第4話 帰れない我が家



「ここって大寒駅近くの山だったの」


 円は山を降りて気付いた、そこは円が通勤に使う駅の側だったのだ。円が駅舎を見上げると大寒駅と掲げられている。


 駅の名前も駅舎も同じだ。異世界に来たというから、もう少しとんでもないことになっているのかと円は思っていたから、拍子抜けした。円は自分の家が気になったのでそのままいつもの道を通って、自宅へ行ってみることにした。


 次々と横切る人々の平凡さに、円は自分が本当に鏡界とやらを越えてきたのか疑問になってきた。注意深く周囲を見回しても何一つ不思議なものはない。住宅街を通り、少し人通りの多いスーパーの近くへ来ると、円はスーパーの看板に眼が釘付けになる。いつも見る楓の葉型の青い看板ではなく、兎型の赤い看板になっていた。一日で大看板が変わったとは考え難いし、そもそも会社が変わるとも告知されていなかった。


 小さな変化だが、あまりにも日常に根ざしている事柄の変化に円は眼が離せなかった。


 円は今まで流し見だったスーパー周辺の商店を、一軒づつ見回った。すると、円が気付いていなかっただけで、看板に書かれている店の名前や、取り扱っている商品の種類が微妙に異なっていた。それは、唐揚げ専門店が焼鳥専門店に変わるような、規模がある程度大きなものや、店の名前だけが数文字違うなど些細なものもあった。





