「孤独」という、氷を抱きしめたかの、切なく美しい物語

 信長を語る(騙る?)数多の歴史・時代小説には、大概、話のサワリとなる「お約束」、というものが有るものですが、今作では、その辺りはテキトーに済ませ、信長が内包する”絶対的孤独”を軸に話が展開されています。(母の愛情を享受したことがないこと自体は、大した問題ではないと考えています。)
 信長を語る(騙る?)上で、いったい、サワリの部分をテキトーに済ませ、通底する孤独のみに頼んでハナシを展開・牽引するといったことがあるでしょうか。読者の立場としても、なにか、迫真の読ませどころ、そういう意図なくして書き続ける――そういうことが有り得ようとは想像していませんでした。
 ところがここに、およそ迫真の読ませどころが有って始めて成立つハズの”信長もの”の中に、全然迫真のない作品が存在する。信長の絶対的孤独を「これでもか!」とばかりに叩き付けて、しぶとくその生命を持ち、多くの読者を惹きつけてしまう。これは厳たる事実で、それがこの「さびしい信長」であります。
 いきなり突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、思わず目を打たれ、プツンとちょん切られた空しい”余白”に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」が見られることでしょう。
 その余白の内外に繰り広げられ目に沁みるのは、やはり”信長ものらしい”、残酷でいやらしい風景です。それでも確かに、何か、氷を抱きしめたかの、切ない悲しさ、美しさがあります。
 そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、一見やりきれなくて切ないだけの話とか、突き放されるだけの話というものは成り立たないようであるけれども、どうしてもそのようでなければならぬ、”絶対的孤独”という、避けては通れない崖が存在する、と。
 ならば、”信長の絶対的孤独”というものは、”信長のみに課された”むごたらしく救いのないものなのでしょうか。どうも私には、そうは思えないのです。
「さびしい信長」を通じて私達が感じ取るのは、信長だけではない。私達は皆、等し並みに絶対的孤独を課せられているのだ。――そういうことではないでしょうか。
 この避け得ない暗黒の”絶対的孤独”には、どうしても救いがない。我々の現身ウツシミは、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないこと、それだけが唯一の救いであり、救いがないということ自体が救いとなるのではないでしょうか。 
 私はおおよそあらゆる”文学”のふるさと、あるいは人間のふるさとといったものをここに見ます。文学はここから始まる――私はそうも思います。
 突き放される、孤独な物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決して”ふるさとへ帰ること”ではないから。
 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学の存在もその社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。私はそのように信じています。

あ~それから蛇足めきますが、豊富な語彙に圧倒されちゃうかもです。国語のお勉強になりませう。

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