第3話 あちらとこちら
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円は厚いカーテンを引いてみる。外を見ればここがどこなのか分かるのではないかと、あり得ない期待を抱え外を覗く。
一面金色に烟っていた。金色の霧があるものかと、よくよく見るとそれは庭木が黄金に色付いて、朝の大気と日差しとで、薄ぼんやりと滲んでいるのだ。
円はその幻想的な光景に見とれて、窓の掛け金を外すと、少しだけ身を乗り出す。穏やかな風に乗って甘い香りが鼻腔を満たす。
――不思議、金木犀ね。
金木犀が開花するのは秋頃の筈だ。既に十二月下旬にもなる季節でこれ程の香りを放つのは異常に思われた。
金木犀の開花は奇妙なことだが異世界だ、円の世界の常識は通用しないのかもしれない。
円はベッドに置いていた鏡を手にした。服は既に来ているし、祐理も居ない。華麟は部屋に元々服や寝間着を用意していてくれたらしく、円は無駄な気苦労を多くした。そして着た後も円は目眩がする思いだった。
円は苦笑いする。白いワンピースなのだが、それが広い衿に紺のリボンタイ、繊細な膝丈レーススカート、おまけにパニエ付きという正にお嬢様のようなスタイルだ。お嬢と呼ばれるマドカなら似合うだろうが、円にはハイセンス過ぎる。
「めっちゃ可愛い。やっぱりマドカはお嬢の鏡像だから、着替えるとお嬢そのものね」
「華麟さん、もう少し地味な服は……」
「華麟って呼んで。これが一番地味なんだけど。そういえばお兄ちゃんたら、勝手にどこか行ったわね」
「私が起きたら、もう、どこにも居なかったわ」
「あの男、絶対に言うこと聞かないだろうな。まあ、今はマドカの方が大事だから、さあ、これ被って」
華麟は腕に白いストールを持っていて、円へ頭からすっぽりと被せてしまった。
「屋敷の人に、見つからないようにね」華麟は円の手を取った。
華麟は円の手を引いて屋敷の中を歩き、ある両開き戸の前で止まると戸を開けた。大鏡と水盤のある、初めて鏡界を越えた部屋だった。
部屋には祐理と玲が先に来ていた。祐理は一瞬円を見たが、すぐに眼を逸らしてしまった。
――それは、そうだ。
円は状況の慌ただしさで赤髪の青年、玲をあまり見ていなかった。改めてその姿を気に掛けると、彼は祐理より少しがっちりしているのが分る。全体的に言えばヴィジュアル系の装いで、赤い髪は炎のように立ち、服は黒でまとめてシルバーのゴツいアクセサリーを着けている。
顔立ちといえば装いに反して、眠たげな半眼で、細面なお坊っちゃん風という、随分と柔らかな印象を与える。玲は、祐理とそう年齢は変わらないのではないかと円は思った。
「早速、話を始めたいんだけど」
この場を仕切るのは意外にも玲のよう。
「マドカも一番気になることだろうから、単刀直入に言おう――もう、元の世界には帰れない」
円の帰れるという思いの――あるいは願いの――裏で、なんとなく言われるのではないか、と思い続けていた一言だった。確信はない、ただ予感がした。闇を通ったあの時に、引き返せないそんな気がしたのだ。
「鏡界というのは何なんですか」
「鏡界――。まず、これを知ってもらえば、分かり易い。世界というのは一つではなく数多に存在する。そして、それらの世界には同じ人間は一人も居ない、これは真理だ。さて、マドカ――鏡は何の為にある?」
「え、自分を映す為?」
「そう、自分自身を映す。だが、世界には特別な人間というものが居る。自分の鏡像を持たない人間が居るんだ。それは凄く珍しい。でも、それだと困らないか?」
「鏡像って自分が映った姿という意味でしょう。困るどころか、それ化け物扱いじゃないの」
「そうだ、ところでマドカ。今まで鏡に自分が映らなくて困ったことはなかったか」
「そんなこと一度もないわ。いつも普通にこの見慣れた顔が映ってた」
「それはな、お嬢――まどかが居たからなんだよ。お嬢とマドカは鏡像、一心同体なんだ。どちらが表でも裏でもない存在が、世界にただ一対だけ。先程、世界に同じ人間はおらず一人のみと言ったが、これは真理の外にある事象なんだ」
