V. CUP


 疲れた。


 なんか、もう……全部もう、どうでもいい。


 コンコンコン、音がしている。

 何かを叩く音。


 コンコンコン、ああ、ノックの音か。


 何? また私に仕事押し付けようっていうの?

 いいように利用して。ありがとう、おかげで助かった。すごいね。さすがだね。


 コンコンコン。


 やめて。来ないで。もう放っておいて。


「リサ?」


 その名前で呼ばないで!


「リサ、入るよ?」


 夢ならさっさとめてよ!




「なんだ、起きていたんだね」


 ドアが少し開いて、ピーターが顔をのぞかせた。もちろんウサギのほうじゃない。


「マギーが連絡をくれたんだ。どう、具合は?」


 それでロンドンから車を飛ばして来たっての? 仕事はどうしたのよ。


「来る途中で買ってきたんだけど、食べられそう? それともポリッジにする? ……ああ、キミならこういう時、米なのかな」


 こういう時お粥が食べたくなってしまうのは、この血に刻み込まれた呪いかしら。


「……ポリッジ」


 また、つまらぬ意地を張ってしまった。




 私の好きなドライフルーツ入りのポリッジに、コッツウォルズの蜂蜜たっぷり。

 ……なんだけど、見られていると、食べにくいです。


「ロンドンに、戻って来ないか」


 でも考えてみれば、私もウサギのピーターに同じことしているのね。

 ……え、今何て?


「前にも言ったよね、キミの部屋は全部そのままにしてある」


 ロンドンのアパート。キングスクロスのすぐ側という好立地。貸し出せばいくらでも高値がつけられそうな物件なのに、このバカは。

 まあ、そんなことしなくても十分に稼いでいらっしゃるのかもしれないですけど。


「仕事はしなくていい。いや、何だったら、僕の仕事を手伝ってくれても。キミの優秀さはよく知っているし、僕としては助かるよ」


 私はピーターが何の仕事をしているのか、イマイチよく知らない。


「好きなときにだけ働いて、あとは、家でのんびりしていたらいい。ただ、近くに居てくれればいいんだ。わかるだろう? またこんなことになったらと、心配で」


 今の暮らしと、そう変わらない。僕が全部面倒見るから。

 あらまあ、魅力的なお誘いですこと。


「ロンドンのような都会は、魔女には生きづらいわ」


「そうか……。まあ、考えておいて」


 ピーターは眉尻を下げて笑った。




 流行のファッションに身を包み、バッチリメイクを決め込んで、ロンドンのハイストリートを闊歩かっぽする。あの頃の自分に、未練なんてない……わけないじゃない。

 そりゃあもう、未練タラタラよ。


 でも、もう一度あの頃に戻ったら、あの道を歩き続けていたら、たぶん私は壊れる。


 今ならわかる。あれはきっと、ストレスに負けないための武装だった。私はすごい。私は幸せ。やりたいことをやって生きている。ストレス? 何それ美味しいの?

 自己暗示のおまじない。


 感覚を麻痺させて、考えることを避けて、常に忙しくして。

 実際忙しかった。立ち止まったら独楽コマは倒れてしまう。

 もう戻れない、あの頃には。


 黒い服が数着あるだけで、こんなにも穏やかに生きられる。真っ赤なルージュも、キラキラネイルも必要ない。

 それは気休めかもしれない。逃げかもしれない。負け惜しみかもしれない。


 でも、目の前に二つの道があるのなら。

 答えはもう、わかっている。


 これが私の新しい日常。

 “New normal”――それは私にとって穏やかな意味を持っていた。








 西暦2020年、悪魔が世界を支配するまでは。





 

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コッツウォルズの魔女 上田 直巳 @heby

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