最終話
わたしはおそるおそる書斎に近寄った。
うすく開いた扉のすき間から室内をうかがうと、書斎の中央に設置された、つややかな流線形の転送装置が見えた。濃いブラウンの装置内部から淡い黄緑の蛍光があふれでて、書斎内の調度類をぼんやりと照らしだしている。
何か異変の痕跡がないだろうか。わたしはうす暗い書斎に目をこらして観察する。転送装置の横に小さな影があった。
「春斗くん!」
わたしは影の正体に気づき、書斎に飛び込んだ。
ゆかに座りこんだ春斗くんがニワトリほどの大きさの『何か』を抱きかかえていた。肉色のうろこに被われた『何か』の皮膚は淡い緑の光の中で濡れたように光り、鳥類のそれよりずっと巨大な頭部を神経質に震わせ、目を閉じ、静かに息づいている。胴体は羽毛をむしった鶏に似ていたが、折りたたまれた肉質の翼はコウモリのようであった。
わたしはひざまずいて、彼の肩に両手をかける。危険な生物ではないだろうか。
「春斗くん、なんなのそれ」
「
はじめて耳にした春斗くんの声はとても澄んでいた。彼は透きとおる声で、そう答え、にっこりと微笑んだ。そしてふと何かを思いだしたように肉色の化け物を椅子の上に置くと、パタパタとスリッパを鳴らして書斎を走り出た。
椅子の上の『何か』が目を開けた。しかもそれは、わたしを凝視しているではないか。
「ちょ、ちょっと春斗くん!」
こんなところにいたくない。化け物と一緒に取り残されたわたしは、春斗くんのあとを追おうと立ち上がる。毛の長いじゅうたんにスリッパをはいた足がもつれ、わたしは化け物を乗せた椅子に足を引っかけてしまった。
盛大な音をたてて椅子が転倒する。肉色の化け物はゆかへ叩きつけられる寸前、薄く巨大な羽をひろげて宙に舞い上がった。そのはばたきが巻き起こす風が小さな渦を巻き、羽の先についた鋭い爪が、わたしの顔ギリギリをかすめる。思わず目をつぶった。あまりのショックに声がでない。足の力が抜け、ぼう然とゆかにへたりこむ。気絶していない自分が不思議だった。
わたしの狼狽をよそに、化け物は部屋の内部を吟味するかようにしばらく悠然と飛びまわる。やがて自分の居場所を書斎の隅におかれた複合機の上に見いだし、平らなフタにかぎ爪を乗せて着地すると、目を閉じてうずくまった。
書斎の外からパタパタとスリッパの足音が駆けてくる。春斗くんが手に文鳥のエサを持って戻ってきた。
「春斗くん、なんなのこれ!」
春斗くんはわたしの質問に答えず、無言で顆粒状のえさを容器から振りだして、化け物に与えた。
――龍。これは龍だ。
わたしは悟った。それを何かにたとえるなら、肉色の龍と呼ぶのがふさわしい。ただ昔から言われるように、龍の吐く息は硫黄の匂いではなく湿った石灰の匂いがした。
これが、ご主人の約束したクリスマス・プレゼントなのだろうか。それとも、何かの原因――電源の瞬断――から、春斗くんの言うように転送途中の物体がエラーを起こし、『化けて』しまったのだろうか? わたしの中で混乱が膨れあがり渦を巻く。その混乱は、春斗くんがご主人のサングラスを龍にかけようとしたとき、極限に達した。
わたしはご主人の名前を叫びながら、春斗くんの頬を強く叩いた。パァンと乾いた音がして、春斗くんの白い頬に赤く手のひらの跡が残る。取り乱していたとはいえ、幼い子どもに手をあげてしまった自分をひどく嫌悪した。
春斗くんは大きな眼に涙をにじませ、上目づかいに、じっとわたしを見つめる。ものを言わない彼の思いが、痛いほど伝わってきた。不信と失望。彼はくちびるを噛みしめると、龍をかかえてわたしの横をすり抜け書斎を飛びだしていった。
「春斗くん! ごめんなさい、そんなつもりはなかったの!」
オロオロしながらわたしが書斎をでると、彼は玄関の扉を押し開け、戸外へ飛び出すところだった。春斗くんの黄色いジャンパーの裾がチラリと見えた。
春斗くんは、いままで部屋の外にまったく興味を示さなかった子どもである。外の世界に慣れない彼が戸外へ出たら、いったいどうなってしまうのだろう? わたしは恐怖につつまれ、夢中で彼を追いかけた。万が一、春斗くんの身にもしものことがあったなら、ご主人に何と言ってわびたらいいだろう?
