新に見えるだろう。
ましてジャンは劇場に来るのも初めてだもの。とても驚くに違いないわ。そう思うと、口元が自然に綻んだ。
ジャンは、もう来ているかしら。
ジャンにとっては着飾った男女が集うホールは居心地が悪いかもしれない。あまりに煌びやかで、そのくせ実がない世界だから。早めにボックス席に落ち着けば、気にしないでいられるとは思うけど。仕事の後で、それに荷物を抱えてではギリギリになってしまうかしら。開幕からあたしの出番までには
「リディ、子爵様は遅いわね。袖で見るって言ってたのに、そろそろ開幕じゃない。楽屋にも顔を見せないなんて、薄情ね」
「そうね。急な用事でもできたのかしら」
あたしに話しかけた奴隷役の子は、心配して言ってくれたのかしら。それとも不安にさせようとしたのかしら。どちらにしてもあたしの答えはとてもさらりとしたものだった。
ジャンと一緒に行くと決めたとはいえ、話しても通じないと思い切ってしまったとはいえ、今日は形だけでも観客の前でアランのプロポーズを受けなければならない。そして明日にはもう、それを反故にして消えてしまうのだもの。どうして来ていないのかは分からないけど、顔を合わせる時間が少しでも短いならその方が良かった。どう取り繕っても謝って済むことではないのだし。
それより今は、舞台のことに集中しなきゃ。
あたしは姿見の前でくるりと回り、衣装に乱れがないか、オリーブ色に塗った肌にムラがないか、頭のてっぺんからつま先までじっくり眺めた。そして、何一つおかしなところはないのを確かめて、鏡の中のあたしに微笑む。
完璧ね、とても綺麗になれている。異国の王女そのものよ。
デザイナーは――とても時間が掛かったけど――あたしにぴったりの衣装を考えてくれた。囚われの身という設定だから目に付く装飾は控えめだけど、本物の絹を使っているし、たっぷりとしたドレープが、あたしの身体の貧弱さを隠して女らしさを添えてくれる。重いと感じるほどの刺繍だって、とても手が込んだ上品なものだ。それに、真っ白い衣装は照明にあたれば眩いほどに輝いて王女の誇りと威厳を示すだろう。……それに、美しさも。
ジャンは何て言うかしら。
鏡の中のあたしの頬が、化粧のせいというだけではなく赤くなった。ジャンも、あたしを見て綺麗だと言ってくれるかしら。
ジャンの前でリディアーヌとして歌うのは最初で最後になる。こんなに着飾ることももうないだろう。だから、見た目も歌も最高の演技を見せなくちゃ。
「どう、素敵でしょ?」
周りの子たちに向き直って笑いかけると、色々な感情のこもった視線と表情に迎えられた。羨望、称賛、嫉妬。あからさまに顔を顰めたり背けたりする子もいる。主役だからって良い気になって、とでも思ってるのね。
でも、あたしが綺麗なのを否定できる子はいないみたい。だから、みんなの好意も敵意も、等しくあたしを満足させた。
「最高の舞台にするわ。よく見ててね!」
高らかに宣言すると、周囲からの視線が一層強く突き刺さるのを感じた。さっきは笑っていた子たちも、少し呆れたような顔をしている。浮かれすぎていると思われたのかも。
でも、明日になればみんな分かるわ。あたしが言ったことの意味を。あたしが愛する人のためだけに歌ったこと、だからこそ他の誰にもできないような素晴らしい演技を魅せたということを。主役も、観客も、アランだってどうでも良いのよ。ただ、ジャンに最高のあたしを見せたいだけよ。
ええ、絶対にそんな舞台にしてみせる。リディアーヌの一日限りの名演よ。今日の客が見ることができたのを一生自慢するくらいの伝説にしなきゃ。そして人が噂するのを、ただのリディが笑って聞くの。ジャンと一緒に、どこか遠くの小さな街で。
あたしは周りの子たちを見渡した。役のある子もない子も。ダンサーもコーラスガールも。仲の良かった子もいるし、張り倒したいほど憎たらしい子もいる。でも今の幸せな気分だと、みんなにキスして回りたいくらいだわ。そうと言うことはできないけれど、最後の挨拶でもあるし。
もし誰か一人でもあたしの言葉を真に受けて、これからの公演をいつもより真面目に見たとしたら。あたしの気持ちが歌で伝えられたとしたら。その子が次の歌姫になるのかもしれない。
「開演よ。口を噤みなさい」
かつり、と鋭く杖で床を突く音と共に告げたのは、舞踊指導の老婦人だった。女の子たちのまとめ役でもある。姿勢の悪い子を叩くこともある杖の音に、低く厳しい婦人の声に、瞬く間にお喋りは止んだ。
そして幕が上がる直前の心地よい緊張が楽屋に降りる。
「いってらっしゃい、リディ」
「頑張って」
