第5話 命の寄る辺
6
見上げる程高い門扉の向こう、数時間前見たばかりの煉瓦造りの洋館が建っている。敷地の外だというのに金木犀のむせ返るような香りが離れない。
その洋館は浅いコの字形で庭を抱き込む形で建っている。中心には正面玄関。館は左右対称で屈曲部には前面、背面双方に小塔が立ち、先端には大塔が一棟づつ建つ。
秋も中頃だというのに庭の花も様々な種類が咲き揃い、まさに小さなお城だ。
門柱には東間と表札されている。円はかつて名乗っていた名字に眉を顰める。マドカは、東間マドカなのかもしれない。円が苦しい暮らしを強いられて来たというのに、マドカは東間と名乗りこれだけ豊かな暮らしをしていたのかと考えると、胸に出来た傷跡が疼く。自己中心的で浅ましい考えだとは判るが、一対の鏡像として同一人物のように扱われれば、尚更に悔しく切ない。
こんな時でも自分のことを考えてしまう。
祐理は救急搬送されて近くの病院に居る。公園近くの公衆電話で緊急通報をしたのだ。まさか自分が公衆電話を使って赤ボタンを押す日が来るとは思わなかった。円が妖魔に騙されて居たマンションは、実のところ円がむこう側で本当に住んでいたマンションの近くだったのだ。それで、公園近くの公衆電話を思い出して素早く通報出来た。
祐理の体調はどれだけ悪いのか。円がこの世界に来て一度、直ぐに祐理は倒れた。まだ、回復もままならない状態で円は祐理を振り回したのだろうか。
円は祐理を一人病院に残して来るしかなかった。祐理が目を覚ますまで側にいるか、直ぐに洋館へ戻って玲達へ伝えるか、どちらか迷ったが、早く玲達へ伝えることを選んだ。先程襲って来た蜘蛛女が祐理を化生や化身と言ったのみならず、現に彼はどこからともなく円の前に現れたからだ。つまり円は祐理が人間なのか迷いを抱き始めていた。
むこう側の世界に居たときは、人外などというものが存在するなど考えてもみなかった。円に取って人外というのは物語に生きるものであって、直接、憎まれ口を叩いて来たり、直に睨まれたりするものではないのだ。
色々な葛藤があって、それでも祐理は円に何か違うと言わせる質を持っていた。
円は館から出ていったときと同じように、鉄柵に沿って歩いて道を外れると森へ入った。
言うことを聞かずに逃げ出して危ない目に会い、祐理まで巻き込んだのだから、いい顔はされないだろう。もう歓迎はされないかもしれない。親しいという程、知り合えたわけではないが、邪険にしていいだけの扱いは受けていない。むしろ、玲と華麟は十分に親切にしてくれたと円は思う。それがたとえ、マドカに対する親しみからくる親切だとしても。
しばらく鉄柵を伝いながら森を歩いていると、鉄柵に小さな戸が設けられている場所を見つける。円は柵に触れる。何か押し返す力のようなものを感じた。しかし、円はそのまま柵を握ると隙間に足をかけて登る。円はあまり運動が得意ではなく、何度も身体を不安定に揺らした。かなりの時間をかけて頂上の折り返し地点へ来て休んでいると、遠くにある裏戸が開いて二人が押し合いへし合いしながら出てきた。
「あれ、何で解かったのかしら」
二人は――玲と華麟は走って円の元へ来る。焦っているのが目に見えて判った。両手を伸ばして幼子を抱きとめようとするかのようにしている。
「マドカ、そんな危ないことしないで。ねえ、玲。いいでしょう。マドカを助けないと」華麟は半泣きだ。
「駄目だ華麟。マドカ……ゆっくり、ゆっくり降りるんだ」
円がある程度の高さで飛び降りると、華奢な華麟が抱いて受け止めた。驚くべきことに、華麟は全く動じていないどころか、伸しかかる円を気にすることなく、そのまま泣き出してしまった。
「帰って来てくれたのね。もう、どこにも行かないで」
「私のことより祐理が大変なの。妖魔に襲われて、そいつは祐理が倒してくれたんだけど、その後倒れてしまったから今は病院に居るわ」