「それが、この世界のマドカと私」
「ここまでくれば、今度は鏡界の話になる。今回マドカが妖魔に襲われて死にかけた。鏡像というのは一心同体と言っただろう。一方の鏡像が死んだら、もう一方も死ぬ……」
「それで私を助けたのね」
「どちらも大切なマドカだもの」華麟が声を張る。
祐理が溜息をついた。
「さて、続きにするぞ。祐理が勝手に飛び出してマドカの元へ行った、つまりこいつは鏡界を渡ったんだが、今はそれをおいておくことにしよう。マドカ、自分の世界からこちらへ来る時何を見た?」
「水。水中だった。奇妙な闇を漂ってた」
「それが鏡界なんだ。一対の鏡像を持つものしか越えられない、闇。しかも、マドカ達でさえ自分の力だけでは鏡界を渡る資格さえ得られない」
「資格って、まさかこれ」円は祖母に貰った手鏡を見る。
「お察しの通り、鏡界を渡る神器だ」
「だってこれは、祖母に貰った……」
「今は神器について話そう。その鏡は
「神器があるのに」
「それは双方のマドカが同一世界にいるからなんだ。片方がもう片方を引き出して、無理矢理通すという強硬手段でしか、鏡界を越えて異世界へ行く手段はない。だがね、先程言った例外がある……」玲が祐理をちらりと見る。
「玲、余計なこと言わないでよ」華麟が不機嫌に口を結んでいる。
「余計なことじゃない。もし、マドカが強行突破で鏡界を越えようとしたらどうなるか、伝えるべきだ。いいか、鏡界には時間の流れと物質的な許容がないと言われているんだ。マドカ、祐理の鏡界での姿はどうだった」
「眠っていた? むしろ、死んでいるみたいだった――あれ、でも私は普通に動いていたわね」
「まあ、それが鏡像と他との違いだな。あの時、祐理は生と死の間にいた。そして、マドカでも渡る側に鏡像が居なければ鏡界に迷い、囚われてしまうんだ。死ぬまでではなく永遠に、意識があるまま」
「私、わけの分らないまま通されて、あれ危なかったのね」
「悪いが、そういうことだな。と、いうわけで、マドカはもう鏡界を通れないから、元の世界には帰れない、結論はこうだ……そして、最後に一番大切なことを話そうか。マドカは妖魔に狙われている」
「妖魔って、あの水浸しの女」
「あれは高位の水妖だ。鏡界を渡り円を
「残念ながら、襲ってくるのはあの妖魔だけでは終わらないだろう。これから、どんな連中が来るか全く判らない。そのためにも俺達が側に居てマドカを守ろう」
「あなた達は妖魔に対抗できるの」
「黙って殺されないくらいの力はある」
「私も戦えるよ。マドカを守ってあげる」華麟が胸に拳を握る。
「これで今知っておくべき最低限のことは説明した。他に何か質問は?」
「私は何故、妖魔に狙われるの」
「その話は少し複雑になるから、とりあえずマドカがお嬢の鏡像だからだと考えるといい。鏡像というのは妖魔にはとても魅力的な存在なんだ」
自分が妖魔に好かれると言われても、円はいまいち実感が持てない。円はどう考えても不思議な力など使ったことはないし、見た目も平凡な女だ。むしろ人より何か欠けている分、劣っているかもしれない。だが、妖魔がそれを好もしいと思うのだったら別だが。
「最後に一ついい? この手鏡のこと何か知ってるみたいね」
「マドカの持つ神器の出処についてなんだが、悪いが少し調べさせてもらった。元々、お嬢の曾祖母も鏡像なのは東間の記録に残っている。つまり、マドカの曾祖母である東間カナエ様も鏡像だということは判っていた。どうやら、マドカの祖母が神器をもたらしたのではなく、曾祖母カナエ様が最初に神器と接触したらしい」
「そんな、嗅ぎ回るようなことをして」円は手鏡を握りしめる。
「お嬢は生きるのが難しいから。ごめんなさい」華麟が円の裾を握る。
「鏡像ってそんなに沢山いるものなの?」
「実のところ鏡像というのは血縁者に多いんだ。それでもこれだけ近いところで鏡像が生まれるのは非常に稀だ。おそらく、数百年に一度と考えるべきだろう」
「そこまで調べたなら、ひいおばあさまが手鏡を手に入れた理由まで判らなかったの」
