ひとつの終幕 リディ?①

 わたしは血塗れのジャンに駆け寄った。夜の帳が降りた中で、彼の青白い顔だけが浮かび上がっているようだった。ぐったりと壁にもたれかかって、ああ、お腹から下が真っ赤に染まってしまって。これは血なの? 死んでしまうの?


「ジャン、ジャン。どうしてなの!? しっかりして!」


 恐る恐る触れたジャンの頬は驚く程冷たくて、わたしは悲鳴さえ上げることができなかった。ただ、なんで、どうして、という疑問だけが頭の中を駆け巡る。


 わたしは家でジャンが帰るのを待っていた。一度仕事から帰ってまた出かけたのは劇場へ行ったのだと分かっていたから。でも、わたしが止める訳にはいかなかった。だってジャンとリディはわたしを信じて打ち明けてくれた! 二人とも、私が祝福してると思ってるから! だから、あの子爵の言葉を、ジャンを劇場へ入れないという言葉を信じるしかなかった。


 でも、開演近い時間になってもジャンは帰ってこなくて、それどころか書置きを見つけたおじさんがうちに何か知らないか聞きに来て。それで、なにかおかしなことが起きたんじゃないかと思ったんだ。何か、思っていたのと違うことが起きているのではないかしら、って。


 とにかくわたしは怖くなってしまった。子爵はジャンを止められなかったのではないかと。ジャンは結局リディのところに行ってしまったのではないかと。


 でも、まさかこんなことになってるなんて。


 今にもくずおれそうなジャンを支えようと寄り添うと、血の臭いが鼻をついて、赤黒くべったりとしたものがわたしの服を汚し濡らした。間近に見上げるジャンは目を半ば閉じていて、目の前のわたしですらまともに見えていないようだった。抱き合うようなこの近さは、ずっと憧れていたものだけど。でも、決してこんな形ではなかった。


「リディ。どうしてここに? 舞台に上がるんじゃなかったのか」


 耳元に囁かれる吐息のような小さな声に、わたしの心臓は跳ねた。言葉を紡ぐ気力がジャンに残っていることに喜んで――そして、わたしとリディの声を間違えたことに絶望したのだ。


 ジャンが一番聞き慣れている女の子の声は、多分わたしのものだろう。でも、だけど、愛されたのはわたしではなかった。命が危ういほどの怪我を負わされた時に聞きたいのは、ジャンにとってはリディの声だけなんだ。


「わたし……あたし、やっぱりあんたが心配で。舞台なんて放ってきてしまったの」


 わたしはローズよ。そう叫びたかった。でも、今のジャンに言って良いか分からなかった。だってわたしをリディと呼んで、ジャンはとても幸せそうな顔をしている。全身を染めるほどに血を流して、今にも倒れてしまいそうなのに、リディが来たというだけで笑うことができるんだ。


 なのにどうして本当のことが言えるだろう。ここにいるのはリディ、ジャンの愛する人ではなくて、ただの友だちのローズだなんて。


「……子爵にひどいことされなかったか? あいつ、俺たちの計画を知っていたんだ」


 ジャンの声に咎める響きはなかった。当たり前だ、ジャンはわたしをリディだと思ってる。それに、多分わたしが告げ口したなんて考えてもいないはず。


 だけど、だからこそ、ジャンの言葉はわたしの胸に突き刺さった。わたしは怪我ひとつしていないけど、言葉が武器になるとしたら、きっとジャンよりもずっとたくさんの血が噴き出していただろう。でも、たとえ身体中の血を使ってもわたしの罪を洗い流すことはできない。


 こうなったのはわたしのせいだ。わたしが子爵に知らせたからだ。一番怖いのは、ジャンとリディが一緒に行ってしまうことじゃない。ジャンを喪ってしまうことだった。どうしてわたしは、こうなることを考えなかったんだろう。ジャンも子爵も、引き下がるはずはなかったのに。


「いいえ、何も。あの人、あたしにはとても優しかったの」


 嗚咽がわたしの喉を塞ぎそうだった。


 でも、だって、あの人はわたしにはとても優しかった。可哀想だと言ってくれた。お姫様みたいに扱って、大丈夫だと言ってくれた。だから、縋っても良いと思ってしまった。


 こんなことになると分かっていたら、絶対にあの人に打ち明けたりはしなかったのに! ジャンが死んでしまうくらいなら、リディとどこか遠くで幸せになってくれてた方がまだマシだった。


「そうか。リディが無事なら良かった」


 ジャンは少しだけ唇を持ち上げて笑った。そうしてまたわたしの心を抉って罪悪感にさいなませる。こうなってしまったのは、自分のことしか考えなかったわたしのせいだ。こんなに血を流していても諦めないのに、どうやってもジャンがわたしのところに来てくれるはずなんてなかった。


 ごめんなさいと言えたらどんなに良いだろう。でも、わたしがリディじゃないと知ったら、ジャンは悲しみの中で息絶えることになってしまう。


「ええ。あたしは何ともないわ。だからジャン、もう喋らないで。お医者様に行きましょう」


 だからわたしはリディを演じ続けた。あの子の軽やかで蓮っ葉な口調を一生懸命思い出して。涙混じりでひび割れて、綺麗な声ではないけれど、リディだってこの場にいたらカナリアみたいにとはいかないはずだ。


「あたしと一緒になるんでしょう? しっかりしてよ。こんなところで死なないで!」


 どんどん冷たく青白くなっていくジャンの命をつなぎ止めようと、わたしは――リディは、必死に呼びかけた。これほどの熱演は、リディアーヌだってできないだろう。わたしの最初で最後の演技が、こんなひどい役だなんて。ロザモンドになれたら、だなんて、やっぱり思ってはいけなかったんだ。


「あいつに撃たれたんだ……。命が惜しければ引き返せと。ローズで満足しろなんて、あいつにも失礼なことだろう? 俺は退かなかった、リディ。俺は命を懸けてお前を愛するんだ」

「止めて、ジャン! もう喋らないで!」


 ひどい、ひどい。わたしは思った。


 ジャンを撃った子爵はひどい。でも、ジャンはもっとひどい。殺されても決してわたしは選ばないと、それほどリディが愛しいと、こんなにはっきり告げるなんて。

 ジャンを止めるのは、もはや案じるからだけじゃなかった。わたしを傷つける言葉、リディへの愛を語る言葉を、これ以上聞きたくないからだ。


 ああ、だけど一番ひどいのはわたしだわ。


 引き金を引いたのは子爵でも、それをさせたのはわたしだわ。わたしさえいなかったら、子爵はジャンが劇場に行くことを知ることさえなかった。なのに、罪を悔いるより先に、ジャンの仕打ちをひどいと思ってしまうなんて。なんて勝手なの。わたしはこんな醜い人間だったというの。


「喋らないで。早く手当をしなきゃ。そうすればきっと良くなるわ」


 少しでも血が止まることを願って、わたしはジャンの傷口を塞ぐように抱きついた。傷に思い切り触れているだろうにジャンは全然痛がらなくて、それが余計に恐ろしい。


「そんな暇はない。何よりもまずこの街を出よう。あいつはお前を追うだろうから」

「でもっ……!」


 ジャンが足を進めると、血で泥のようになった地面がべしゃりと湿った音を立てた。どうして今この時に限って辺りに人がいないんだろう。夜だからって、まだ早い時間のはずなのに。誰か、助けを求められるような人さえいれば。

 わたしがどんなに止めようとしても、これだけ血を流していても、ジャンの力は強かった。半ばわたしを引きずるように、彼は一歩一歩、血の足跡を刻んでいった。

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