ストップ・オア・ウォーク
山葉らわん
第一話
電車を降りて改札口を出ると、すぐそこにアーケード商店街の入口がある。長さは約六百メートルで、左右にさまざまな店舗があって歩くだけでも楽しい。スーパーは三件もあるし、飲食店も多いので食べるのには困らない。歯科医も百均もコンビニもドラッグストアも銀行もあるなんて、一度この近くに住んだらなかなか引っ越せないだろう。
わたしは今日、このアーケード商店街を強い決意を持って歩いている。この先にあるマンションに住む彼に会うためだ。今のうちに、二十代のうちに、伝えなくてはと決心したのだ。
わたしは大きく深呼吸をして歩きはじめた。
◇ ◇◇
姓は赤井で名は美登里。この名前のせいか、赤と緑には何かしら縁がある。
小学生の頃に好きだった物語の主人公は赤い髪の毛の女の子で、緑のとんがり屋根の家に住んでいた。一年でいちばんに好きなクリスマスには、赤い服のサンタクロースと緑のモミの木が欠かせない。
好きなものが赤と緑なので困ることもある。赤いきつねと緑のたぬき。どちらも好きなのに、一度にふたつは食べられない。かと言って、どちらかひとつを選ぶのは、わたしにとって至難の業だ。
そんなとき、頼りになるのが父だった。赤いきつねと緑のたぬきを選べないわたしは、父とひとつずつ分けあって食べていた。もちろん、お揚げも小えび天ぷらも半分ずつだ。
大学進学をきっかけにひとり暮らしを始めることになったとき、わたしが一番に心配になったのは、分けあう相手がいなくなるということだった。一度にふたつは食べられないので、どちらかを選ばなければならない。
そこへ現れたのが彼だった。
入学したてのころ、男子学生に声をかけられた。付き合ってくれ、一目惚れだと言うのだ。彼はアメフト部に所属していて、大柄でがっしりとした体格をしていた。
小中高とミッション系の女子校育ちのわたしは、どうしたらいいかわからなかった。
数回にわたるタックルのような告白に押され、気がつけば、いつの間にか付き合っていた。
卒業後も彼との関係は続いている。赤と緑のまめサイズというのがあると教えてくれたのも彼だった。
◇ ◇◇
アーケード商店街の中ほどで彼から通話が入った。
「美登里、今どこ?」
「イタリアン・レストランの前だけど、どうして?」
「雨が降り出しちゃってさ。迎えにいくよ」
「天気予報は晴れだったけど、通り雨かしら」
「かもな」
アーケード商店街の先で待っていると言って、彼は通話を切った。
それから少し歩くと椅子に腰掛けている男性を見かけた。わたしは声をかけた。
「あの、ちょっと占って……」
「えっ?」
「あっ、ごめんなさい。勘違いです」
占い師ではなく交通量調査の人だった。男性はカチリと音を立て、わたしを事務的にカウントした。この期に及んで占いに頼ってはいけないというお告げだろうか。もっとも、占いの結果がどうであれ、わたしの決意は変わらないのだけれど。
約束どおり彼はアーケード商店街の先に立っていた。雨は小降りのようだ。
「おっ、グッドタイミング! さあ行こう」
左右を確認してふたりひとつの傘で横断歩道を渡った。そこから右に曲がって坂をあがると彼のマンションが見えてくる。
◇◇◇
リビングに入ると、こたつが八畳ほどの空間の真ん中でどっしりとした存在感を出していた。
「お湯を沸かしてくる」と言って彼はキッチンに向かった。わたしはリビングに残ってソファの上にバッグを置き、コートを脱ぎながら訊いた。
「こたつ出したの?」
「こたつテーブルだよ。冬の時期はこたつに変身するんだ」
キッチンから彼が答えた。
こたつ以外は前に来たときと何も変わっていない。ということは……。キッチンを見ると、シンクの前に立った彼がマグカップに水を汲んでいた。ペアで揃えたマグカップのひとつだ。やかんはすでに火にかけられている。彼がマグカップを口にする。イヤな予感がした。
ガラガラガラ……。
予感的中。わたしは急いで現場に向かった。
彼は巨体を折り曲げるようにしてシンクに顔を突っ込み、口に含んだ水をそっと吐き出した。飛び散らないようにという配慮はあるらしい。わたしは彼からマグカップを取り上げ、いったんシンク台に置いてから言った。
「ねえ、キッチンってどういう場所か知ってる?」
「知ってるさ。でも料理下手な男のひとり暮らしなんて、こんなもんだよ」
「この前もその前も、ここでうがいしないでって言ったよね?」
そのとき、やかんがピーッと鳴った。
彼はひとりごとのように「おっ、グッドタイミング」と言うと、わたしの背中を風のようにすり抜けてガスの火を止めた。さすが元アメフト選手。攻撃をかわすのはお手のものだ。