「病院か、それはまずいな早く連れ戻そう。もう、館の人間に言うしかないな……」
円は控室に通されていた。洋館の人達に円のことを知らせたらしい。しかし、円は玲と華麟以外に合うことなく、一室に押し込められた。
円はソファに座っている。華麟がティーセットを低卓へ用意してくれたが、円はお茶に手をつけなかった。部屋は静かだった。振り子時計が時を刻む音だけが部屋に満ちていた。外の音は聞こえず何が起こっているのか何も判らなかった。取り残されてような気持ちを心の隅に抱いて、手を握り込んでいた。時間というものが質量を持ったように積み重なっていく。
鏡界は永遠でもって人を縛るという。永遠とは程遠い今の円だが、時間というのは意識すればする程長くなるものだ。鏡界で意識のあるまま永遠を過ごすなど想像を絶する……意識。円と祐理が二人で鏡界に居た時も、彼には意識があったということか。円はその事実に気付いた時赤くなるべきなのか、青くなるべきなのか判らなくなった。円は裸で祐理を抱き寄せたどころか、素胸に顔面を押し付けて頭を抱えたのだ。祐理の意識というのがどの段階まで鮮明なのかは判らないが、それをした側の記憶が鮮明ならダメージというのはどんぐりの背比べではないだろうか。
聞くに聞けない事柄に、円は黙殺することにした。
ノックもそこそこに華麟が部屋に急いで入ってきた。
「早く行きましょう。今、祐理を連れて帰ってきたから、部屋で待ってる」
華麟に案内されて祐理の元へ行くと、昨夜と同じで円と祐理が使用した部屋だった。
玲が腕を組んで祐理を見ていて、円が来ると頷いた。
祐理はベッドで死んだように眠っていた。
「身体の具合はどう?」
「当主のサエ様にみっちりお叱りを受けた。だから、マドカにまた色々説明しないといけないことができたんだ。それで準備に手間取った。こいつを借りてきたから見てくれ」
玲が持っている布の包を解くと、取り出した物を両手で丁寧に扱い、円へ掲げるように向けた。楕円形を縦にして先端に柄がついる。楕円盤を縁取っているのは逆巻く波。丁度、
「これって、波模様の彫りが反転しているだけで、鏡が入っていたらそっくりそのままね。壊れてしまったのかしら。この鏡は一体、何」
円が手鏡へ手を寄せると、玲は一歩身を引いて円を遠ざけた。
「いいか、この鏡をマドカは絶対に触るな。それは後で説明する。こいつは
更に玲は、円へ手鏡の後ろを見せた。そこには眠る龍の姿ではなく、紫紺色の眼を開けた、これまた左右反転の龍が彫られていた。
「こちらの龍は覚醒めているのね。でもそれ以外は左右反転の鏡像で違いが全くない」
「この常世鏡は祐理がどうやって鏡界を渡ったかの説明に必要不可欠だ。俺達はマドカに大事なことを黙っていたんだ。あの時、説明をせずに隠してしまった……まず、前提として、こちらの世界には現世鏡は存在しなかった。更に、祐理は鏡像も居ないのに、鏡界を越えてマドカの世界へ行ったんだ」
「そうすると、どういうことなの」
「この、常世鏡を使ったんだ。この常世鏡はお嬢のものなんだ。だからあの時の祐理や俺達も使える。祐理は常世鏡と現世鏡が一対なのを利用して、鏡界への道をこじ開けると、鏡を伝ってマドカの元へ行ったんだ。その時の負荷で鏡は壊れて、この有様。正直、俺達も常世鏡と現世鏡を道にすることで何が起こるか、全てを予想することは出来なかった。更にもう一つある、これは了解済みだったんだが、率直に言おう――祐理は一度死んでいる」
「初めて会った時の祐理に異常があるとは思えなかったけど」
「祐理の死は、人の考える肉体的な死とは違う――祐理は人じゃない」
「やっぱり祐理は……」
「これだけ近くに居れば気付くものだよな――
「何に?」
「勿論、マドカに」
「怖いこと言わないで。何で祐理が私に取り憑くの、幽霊じゃあるまいし……あ、影霊」
