第2話 鏡の国のアリス



 そこは深淵の闇だった。


 上も下も、果ても判らない凍えるような――水の中だった。


 円は体に感じる抵抗でそれが水中だと解かったのだ。どれだけ行っても泳ぎ着く場所も無く、沈む底もないように思われた。手鏡を握りしめた手はすっかり硬くなっていて、円はそれを持ったまま藻掻いていた。


 闇。円は何も考えられなくなっていた。


 閃光のように、暗闇の中でうずくまる自分自身の姿が蘇ってくる。


 ただ、意味もなく手足を掻いていると、身体に何か当たった。つい縋るように捕まると、それが先程の男だと判った。男が眼を瞑りぐったりと水に身を任せていた。何故か、それが見えた。


 円はまるで息を吹き替えしたように、周りが見えるようになった。


 ――このひとは、死んでいるのかしら?


 円は男がどこかへ行かないように抱き止めようとするが、身体が大きく手を回すのが難しかった。それでも円は男を抱えると、そのまま身動きを止めた。


 動き続ければ息が続かなくなってしまう。どこにも行く場所はない。闇は円を逃さない。


 しかし、二人で水の中静止していると、円は幾らも息が苦しくならない事に気がついた。それと同時に頭の中が更に晴れた。呼吸しなくても、この水の中は苦しくならないのだ。


 水中によく似た、闇。そして、何故、男と自分自身が見えるのか。


 男は白い顔をしている。落ちた瞼は死んだように重いが、長く豊かな睫毛でくっきり見える。鼻筋の通った癖のない鼻が、容貌の優れた印のようだった。唇は青く凍りついたようで、命の危うさを感じさせる。


 水は冷たく二人の命、特に今は男の生を蝕んでいるようだった。円は何か出来る事はないかと考えて、自分が手鏡を持っているのを思い出した。


 ――鏡界を越えろ。まどかに手を引いてもらえ。


 円は男の頭を胸に抱きすくめると、手鏡を見やる。以前となんら変わらない祖母に貰った手鏡だ。自分に鏡面を向けると当たり前だが顔が映る。しかし、円はその鏡像に眼を止めていた。違和感がある。顔貌かおかたちはどこか円のようだが、その瞳は翠。肌が白くてまるで薄絹を被っているようで、髪は黒と言うより漆黒だった。美しい女だと思う。自画自賛のようになりかねないが、同じようで違う自分の姿がそこにあった。


「……マドカ」鏡の中からマドカが微笑む。しかし、当の円は微笑んでなどいない。


 円は誰かに手を強く引かれる感覚と共に、身体が重みを取り戻して光へ転げ落ちた。そんな気がした。すると幾らも立たず、バケツでもひっくり返したような重い音と一緒にどこかへ投げ出された。何か軟硬いものの上に伸し掛かり身体はそれ程痛くはなかった。


「痛い……マドカ。どういうこと? 助かったの」


 光の中だった。何やら周りで人が動く気配がするが、明暗の落差が激しく眩しくて見えない。濡れた身体が外気に当たって冷えて鳥肌が立った。髪がぐっしょり濡れて顔に張り付き視界を遮る。


「すっごい際どいわね。お嬢と同じ顔の人が、全裸でお兄ちゃんの上に覆い被さってる」


「よく帰ってこれたものだ。無茶しやがって」


「どいてくれ、円。お前達も手を貸せ」


 眼が光りに慣れて来た円は、自分が全裸で件の男に跨っている事に気付いた。円は声も出ずに飛び退いた。戦慄きもそのままで、身体を手で隠そうと縮こまる。


 部屋には円と男以外に二人いる。円を助けてくれたらしい男と、同じ年齢位の若い赤髪の男。それと高校生くらいの、制服を着た少女だ。


 円と男の居る床は水溜りになっている。倒れた男が重荷を負ったように身を起こすと座る。


「何見ているんだ、タオルを掛けてやれ」


 少女は床に置いてあったタオルを手にすると、軽い返事と共にバスタオルを男へ乱暴に投げ付けた。今度は円の元へやって来ると、バスタオルを広げて優しく包んでくれた。


「いらっしゃい、もう一人のマドカ」


「もう一人の……あの? マドカ」


「そう、あなたは鏡界を越えたの。今までとは違う世界に来たのよ」少女は微笑む。紺の黒髪に、葡萄色がかった黒い眼。あの男にそっくりな配色と顔立ちをしていて、パーツに癖が無く整っているが、その彼よりも大分、可愛らしい印象がある子だ。あの男をお兄ちゃんという言から、兄妹の可能性が高い。


「やっぱりお嬢とマドカってあまり見た目に差はないな」赤髪青年が円をまじまじと見ている。


「当たり前だろう、鏡像なのだから」


「このままここに居ると風邪引くし、男共も居るから、客間で休んでいて。服を用意してくる。じゃあ、行きましょう」少女が手を円に差し出してくれる。その手を思わず取るが、身体が全く動かなかった。


「立ち上がれないみたい」


 身体を拭いていた男は、タオルを肩に羽織ると円の元へやってきた。少女を押しのけ、異様に円へ接近してきたかと思うと、肩を支えて膝裏に手を入れ持ち上げた。世にいう姫抱きと言うものだ。


 円は最初何が起こったのか判らなかった。そして自分が何をされているのか判った瞬間に、顔に熱を帯びた。


 頬が真っ赤になって、耳にも朱が差す。


 この男は一体何をしているのか。動けない人間を連れて行くにも、他にやりようがあるだろう。全裸の女を姫抱きするこの男の勇気? は異常だ。というか、ここまでされる由縁はない、はず。


 しかし、先程から円を知っているかのような口ぶりで会話が進んでいる。この人達は一体なんなのだろうか。


「あの、下ろしてくださるといいかな、なんて」


「動けないんだろう。黙って運ばれればいい」


「ええと、私は暮峰くらみねまどかっていいます」


「名乗らなくても、知っている……そうだな、円は知らないな。俺は、一色いっしき祐理ゆうり――まどかの下僕だ。いや、だった。か……」


 がっくんと音がして顎が外れそうになる程口が開いた。いけしゃあしゃあと自分を女の下僕とのたまう人間をまどかは初めて見た。それが過去形であったとしても、異常であることには変わりはない。そして、元だろうが、なんだろうが、マドカの下僕だと言っても、円ではなくもう一人のマドカのことなのだ。判ってはいるが、余計に身の置き場を失う。


「ええと、一色さん……」


「祐理でいい、敬称もいらない。まどかと同じ顔でさん付けされると気味が悪い」


「あ、私もお願い。私は一色いっしき華麟かりんって言うの。華麟って呼んでね。この陰険な男の妹よ」華麟は祐理の肩を叩いた。


「何だよここで自己紹介か。俺は恩田おんだりょう、今回活躍の場は全部祐理に奪われたが、今度何かあったら俺がマドカを助けるぞ」


 悪い人達ではなさそうだった。どちらかと言うと祐理以外は陽気で人当たりもいい。そして、側近くにある祐理の顔を見る。妹に陰険と呼ばれた彼はあまり表情を変えない事に気が付いた。何を考えているのか判らず、容貌がいいだけ冷たく見える。しかし、心なしか顔が青ざめているような。


 周りにいる人達の様子が判ると、今度は視野が広くなりここが西洋的な、しかも古い造りの狭い部屋だと判った。狭いと言っても円のワンルームマンション一室と同じくらいの広さがある。そして、この部屋には家具らしい家具が一つもないのだが、円の眼を引く物が二つあった。


 その一つはおそらく巨大な鏡だ。おそらくというのは、布が掛けてあって、なかなか断定し難い状態だったから。ほんの僅かに捲れた部分から、角度がついた陰りのある布が映っているのが見えた。部屋を映すほど布は開かれてはいない。全体を見ると、円が両手を広げても追いつかない位横幅があり、また高さも頭二つ分高い。


 もう一つは真円の水盤で、高さは円のへそ辺りぐらいまでありそうで、一抱えもある。盤には水が溢れそうなほど湛えられていた。


「後で部屋は見せてあげるから、今は温まりましょう」華麟に気づかれていた。




 この家は明らかに豪邸だ。門外漢の円には建築様式は西洋的としかいえないが、花柄の壁紙と鞣し色の建材、絨毯敷きで構成された廊下は延々と続いていた。時折飾られている絵画や、小棚の花瓶がなければ同じところを歩いているのではないかと錯覚してしまう。


 ようやく一つの部屋の前で止まった。


「お兄ちゃん、この部屋を用意してもらっておいた」


「……また、いらない気を回して」祐理の呟きに、華麟は照れたように笑った。


 円はベッドへ投げ出されるように横たえられた。抗議しようにも何も、自分の裸体を隠すのに必死でそれどころではなかった。


「もう、こんなに乱暴なことして、お嬢の鏡像なんだから大事に……」


 祐理はいきなり胸を抑え始め、身体を強張らせている。膝を落として丸くなると、一時もせず、そのまま床に崩れ落ちてしまった。横たわったその姿はぴくりとも動かなかった。


「お兄ちゃん、どうしよう。鏡界線に捕らえられてたりしたら」


「華麟、人を呼んで」玲は円に布団を掛ける。頭まですっぽりと。


「マドカ、ごめん。まだマドカのこと俺達以外に漏らしたくないんだわ。そこでじっとしていて」


 円が布団の中でまんじりともしない間、人の出入りが多くあったのが気配で判った。


 祐理の調子は悪いのだろうか。確かに顔色は悪かった。何も私を運ぶ事なかったのに。


 そして同時に、いかに長時間自分が祐理に裸を見せていたかが今更ながら思い出されて恥ずかしく、情けなく、布団の中でバタバタしそうになった。


 しかし、それらよりも何よりも考えなくてはならない事がある。手鏡を胸元で抱きしめた。


 ――円は鏡界を越えて、異世界に来たのだ。


 それが真実だというのなら。父、克也の予言とも言うべきあの本は一体何なのだろう。


 あの化け物は。本は。鏡は。そして何より鏡界とは――。


 真っ暗な視界と温かな布団に包まれて、円の思考はうつらうつらと途切れた。


 気づいた時そこにあるのは真の闇だった、が。直ぐに布団を被っているだけだと判って、我ながら馬鹿馬鹿しくなった。被った布団の暑さに、円は汗を掻いていた。布団から顔を出したいのだが顔を出すなと言われている為、どうにもならない。しかし、何やら人の気配は全く無いようで、円は布団から頭を出してみる。


 部屋の電気は消えていて、カーテンの僅かに開いた隙間から淡い光が漏れている。闇に目が慣れている円にはそれだけで室内がよく見えた。薄暗がりへ意識を集中すると、規則的な呼吸の音が聞こえる事に気が付いた。隣りにもう一台あるベッドで人が寝ている。円の身体は自然と潜むように小さくなった。そして自分の身体が動く事にも気が付いた。


 円はまだ服を着ていなかった。タオルを巻いたままの姿で、人が行き交う中熟睡していたのだ。あまりにも軽率で暢気な自分に頭を抱えそうになったが、隣で眠る人物が気になり円は隣のベッドへ近付いてみる。


 淡い光に彼の顔が見えた。祐理がそこに眠っていた。その眠る顔は酷くかげりを帯びていた。


 円は水の中にいた事を思い出した。あの時、祐理は死んだように瞼を閉じていた。まるであの時のような姿に底冷えがする思いがした。


「祐理」


 祐理はうなされるように頸を動かすと、唐突に腕を伸ばして円を引き寄せた。握られた手首は手鏡を持つ手、そして円は辛うじて祐理の頭の横に手を突いて衝突を避けた。


 キスしかねない距離、何ならキスしちゃった、そんな展開のようだが……それ程、高度で絶妙な距離感と位置関係が取れるわけもなく、顔面衝突をすれすれ避けた。


 円の身体に巻いているタオルがするりと床に落ちる。


 状況が危う過ぎる。円は全裸で眠っている男に伸し掛かろうとしかけたのだ。誘うどころか襲っているようにも見える。


 緊張で息を荒くしていると、祐理は呻き出した。


「……まどか、帰って来てく、れたのか。もう、どこへも行かな、いでくれ」


 それはあまりにも悲しい、祈りのような声だった。円が見知らぬ、マドカへの――。


 祐理はマドカが好きなのだ。複雑な事情から恋愛経験の無い円にもそれくらいは判った。それだけ強い思いが込められた言葉だった。しかし、何が理由か判らないがおそらくマドカはここにはいない。


 でも、円はマドカではない。会ったばかりの祐理の為に、代わりになる事など出来ないし、祐理としても望んでいないだろう。幾ら円とマドカが同じ顔でも、祐理は割り切って円と接していたと自身も感じる。


 聞かなかったことにしよう。


 そもそも何故、祐理を別の部屋へ運ばなかったのか不明なのだが。


 そっと離れようと身を起こして、掴まれている手をほどこうと祐理の手に触れる。しかし、大きな祐理の手が手首をしっかり掴んで離さない。


 はい、これアウトー。


 祐理はまた規則的な寝息を立て始めるが、どうも円の手を離す気が無いらしい。円はタオルで前を隠し、絨毯敷きの床に座り込んだ。祐理に手鏡を持った方の手首を掴まれている。手鏡を覗き込んだ。


「ねえ、マドカ。鏡界を越えてきた時みたいに祐理に応えてあげて」


 鏡は沈黙して、よく見慣れた円の顔を映していた。


 

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