第1話 鏡境を越えて



 一冊の上製本ハードカバーを渡されて暮峰くらみねまどかは眉を潜める。


 『鏡界』題名はそう表記されていた。


 著者は東間とうま克也かつや。円の父が最後に書き残した、いわゆる遺稿だった。


「先生のご希望によって、円さんが二十四才になられるまでは、出版を差し控えるようにと仰せつかっておりました。そして、製本された本を一番最初に手にするのは、やはり円さんであるように、と」


 単身向けのワンルーム。


 飾り気のない部屋だった。ただ必要な家具と家電が一通りあるだけ。生活に必要な小物類はあるが、それ以上の飾りらしいものはない。


 円は会社勤めをする普通の若い女だ――ある一点を除いては。


 見た目も社会人らしく派手な方向へ手を入れすぎなわけでもなく、自毛を生かした黒髪のセミロング、最低限必要な化粧と、どちらかというと地味かもしれない。


 円と、克也の担当は絨毯敷きの低卓で向かい合って座っていた。


 克也の担当編修者、田端は顔を少し歪めるように笑っていた。ぽっちゃりした身体と柔和な顔の田端だが、今回、円の部屋を訪れてから常に複雑そうな顔をしていた。


 円はその理由を解かっている。その原因は円自身にあるのだから。


 田端の訪問を受け入れたのは、七回目の連絡を受けて渋々といった状態にあった。


 そして田端は、何故こうも円が頑ななのかを知っている。


 むしろ、克也と少しでも接して判らない人間はいない。


 克也は狂人だ。


 東間克也は家に閉じ籠もり、明かりという明かりを全て消した。窓にはダンボールで目張りをし、暗闇の中で執筆をしていたのだ。


 光を放つ電子機器類は使えない。克也の原稿は全てが手書きだ。


 どうすれば闇の中で文字が書けるのか判らないが、克也は文章を一切狂わせることなく原稿を書き上げた。


 作品の芸術性は高く、克也は神の子と呼ばれ持て囃された。実態を知る者と知らない者双方から、その賛美は絶えなかった。


 しかし、正常な生活など出来るわけがなかった。


「こんなもの、いりません」


「私も持ち帰るわけにはいかないのです。口約束ではなく、そういう契約があるんです。受け取って頂かないと出版すら危うい」


「あの男が……父がして来たことを知らない田端さんではないはずです」


「確かに、僕は先生にご贔屓にして頂いてましたから、ご家族のご苦労は察するにあまりあります。しかし、この本は円さんへの贈り物なのだと聞いております」


「贈り物……? くだらないわ、こんなもの。ふざけないでよ。どれだけ、母さんと私が苦しんだか」


「円さん、これは僕の仕事です。先生については何を言う事も出来ませんが、この本には何か心の籠もった意図のようなものを感じます。誰の為でもなく、円さんへの」


「あの人の心は壊れてる」


「それなら、僅かに壊れていないものがあるならば」


 円は田端を見やる。


 実際に遺稿を受け取ったのはおそらく田端だ。克也は家族を除いて田端しか家に上げることはなく、他人でまともに話せるのも彼だけだった。


 円は克也の近況を知らない。円と、母の佳子は克也から逃げたのだ。


 逃げる。


 その言葉以外に当てはまるものは見つからず、取るものもとりあえず、まさに身一つで、母子二人、その狂気に満ちた屋敷から逃げたのだ。


 克也は二人を追わなかった。感知すらしなかった。


 外との接触を持たない克也は佳子に生活の一部を頼らざるおえなかった、しかし、佳子が居なくなると今度はそれを田端に挿げ替えたに過ぎなかった。


 円は思う。母と二人の暮らしは苦しいものだったが、克也と居た時の人であることを否定されるような惨めな生活とは程遠かった。


 克也の事はここ数週間の連絡で思い出した過去の人である。


 ――逃れたのは十二歳の秋。円は既に二十四歳になっていた。


