第6話 影霊というもの



「いいな、祐理。マドカの側で大人しくしているんだぞ」


 ベッドに座る祐理は完全に玲の言葉を無視して俯いている。玲は小さな溜息を付くと扉を閉じて部屋を去った。もう、この部屋には、華麟も玲も居らず、円は祐理と二人っきりになってしまった。


 静寂というものがまるで圧力でも持っているかのようでいて、円は身体を強張らせた。


 やはり、玲に言われて命令だの何だの口にしたが、それが祐理を怒らせたのかもしれない。あまりにも祐理は静か過ぎた。


 円は部屋の真ん中辺りで棒立ちになっていたが、不自然だったので部屋を見る振りをして、うろつくことにした。


 背後から大きな溜息が聞こえる。


「まったく、落ち着きのない主だ」


「部屋を見回っていたの」


「そんな、くだらない嘘を付かなくていい。影が繋がっているんだから緊張くらい判る」


「何よそれ。考えていることが解るの」


「思考ではなくて、身体や感情の状態で判る。思考という最も私的なものへは、許可がなければ触れられない」


「影霊って……」


 玲が影霊をおぞましく感じるかもしれないと言った、その一端がなのか。


「なら、私は祐理に全部知られてしまうの」


「許しがあれば」


「だとしたら、記憶は? 記憶は判るの。見たんじゃないでしょうね!」


「思考と同じで、記憶も触れるには許しを得なければならない。そもそも必要もないのに開きはしない」


「必要な時って?」


「円の身に危険があって、それを感知することが救命の条件になった時だけだ」


「だったら、今は危険じゃないから。私のことを放って置いて」


「それは承諾出来ない。円は常に命の危険に曝されている。人身の全てを閉じて孤立させるわけにはいかない」


「そうだ、私の感覚とかを知る行為とかは、体力? のようなものを消耗するんじゃないの。こういう場合よく聞くでしょう、エネルギーが必要だって」


「こうして離れて居る時に消耗するのは気力だ」


「祐理、消滅しかけてたんだから休まなくていいの。いざっていうとき助けられなくなるんじゃないかしら。どうせ側にいるんだから、気力を使う必要もないと思うけど」


 祐理は少し考えているようだった。


「分かった。全ては閉じないが、必要最低限にして休ませよう」


 円は祐理の顔が見えないようにベッドへ座る。視界に入らないだけでも少し気が楽になる。これから祐理とベッドを並べて寝るという事実で頭が痛い。そもそも祐理は人間ですらない、影霊だ。玲が神格を有すると言っていたから、おそらく祐理は神様なのだろう。しかし、いくら神様でも姿は立派な成人男子なのが、女子としては同室になるのが辛いところだ。だが、今、円と離れれば祐理は死ぬという。円は影霊について、勿論、全く知らない。だから、良いように扱われていてもおかしくはないけれども、二度も命を救ってくれた恩人を憶測だけで無下にも出来なかった。


 手を包まれたような感覚がして、円は自分の手を撫でる。


〈……マドカ、マドカ。聞こえる?〉


 思わず身体が揺れた。


〈何も言わないで。私、華麟だよ。お兄ちゃんが人身へかなり閉じているのに気が付いたから、マドカへ声をかけに来たの。多分、私のこと気が付かないと思う〉


〈お兄ちゃん、気難しいでしょう〉


 くすくすと口元だけで笑っているような小さな声。


〈マドカ、今朝のことなんだけど、お兄ちゃんを赦してあげてほしいの〉


〈影霊としての格が高すぎて人には馴染まない。――側にいるとマドカは沢山傷付くことになるかもしれない。多分、今以上に傷付く。お嬢のように〉


〈そういう時は、私に話して〉


〈また、あとで――〉


 円は固まっていた。華麟から送られた優しい便りの余韻にしばらく浸っていた。





 ほっとしたのもつかの間で、今度は仏頂面の祐理を見飽きて、円は溜息をつく。同じ部屋でまだ数十分間くらい顔を合わせている程度なのだが、ほとほと嫌になって来た。この男は眉間に皺が寄っているのがデフォルトなのかと、脱力しながら考える。顔は見続けたい程に綺麗なのだが、如何せん醸し出す雰囲気が刺々しすぎる。まるで、茨のフィルターでもかかっているのではないかと、イライラしながら円はベッドに横になった。


 何よりも、祐理が臆面もなくガン見してくるのだ。祐理が気付くようにチラ見しようが、部屋を動き回ろうが、眼だけではなく頭さえ動かして追ってくる。この男は見ていることを隠そうともしていない。


「祐理、何かようなのかな?」


「用はない」


「だって、私のこと見てるじゃない。これ気のせいじゃないと思うのね」


「ああ、見てた。逃げないように見張ってる」


「何となく解かってた、解かってたけど。あまりにもあからさま過ぎない?」


「今はほとんど身体を閉ざしているから、眼で直接円を見張ってる」


「隠す気ないのね」


「何故、隠す。円に影霊だと知られる前は、不自然に感じないよう距離を取って遠くから把握していた。だが、もう、影霊であることが知られてしまったんだ、隠す方がおかしいだろう」


 円は祐理を背に寝転ぶと、現世鏡うつしよのかがみで祐理を盗み見ようとするが、ベッドには誰も居ない。幾ら鏡を動かしても居ない。円は飛び起きて振り返る。祐理はベッドに座り、渋い顔をして円を見ていた。


