私のキツネ王子

aoiaoi

私のキツネ王子

「ひゃー寒い! 母さん、赤いきつねどこー?」

 12月初めの土曜日、午後6時。部活から帰るなり、高1の娘がマフラーと手袋を外してキッチンの棚をゴソゴソと漁る。

「ちょっとかえで、制服くらい着替えたら?」

 娘の背中に、美彩みさは隣室の炬燵こたつからおかしそうに声をかけた。

「だってもー冷たいんだよ風が! 寒さと空腹のダブル攻撃ほど人間にとって辛いものはないよ。熱々のお出汁香るつゆが私の身体に今すぐ必要なの!」

「ってかごめん、今日の昼に最後のキツネ食べちゃった」

「は? それでも母親か! 週末は母さん仕事休みだから、うっかりすると私の分まで食べられちゃう……ちゃんと名前書いとかなきゃ」

 悔しげに呟きながら、楓はすらりと長い脚を炬燵に突っ込んだ。長い栗色の髪が肩で弾む。

 彫りの深い顔立ちと、透けるような白い肌。じろっと母を睨む瞳は、濃いブルーグレーをしている。ぱっと見はあまり違和感がないものの、日差しの下で見るとその虹彩の美しさに思わず引き込まれる。誰もがつい見入ってしまう日本人離れした美少女だ。

「ねえ楓、何度も言うけどそうやってコタツん中で足開いて座るのやめなさいよ。見えちゃうでしょパンツ」

「いいじゃん、うちには男いないんだしさ」

「そういう問題じゃなくってねえ」


 美彩と楓は、母子家庭だ。

 楓は父親の顔を知らない。父であるはずの男は、美彩と同じ大学に通う学生だったが、美彩と付き合うようになって1年ほど経った大学2年の冬に、何の前触れもなく突然姿を消してしまったのだという。

 悲しみに暮れる美彩の胎内には、彼との子——楓が既に宿っていた。妊娠が分かったのは、彼が失踪してひと月後のことだった。

 途方に暮れた美彩は、両親に全てを打ち明けた。これまでのことと、お腹の子を生み育てたいという強い希望を。両親は突然いくつもの重荷を抱えて戻ってきた娘の告白に難しい顔をし、失踪した男に強く憤ったが、それでも彼女の出産を受け入れた。それほど豊かとは言えない暮らし向きながらも、両親は娘の出産・育児と大学生活との両立を何とか支えてくれた。

 出産と育児のために一年留年した美彩は就活も散々苦労した。しかし、事情を理解してくれる会社に運良く出会えた。いつまでも実家を頼る出来の悪い娘という立場が居たたまれず、楓が小一になった年に実家を出た。

 小さなアパートで楓を育てながら働く日々ももう十年だ。


「ねえ。改めて考えると、私がキツネ好きなのってさあ、母さんが昔からしょっちゅう食べてるからだと思うんだよね。あのお出汁を吸い込んだ熱々のお揚げが学校にいる時間から頭の中占領しちゃって困る」

「そうねえ。つい買っちゃうわね、ふふ。

 母さん、元々はタヌキの方が好きだったんだけどね」

 美彩は炬燵から立ち上がり、スティックコーヒーの口を切って二つのマグカップに湯を注ぐ。

「え、『緑のたぬき』?」

「そう。でも、彼が——楓のお父さんがね、キツネが大好きだったの。

 今も、キツネ食べると目の前に戻ってくるの。彼の笑った顔とか、話す声とか、そういうのが」


 湯気の立つカップを母の手から受け取りながら、楓が眉根をぐっと寄せる。

「ねえ。それ、母さんと私を置いて消えた人だよね? そいつのせいで、母さんここまで散々苦労したんじゃん。

 母さん、なんでそんな優しい顔できるのよ? 普通は恨んだり憎んだりするもんじゃないの?」

「そうだよね。——そういう思いは、母さんももう嫌というほど心の中で噛みしめてきた。私は彼に愛されていなかったんだろうか、って。一生恨んでも恨み切れない、ってね。一言も告げず、突然連絡すらつかなくなっちゃうなんて。

 でも不思議に、とことん恨んで憎んで、もうそういう苦い味も出なくなってきた後に、やっぱり温かいものが残ってるの。胸の中に。

 パッと見はちょっと怪しげだったし、無口で不器用ではあったけど……ポロポロと零すような彼の笑顔や言葉は、どれも心の奥から真っ直ぐに出てきたものだった。照れた顔で『幸せだ』って言ってくれた。その一つ一つが、どうしても心の中から消えないの。

 あの人は、私たちを置いて行ったんじゃない。何かやむを得ない事情が突然起こって……ここまできてもまだそんなふうに彼を信じたい自分がいるんだよね。馬鹿みたいだけど」

「……母さんのそういう話、初めて聞いた」

「そうだね。今まで話す気になんかならなかったな。でも、楓ももう16だし、こんなにいい子に育ったし。確かに大変だったけど、今は母さん、これで良かったんだなって思うの」


 マグカップをテーブルに置き、楓は母をまっすぐ見つめる。

「——思い切って聞くね。

 その人の名前、なんていうの?

