今度向こうに帰った時に箱で買《こ》うたろと思うんやけど

日崎アユム/丹羽夏子

関西風味の赤いきつねにはわたしたちの青春の記憶が凝縮されている

 男子厨房に入らず。当時ですでに平成も末期だったというのに、前時代どころか前前前時代のしつけを施されたらしい彼はガスコンロに火をつけたことがなかった。驚くなかれ同い年、あの時お互い大学二回生。それで彼は包丁を握ったことはおろかお米を炊いたこともない。高校以前の調理実習は何をしていたのか、調べてみたところ男子にも家庭科教育を義務付けられたのは平成元年だというから何らかの勉強はしていたはずだが、そこだけピンポイントで記憶喪失らしい。しらじらしい。


 あの時代わたしはバイトで忙しかった。父に、学費は払ってやるから生活費は自力でなんとかしろ、と言われていたからだ。そうはいっても下宿先の家賃と光熱費を親の銀行口座から引き落としに設定してもらっていたので食費と遊興費だけ稼げばよかったのだけれど、わたしは強烈に高い学費を親に支払わせている負い目から毎日勉学と労働でくてくてになっていた。


 そんなわたしの隣で強烈に高い学費もぽんと出してもらえる裕福な実家から自宅通学していた彼が、とうとう自宅からのバス通学すらも放棄して、大学から徒歩で通学できる私の下宿先に居座るようになったのである。


 くてくてになって帰宅したわたしに彼が言う。


「お腹すいた。何か食べに行かへん?」


 わたしはイライラして「はあ?」と大きな声を出した。


「やだよ、一回家入ったらもう靴履きたくないよ」

「ほんなら僕何食べたらええねん」

「居候の身で何言ってんだ、わたしゃあんたの母ちゃんじゃないだよ。てゆうか今時ふつうは母ちゃんでもそこまでしないの。料理ぐらいしろ」


 彼が憮然とした顔をした。黙り込む。一回こうなると長いぞ。面倒臭い奴だ。だがそれでも憎めないわたしにも非がある。

 甘やかしてやりたい気持ちと疲れて何もしたくない気持ちがせめぎ合った結果、わたしは言った。


「キッチンのシンクの下の戸を開けたらそこにカップ麺入ってるから何か適当に出して。わたしのとふたつね」


 居間――と言っても1K六畳の実質的にはワンルームだけど――でコートを脱ぎながらそう言うと、さすがにわたしの不機嫌を察したらしい彼が指示どおり戸を開けてカップ麺をふたつ取り出した。


「赤いきつねていうのがふたつ入ってた」

「そうそれ。好きなんだよ。スープが甘くてさ」

「これどうやって食べるん?」

「はい?」

「これ、ここからどうすればええの?」

「ひょっとして、カップ麺を召し上がったことがない」

「ない」


 わたしはキッチンに行って彼の手から赤いきつねをひとつつかんだ。容器の側面を指さす。


「ここに、作り方が、書いてある!」

「ほんまや。五分でできるんや、お手軽やな」

「正確にはお湯を沸かすプラスアルファがいるんだけど――」

「お湯、湧かす……沸かして?」

「あんたほんとそこまで何にもできないの?」


 さすがに言い方がきつかったのか、彼がしゅんとうなだれた。わたしは溜息をついた。これは徹底的に教育しなければならない。赤いきつねくらい自分で作ってくれるようにならなければ、もしこのまま付き合いが続いて結婚することになったら苦労するのはわたしだ。


 わたしは手取り足取り彼にお湯の沸かし方を教えた。やかんのふたを開ける、水道の蛇口をひねってやかんに水を入れる、ガスコンロに置く、コンロのつまみを回すと火が出る、やかんが鳴き声を上げるまで待つ、つまみを回して火を止める。ついでに強火と弱火の違いまで教えた。なんといいカノジョだろう。先は思いやられるが彼は真面目に聞いている、学習する気はある。どうかこの調子でキッチンに立つことを習慣づけてくれますように。


 こうして苦労して作った赤いきつねは心底おいしかった。わたしはおいしいおいしいと言って彼を褒めたが、彼は「お湯入れただけやん」と言った。それすらできなかったのはどこのどいつだ?