「今、祐理はマドカの影に取り憑いてる。前はお嬢の影に憑いていたんだ。もう、祐理はマドカのもの。しかし、今の状態だと、祐理はマドカが側に居なければ死んでしまう。人としての祐理も、影霊としての祐理も、かなり弱ってる。だから、昨日マドカは祐理と同じ部屋にされたんだ」
円は思わず影を探してしまった。自分の影に祐理が憑いてる。明るい室内に影は目立ってないが、あったとしても取り憑いた祐理など見られはしないだろう、それは何となく判っていたが、見ずにはおれなかった。
「同じ部屋なのは不思議に思ってたけど、祐理は何故、影霊の話を隠したの。私、長い間知らずにいて、逃げてしまったから祐理は倒れたんじゃない」
「本当なら、マドカの影に祐理が馴染むまで言えなかった。まだ繋がりの弱い早い段階で、酷く恐れられたり、拒まれたりすると祐理は行き場をなくして、最悪消滅してしまう。マドカは影霊の話を聞いて
「馴染むって何だか嫌な言い方ね。確かに、祐理が取り憑いてるなんて言われたらゾッとするけれど、拒めば死ぬなんて脅されたら抵抗できないわ。でも、これからしばらくは、祐理と一緒に居ないといけないのか……なかなかの試練ね」
玲と華麟は微笑んだ。
「そして、常世鏡にマドカが触れてはいけない理由についてなんだが、名前から少し判ると思う」
「現世鏡と常世鏡。ああ、この世とあの世」
「あたり、この二つはけして交わらない。もっと立て込んだ話しは色々あるんだが、とりあえずはこれで納得できないか」
「そうね、あまり話しを詰め込まれても困るし、現世鏡と常世鏡が相性最悪なのは判ったから、今はそれでいいわ」
「マドカが帰って来てくれてよかった」華麟が目尻の涙を拭う。
「それにしても、私が無駄に騒ぎを大きくしたのね。癪だけど逃げたことが碌な選択じゃなかったって判った。祐理はよく私を見つけてくれたものね」
「私達も、死ぬ気で探したよ。マドカの影霊になった祐理なら、場所が判るから、まずは聞いたんだけど、拒絶されているから判らないですって。でも、正直に言うと祐理は本当に死ぬんじゃないかと思った。あんなに弱ってるのに、化身を解いて影になったと思ったら、鏡に潜って居なくなってしまうんだもの」華麟が円の両手をとって握る。
「鏡面を飛んだ、とかなんとか?」
「あいつ、そんなことしたのか。それこそ、消滅してたかもしれない」
「お嬢様思いもいいけど、少しやり過ぎね」
「いや、今回はマドカの為に命をかけたんだよ。ご主人様」
「え? 祐理がそんな風に思うわけないでしょう」
「何言ってるの、影を分けてあげたんでしょう。生涯の伴侶なんだから。私と玲だってお嬢に出会ってから、今も変わらずパートナーだもの」
「ちょっと待った。私は華麟ちゃんならいいけど祐理なんて、ごめんよ」
「まあ、そう言わないでやってくれ。祐理がそれ聞いてたら、結構傷付くつと思うよ」
「そんなことあるわけない」
「影霊ってそういう存在なんだよ」
「駄目、私は祐理が大嫌い!」
これみよがしな溜息と共に祐理が起き上がった。だるそうにこめかみを揉みながら、さっさとマドカ達の横を通って行く。
「おい、祐理。どこへ行くんだ」玲が祐理の肩を掴む。
「円は俺が大嫌いだから、消えてやることにした。部屋へ帰る」
玲は祐理を羽交い締めにした。
「マドカ、祐理に命令しろ。ここに留まれと言うんだ。でないと、こいつは死ぬ。これ以上は主人から離すわけにはいかない」
「離せ、玲。格下の分際で、切り刻むぞ」
「何が何だか判らないけど、祐理、この部屋で大人しくしていなさい!」
驚くべきことに祐理はぴたりと止まってしまった。そして、あろうことか元居たベッドへ戻って行き座ってしまった。
「何これ、面白い。でも、なんだろう、この沸々と湧いてくる罪悪感」
円は、玲や華麟がほっと息をついているように感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます