第7話 契約のうち……契約のう、か?



 もう既に冬空を迎えて久しいが、部屋には眩い陽光が差し込んでいた。円は眩しさに目を覚まし、朝か、と目を擦りながら欠伸をする。しかし、昨夜は忘れずカーテンを閉めたはずなのだが。


 つい寝返りを打って、円はうめき声を上げそうになる。何故ならそこには、ベッドに座り無駄に円を見つめる変質者が一人いる。――真に残念ながら、今までの事はやはり夢でも幻でもなかった。


 寝ている無防備な円を、祐理が隣のベッドに座って至近距離から見張っていた。おそらく円の寝ている姿を延々と見ていたのだろうと予想が付く。


 円は重く、わざとらしいため息をつく。


「あれ、祐理。もう出てきたの。身体の具合はどう?」


「もう、化身でいられる。問題ないが、まだ身体をなるべく閉ざしている方が賢明かもしれない」


「……人間に戻る時も見てみたかったな」


「見せてやろうか?」


「言ってみただけ。冗談、冗談――ところで今何時なんだろう」


「十一時四十五分三十七秒」


「秒数まで、どうも……もう、お昼になるじゃない」


「空腹なら食堂に下りるといい、いつでも食事は摂れる」


「いや、どう考えてもそういう問題ではないな。私は一、社会人ながら平日のお昼まで寝ているという、怠惰な自分を問題にしています」


「社会人? もう、無職だろう。一体、円はどこで働こうとしているんだ」


「ああ、平山金属加工はこの世界にもあるのかしら」


「あるが円の籍はないな」


「どうして知っているの」


「円のことは全て調べてある。こんな無駄なことをしていないで、食事をするなり、館での楽しみを見つけるなりしろ」


「やっぱり、ここで仕事やることってないのね」


「円は館に居てさえすればいい。後は遊ぶなりなんなり、自由に過ごしていろ」


「それって自由と言えるのかしら」


「今、昼日中に寝間着でいるだろう。それが自由ではないと言うのか」


「それを言われると……着替えるから外に出ていて」


「何故?」


「ちょっと今のは聞き捨てならない疑問ね」


「影霊の前での着替えを気にしてたら生活出来ないぞ。それに今まで散々裸でいたのに何を気にする」


「デリカシーがない!」


「勘違いするな、俺は人間じゃない。影霊だ。今の能力低下状態を考えると、円の側を離れるわけにはいかない」


「扉を挟んで離れるだけじゃない」


「駄目だ。華麟が館へ意識を全開にしている。扉一枚でもあいつの力が行き渡っていてうっとおしい。雑音は極力少ない方がいい」


「祐理の変態! ……華麟ちゃんは何だか凄そうだけど」


「変態でも何でもいい。ここから動かない――しかし、それが俺の化身が与える視覚的な影響から来るものなら、影になって解ければ気にならないんじゃないのか」


「でも、部屋に居るんでしょ」


「だが、円の望む扉越しでも、俺は雑音越しに部屋を掌握している。見ている、見ていないの問題以前に、視覚情報以上の空間認識を行っているんだ。そもそも、俺は円に憑いて影の一部になっているのだから、何をしていようが分かる」


「こんな生活の細部まで丸見えってこと?」


「昨日言っただろう。円のことなら全て解る、知ることが出来る、と」


「こんな、着替えまで。私にプライバシーはないの」


 祐理は小さく溜息をついた。


「円、これはで行っている事なんだ。おそらく一方的に契約を交わされた、あるいは契約だとすら思っていないかもしれない。だが、俺が鏡の中から円を呼んだ時に、円がそれに応えたことで契約は成立した」