「ねえ、祐理。何かしているの」


「円を見ている」


「いや、そういうことではなくて」円が鏡を指差す。


 祐理は少し考えると合点がいったようだった。


「俺が鏡に映っていないことを言っているのだったら、影霊は鏡に映らない。高位の魑魅魍魎や一部の神性・聖性存在は鏡像を持たないんだ。それも実体がない存在だから鏡像を持たないという理由が大多数を占めている。影霊も物質的な身体はないから鏡に映らない。円も俺が鏡面を飛んで来たのを見ただろう」


「確か鏡界を道具も使わずに渡れる存在って居るんだよね。影霊って妖魔の反応を見ると、なんだか強そうだけど、現世鏡と常世鏡を使って態々わざわざ私のところへ来たっていうことは、鏡界は渡れないのね」


「主を持たなければ自力で渡れる」ムスッとしている。


「主って、マドカお嬢様とか……?」


「円も主だろう。人に憑けば影霊は弱くなる。それは人に近くなるからだ。物質的な恩恵を受け――影霊としての格は下がる。鏡界はもう渡れない。近付くと危険に感じるし、無理に通ろうとすれば影が裂ける」


「影が裂ける?」


「主の影から離れて死ぬ」


「祐理が一度死んでるって……」


「俺は円に会う直前に死んでいる。それに無理に鏡界を開いて渡ったことで、影霊としても弱って消えかけていた。だからもし、あの時に円が現世鏡を手にしなければ完全に消滅していた」


「聞けば聞くほど、とんでもない状況だったのね」


「円が声に応えたから、俺は今ここにいる」


「私は嫌悪している父親が、地獄から話しかけてきていると思ったんですけど」


 心なしか祐理の眉間にある皺が深くなったような。


「嘘よ、嘘」これが嘘なのだが。


 祐理はここに来てようやく目を逸らした。


 変な男だと思う。無意味な本音で円を傷付けたと思ったら、律儀に命がけで助けて、あまつさえ見張る始末。守りたいのか、傷付けたいのか判らない。命は張ってやるが、円は嫌いという複雑な心情なのだろうか。


 ――影霊としての格が高すぎて人には馴染まない。


 つまり一時期流行った空気読めない人のようなものか。華麟の使った表現と比べて言葉の重みがなさ過ぎるが、したことは完全に空気読めない人だ――人ではないけど。


 しかし、祐理が人でないと考えれば少しは赦せるものだ。ゴリラにウンコ投げられて、きっちり落とし前をつけさせようとする人間はいないだろうから、多分。


 ……側にいるとマドカは沢山傷付くことになるかもしれない。


 ……お嬢のように。


 これから祐理と一緒に居なければいけないのだと、改めて考えさせられた。一生側に居なければいけない決まりがあるのかは知らないが、離れられるものならできるだけ早く離れたい。しかし、華麟が生涯の伴侶やらパートナーやらと、なかなか重たいワードをぶっこんで来たところを見ると、気軽に憑いたり離れたり出来るものではないと解る。何より祐理は、マドカから離れたことにより影が裂けて、一度死んでいるのだから、何かの方法を取って離れるとしても、それなりのリスクがあるのかもしれない。


 マドカはよく三人も影霊を抱えていたものだ。その中でも、本当によく祐理を従えていたものだと思う。しかし、円としては――お嬢のように傷付く――と言われるとは思わなかった。円は、マドカが祐理に慕われているとばかり思っていたからだ。慕われていても傷付いたりすることはあるかもしれないが……いや、近しいからこその苦悩を円は思う。マドカの苦しみはマドカにしか判らない。そして、円も同じ苦しみを背負うかもしれないと華麟は言っていた。その感情は、その時になってみなければ判らない。マドカが祐理をどう思っているのかは判らないが、祐理はマドカが好きだ――そして、円は。


 ――祐理が大嫌いだ。


 円は一人、にやりと笑む。これからどうなるかなど誰にも判らないが、取り敢えずマドカには会ってみたいと思った。祐理に愛される女というものを見てみたかったのだ。


「円、何が楽しい」


 こんな些細な心の動きも解るのかと、円は祐理の方へ振り返る。祐理はほとんど眼を瞑っていた。顔が先程よりも青く、唇も色をなくしている。


「顔が真っ青よ。無理してたんでしょう」


「不覚にも人身が重くなってきた。しばらく影に戻って、円の元へ帰らせてくれ」


「どういうこと?」


 祐理の全体像が滲みだし、まるで日陰にいるようにくらくなった。すると、早送りにした氷のように溶けて、曖い水となって流れ落ちている。瞬く暇もないほど早く、座っていたベッドの端から消えていた。シーツが濡れている様子は全くなく、後には何も残されていない。


 〈……少し眠る。心配いらない。浅い眠りだ〉


 〈見守っているから〉


〈華麟とする秘密の話とやらは楽しかったか……〉


 鼻で笑う小さな音。


 身体に軽い布でも覆いかぶさって来たような感覚がすると、後は何も感じなかった。


 祐理の格が高いという言葉は漠然としていたが、これだけ弱っていても全てを見通していることに、少しだけ具体的な縁が見えた気がした。


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