ヘルズスープマチコの唯一平穏なご馳走

尾八原ジュージ

ヘルズスープマチコの唯一平穏なご馳走

 親に初めて作ってあげた料理を泣きながら食べられた経験があるひとって、たぶんそんなにいないんじゃないだろうか。嬉し涙じゃなくて、普通にしんどくて流れてしまう涙のほう。ちなみにわたしの作った味噌汁を飲んだ父は、そのあと病院に担ぎ込まれて一週間入院した。今は元気です。

 この事件のために、当時中学生だったわたしは母から「キッチン立入禁止」を言い渡され、弟はわたしに「ヘルズスープ」というあだ名をつけた。

 そんなわけでわたしこと温水ぬくみずマチコは、それ以来一度も料理というものをしたことがない。


 世界に人間が七十億人以上もいれば、いろんなひとがいて当然だ。中には生まれつき料理に関するセンスが壊滅的なひともいる。それがこのわたし、温水マチコです……という認識をもって、わたしは生活している。

 おかげであの味噌汁事件以来、だれかを入院させるような出来事は起きておらず、とても平和だ。家事万能の母親を持ち、ほぼ毎日おいしいごはんをいただいて育ったわたしに、なぜ欠片も料理の才能が備わっていないのかはわからないけれど。

 そのわたしができることといったら、せいぜい電気ケトルでお湯を沸かすくらい。そしてそれを「赤いきつね」に注ぐくらい。それからキッチンタイマーをセットして、鳴ったらお箸を添えて運んでいくことくらいだ。

「おっ、マチコちゃんありがと」

 彼氏の大橋くんは、いつもこれを「ありがと」と言って受け取ってくれる。

「やっぱ人に作ってもらうとうまいなぁ」

 って、作るというほどの手順も踏んでいないと思う。ただお湯を沸かして入れただけ。作ったのはわたしじゃなく、東洋水産だと言っても過言ではない。でもわたしがそう言うと、大橋くんはいつだってこう答える。

「いやいや、助かるよ。おれ、よくお湯入れたの忘れちゃうんだよね。うん、うまい!」

 まぁ、大橋くんはそういうところがある。普段はしっかりしているけれど、なにか一つのことに集中し始めると、ほかのことを全部忘れてしまう。今だってわたしが声をかける一瞬前まで、サークルのフライヤーを作ることしか考えていなかったはずだ。

 そもそも大学のラウンジで、フニャフニャに伸びたカップ麺を食べている大橋くんを見つけて思わず声をかけてしまったというのが、わたしたちの馴れ初めだった。だって、わたしですら作れる「赤いきつね」をこんなに盛大に失敗するひとがいるなんて……と驚いてしまったのだ。「それどうなの? おいしい?」と聞いたら、「うまいよ!」と言われ、それがきっかけでわたしたちは親しくなった。今はこうして彼のアパートにお邪魔し、手料理という名目の「赤いきつね」を作ってあげる仲になっている。

 大橋くんはこの「赤いきつね」がものすごく好きで、常にストックを確保している。だからわたしが、お腹を盛大に鳴らし始めた彼にすぐ出してあげられる食べ物と言ったら、大抵これに決まっている。

「もっと色々作ってあげられたらいいんだけどな」

 思わずこぼすと、大橋くんは「なんで?」と不思議そうに言う。

「いやさ、わたしだって憧れることがあるわけよ。料理上手の彼女というやつに」

 大橋くんだってそういうときない? と尋ねる前に、彼は「ぜいたくだなー!」と言ってうどんをすする。一通り咀嚼して飲み込んでから、

「マチコちゃんは料理以外の家事は完璧だし、優しいし、美人だし、これで料理も上手だったらおれなんか付き合えてないよ。それにおれ、赤いきつねだったら何度食べても飽きないし」

 と続けて、残しておいたお揚げをむしゃむしゃ頬張る。瞬く間につゆも全部飲んでしまって、湯気の混じった息をぷはーっとひとつ吐いて、それからまたフライヤー作りに戻る。その切り替えの早さと言ったら。

 わたしは彼のそういうところが好きだ。動作だけでなく、気持ちの切り替えも早い。落ち込んだりしてもすぐに回復して、いつも穏やかでいてくれる。おまけに絵が上手でピアノも弾けて優しくて、見た目だってわたし基準で言えば、かなりかっこいいと思う。

 あのときラウンジで彼に話しかけてよかったな、と思いながら、わたしは空になった容器を片付ける。

 ちなみに集中モードじゃない普段の大橋くんは、普通にカップ麺も作れるし、何なら自炊だってこなしている。だからヘルズスープの出る幕なんて本当はないのかもしれないけれど、でもわたしはこれからも、何度だって大橋くんに温かい食事を作ってあげたいと思う。

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