マンションをでると昼から降りはじめた雪で、あたり一面うっすらと白く包まれていた。雪をかぶってモノトーンとなった街路。遠方に龍を抱えた子どもが足早に駆けてゆく姿が見えた。外へ出たことのない子どもとは思えない身軽さでブロックの先の角を曲ってゆく。その先は大通りだ。わたしも街路に残された春斗くんの小さな足跡を追い、大通りへ向かって走った。
大通りにでると、クリスマス・イブの人混みとざわめきが出迎える。
春斗くんの小さな体は、龍を抱えたまま人混みのなかを身軽にすり抜けて駆けてゆく。わたしは肩で通行人をかきわけ、ときおり突き飛ばし、そして口の中で小さく「ごめんなさい、ごめんなさい」とうわごとのようにつぶやきながら走った。それは誰に対しての謝罪なのか自分でもわからなかった。
わたしは必死に足を動かしたけれど、春斗くんとの距離は徐々に離されてゆく一方だった。彼の姿を雑踏の中に見失ってしまいそうな気がして、わたしは
「春斗くん! お父さんに言いつけるわよ! 待ちなさい!」
その言葉は思いがけない効果を発揮して、春斗くんはギクリと立ち止まる。ようやく追いついて彼の肩に手をかけたわたしを、春斗くんは鋭い視線で見つめてきた。氷のように冷たく、そしてすべてを見とおした神の像のような視線。わたしはその視線に射られ、体が硬直する。その隙をついて春斗くんは身をひるがえし、雪の歩道から車道へと飛びだした。
「春斗くん、あぶない!」
叫ぶいとまもあらばこそ、横手からスピードをあげて来た黄色いタクシーに跳ねあげられ、春斗くんの体は高く宙を舞った。
「春斗くん!」
彼の体が黒く湿った路面にたたきつけられる。春斗くんの手からご主人のサングラスが落ち、彼の腕から解放された肉色の龍が空高く舞いあがってゆく。アスファルトの上でねじれたように不自然な格好で横たわる春斗くんの口から、糸のようにほそい血がすじを引いて流れおちた。
「いやーーっ!」
わたしは悲鳴をあげて春斗くんに駆け寄り、彼の肩をゆすった。
事故の衝撃音を聞きつけて集まってきた物見だかい通行人のあいだから「ゆさぶっちゃダメだ。頭を打ってる」「救急車呼んで、早く!」と声があがった。
顔を上げると、わたしの白くかすんだ意識の中に見物人の黒ずんだ顔と、そのあいだでいっそう蒼白いタクシードライバーの顔が浮いていた。空には人だかりの上を悠然と舞う巨大なコウモリに似た龍の姿。
取り返しのつかない事態になった。
わたしは、身じろぎしない春斗くんのかたわらに落ちていたサングラスを、ゆっくりと拾いあげる。
「子どもがいきなり道に飛びだしてきたんだ……」
言いわけするように幾度もつぶやく運転手の声を背中に聞きながら、わたしはともするとくじけそうになる足を、一歩一歩踏みしめながら見物人の輪をぬけた。
ふたたび空を見上げると、低くたれこめた
やがて龍は人間に興味を失ったように羽ばたきをやめ、西に向けて滑空をはじめる。ここから飛び去ろうとしているのだ。
「待って」
わたしは龍の姿に惹かれるように右手をのばし、その奇怪な生物を追った。
龍はわたしが追っていることを知ってか知らずか、雑踏の上空を低くゆるく蛇行しながら滑空をつづける。クリスマスのLEDイルミネーションが発する赤や緑、青、黄色、色とりどりの光線を反射し、龍の肉色の翼と体はサイケデリックに染めあげられ明滅する。その生物は知能を持ち、プロムナードの雰囲気を満喫しているかのように悠然と飛翔を続けた。
そんな肉色の龍のカリカチュアを追って走るわたしを、通りすがりの人々は奇異の視線を持って迎え、ふり返り、ささやきあった。
「なあに、あの気味わるい鳥」
「ニワトリだろ」
「肌色のニワトリなんているわけないわよ」
「じゃ、なんだろ」
「特撮映画のロケかなんかじゃない?」
そんな人々の勝手なつぶやきを耳にしながら、まだ自分が知らぬ狂気へと駆けている錯覚をおぼえる。わたしはそんな自分の姿があまりに滑稽で哀しくて、泣き笑いの表情を浮かべながら走り続けた。
薄闇のせまる雑踏。とうとうわたしとの鬼ごっこに飽きたのだろうか。優雅に飛翔をつづけてきた龍が、二度、三度と肉色の翼を強くはばたかせた。両翼が大気をうまくつかむと、龍は軽々とビルを飛び越え、つむじ風のようなすばやさで空に駆けのぼってゆき……やがて見えなくなった。
追うものを見失ったわたしは途方に暮れた。駆けつづけた足をとめ、道端にたたずむと、街の喧噪が身を厚く包みこんでくる。
雪のちらつく大通りに賛美歌が流れはじめた。
見上げると、わたしのかたわらに、降りつもる雪で白くなった巨大なクリスマスツリーがそびえ立っていた。賛美歌はちらちらと舞い散る粉雪に似たスピードで、ツリーに取りつけられたスピーカから街路へと降りそそぐように流れてくる。
――なんと美しく悲哀に満ちた調べだろう。
わたしは激しい疎外感に身ぶるいし、こぶしをつよく握りしめた。そこで自分が手にしていたものに気づく。
――ご主人のサングラス……。
わたしは、今、ここにご主人がいて肩を強く抱きしめてくれたらと、ただそればかりを願った。
完
そして、クリスマスイブ 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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