 祐理に冗談めかして言った父親が呼ぶ声。あれは祐理の契約を持ちかける声だったのだ。


 ――助けるから、鏡。


 こんな雑な契約の言葉があるか、と円は落胆を覚える。物語でよく見る、片膝を折った上で――お仕えします、命をかけて――のようなことをされても困るが、もう少しなんとかならなかったのか。こちらは契約内容の説明すら受けていないのだ。ほぼ、詐欺紛いに呼び寄せられて、誘導通りに鏡を触った。そう、全ては克也の本から始まったのだ。あの本がそもそもの詐欺を手引した。本の序文を読まなければ、鏡がどうとか言われても反応することはなかった――そして円は死んでいた。


「俺は円をそこなうものを排除しなければいけないし、円は依代よりしろとして影霊である俺を、この世に繋ぎ止める役目を担わなくてはならない」


「依代? よく神社にある御神木とか聞いたことがあるけど。私、依代だったの」


「影を分け与えたからだ。俺は円の一部になった」


「そういえば昨日、祐理が影になって見えなくなったから、居なくなった気になってたわ。私の一部なのよね。そのままお風呂に入ってしまったじゃない。たしかに散々見られてるとはいえ……そうね、居ても居なくても分かるっていうんだったら。――もう、仕方がない。分かった。影になってるなら居てもいいわ」


 祐理はもう居なくなっていた。


 チェストの端にはワンピースが用意されていた。黒いゴシック調の総レースワンピースで、ウエストで締める大判のリボンが濃厚なワインレッドでアクセントとなっている。


「なんだか普段着って感じではないわよね……」


〈気に入らないのか?〉


「うわ、いきなり話しかけないでよ。別に気に入らないとかいうわけではなくて、もう少し動き易い庶民的な服が……」


〈気に入らないんだな。人を使いに出して服を買わせるといい。あと今は、ネット通販とかいうのもあるらしいな〉


「それは、どうも。マドカの着替えの時も、平気で一緒に居たわけ?」円は寝間着に手をかけた。


〈何の問題もなくはべっていたが〉


「影霊に慣れていない私を、一緒にされても困るけどね」


〈神聖存在に対する羞恥心を持たれても、対応に苦慮する。それにもっと踏み込んだことを言うと、人間が行う物理的空間遮蔽では影霊の全能力が常に、更には無制限に浸潤してしまう。意味は分かるはず〉


「あ、それ聞きたくなかったわ。服を着てようが、着ていまいが関係ないってことね。その様子だと、人間が服を着ている意味すら分からないんじゃない」


〈変なところで侮るな。人間が衣類を必要としている理由くらい分かる。それに、衣服を変えるところを見られるのを嫌うのは、まどかに侍っている頃にはもう知っていた。いつから知っていることに気付いたが、自覚はないな〉


「なんだか大分昔のような言い方ね」


〈ああ、おそらくそう言って間違いはないだろう。それはまどか以前、誰かと契約していた名残りだと思う〉


「そんなことあるの。覚えてないってこと?」


〈いずれ過去の契約者は忘れていく。それも契約の内だ〉


「それは……なんだか寂しいわね」


〈寂しい? 契約だと言ったが〉


「契約で全部片付けてしまうのね」


〈それ以外、何があるんだ〉


「マドカが……」それに続く言葉を呑み込んだ。


〈まどかが、どうした〉


「さぞ、素晴らしいご主人様だったでしょうね――私に比べて」


〈さあ……どうだろうな。主を比べることなど出来ない〉


 円は着替え終わると自分を見回してみる。似合っているかどうか以前の問題だが、自分の姿が気になった。部屋に鏡はなく、風呂場や洗面所にさえ鏡が一枚もないので不便だった。唯一の鏡である現世鏡うつしよのかがみをベッドに放り出していたので使ってみるが、姿見に使うには小さすぎる。


