IV. PENTACLE
「ロンドンのほうに、一人派遣することになった。君が適任だと思うが、どうかね」
課長に呼び出されてそう告げられた日、私は会社に傘を忘れた。
「ねえ聞いた?
「あぁ、坪内理紗? らしいねー」
「本人は栄転って思ってるクサいけど、あれ絶対厄介払いでしょ」
「だよねー。うちの課長、マジで英語できないもんね」
うちの課長は英語ができない。それは有名な話だった。それを補うために、私がここに配属された……はずだった。
「まあでもさ、あたしも、ちょっと苦手だわ。ムダに流暢な感じで話に入って来られると、正直引く」
「あ、わかるぅー。なんかすんませんーって感じ」
あんた達のミスを、どれだけカバーしてあげたと思ってんの。ミリオンを「一万」とか言ってる連中が、私なしでやっていけるの?
第一、陰口叩くなら周りに人がいないこと確認してからやれっての!
せいせいするわ。やっとこいつらから離れられる。
荷造り、引継ぎ、送別会。
準備期間はあっという間で、ビザが下りて、私はヒースロー行きの飛行機に乗っていた。窓から見える小さな東京は、なんだか妙に嘘っぽくて、全部が冗談なんじゃないかと思えた。
ロンドンでは家を探すのが大変と聞いていたけれど、幸運にも同僚の
バスタブはないし、キッチンは狭いし、外食は高い。でも帰って寝られる家があれば十分。今は我慢。仕事ができれば、それでいいじゃない。
出る杭は引き伸ばされる。
『いつも仕事が丁寧で助かるよ。慣れてきたなら、君に任せたいプロジェクトがある。無理をさせるつもりはないが、余裕があるようなら言ってくれ』
『はい、少し物足りなく感じていました。挑戦させてください』
誰よりも遅くまで仕事して、家でもできることは持ち帰った。食事中も、シャワー中も仕事のことを考えて、夢の中でもトラブルシューティングに追われた。
文字通り、寝ても覚めても仕事。苦じゃなかった。
ただでさえ環境と言語に不慣れというハンデがある。今はただ、とにかく仕事して、とにかく経験を積みたい。
二年か三年したら、日本に帰れると思っていた。
その時には、将校の勲章みたいに、輝く業績をいっぱいブラブラぶら下げて凱旋するの。あいつらが日本でのほほんと生きている間に、こっちでどれだけのことを成し遂げられるか。今が勝負よ。
転機は一年後にやって来た。
『君が以前勤めていた日本の支社から、戻って来ないかと打診があった』
定例ディスカッションの終わりに、付け加えるようにボスが言った。
『我々は君の意思を尊重する。君が日本に帰りたいなら、それを止める権利はないし、残ってくれるなら、もちろん歓迎だ』
それ見たことか。
どうせ、私がいなくなって業務に支障きたしているんでしょ。やっと有難みを理解したようね。
だが、もう遅い。
戻ってなんてやるものか。せいぜい悔やむがいいわ。
私はこっちで充実した日々を送っているの。あんたたちが気づけなかった才能を、ここでは認められて必要とされている。残念でした。逃した魚は超巨大だったわね。
必要とされて……いるのよね?
任されたプロジェクト、全体を把握しているのは私だけ。私が一日でも休んだら進まなくて困るねって、この前笑っていたじゃない。
私が提案した効率化システムのおかげで、日々の業務がどれだけスマートになったと思ってんの。
それなのに。「帰るなら止めはしない」?
居なくなっても構わないっていうの? 必死で引留めるところじゃないの?
ガラガラガラ。盤面が傾いていく。
どんな才能を持っていても、私たちは所詮、盤上の駒。
キングもクイーンも、ポーンと同じただの駒。プレイヤーの手中にある限り、どう足掻いたって消耗品。いつまで続くの?
もういや。
もう無理。
こんなこと、やってられない。
イ
ヤ
ダ
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