 ――というのが平成の終わりの話で、わたしたちは大学卒業とともに別々の道を歩み始めた。彼がどうしても自分の実家の家業を継がなければならなかったからだ。わたしも彼の実家に馴染める気がしなかった。彼の母親が静岡の田舎から出てきたわたしを嫌っていたのである。金持ちも金持ちなりにいろいろあるようだ。彼の進路は親に完璧に決められていて、そこにわたしが入り込む余地はなかった。彼自身も自分の家の相続事情にわたしを巻き込むことを嫌がった。

 どんなに愛し合っていても世の中にはままならぬものがある。それを呑み込むのが大人になるということなんだろう。

 本当はもっと彼といたかった。何度も何度も永遠に大学生のままいられればいいのにと思った。時よ止まれ。わたしたちの幸せな時間を奪わないで。わたしがバイトから帰ってきたら彼がお湯を沸かして赤いきつねに注いでくれる、たったそれだけのことがもう思い出になってしまう。

 寂しい。

 わたしは知っていた。

 静岡の田舎に帰ったら、もう二度と同じ赤いきつねは食べられない。








 そう泣いていたのがもう十億年ぐらい前の話に思えるのに、実際はほんの数年後、時は令和の現在。


「あれっ」


 こたつの向こう側で彼が言った。


「赤いきつねてこんなんやったっけ? つゆの色めっちゃ濃くない?」

「静岡は東日本なもんでよ」


 彼は元カレから今カレの地位を取り戻し夫に昇格した。どうしてもわたしを忘れられなかった彼が関西の実家から逃げ出してわたしを追いかけて静岡に来てしまったのだ。押しかけ女房ならぬ押しかけ婿。冷静に考えれば日本の民法は結婚を両性の合意のみにもとづくものであると規定していて、親が反対しようが兄弟が反対しようが彼とわたしの意思が強固なら新しい戸籍を作ることができるのだった。幼かったわたしたちには抗いがたい運命に見えていたものは、新幹線に乗ってしまえばなんのこともない距離だったのだ。


 彼は賢い男なので、ガスコンロへの苦手意識を克服することなく、電気ケトルを買ってきた。これで、目分量などという初心者泣かせの関門を超え、強火や弱火を気にすることなく、しばらく保温もできる。何より台所に立たなくていい。本当に頭がいいというのはこういうことなのだ。


 そうして作った赤いきつねは静岡の近所のスーパーで買ったものであり思い出の赤いきつねではない。


「からい!」


 私は彼の反応を見てにやにや笑った。


「めっちゃ醤油やん」

「おいしいら? これが東日本の味さ」

「向こうで食べてたのは薄味やったんやな」

「正確にはおだしの味さ。関西の赤いきつねは関西のおうどんなもんで昆布とかつお節強めなんだよ」

「そうなんや……」

「わたしは両方好きだけど、強いて言えば関西の味が好きだったかもね」


 何せ思い出の味だから。彼が初めて作ってくれた料理が関西だしの赤いきつねだったので。

 関西だしの赤いきつねには、わたしたちの青春の記憶が凝縮されているのだ。


「ほんなら今度向こうに帰った時箱でうてこようか。その辺のスーパーでふつうに売ってるかな。サービスカウンターで伝票書いてここに送るわ」


 お湯を沸かしたこともなかった男がずいぶんと世間というものを学習してくれた。


「マジかー。楽しみ。二ケースくらい買ってきてくれてもいいよ」

「なに他人事みたいなこと言うてんねん、一緒に買いに行くんやぞ」

「マジかー!」


 彼がふふと声を漏らして笑う。


「そのうちこっちが僕にとっての地元の味になるんやなあ」


 そう言われると愛しくなってしまうが、とりあえず食べ切ってしまわないと伸びてしまう。


「おいしい」


 二人でしばらく東日本の赤いきつねをすすった。





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今度向こうに帰った時に箱で買《こ》うたろと思うんやけど 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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