対決 ジャン②
俺は子爵を睨みつけると、一歩、大きく踏み出した。先ほど下がってしまった分よりも大きな一歩で恋敵との距離を詰める。怒鳴り合っているのに、様子を見に来る者がいないのが少し不思議だった。厄介ごとに巻き込まれたくて隠れているというなら、良い。この男とのやり合いを、誰にも邪魔されたくなかった。
「どけ。俺は行くぞ。殺されようとも退きはしない。いや、殺されない。リディを悲しませたりするものか。リディは俺を選んだんだ!」
「君は死ぬ。私が殺す。リディへの愛の証明だ。リディのための殺人だ。ここまですれば彼女もきっと分かってくれる!」
子爵も一歩踏み出して、銃口がまた俺に近づく。だがもう怖くなかった。ただ、この男には負けないという、怒りにも似た決意が俺の身体を支配していた。
「邪魔者を消すのが貴族のやり方か。俺を殺してどうしてリディの心が手に入る!? どうせ金にモノを言わせてもみ消すんだろう!」
「君も金を汚いものだと思っているんだな!」
子爵の顔からはもはや笑顔は剥がれ落ちていた。目を血走らせ嫉妬に歪んだ醜い顔。それがこの男の本性だった。
「金と愛は両立できないのか? 愛する人に出来る限りのことをしたいと思うのは間違いなのか? 君はリディに何を与えられる? 幸せにできるとでも思っているのか!?」
次々とぶつけられる問いは、ほとんど意味が分からないものだった。だが、最後の問いだけは俺の胸にしっかりと刺さり、火花を散らす。貴族の傲慢に負けまいと思う、反発心を呼び起こす。
「できるに決まってる! 彼女のためなら何でもする。もう決めたんだ。この俺の身体で稼ぐんだ!」
「結局ただの口約束か! それで信じてもらえる君が羨ましいよ!」
仕事で培った頑丈な手足を誇示するように、俺は子爵の目の前で拳を振りかざした。拳銃に比べれば何の脅しにもならないのだろう、相手はまた狂ったように笑うだけだったが。
「私はこうするしかないんだ。これだけの罪を犯さなければ彼女に全てを捧げられない。彼女に信じてもらえない。簡単に全てを捨てられる君と、私とでは違うんだ!」
「いったい何を言っているんだ!?」
「私は君が羨ましくて憎くてたまらないということだ。容易くリディの愛を得た君が憎い。私はずっと彼女を見てきたのに! 今の彼女があるのは私のお陰だ!」
「気持ちを押し付けただけだろう! 俺だってずっとリディを想ってた! リディは俺のために歌うんだ! 聞きに行くのに邪魔をするな!」
また一歩。ほとんど同時に俺たちは足を進めた。怒鳴り合う声が頬をぴりぴりと震わせるほどに彼我の距離は縮まっている。銃口はもう俺の腹に刺さるようだ。だが、決して譲ってやるものか。命を惜しんでリディを諦めたなどと、絶対に言わせたりしない!
「退かないでくれてありがとう。殺されてくれてありがとう。ちゃんと自首して罪は償うから安心してくれ。名誉も爵位も失うが――これでやっと、私は君と同じ位置に立てる! 愛のための尊い犠牲だ!」
「俺とあんたは違う。リディが愛しているのは俺だけだ!」
身分が財産があるからと、引け目を感じていたのは間違いだった。狂った本音を聞いた今ならはっきり言える。こいつはリディに相応しくない。こいつにはリディを任せられない。この独りよがりの執着に、リディを曝して良いはずがない。
リディを幸せにできるのは、リディの愛に応えられるのはこの俺だ。俺だけだ。
互いの息づかいさえ感じる近さで俺たちは睨み合った。更に前に進むには、この男をどかさなければ。俺とリディの間を塞ぐ敵だ。銃なんかに頼る相手に負けられるか。リディのためだ。何だって出来るはずだろう。こいつに道を譲らせて、リディのところに駆けつけるんだ。
「退け!」
「死ね!」
二人の叫びに銃声が重なった。
乾いた音。小さな花火をごく近くで炸裂させたような音。
同時に俺の腹に灼けるような感触があった。次いで二度目、三度目と。音と同時に衝撃が走る。
「あ――」
撃たれた。死ぬのか? 俺が。まさか。リディを悲しませる訳には――
稲妻のように思考が駆け巡る一方で、身体の動きはひどく緩慢だった。とても、とてもゆっくりと。俺は崩れ落ちていく。
「見届けてあげられなくてすまないね、ジャン。だが私は行かなければ。リディの歌を聞きに行くんだ」
悼むような、それでいて心底嬉しそうな声が遥かな頭上から降るように聞こえた。子爵は去ったのだろうか。俺にはそれを見ることも聞くこともできなかった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
意識を取り戻すと、俺は地面に伏せているようだった。早く起きなければ。起きて劇場に向かわなければ。
「う――」
呻きながら指を曲げて土を掻くと、湿った感触があった。水溜りができているのか。おかしい、昼間は晴れていたのに気を失っている間に雨が降っていたのだろうか。それに辺りがとても暗い。街灯が一つ残らず消えてしまうことなんてあるのか? 夕方の、こんな早い時間なのに?月も星も全く出ていないなんてことなどあるのだろうか? それほどに厚い雲が空を覆っているのか?
だがそんなことを考えている暇はない。とにかく、リディのところに行かなければ。あの子爵の脅しになど屈しないと、リディを裏切ったりなどしないと。ちゃんとボックス席に姿を見せて、リディを安心させてやらなくちゃ。
何発か撃たれたからって何だっていうんだ。全然痛くなんかないじゃないか。
ああ、何だかとても寒い。どうしてだ。今は夏のはずじゃないのか。雨に濡れたからだろうか。俺の服もぐっしょりと芯まで濡れてしまっている。格式高い劇場に入るのにこんな格好では、締め出されてしまうだろうか。いいや、押し通って見せる。あの子爵にも、拳銃にも負けなかった俺じゃないか。俺以上にリディの歌を聴くのに相応しい者はいないはずだ。彼女は俺を、俺は彼女を愛しているから。リディアーヌの歌は俺のためのだって、言ってやるんだ。
俺は手探りで先へと進む。まるでタールの中を泳いでいるかのように歩みが鈍い。心は早く早くと急かすのに、身体が言うことを聞いてくれない。焦りばかりが脳を灼く。早く、幕が上がる前に劇場に着かなければ。
一息つこうと何かの壁に縋った時だった。高い悲鳴が俺の耳に刺さった。
「ジャン!? ひどい、どうしてこんな……」
そういえば周囲の音もひどく遠い。風の音や鳥の声、少し離れた大通りを行き交う人や馬車だっているはずなのに、俺は妙に静かな世界にいた。切り離された、時の止まった世界にいるような。
「ジャン! 何があったの!? 大丈夫なの!?」
そんな中、その声だけは俺の耳に届いた。とても良く聞きなれた、大事な人の声だから。
俺は身体の力を抜くと微笑んだ。崩れ落ちそうなくらい安心したのだ。良かった、ちゃんとまた会えた。
俺は愛する人の名前をそっと呼んだ。
「リディ」
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