 戸建てが連なる住宅街を円はとぼとぼと家へ向かって歩いていた。自分の家を見るのが怖かった。


 冬の初旬にもなり吹き付ける風は冷たく、ワンピース一枚では震えが来る程寒い。


 館から飛び出して来たのは間違いだったのだろうか。なさけないが、明らかに間違いだろう。


 それでも、円の矜持は屋敷に留まることを許さなかったし、身勝手な彼ら――というか祐理を許せなかった。


 それがたとえ命の恩人だとしても。


 命を救われたからといって、その後の人生を好きにされていいはずがない。


 円はお風呂で襲われた時、死んだほうがよかったのかもしれない、と思う。


 これ程複雑な出来事に巻き込まれることはなかったのだ。


 ――彼に会いなさい。必ず助けてくれるだろう。これからいくつもの困難が襲い来る。だが、諦めてはいけない。


 父、克也の言う彼とは一体誰のことなのだろうか。あの陰険な祐理ではないことを祈ろう。


 家々の屋根が並ぶその上に、円の住むマンションが以前となんら変わること無く建っているのが見えた。


 円はそのマンションを見失合わないようにするかのように、走った。


 いつものエントランス、エレベーターで五階に上がり。


 エレベーターを出ると、五〇五号室へ向かう。


 扉は静かに閉じていた。円は扉を開けられるか試してみると、頑として動くことはなかった。


「……あの、どなたですか。うちに何か」


 スーパーの袋を両手に持った、若い女性が不審そうに円を見ている。


「あ、あの友達のうちがどこか判らなくて。ごめんなさい、なんか勘違いしたみたいで」


「あれ、もしかしてヨウちゃんの友達だったかしら。私、紹介されたのに忘れてて」


「え? は、はい。どうも」


「今、開けるから待ってて。ちょっと荷物が多くて」


「持ちます」円は女性から袋を受け取る。


「お客さんに荷物持ちさせて。ごめんなさい」


 円はヨウちゃんとやらの知人として、元自宅となっているらしい我が家へ招かれた。


 危ないやり口だとは思ったが、どうしても部屋の中が見たかった。


 部屋に入ってみると間取りは全く変わっておらず、違うのは家具類だけだった。家具の配置や種類で円の部屋だった時と、雰囲気がまた違っていて明るい。


 低卓に赤いラブソファが置かれていて、円はそこへ座る。


「今、飲物出しますから。コーヒーでいい?」


「いただきます」


「ヨウちゃん今日帰って来るの遅いみたいだから。私で悪いけど話し相手になってくれる」


「こちらこそ、ご迷惑掛けてしまって。今日はそろそろお暇します」


「気を使わせてしまって悪いわ。コーヒーはぜひ飲んでいってね、豆にこだわってるの」


 低卓へ二つ湯気を上げるコーヒーが置かれる。円は手を伸ばす。


 突然、耳が籠もったようになり、耳閉感に眉をひそめる。


 水の中に没するような――。


 円は膝に乗せていた手鏡を探る。いつの間にか女性が手鏡を興味深そうに見ていた。


「ねえ、その手鏡、綺麗ね。見せてくれる?」


 ――マドカも鏡も私のものだ。


「あ、ごめんなさい。これ預かりものだから」


「その鏡があなたを不幸にしたんじゃない? 手放せば苦しみから開放されるかも」


「言っている意味が判りません」


「私、そういうの判っちゃう人のなの。見える人って言うのかしら」くすくすと女性は笑っている。


「もう、帰ります。ありがとうございました」


「こう言うと皆、話に乗ってくれるのにな。ああ、駄目ね。そんなこと言わずに、もう少しだけここに居てくれないかしら。私、気付いていたのよ。あなたヨウちゃんの友達なんかじゃない。私を騙し切れると思った? 酷い人」


「ごめんなさい、事情があってどうしても部屋が見たくて」


「いいわ、許してあげる。二十四年間待ったんですもの。ねえ、マドカ」優しげだった女性は既に居らず、妖しげな女が艶然と微笑んでいた。


 円は行く手にいる女を、ラブソファから乗り上げるようにして避けて走った。しかし、どうしたものか女は既に円の前に立ち廊下を塞いでいた。


「マドカ、マドカ……今までどこに居たの? いつ帰って来たの? 現世鏡うつしよのかがみをあなたが持つなんて奇跡よ。嬉しい、嬉しいわ。私、あなたが生まれてからこの時をずっと待ってた。私のもの、私のものだ」


 女の背中から針が伸びて来ると、彼女は前のめりに倒れかける。しかし、針のようなものが鎌状に折れ曲がり女を中空で支え、左右四本づつの足が出来上がった。鈍い音がすると女の肉感的な足が床に落ちていた。伏せった蜘蛛女は細長い足を振り下ろしながら、狭い部屋に足を取られていた。服は背中から裂けて脱げかかっている。


 顔は下を向いている。長い髪を振り乱して頭頂部を晒していたが、動く度に赤い亀裂が入っていった。毛束と共に肉が割れ落ちて、粘液の糸を引く。そこから血にぬらぬらと光る能面が現れた。


 生物への冒涜のようなその姿に、円は吐き気を催した。


 逃げる道は蜘蛛女のいる玄関への廊下だけではない。咄嗟に記憶を手繰り寄せ、円は一気に後退ってから踵を返す。


 窓へ向かって走り寄るとベランダへ出て緊急用の梯子を床に探す。


 ――ない。何故。


 物は置かないようにと注意され、あれだけ記憶に残っていた邪魔な存在。緊急事態に使えないとはそれこそ、今までを思えばただの邪魔者だ。


 蜘蛛女は悠然と部屋を歩いてくる。


「何かを探しているのかえ、マドカ」


 もう、身動きが取れない。いや、隣の仕切りをやぶれれば。


「梯子はなかっただろう。隣も行けるものかね」


 この蜘蛛女は部屋に何かをしている。


 円は柵一杯に後退し背中を押し付けた。


 蜘蛛女はマドカが欲しい。殺すとは言っていない。それは円の世界であった水女と同じだ。一体何の目的があってマドカを求めるのか。殺すのか、殺さないのか。殺さないからといってまともな扱いが受けられるとは思えなかった。殺されたら終わり。殺されなかったら、もう、取り返しがつかない。