 遺言と共に遺された原稿。


「父は何か言っていましたか」


「……いつかその時が来るから。鏡は――それ以上は聞き取れませんでした。でも、それを何度も仰っていましたよ。そして『鏡界』は必ず円さんに読ませるように、と」


「鏡? 何の事でしょう。『鏡界』と鏡。物語の題材かしら」


「僕は正直に言うと『鏡界』は読まなくていいと思います。ただ持っているだけでもいいのではないか、と。これは、先生に叱られるかもしれませんが、それが一つのなのかもしれません。差し出がましい事かもしれませんが」


「ありがとう、田端さん。この本は預かっておきます」


「先生の代わりに、などとは僭越ですがお礼を」


 円は田端を見送った。


 ほとんど田端の為に本を受け取ったと言っていい。田端は相当苦労して克也を担当していた。克也が田端に罵声を浴びせているところも見た事がある。


 傷付け、戸惑わせ、落胆させる。些細な期待さえ裏切り続けて、不信の芽を育て、最後は心の寄る辺を失せる。


 円は本をクローゼットへ仕舞おうと、立ち上がる。目に付くところへ置いておきたくなかった。


 本を持ち直そうとした瞬間、円は取り落した。本は衝撃でページが乱雑に開き、付箋が貼ってある項を顕にした。


 付箋は中に折れ込んでいたのだ。


 その付箋が貼ってある頁は奇妙な事に、短い出だしの一頁だった。


 円は思わず視線を這わせる。


 ……お前は鏡界を越える。これからはお祖母さまの鏡を肌身はなさず持っていなさい。そして、彼に会いなさい。必ず助けてくれるだろう。これからいくつもの困難が襲い来る。だが、諦めてはいけない。


 ……すまない。いつまでも、お前を思う。そして、思い続ける私を赦してくれ。


 ……愛する我が娘へ。


 円は本を叩き付けるように閉じた。


「田端さん、このことを……赦せるわけなんてない。でも、どうして。あの人が私のことを。あれだけ無関心だったのに――そもそも、本当に私のことなの?」


 円は恐る恐る本を開いた。娘へ当てる警告と謝罪の一頁。円は次の頁を繰ろうとするが、思い直して、その手を止めて本を閉じた。


 本を低卓へ置いて、顔をしかめて、化粧台として使っている机に座る。壁にもたせ掛けた白い縁の鏡がある。そこには眉を潜める円の顔が映っている。


 鏡。


 ――お祖母さまの鏡。


 円は、ふ、と思い出して引き出しを開けて手鏡を出した。


 柄のついた木製の手鏡だ。鏡の部分は楕円で、縁や柄の部分には逆巻く波が緻密に彫られている。裏返すと一頭の龍が眠っていた。誰の作品かは不明だが素人目にも彫りの細工は見事なものだと判る。


 父方の祖母、つまり克也の母から貰った品だ。


 ――お前は鏡界を越える。これからはお祖母さまの鏡を肌身はなさず持っていなさい。


 所詮は狂人の戯言。最期に娘を思い出したのかもしれない。


 妄想に娘を巻き込むなど最期まで迷惑な話だ。


 円は手鏡を元の場所へ戻し、本をクローゼットへ押し込んだ。


 それきり何日も思い出すことがなかった。


 手遅れになるまで。





 会社帰りの夜道だった。


 吹き付ける風は冷たく止むことがなかった。街路樹の葉は落ち切り、夜空に枝がささくれのように伸びている。


 民家から生活の暖かな明かりが漏れて、混ざる微かな声や影に円は寒々しい気持ちになった。


 円は仕事を押し付けられ、十時まで退社が出来ず、寝静まりつつある住宅街を歩いていた。


 円は貴金属加工会社の事務だ。いわゆる中小企業で、社長家族とともに勤めており、非常にアットホーム――悪く言えば馴れ合いの横行した職場だった。


 そこで犠牲になるのが円達のような平社員なのだが、ブラックまでとは言わないか、と皆居座っているのが現状だった。つまりなんやかんや言って居心地がいいのだろうと、円も自覚していた。


 実のところ円は働かずともいいらしい。弁護士に遺産について切々と語られた。門真克也の遺産は莫大なのだと。もう他界した母の代わりに円が全ての財産を受け継ぐ資格を得た。


 円は遺産に手を付ける気はなかった。使えば、もう一度あの狂気に触れる気がするのだ。二度とあの日には帰りたくなかった。


 終わったことなのだ。


 克也が死んでそれは尚更に遠い。


 公園を挟むように割れる二股歩道へ差しかかると、真ん中に公衆電話がある。今時誰が使うのか判らない古い公衆電話ボックス。明かりはちかちか途切れて暗く、ほとんど放置されているようだ。


 円は別段気にせず横を通ると、視界の端に黒い影が過ぎった。暗い影のような女。立ち止まり電話ボックスを見回した。


 何も無い。


 気にすることは無い。こんなことは誰だってある。仕事帰りで疲れているのだ。


 父の顔が過る。克也は何かに怯えて暮らしていた。何かを見ているようだった。


 ――私は違う。


 違うのだと、自分自身に言い聞かせるしかなかった。克也の狂気がいずれ円を捕らえに来る、そんな考えを止めることが出来なかった。


 いつか自分も克也と同じようになる。


 円は肩を落として溜息をつくと、電話ボックスから目を逸らし歩き出した。


『見つけた』


 どこからか小さな声で聞こえた。その女の声に円は気を引き付けられることはなかった。


 円は自宅に帰り、靴をどこへともなく放り出して浴室へ直行した。ちゃちゃっと掃除して二股のコックを捻り、お湯の温度を調節して浴槽へ送り出す。古いマンションなのだ。


 蛇口からお湯が流れる音が浴室を満たす。疲れてしばらくぼんやりしていると、温かい蒸気に円はうとうとし始める。大あくびを一つして着替え一式を用意すると、脱衣所で服を脱ごうと戸を閉めた。


 ブラジャーを外そうとした時、何気なく洗面台の上半身を大映しにする鏡を見た。いつもと変わらない円がそこに居た。円は何となく鏡に近寄り自分の姿をじっくりと見る。


 そこにいるのはあまりに普通の女だった。容姿に秀でた所はなく、特別に髪や肌が美しいわけでもない。


 何故、鏡に気を取られたのか判らないまま、円はブラジャーを外して浴室へ入った。


 浴槽から豪快にお湯が流れ出て、一時何も聞こえなくなった。一息つくと鼻歌が漏れて、段々調子に乗り始めた。鼻歌から歌に変わり、それが円の十八番に変わる頃、湯の温度が下がり始めた。


