ひとつの終幕 リディ?②

「リディ、なんだか目の前が暗いんだ。手を繋いで、案内してくれ」

「どこへ、どこへ行けば良いの?」


 わたしが支えていないとジャンはもうまともに立つこともできない。でもわたしの力ではジャンを止めるのには足りない。だから、わたしはジャンに寄り添って進むしかない。


「河だ。駅はもう見張られているかも。船底に身を隠すんだ。――この前、夜の河を見ただろう。あの流れに乗って、海辺の町まで行こう」

「お願いよ、ジャン。もう何も言わないで」


 二人は汽車を使うつもりだったのね。それに、密かに会って夜の河を眺めていた。

 知りたくないことばかりを聞かされて、わたしは泣きながら懇願した。荒く息が上がっている、その合間の掠れた声。どんどん弱々しくなっていく。それでもジャンはリディへの想いを語らずにはいられないんだ。


 リディの振りをしてリディへの言葉を聞かされる。これが、この胸の痛みが、わたしに与えられた罰なんだろうか。


 一歩踏み出すごとにジャンが倒れてしまうのではないかと恐れながらの道行きだった。ジャンの傷口から流れる血は止まらなくて、わたしの服も真っ赤に染まってしまった。真っ赤……なんだろう、多分。暗いから血の色も辺りの様子も、黒っぽい影としか見えないけれど。


 ジャンはお願いした通りに黙ってくれた。でも、静かになってもやっぱり怖い。もう喋ることができなくなってしまったのかしら。もう二度とジャンの声を聞くことができないのかしら。話しかけることもできない私は、心の中で自分を責めることしかできない。


 みんなみんな、わたしのせいだ。


「水の匂いだ……前と同じ……」


 だからやっと河にたどり着いて、欄干にもたれたジャンが呟いた時、わたしはとても安心した。まだ生きてくれていた。


 ジャンとリディが河を眺めたのはこの橋からじゃないだろう。恋人たちが――羨ましい、二人は本当に愛し合っている――身を寄せ合うのは、もっと景色が良い場所、もっと綺麗な建物が並ぶ場所だろう。こんな下町の貧相な橋じゃない。低い欄干から、ジャンが今にも落ちてしまいそうで、わたしは懸命に彼の身体に縋りついた。


「ジャン。動かないで。お医者様をここへ呼べば良いんだわ。誰にも見つからないように、こっそりとなら良いでしょう? このままだと死んでしまうわ!」


 わたしがちゃんとリディを演じられているかどうか、もう自分でも分からなかった。ただ、ジャンはとてもゆっくりと手を持ち上げて、手探りでわたしの頭を撫でてくれた。だから、彼はまだ気付いていないはずだった。


「俺は死なない。あいつ、俺を殺すのが愛の証明だとか言っていた。自首して、罪を償って――全てを失えばお前に認めてもらえると信じてた。そんな間違った想いを、お前に押し付けさせたりしない」


 水面を渡る涼しい夜の風が、血で濡れたわたしの身体を冷やし、同時に心の底までも凍りつかせた。何てこと、わたしはやっぱりとてもひどい。今の今まで、リディがどうなるか欠片も考えはしなかった。


 ジャンが死んでしまったら、リディはジャンを殺したあの人と結婚するのかしら。いいえ、あの人は人殺しになってしまう。捕まってしまう。そうしたらリディは本当に一人ぼっちになってしまうのかしら。歌姫リディアーヌとして、ジャンのいない世界で。


 だけど、ジャンが助かったら、今度はわたしが一人ぼっち。二人が結ばれるのを遠くから見なければいけないのね。ああ、そんなことを考えてはダメ。この期に及んでそんなことを考えるなんて勝手すぎる。


 ジャンを渡したくない。でもリディにも不幸になって欲しくない。どうしてリディはあの子爵を好きにならなかったのかしら。あんなに素敵な人だったのに。ジャンさえいなければあの人を愛するようになっていたかしら。


 ジャンさえいなければ。


 ジャンを喪う恐怖と悲しみ、それにリディへの罪の意識と妬ましさ。どれも激しい感情に乱れるわたしの胸に、その言葉は魔法の呪文のように響いた。嵐の吹きすさぶ夜の海に輝く灯台のような、確かな希望の光だった。

 ジャンとローズわたしが同時に姿を消したら、みんなどう思うかしら。ジャンの書置きは、リディのことに詳しく触れてるようではなかった。だから、ジャンはわたしと行ったのだと思われるのではないかしら。


 本当はそんなことはないと、私が一番知ってるけれど。でも、他からみたらそう見えるはず。きっとリディも信じるわ。


 ジャンをわたしのものにできる。


 わたしの口元に笑みが浮かんだ。

 違う違う、そうではないわ。これはリディのためでもあるの。ジャンが死んでしまうくらいなら、リディと幸せになってくれた方がマシだって、わたしもさっき考えたもの。リディも同じように思うはず。そうよ、それにあの子爵も捕まらなくて済むじゃない。ジャンさえいなければ、リディはあの人と幸せになる。


 これでみんな上手くいくのよ。素敵な思い付きよ。だからほっとして笑ってしまったの。そういうことよ。


「リディ。そこにいてくれてるか……?」


 ジャンの掠れた声、唇の動きと微かな吐息だけで伝える声に、わたしは時間がないことを知る。ジャンは、もう感じることもほとんどできなくなってしまったんだ。


「ええ。わたし、あなたに触れているのよ」


 ジャンの頬を両手で挟んで、耳元に唇を寄せて囁きながら、わたしは水面を見下ろした。


 夜の闇の中、星を映す黒い鏡のような水の底は見えない。でも、この街に住む者なら誰でも、静かな流れの深さを知っている。時々身元の分からない死体が上がることも。怖いからわざわざ見に行ったことなんてないけれど、そういうことがあるとは知っている。


 どんなに強く抱きしめても、ジャンの身体からはどんどん熱が失われていく。これなら水の中でも冷たいということはないかしら。


「なんだか眠い。とても疲れたような……」


 ジャンの身体がぐらりと傾いだ。ほんの少し、わたしの細い腕でもちょっと押すだけで、今にも欄干を越えて落ちてしまいそうなほど。


「しっかりして。一緒に行くんでしょう」


 わたしも行くの。ジャンとローズは一緒にこの街からいなくなるの。


「そうだ、一緒に……」


 わたしの胸を何だかよく分からない感情が満たしていた。


 悲しい? ジャンが死んでしまうから。それも、わたしのしたことのせいで。

 悔しい? ジャンが語りかけているのはあくまでもリディに対してだけだから。

 それとも嬉しい? これでジャンはわたしのものになる。……そうじゃない、これでリディは歌姫を辞めないでも済む。あの人と幸せになれる。


 そんな色々な想いの全て、あるいはそのどれでもない。ただ、涙がとめどなく頬を伝っているのが分かった。


 わたしはジャンを抱きしめて、言った。もっと早く言っていれば良かったと思いながら。


「愛してるわ、ジャン」

「俺もだ。――」


 ――リディ。


 ジャンがそう続ける前に、わたし以外の名前を呼ぶのを聞いてしまう前に。わたしはキスでその唇を塞いだ。血と涙の味がするキスだった。


 そしてジャンの身体を思い切り押して、地面を蹴った。二人の身体が欄干を乗り越える。




 ふわりとした、空を飛んでいるような感覚の後、耳元で大きな水の音が聞こえた。

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