まだ何かあるのではと周囲を見まわした。水切りかごに歯磨き粉と歯ブラシが立ててあるのが目に入る。ため息が軽くもれた。
どうやらこの前来たときよりも事態は悪化しているようだ。まさかと思ってシンクの引き出しを開けるとスプーンやフォークに混じって歯みがきセットが入っていた。出張先のビジネスホテルのアメニティらしい。ため息がまたひとつ、こんどは深くもれた。
「使っていいよ。泊まっていくんだろ?」
「呆れた。洗面所に戻してくるわね。これで全部?」
「シンクが広かったらバスタブ代わりになるんだけどな」
彼はそう言って、わはは、と大きく笑った。
◇◇◇
「なあ、美登里。本当にまめサイズふたつじゃなくていいのか?」
こたつの向こう側にでんと腰をおろした彼が、わたしと緑のたぬきを交互に眺めている。
うん、と答えて、わたしはふたつめの緑のたぬきに粉末スープを入れた。
「うどんもそばも食べられるんだぞ」
「いいの。今日は一緒におそばを食べたいの」
不思議そうな顔をして彼はカップにお湯を注いだ。
彼が驚くのも無理はない。いつもなら、わたしは赤と緑のまめサイズを、一方、彼はその日の気分で赤と緑を食べている。ふたりで同じものを食べるなんて初めてのことだからだ。
「割りばし取ってくる」
そう言って彼はキッチンに向かい、割りばしと赤のまめサイズを持って戻ってきた。
「わたし、食べないわよ」
「どうだか」
彼はにやにやしながら赤のまめサイズのふたを開けて粉末スープを入れ、そしてお湯を注いだ。
「わたし、決めたの」
「つゆがジュワーっとしみたお揚げさん……」
「言ったでしょ。決めたんだから」
ひと呼吸置いて、わたしは続けた。
「あなたと結婚する」
「えっ……」
彼はどんぐりのような目を大きく広げてわたしを見つめた。信じられないといった表情だ。もともと愛嬌のある顔がよりいっそう愛おしく見える。
「ちょっと待ってくれ。プロポーズは俺からするって決めてたんだぞ」
「気づかないとでも思ったの? 男のひとり暮らしですって? あなたが半年前に引っ越してきたこのマンション、ひとり暮らしには広すぎるわ。新婚さん向けのマンションなんじゃないの? 何でも揃うアーケード商店街。生活するのに便利よね。それに、この緑のたぬき。お湯を注いだときにわかったわ。おつゆの色が違うもの。これって西の味よね。初めて会ったときの強引な告白と大違いじゃない。遠回しに仄めかしてないで、さっさとプロポーズしてよ。あたしたち、もう十年も付き合ってるのよ。今さらほかの相手なんか考えられないわ。わたし、あなたしか知らないんだもの。九州男児なら責任とって」
自分でも信じられないほど、一気に言葉が溢れ出た。
しばらくのあいだ沈黙が流れた。彼が姿勢を正し、神妙な面持ちになる。そして真っ直ぐにわたしを見つめた。
「美登里、俺と結婚してくれ」
初めて声をかけてきたときの精悍な青年の面影がそこにあった。
「ありがとう。ただし、条件があるの」
彼がごくりと喉を鳴らす。
「これ以上、肥らないで。お腹も出ちゃってみっともないわ。大学時代と大違いよ」
彼は顔をほころばせた。それなら何とかなるというような表情だった。
「で、赤のまめサイズはどうするんだ」
「あなたが食べて」
「いいの?」
「そのお腹、赤信号だと思って、心して食べてね」
「そうきたか」
こうした会話をかわしているうちに3分がたった。
彼はダイエットするという約束を込めた赤をあっという間に平らげた。そして、ふたり一緒に緑のたぬきを食べはじめた。
ストップ・オア・ウォーク。
立ちどまるか、そのまま進むか。人生は選択の連続だ。この先もきっとどちらを選ぶかで悩むことがあるだろう。けれども結婚したら、これまでどおり彼に任せるのではなく、わたしも意見を言うつもりだ。そうやってふたりで悩み、話しあって、ひとつの道を選びたい。
赤いきつねと緑のたぬきは、ふたりで出した結論を、あと押ししてくれる幸せのアイテムだ。どちらを選んでも美味しいのだから、どちらの道を選んでもきっとうまくいくだろう。今日の緑のたぬきだって、こんなに幸せでいっぱいなのだから。
そんなことを考えながら、わたしは温かいおつゆをゆっくりと飲んだ。目の前ではすでに食べ終えた彼がごろんと仰向けになっていた。
「幸せだなあ」
お腹を撫でながら彼はこう呟いた。わたしはカップをこたつの上にそっと置いて、即興で思いついた替え歌を口ずさんだ。
♫赤井美登里と美登里のたぬき!
くすっと笑って、彼がお腹をポンと叩いた。
ストップ・オア・ウォーク 山葉らわん @Y-Lawan
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