〈現世鏡をこの程度の事で使うなど、不適切だな〉


「しょうがないでしょう、鏡が一枚もないんだから」


〈館に従来の鏡はない〉


「従来? ここの人どうやって暮らしてるの。それに私が初めてこちら側に来た時の部屋には、鏡があったじゃない」


〈あれは特別な鏡だ。いつも使えるわけじゃない――今日、円の部屋へデジタルミラーを入れるように言っておこう〉


「デジタルミラーって鏡アプリのような感じの」


「鏡アプリというのはよく分からないが、デジタルミラーは本物の鏡を置くより安全性が高い。鏡面の純度が下がるように設計してあるから、水よりも更に安全だ」


「よくわからない世界ね」






 円は祐理と共に、食堂へ向かった。時刻は十二時半。昼食を摂る時間としては悪くない。廊下を歩いていても人に合うことはなく、祐理に食堂へ案内された。


 長テーブルが部屋の中央に置いてある。席は十三。上座は当たり前だが避けて、無難な真ん中辺りに座った。


「何が食べたい」


「え? 何って。なんだろう。何が食べられるんだろう」


「なんでも、肉でも魚でも野菜でも。言えば調理する」


 なんでもいいと言われるほど難しくなる。


「残り物でもいいんだけど……」


「何故、円が残り物を食べなくてはいけない」心なしか不満げだ。


「なら、フレンチトースト」


「それだけではバランスが悪いな。サラダも添えよう。飲み物はどうする」


 祐理は世話をやき過ぎではないだろうか。祐理の印象は最初に出会った頃と大分変わった。


「紅茶でお願いします」


「茶葉の好みは? ダージリン、セイロン、アッサム、アールグレイ――他にもあるからリクエストしてくれ」


「茶葉のこと言われても私は分からないや……」


「ならば、茶葉の種類は任せてくれ。それと、砂糖、蜂蜜、ミルク、レモン、それともフレーバーティーやロシアンティーとして飲むジャムがいいか。ジャムは一般的なものは全て取り揃えてある。あとは、自家製の金木犀キンモクセイジャムもまどかには好評だった」


「あ、ええ? ジャム、金木犀ジャムで」


「承った。他に欲しいものは?」


「……ありません」


「華麟、以上だ」


『了解』


「あれ、華麟ちゃん?」


 昼食のリクエストが終わると、祐理は無言で円の背後に控えた。彼は眼を伏せ気味にして、背筋を伸ばし佇んでいる。


 これは世の中の女子、誰もが羨む執事というものではないだろうか。円がイメージする執事は創作物からのもので大分脚色されているが、祐理はそれそのものに合致している。顔がよく、お世話上手で、お嬢様の為なら命もかける。その道の女子なら涎垂ものだろう。


 ――でも、性格がなんというか。


 契約の内容も中々に癖者のようだし。


 部屋の奥にある扉が開いて、華麟が食事を載せたワゴンを押して現れた。相変わらずの制服姿だ。


「お待たせしました。フレンチトーストの昼餉ひるげでございます」


 昼餉か、と円はあまり使わない言葉に耳を引かれた。華麟はわざと重い言葉を選んだのかな、と円は不思議に思い、女子高生の華麟を見る。


 華麟は嬉しそうににこにこしている。祐理の側で止まると、彼と同じように背筋を伸ばして佇む。


 祐理が給仕を始めて、テーブルへ食事を並べて行く。祐理の給仕はおそらく完璧なのだと、テーブルマナーに疎い円でも分かった。


「フレンチトーストのパンは、焼き上げて一時間も経っていない、出来るだけ新しいパンを使用して作っている。卵と牛乳は東間が専属契約している牧場から、今朝届けられた。

 合鴨のスモークサラダは、古くから取り引きのある、信頼の置ける専門禽舎から直送されたものだ。野菜は近隣の契約農家で特別に栽培させた、安全で新鮮なものだけを使用している。

 それと、紅茶はアールグレイ。ジャムとの相性を見て茶葉を濃い目に抽出した、アールグレイなら円馴染みがあって飲み易いだろう」


「はい、私存じております」


 完璧過ぎて逆に引くという感覚を初めて体感する。円の住んできた世界と全く違う。これも一つの異世界転移の形なのかもしれない。


 並べられたナイフとフォークに円は冷や汗が出そうだった。

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合わせ鏡に眠れる龍は――いずれ、巡り逢うあなたの為に―― 高坂八尋 @KosakaYahiro

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