 円は不思議に思い足し湯をしようとした瞬間、湯は一気に冷水へと変化した。円は浴槽からまろび出ると浴槽を覗き込む。


 こんなこと、普通あるわけない。


 円は恐る恐る手を浴槽へ伸ばす。


「……見つけた。見つけたわ」エコーの効いた女の嬉しそうな声が、どこからか聞こえて来て、暗い影のような手が水の中から生える。同時に円は手を引いていた。


 水の中から暗い女が立ち上がる。水が頭上から飛沫を上げて滴り落ち、脚にまでまとわり付く黒い髪へ伝う。


 女は円へと手を艶かしく差し出す。


「さあ、行きましょう、マドカ。私のマドカ。誰にも渡さない」


 女の身体が更に持ち上がると、脚では無く水で出来た尾のようなものが下半身に続いている。


 迫ってくる女に、円は全裸で浴室から飛び出した。脱衣所に出て洗面台の前を横切る。


 〈……か、が、み。〉


 円はその声を確かに聞いた。途切れ途切れの声。でも、間違いなく。


 廊下に出ると居間からまた声が聞こえる。化粧台の鏡から聞こえた。


〈……ま、もる――から。かが、み〉


 ――これからはお祖母さまの鏡を肌身はなさず持っていなさい。


「お父さんなの? いったいどういうこと」


 円は化粧台に走り寄ると引き出しを全開にして、祖母の手鏡に触れる。


 何かがずれた。円には判った。他にどう表現していいか判らなかったのだ。


 それから瞬くような一時、強い、人の気配が現れた。


「……いいか、円。動くんじゃないぞ――鏡は隠せ。でも、手は離すな」


 男の声。いったいどこから聞こえるのかと、部屋へ視線を転じると、直ぐ自分の後ろに居た。


 若い男だった。円とそう年齢は変わらないだろう。髪の色は紺がかった黒という不思議な色合いで、長さはうなじ辺りまでの清潔な髪だ。目の色も茶色がかった黒というより葡萄色をした黒い瞳だった。


 この人は美形という部類だ。上背はあるががっちりしすぎず、さりとて細すぎずの均整が取れた身体。声は低いが澄んでいる。


 女が脱衣所から出て来て水が滴り続け、床に水溜りが出来ている。


 円は咄嗟に鏡を背後に隠す。


 女が男を不審げに見ている。


「お前……何故鏡界を越えられた」


「魑魅魍魎の類いが知る必要は無い」言うが早いか男は手の平に、握り拳を充てがう。


あるじを血と罪でけがす我を赦し給え――照魔抜剣」


 男の手の平から鋭い両刃が長々と覗き始めた。抜ききるとその切っ先は鋭利――どう見ても剣が出てきたのだ。いつの間にか柄も見事にあり、装飾もあるようだったが円にはっきりとは見えなかった。


 男は躊躇なく踏み込んで行き、女へと斬り付ける。女は長い爪で男を引っ掻こうとしているが、円にはあまり威力がなさそうに見えた。しかし、その爪が壁を撫でると同時にごっそり壁材を持って行くのを見て、円は震えた。もし、先程逃げ切れなければ自分もあのようになっていたのだ。


 女の動きは激しく家具や壁は撫で斬りされて、ズタズタになって床に散らばる。そしてその床さえも切りつけていた。男はそれを意外な程の身軽さで避けながら女の空きを狙っている。


 男の動きは繊細なのだ。仕掛けるさまは強気なのに、そこまでの足運びはステップを踏むように踊っている。戦うことに慣れている。それも実戦を重ねた落ち着きと冷徹さを備えていた。


 男が女の頸を斬り付けかけた瞬間、女は一気に後退する。


 女は勝てないと踏んだのかもしれない。その一時緊張が緩み、円は思わず鏡を取り落した。


 女は円へ意識を転じ、頸をかしげると高らかな笑い声が上げる。髪を振り乱し、水を撒き散らして哄笑している。


「ああ、マドカ。お前、鏡を持っているのか。それで……か。男、鏡界を越えるなど、大した度胸だ。褒めて使わそうぞ――マドカも鏡も私のものだ。鏡界のはざまで永遠を生きるがいい」


 女は胸の中心を指で押し開くと、まとっている水が糸を引きながら口を開けた。そこには巨大な目玉が定まらない視点にびりびり痙攣していた。


 部屋が薄暗くなり、家具等に影が落ちる。しかし、その影はばらばらに落ちていて、次第に大きく肥大していく。円へ向かって影が伸び手を伸ばして迫って来ていた。


 へたり込み身動きが取れない円を、男は抱きすくめた。


「こちらの世界では対抗出来ない。鏡を――鏡界を越えろ。に手を引いてもらえ」


 ――マドカ。


 そのあまりにも聞き慣れた名前、でも、違和感のあるここには居ない誰かを呼ぶ言葉に、円は気を取られた。


「……マドカ」手鏡を握りしめた手を誰かに優しく包まれた気がした。


 そして円は水の中に没した。


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