 円は柵に身を乗り出した。地上五階、落ちたらまず助からない。


「円が死んでもいいの」


 この奇妙な問いかけは、効くかどうかが判らない、一か八かの賭けだった。そして、後先考えない一手でもあった。


 意外にも蜘蛛女は素直に止まってしまった。


「人間のマドカに自死などできるものか」


「人間っていうのはね、追い詰められれば何だって出来るの。あんたのものになるくらいなら、死んだほうがまし。鏡ごと砕けてやる」


 円は柵に上り腰をかける。眼を瞑り力を抜こうとすると、瞼の裏越しに高く澄んだ音がした。


 円が音に眼を上げると、窓ガラスに真円のひび割れが走った。駄目だ、思ったと同時に窓ガラスが砕け散り光を屈曲させる。その中で祐理が俯いていた。祐理は粉々になったガラスを被っていて、一拍置くとそれを手で払った。


「お前は俺を殺す気か」


「どうして」


「どうしてじゃない、探したに決まっているだろう」低い険のある声。


「こんなギリギリに来るなんて大したお仕事ね」


「……円の生気が途切れかけたから判ったんだ。これでも鏡面を飛んだんだ、間に合っただろう」


「よく判らないけど、それはご苦労さまです」


「なんだ、仲間割れかえ。まあいい、マドカが死なぬようなら何でも構わぬ。男、邪魔だ退け」


「低級の妖魔如きに邪魔扱いされるとは」


 祐理は片手を口元へ寄せ、それを何かの形へ据える。これは円にも何となく判る、印というものだ。祐理は印を結んで何かを唱え始めた。すると、蜘蛛女に細かい文字のようなものが浮かび上がり、直ぐに全身を覆っていく。


「――縛」


 祐理の声に合わせて、蜘蛛女は身体を硬くして、身動きが取れなくなったようだ。


「おのれ、これ程の力。単なる化生と思うたが、化身の類いか」


 祐理は二つ指を立てると、中空で剣でも振るうように、縦一閃に蜘蛛女へと走らせる。光が尾を引き女を左右真っ二つに切り倒した。すると、女と共に部屋全体の彩りが砕け散って霧散した。部屋は打ちっ放しのコンクリートで出来た空洞となってしまったのだ。


「何よこの部屋。間取りも全然違う」


「ここは円の住んでいた立地にあるマンションじゃない。だから探すのに骨が折れたんだ」


「でも、私……確かに」


「帰るぞ」祐理は背中を向ける。


「嫌、私がどこに帰るっていうの。ここは私が居た所とは違う異界なんでしょう。帰る場所なんてない」


 祐理が振り返った。片眉を下げて苦々しげに円を見ている。


「まだそんなことを言っているのか」


「二度助けてくれたことは感謝しています。でも、いつまでも帰らないって言い続けるわ。そもそも祐理が悪いんじゃない。昨日自分から腕を掴んできたくせに、それも一晩中。素っ裸の女へ対してよ。朝に自分で気付いて、それが恥ずかしかったからって、あんな意地の悪いこと言うなんて。私だって知ってるわ、私を思ってくれる人なんて私の世界にも、マドカお嬢様の世界にも居ないことくらい。祐理なんて、大嫌い」


 円の眼から涙が零れていく。鼻をすすってしゃっくり上げて、色気も何もない子供の頃と同じ涙。かつて何度、泣いたことだろう。そして、いつの間にか忘れていた、忘れようと努力してきた涙が、マドカの世界へ来て蘇ってきた。


 祐理が円へ近づく。


「口の減らないことだ」


「何よ。何が言いたいの」


 祐理は円の顔に手をそっと寄せた。しかし、手を円の肩へいきなり落とすと、そのまま円に伸し掛かって来た。体重を全て乗せられて、円は祐理を抱えたまま尻持ちを突いた。


「祐理、私はマドカじゃないんだから。こんなことされても困る……」


 円の膝の上で祐理は身を投げ出して動く様子がない。円が祐理の顔を覗き込むと、その顔は青く血の気がなかった。まるで鏡界に居た時の姿そのものだった。円は祐理の頬へ触れてみると、体温がかなり下がっていることが判った。


 円は涙もそのままに、外へ向かって走り出していた。

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