開けちゃいけない

枕木きのこ

開けちゃいけない

 大学からの帰り、アパートまでの道を肩を落として歩いていた。

 いよいよ自宅が近づいてきたというところの曲がり角から勢いよく現れた自転車を避けようと身体を動かす。不格好なブレーキ音が住宅街に響いたかと思うと、鋭い目配せと舌打ちのおまけもついてきた。コンビニで買った弁当が入ったビニール袋は大仰に揺れ、おそらくもう中の付け合わせの野菜たちはメインのハンバーグへダイブしただろう。散々だ。

 

 思わず息が漏れる。ため息の癖はいつからついてしまっただろうか。などという茫漠とした思いの中、予期せず前を向いてしまった視線が一人の人物を捉える。

 彼はガードレールに腰かけ、ジッとこちらを見ていた。僕が認識したのを認識すると、軽く手と口角を上げる。

「よっ」

「タロちゃん」

 午後七時近い。弁当を温めるか否かの返答しか発していなかった今日を表すようにしゃがれた声で彼を呼ぶと、今度は声を出して笑われる。


 タロちゃんは、高校時代までを共にした幼馴染だ。卒業し進路が分かれてからは、近くにいると言うのにずいぶん顔を合わせていなかった。それでも一目見て彼だと理解できるのは、僕という弁当箱の中で今なおメインの人物だからだろう。僕はダイブこそできないままだったが、別の道を歩むまで、付け合わせのように彼に付きまとっていた。

「久しぶりだね。どうしたの」

 近づいてから改めて言葉をかけると、タロちゃんはすっと手に持っていた何かをこちらに差し出した。小ぶりな、プラスティック容器だ。

「何? これ」

 青い蓋のせいでよく見えないが、その中には黒い何かが入っている。


「あげるよ。あげるというか、そろそろこれを渡さなくちゃと思って」


「どういうこと?」

 受け取れ、という仕草をするものだから、僕は思わずそのプラスティック容器を受け取ってから聞いた。重さはあるが、動いても音はせず、「もの」を持っているような感覚が薄い。

「どういうこと、だろうね? でも、受け取った」

「それはタロちゃんが——」


「——いい? は大事なもの。でも、絶対に開けちゃいけないよ」


 タロちゃんはそれだけ言うと、短く別れの挨拶をして去っていった。僕はその背中を見送ってから、拭いきれない不信感を抱きながら、アパートの外階段を上り自宅へと帰る。


 玄関を開けると、台所で母さんが夕飯の支度をしていた。

「おかえり」

「ただいま」

 奥の居間では花蓮が制服姿のままスマートフォンをいじって寝転がっている。いつもの光景だ。

「お前、またしわできちゃうよ」

「いいじゃん。お兄ちゃんが直してくれるでしょ」

 ビニール袋をテーブルに預け、またため息。


 ——父は二年前に突然死んだ。事故や病気なら家族も仕方ないと思えたかもしれないけれど、彼の場合は自殺とされている。「されている」と言うからには、それは事実ではないと、少なからず僕は思っている。

 一度も尊敬したことのない父だった。母さんや花蓮は父のことを愛しているようだったが、彼はろくな男ではなかった。

 昔ヤクザ者だったと自慢し、頻繁に僕を殴り、高校時代にはバイト代をすべて取られたり、とても父親らしい姿を見たことがない。悪質なのは、それらは僕に対してしか行われず、僕にしか素顔を認知されないようにしていたところだ。母さんや花蓮がいるところでは何もしない。笑顔の仮面を貼り付けたピエロを演じる。そして僕にもそれを強要する。一度も愛したことのない男。だから僕だけが知っている。彼は昔のかかわりから殺されたのだと。そして、その事実すら世間的にはもみ消されているのだと。


「お兄ちゃん、それなに」

 花蓮の声で、手元のプラスティック容器のことを思い出した。

「これ? ——そうそう、母さん。さっき久しぶりにタロちゃんに会ったんだ。花蓮、覚えてるか? タロちゃん」

 台所に向け声を投げると、小気味いい包丁のリズムの中で、


「タロちゃん? だれ?」

「え? タロちゃんだよ。ほら、大学入るまでずっと一緒だった」


「ずっと一緒って、何回も引っ越してるのに?」


 ——あれ?

 母さんに言われて思い出す。そうじゃないか。父のせいで、僕たちは幼少期から何度も逃げるように引っ越しを繰り返してきた。母さんはヤクザ者を愛した人だ。完全に足を洗い改心したと勘違いしていても、過去が追ってくるのはわかっている。だから引っ越しに文句も言わない。そんな僕に幼馴染なんている訳がない。タロちゃん。タロちゃん? タロちゃんって、だれだ?