 それから、『ぱっと見怪しい』って、どういうこと? さっきからめちゃくちゃ気になってるんだよね。……私がこんな見かけなのも、その人に似たからなんでしょう?」

「彼はね、『れお』って名乗ってた。鈴木れおって。大学では真っ黒なボサボサ髪でダサいメガネかけて、長身なのに猫背でとぼとぼ歩いてる、ちょっと変わった人だったな」

「えー……モテ要素ないじゃん」

「そうよねー。たまたま同じ講義取って、時々言葉を交わすようになってね。すごく頭のいい人だって、すぐに気づいたわ。時々見せる表情が、凛としてかっこいいの。

 そして、深く付き合うようになってから、彼が異国の人だって初めて気づいた」

「——異国の人?」

「そう。黒いカラコンつけて、髪も真っ黒に染めて前髪垂らしてたから、全然わからなったのよね。ダサいメガネもカムフラージュだし、猫背も演技だったわ。全部外した時の顔が綺麗すぎて……しかも脱いでみたら鍛え抜かれた美ボディだった。誰にも秘密にしてくれって頼まれて、結局何も訊けなかったけど」

「——……

 胡散臭すぎる。母さん、やっぱなんか騙されたんじゃないの?」

 衝撃の事実を黙って聞いてから、少し間を置いて楓は思い切り微妙な顔をする。

「だから、怪しい人だとは思ったのよ。でも、彼の表情や言葉には、嘘がなかった。心の中まで胡散臭い人と一年も付き合えるわけがないじゃない。

 あなたのその容姿は、れおくんにそっくりなのよ」

「……ふうん。

 つまり、母さんの恋は、今も終わってないんだね」

 やれやれと言うようにふっと小さくため息をつくと、楓は曇った表情を優しく綻ばせた。

「ちょ、やめてよそういう言い方。憎んでも憎み切れないってのは変わってないんだからね!」

「へ〜そうかな? 思い切り赤くなってるじゃーん。

 あーそうだ、私コンビニでキツネとタヌキ買ってくるわ。こんな話してたら食べずにいられなくなった! 一緒に食べよ! じゃ行ってきまーす」

 勢いよく炬燵から立ち上がると、楓は手袋とマフラーを付け直してバタバタと玄関へ向かう。

「え、暗いから気をつけてよね!」

「わかってるって」

 ドアを出ていく背中を見送り、美彩はちょっと困ったような笑みを浮かべた。

「あ〜、失敗した。恨み言言うつもりが、結局ノロケになっちゃったな」



 楓は、キツネとタヌキを2個ずつ買ってきた。

「迷うなあ。タヌキも美味しいよね!」

「私はもちろんキツネー。脳みそがもうお揚げに取り憑かれてる」

「私も楓と同じキツネにしよ」

 湯を注ぎ、タイマーをセットする。待ち時間で楓は制服を着替えてきた。

「黒のセーターなら万一ツユはねしても汚れが目立たない!」

「あんたほんとに洒落っ気ないよね」

 タイマーが鳴り、笑いながら紙蓋を剥がす。香り良い湯気がふたりの顔の前に立ち上った。


「今日、母さんから話聞けてよかった」

「え?」

「れおくんの話。

 私、そんなに最低な男の娘でもなかったんだって、わかったから」

「そっか」

 ふたり一緒に、熱い麺を勢いよく啜った。

 出汁の風味が、じわりと身体に染みる。


「……私も会ってみたかったな、れおくんに」

「——そうだね。

 会いたいね」

 箸を止め、一緒に何となく湯気の行方を見上げた。


 と、不意に窓ガラスがガタリと大きな音を立てて開いた。

 二人はギョッとして振り向き、寒い風の吹き込む窓を見る。


「え……」

「何……!?」


 思わず身体を寄せ合って凝視する窓の外の闇から、いきなり男が入ってきた。

 すらりと長い脚を窓枠から差し入れ、彼はするりと美しい身のこなしで部屋の畳に降り立った。

 中世ヨーロッパ貴族を思わせる正装を身に纏った、王子さながらのオーラを放つ美貌の男だ。


「——ミサ!」


 その端正な表情が綻び、輝くばかりの笑顔が零れた。

 大股で歩み寄ると美彩の前にひざまずき、長い腕で力強く彼女を抱きしめた。


 その声。笑顔。

 片時も忘れられなかった、甘い匂い。


「……れおくん……?」

「ああ、ミサ。

 やっと、迎えに来られた。

 今日から君は、私の妻だ。君こそがリュード公爵夫人となる女性だ」

「は?」

「あの時は、済まなかった。

 私の本当の名はレオニア・リュード。当時異世界から逃げ出してこの国へ密かに来ていたことが父にバレてね。力尽くで引き戻されてしまったのだ。君に別れの一言も言えず、許してほしい。あれから、君を忘れたことは1秒たりともなかった。

 しかし、この度リュード公国を私が引き継ぐことが決まってね。晴れて君を妻に迎えるために戻ってきた。君をトラックで轢かせたりはしないから安心してくれ。いつでも行き来できる裏ルートを魔術師に作らせたからな。

 ——ミサ、このお嬢さんは?」

「娘よ。私とれおくんの」

「ええっと、はじめまして。楓です」

「……ああ、神よ。感謝いたします。

 ミサ、カエデ。私と一緒に、来てくれるね?」

「……行き来できるって言うし、とりあえず行ってみる?」

「そうだね。もしかして私あっちでは公爵令嬢とか?」

「よし。そうとなれば、早速出発だ。さあロイド、転移の用意はできてるな?」

「もちろんでございます」

「あー待って、一応鍵閉めなきゃ」

「楓、キッチンの電気消してくれる?」

「ついでにキツネとタヌキを山ほど買っていかなきゃな」


 再会した彼らに待ち受ける運命は。

 その話は、またどこかで。



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