愛する者たち
対決 ジャン①
約束の日。俺は、夕闇が迫る道を急いでいた。
荷物をまとめて親父に書置きを残していたら、思いの外時間が掛かってしまった。男同士でそんなに湿っぽくなることもないだろうと思っていたけど、二度と会えないだろうと思うと気づけばあれこれ細かく綴っていた。といってもリディとのことを知らせたという訳ではないが。これ以上面倒に巻き込まないためにも、親父は多くを知らない方が良いだろうから。ただ、当分会えないということ。それから、身体に気をつけてとか、酒は控えろとか、そんな小うるさいことだけだ。
大丈夫、まだ開演には十分間に合う。懐に大事にしまい込んだチケットの存在を、何度も服の上から撫でて確かめながら、俺は自分に言い聞かせた。
リディの晴れの舞台、主役の初日だ。一秒たりとも見逃したくない。観客からの万雷の拍手も賞賛も喝采も、俺のために捨ててくれると言うのだから。それに、俺と気持ちが通じ合ったお陰で、これ以上ない歌と演技を仕上げることができたと言ってくれた。それを、見届けてやらなければならない。歌姫リディアーヌの、最後の舞台を。
そして俺はリディの手を取る。俺だけのリディ、名声も醜聞も全て脱ぎ捨てたただの女の子、それでも愛しいただ一人の女性。そして二人で生きていくんだ。もう迷わない、怯えない。彼女のために何でもすると決めたんだから。
俺が進む道は暗い。だが、いつかの夜と違って、俺の心は明るかった。もうすぐだ。もうすぐリディと一緒になれる。何年も遠回りしてしまったけど、やっと気持ちを伝えることができた。リディがあの子爵と結婚する前に。間に合って良かった。後は、夜明け前にこの街を出れば――
「やあジャン、どこへ行くんだい?」
「――ファルマン子爵!?」
そしてある角を曲がった瞬間、目の前に立ちはだかった男の姿に俺は目を瞠った。
「なぜ、あんたがここにいるんだ」
リディの舞台を袖から見るという話ではなかったのか。まだ劇場よりも俺たちの住処にほど近い、下町の一角だ。いかにも身なりの良い貴族が足を踏み入れるような場所ではないのに。
「なぜって、君に会いに来たんだよ」
身構える俺を他所に、子爵の口調も態度も、以前一度だけ会った時と変わらず朗らかで砕けていた。馴れ馴れしいと思うほどに。
そして変わらず質も品も良い身なりをしていた。劇場の中にいても全く場違いではないような――俺の格好とは大違いの。街灯の仄かな明かりの下でさえ王冠のように輝く金の髪も、青空を思わせる目の色も。劣等感を覚えるほどに綺羅綺羅しかった。
「劇場に行くところなんだろう。リディの舞台を見るために」
子爵が一歩近づいた分、俺は来た道を一歩退いた。決して、気圧された訳ではない。笑顔の仮面に騙されてはならないと、見せかけの親しみやすさに決して油断してはならないと、本能のように察していた。そうだ、俺が劇場に行くところだと、どうしてこいつが知っている? リディが言うはずなんてないのに。それともこいつはリディに何かしたのか? 愛していると言った癖に、彼女を疑ったのか? そして秘密を漏らさせるようなことを、彼女にしたというのだろうか?
「あんたには関係ない……」
「関係あるだろう。他ならぬリディのことなんだから。知ってるんだよ。二人で逃げるつもりだとか?」
「リディに何をしたんだ!?」
俺は思わず声を荒げた。貴族に対する遠慮や引け目など知ったことか。今言われたことで確信した。こいつは俺たちの計画を知っている。どうにかして――考えるのも恐ろしいが――リディの口を割らせたんだ!
「どうして誰も彼も、私がリディを傷つけると思うのだろうな。そんなことする訳がないじゃないか」
怒りをこめた詰問に、子爵はいかにも不快げに顔を歪めた。だがそんな言葉で納得できるはずがない。更に問い質すべく、大きく息を吸い込む。
「じゃあどうして――」
「そんなことはどうでも良い。引き返せ、ジャン。私はリディを譲る気はない。君がリディを諦めるなら、彼女につきまとったことは忘れてあげよう。君にはローズがいるじゃないか」
一転して笑顔になった子爵とは裏腹に、顔を顰めるのは今度は俺の番だった。話している時間はないと思いつつ、依然警戒して身構えつつ、疑問を口に出してしまう。
「ローズ? ローズこそ関係ないだろう」
すると子爵は声を立てて笑った。輝く髪の色と同様に明るい声で。だが、明らかに嘲りと分かる笑い方だった。
「可哀想に! ローズはずっと君を想っていたのに。二人の女性に愛された君は幸せ者だ。君はどちらか一人で満足すべきだ。もちろんリディじゃない方で」
「やめろ。ローズまで侮辱するのか」
この男に対しては後ろめたさもあるはずだった。リディはずっとこいつの支援を受けていて、しかも一度はプロポーズを受けたのだから。俺は、後から現れてリディを攫っていったと罵られても仕方ない。
だが、この言い草は聞き逃せない。
「ローズは俺にとってもリディにとっても大事な友だちだ。これは俺たちの問題だろう。彼女を巻き込むな。彼女に対して妙な邪推はやめてくれ」
「君はまたひどいことを言う。ローズだってずっと当事者だったのに。何にも気づいてないんだな」
子爵の笑顔はひどく歪んで見えた。笑っているのに悪意と敵意がはっきりと透けて見える。リディの言っていた通りだ。こいつとはまともな話なんてできやしない。
嘲り揶揄する声の色でローズの名前を口にされるのは不愉快極まりなかったし、リディばかりだけでなくローズにも危害を加えるつもりかと心配だった。だが、何を言ってもこいつが悪びれることなどないだろう。こうして躊躇っている時間さえ惜しい。この際だ、礼儀などかなぐり捨てても良いだろう。
「どいてくれ。劇場に行くんだ。リディが俺を待っている」
「嫌だね。帰れ。帰ってローズを抱きしめてやれ。今まで君がしたことの罪滅ぼしに」
「またそんなことを――!?」
子爵を押しのけて強引に進もうとした俺は、その手に黒く硬い輝きを見て飛び退いた。間近に見るのは初めてだったが、子爵の昏い笑みがはっきりと教えてくれる。それの威力と禍々しさを。
拳銃だ。こいつは俺を殺す気なのか。そこまでして、俺をリディのもとに行かせたくないのか。
「どうしても聞いてくれないんだね、悲しいことだ。私は罪を犯してしまうらしい」
呆然と立ち尽くす俺の耳に、嬉しそうな声が響く。陽気に酔って踊りだそうとでもいう時のような。あるいは獲物を前に舌なめずりする狼の、耳まで裂けた口が目に浮かぶよう。
「やめろ……」
辛うじて出た声は情けないほどに掠れていて、腹の立つことに子爵を一層喜ばせたようだった。
「引き返してくれれば撃たないで済む。愛より命を取れば良い。君がボックス席にいなければ、リディは裏切られたと思うだろう」
リディ。その名の響きが、心に蘇る彼女の笑顔が、俺の勇気を奮い立たせた。死ぬのが怖くて引き下がったってしまったら、リディに顔向けできなくなる。
この狂ったような男が血に飢えた獣の心を持っているなら、俺も獣になってやる。獣と獣の争いならば、気迫で勝る方が勝つはずだ。
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