みんな、もうそれぞれの衣装をまとってそれぞれの役の顔になっている。それでも仲間として友だちとして、口々に励ましを送ってくれる。
それにひとつひとつ頷きながら、あたしは舞台袖に移動した。薄暗い袖に、灯りを落とされた客席。今、明るく照明に照らされているのは舞台の上だけだ。
序曲の最初の音が鳴り響く。劇場が異国に変わっていく。舞台を照らすのはただの照明じゃない。熱く眩しい古代の太陽に照らされている。
将軍のアリアが始まった。あたしが演じる敵国の王女への愛を謳う清らかな調べ。歌劇ならではの大げさな、気恥ずかしくなるほどの賛美。いつもなら役の上で捧げられる歌詞を自分に対してのものだと思ったりしない。あのテノールは相手役より自分の声に酔いしれるような奴で、演出家にもよく叱られてるし。
でも、今日に限っては練習で何度となく聞いた調べ、聞き飽きたはずの歌詞でさえ一際甘く聞こえる気がする。ジャンにとって、あたしはアリアに歌われるような輝かしく清らかな存在だろうか。あんな愛を向けてもらっているのだろうか。そう、信じたい。そして、ずっとそうであるように頑張らなくちゃ。
あたしの家事の腕はひどいもので、ローズによく呆れられたり叱られたりしてきたけど。今になってもっとちゃんと教わっておけば良かったと思うなんて、遅すぎるかしら。
でも、頑張ってちゃんとした奥さんにならなくちゃ。ジャンのためならお洒落できなくても構わない。荒れた手だってきっと誇らしいと思えるだろう。
笑っちゃダメよ。まだ、ダメ。
頬が勝手に緩みそうになるのを、あたしは必死に戒めた。この場面で笑ってはダメ。明るい場面じゃないもの。物語の最初では、あたしは――王女は戦いで負けて囚われの身で、祖国への郷愁と敵国の将軍への愛の間で揺れているんだ。その葛藤に相応しい、憂いと悲しみに満ちた表情を作らなきゃ。
それに、ちゃんと相手役を見つめなきゃいけないのよね。ジャンのいるボックス席とは逆の方向なのが本当に、本当に惜しいけど。でも、主役がそっぽを向くわけにもいかないわよね。
……それでも一瞬だけなら大丈夫かしら。一秒にも満たない一瞬だけ、あの口うるさい演出家にも客席にも見咎められないくらいの一瞬だけなら、ジャンの方を見ても良いかしら。
ほんのちらりとで良いから、ボックス席にジャンがいるのを見て安心したいだけよ。そして微笑みを投げるのよ。あんたのために演じるの、よく見ててね、って。ジャンならちゃんと分かってくれるはず。だって彼がこの舞台を見るのはあたしのためだけだもの。絶対に見逃したりはしないはずよ。
将軍のアリアが終わった。それこそ太陽のように、暑いほどの照明にびっしょりと汗をかいて、それでも自身の熱演に満足げなテノールに高らかな拍手が贈られる。もうすぐ、もうすぐあたしの出番だわ。
やっぱりジャンの方を見てしまおう。二人だけに分かる秘密の合図を送ってみよう。他の人は気づかないわ。きっと、それくらい大丈夫。
劇場を揺らすような拍手は、あたしたちを祝福しているようにさえ思えた。ジャンとあたしの結婚式には――そんなことができるとして――たくさんの人を招くことはできないだろう。二人だけでひっそりと挙げるものになるはずだ。せめてローズには見てもらいたかったけど。
でも、その代わりにこんなに大勢の観客が、あたしとジャンが愛を誓うのを見守ってくれる。ボックス席にジャンを見つけて、微笑みと視線に気付いてもらえたら、そんな風に思うことができそうだった。
ああ、また顔が笑ってしまっている。こんなんじゃいけないわ、ちゃんと役の顔を作らなきゃ。……でも、ジャンに一瞬だけ向ける笑顔も最高のものにしてあげたい。ジャンに見てもらえたら、ジャンと目が合ったなら、すぐに憂い顔に切り替えるのよ。そうすれば、誰にも分からないはず。
舞台上のやりとりが一段落着いた。音楽も静かになって、次の場面が始まるのを――主役の、あたしの登場を客席に予感させている。あたしが姿を現したなら、一段と大きな拍手で迎えられるだろう。それは、あたしにとっては花嫁の頭上から降り注ぐ花びらのようなものだ。そう、ちょうど真っ白な衣装だもの。こんなに豪華な花嫁衣装を着られるなんて、あたしはとても幸せね。
さあ、今こそ行かなくちゃ。歌姫リディアーヌの最高の舞台。ジャンに見せてあげなくちゃ。
あたしは深呼吸をひとつすると、胸を張って真っ白な光と喝采の中へと歩きだした。
喝采を浴びるリディアーヌ 悠井すみれ @Veilchen
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