「この調べも神器によるものだが、マドカにはこれ以上話すことは出来ない」
「プライバシーまで侵害して肝心なことは話さないって、勝手に連れて来ておいて、それはないんじゃないの」
「命を救けられて、その言い草か」
祐理が苛立ちも隠さず腕を組む。玲がそんな彼を手振りで制した。
「これはマドカの安全の為なんだ」
「何が安全よ。自分たちのお嬢様を守りたいだけでしょう」
「……そうだ、こちらのまどかを守る為だ。円はあちらに居たら無為に死んでいた。助けたんだ、協力してもらおう」祐理が円を見つめる。
「祐理、言葉を慎め。マドカの置かれた状況を考えろ」
「お兄ちゃん、そんな言い方ないでしょう」
「お前たちもお嬢と慕うまどかを守りたいだけ、取り繕っても仕方がない。この世界で円を思う人間など居ない」
「なら、あの時死んでいればこんなこと知らずにすんだのに……これ以上私を巻き込まないで――私は帰りたい。こんなわけの分らないことに関わるのは嫌」喉が潰れそうになる程声を押し殺す。円は自分の言葉に胸が擦り切れそうだった。
部屋は重い沈黙に包まれた。
「俺は円を死なせるわけにはいかなかった。あの時、助けに行ったのはお前を思ってのことじゃない、こちらのまどかの為だ。お前には生き続けてもらわなくてはならない、鏡像」
「大好きなマドカお嬢様がどこにいるか知らないけど、私で慰めになったかしら」
玲と華麟が
祐理がどんな顔をしていたかは判らない。それでもしてやったりという気分になって、円は走る。出口は判らない。華麟に言われたのに顔も隠さないまま。ただ、長い廊下を走り続けて、自分がこれ程走るのは何に追われてのことだろうと考える。
円を傷つけた祐理。それも無意味に事実を指摘して、オブラートに包んで消化すればいいことを、包を広げて苦い思いをさせたのだ。陰険な奴と華麟が言うが、さすが妹よく見てる。
よほど昨夜のことが気に食わないのか。
眼に溜まった涙が溢れて頬を伝った。自然、足が止まると、円は僅かに俯いて涙を零し始めた。
――帰れない。それを悲しく思わない自分が侘しい。
口にした瞬間に分かった、帰りたいという言葉は、置かれた立場に流されただけだったのだ。円は元の世界に大切なものなどなかった。帰りたいと嘆き切望する程の拠り所など持ててはいなかった。ただ、あるのは父である克也が円に植え付けた闇だけだった。
円は独りだ。
私の世界は私を惜しまない。マドカの世界は私を思わない。
泣き崩れそうになる自分を叱咤して円は走った。階段を降りて無鉄砲に突っ走ると裏戸らしきところへ出た。戸を開けると押し寄せてきた甘い芳香に息を詰める。
不快な程、花の香りが強く感じられたのは、戸を開けた一瞬だけ。外に出てみると、香りが満ちているのは感じるが、いい香りだと円は思った。
霧のように金色の花が満ちている。濃厚なその色合いは、仄かに光を放っているかのようにさえ錯覚させる。金木犀が寒空の下、花を満開にしていた。
水の中の次は金木犀の森。
円はあまり意味のなさそうな、遁走に屋敷を振り返る。
玲はこれからも妖魔に襲われるだろうと言っていた。一度襲われて、それを完全に否定する根拠はないが、二十四年間今まで妖魔など見たことがなかったのに、いきなり危険だと言われても、円には実感が持てなかった。
安全な場所に居れば、今度は人との関わりが辛くなる。
悔しかったのかな、と。あるいは馬鹿らしくなったのかもしれない。誰かの思惑に振り回されて、円の心など置き去りだ。世界の果てどころか、異世界にまで来てしまった。
円はいつだって独りだ。だから、どこででも生きていける。
実のところ、そう思うのは祐理達が円と同じ人間で、見慣れた服を着て、そして華麟が笑っていたからだ。でも、円は彼らを知らないし、彼れらも円を知らないのだ。円をマドカと呼ぶ彼らへどこか思い違いをしていた。
円は円。鏡像やマドカなどは関係ない。
円は逃げ出してしまった。
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