「ってかそれ、あれじゃない?」花蓮がプラスティック容器を小突く。「ほら。最近ちらほら聞く。都市伝説の」

「は? 都市伝説?」


「開けたら死んじゃうっていう、あれ——」


 しん、と音がした。ほかの音は何もしなくなった。

 頭が真っ白になる。なったと思ったら、今度は雪崩のように思考が流れてくる。そして最後に、だれだか知らない男が言った「開けちゃいけないよ」という言葉が、ドン、と胸を打った。

 言葉がうまく吐き出せなかったが、とにかくこのいかにも容易に開いてしまいそうなプラスティック容器の蓋を厳重に留めなければならないという使命感に迫られ、バタバタと家中を走り回ってガムテープを探した。雑多な書類に埋もれる形で部屋の隅にあったそれを手にするが、——手からプラスティック容器を離せないことに気付いた。思えば、なぜコンビニ弁当はすぐにテーブルに置いたのに、この容器だけずっと手に持っているんだ。意識の外で、持たされていたんじゃないのか。


「花蓮、その都市伝説って」


「なんか、あれだよ。急に小さい箱を渡されて、開けたら死んじゃうっていう」ほとんど新しい情報はない。「でも死ななかった人もいて、その人がTwitterにそういうことがあったって話をして、数人が乗っかって話題になったっていうやつ」

「箱の中身は?」

「それは、だれも言わない」


 よくよく覗き込むと、プラスティック容器の中には黒い靄のようなものが渦巻いている。毒か? だとしたら、ここでは開けられない。

 僕の焦り方にようやく母さんが調理の手を止めて居間へやってきた。

「花蓮ちゃん、本当なの?」

「都市伝説だから、本当かどうかは知らないよ。でも、少なからずタロちゃんなんて知らないし、その中身も、なんだかわからないよね」

 言葉にされて深刻さが増す。馬鹿げた話だが、そういう話こそいざ目の前に現れると却って信憑性が出てくるのだ。不審者はいない。痴漢はされない。自分は死なない。通り魔に遭遇する? そんなことは低い確率の、うそみたいな話だ。ニュースの話。ゴシック。そう、今ここで体験するまでは。


 母さんは僕の空いた手を取った。それから花蓮のほうを見る。

「開けなさい。ここで」

 重く、抑揚のない声だ。でも、感情がある声で、そう言う。

 花蓮は、ひとつ生唾を飲むとそこへ自分の手も重ねた。目を見ると、まっすぐにこちらを見つめ返して、頷いた。


「大丈夫。私たちはいつも一緒にいる。これから先、どんなことがあっても。だから怖いことなんて何もないよ。がんばったもの。貴方はちゃんとがんばってる。都市伝説なんかに負けないくらい。過去になんて負けないくらい。ちゃんとがんばってる。自信を持って。貴方は私の、私たちの家族で、誇りよ」


 母さんはそうして、ついに両手で僕の手を包み込んだ。


 そうだ。何もかもが唐突で、驚いただけだ。なんてことはない。「蓋を開ければ何でもなかった」なんてことは、世の中にはたくさんある。なにを怖気づいているんだ。この蓋を開けるだけで、この不明瞭な焦燥感や不安感から解放される。僕は解放される。それだけだ。

 それに、なにがあっても、母さんや花蓮がいる。何も怖いことなんてないじゃないか。


「わかった。開けるね」


 夕餉の香りが漂う住宅街。このような間抜けな一家はほかにいないだろう。都市伝説を真に受けて、居間で雁首揃えて真面目腐った顔をして。笑えてくる。ここに父がいないのも幸いだ。僕たちは、家族だ。


 二人の手を離して、蓋に手をかける。

 ——さあ、開けよう。



「——だから、許してあげてね、あの人のこと。ね? 貴方はやさしい子。そうでしょう? 太郎」





 空っぽのプラスティック容器がテーブルに転がる。

 カーテンを閉め忘れたままの窓の奥から、犬の遠吠えが微かに聞こえてくる。


 僕は立ち上がると居間の電気を点ける。テーブルのプラスティック容器の隣に、コンビニ弁当が雑に置かれている。少し視線を上げると、ハンガーラックに繋がれた不格好なロープの輪の奥に満月が覗いて見える。


 ああ。全部思い出した。


 二年前に突然死んだ父。僕以外の家族から愛されていた卑怯者の父。その父から「タロちゃん」と呼ばれて、歪に愛されていた僕。彼を追って死んだ二人。拒絶した僕。死ぬことから逃げた僕。ひとりだけ逃げた僕。そして、それをずっと悔やんでいた僕。——箱を渡してきたあれは、そうか、僕か。


 ああ。そして理解する。


 パンドラの箱はこの世の災厄が詰まっていると言う。そしてその底には、希望だけが残ると。

 でもこの箱は、一個人の災厄、トラウマだけしか入っていない。だから安っぽいプラスティック容器なのだ。希望を見出せるかどうかも、不明だ。多くの場合、それができずに、見えないように隠していたトラウマだけを思い出して、耐えきれず死んでしまう。


 僕はどうだ? 死ぬか? 生きてTwitterで武勇伝として語るか? 箱の中身を明かして見せようか?

 一緒にいるなんて、うそじゃないか、母さん。花蓮。僕はひとりぼっちだ。今までも、これからも。


 それとも、母さん。

 ——おいで、ってことだった?



 僕は、ジッとロープの輪を見つめた。

 その奥で満月が光る。犬が吠える。


 僕は、ジッとロープの輪を見つめる。

 もう箱は空っぽだ。すべての箱が、空っぽ。テーブルの上のプラスティック容器も、このアパートの一室も、僕と言う身体も。すべてが空っぽ。


 僕は、ジッとロープの輪を見ている。


 ——そして、やがて輪は見えなくなった。



 僕は死ぬのか生きるのか。

 どうかこの最後の部屋はこを、開けないでいてほしい。

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