そして、クリスマスイブ

柴田 恭太朗

第1話

 金色に輝くリングをまわすと、リップスティックの筒から暖かみのあるサルビアの花のような紅色のルージュが現れた。


 わたしは自分に与えられた部屋で、ルージュ片手に鏡の中をのぞきこむ。

 鏡のなかのわたしは、ここちよい暖房にほほをすこし上気させ、わたしとおなじ熱心さで見つめかえしてくる。驚いたようにまるく開かれた瞳とちょっと下がりぎみの目じり、それにほほに微かに残るそばかすが、わたしを年齢より幼く見せている。

 しかし輪郭が、くっきりと引きしまった口もとは、われながらいいセンいっていると思う。


 ご主人がヨーロッパからのみやげにルージュを選んだのは、わたしが一番自信をもっていることに気づいてくれたからだろうか? それともちょうど手ごろな買物だったから?

 わたしはつややかに光る紅色の表面を見つめ、ご主人の気持ちを考えてみる。いろいろ思いめぐらしてみたが、よくわからなかった。そんなときは自分の都合のいいほうに解釈すること。それが人生を楽しく生きるコツだ。わたしは鏡にむかって念入りにルージュをひいた。


「奈緒子さん」

 居間からご主人の呼ぶ声が聞こえた。

「はぁい」

 わたしはそそくさとルージュをバッグの中にしまいこんで、居間へむかった。


 わたしは短大を卒業して半年ちょっとの間、無職だった。人生ではじめて得た職が、この家での住みこみの家庭教師を兼ねたお手伝いさんというわけだ。就職難の今年としては、まずまずの仕事ではないだろうか。それより何より、わたし自身がこの仕事を気にいっていた。


「奈緒子さん」

 ご主人はわたしのルージュに気づき、「おや?」という表情を作って微笑んだ。彼はわたしのことを『お手伝いさん』ではなく『奈緒子さん』と呼ぶ。そのほうが親しみがこもっているような気がしてうれしい。

「何でしょう?」

「洗面用具を用意してくれた?」


 ご主人は、足元にまとわりついて離れない男の子を気にしながら、壁鏡の前に立ち、口元にたくわえたひげの手いれをしている。ご主人のスラックスのうしろに隠れるようにして、色白の子どもが、じっとわたしの顔を見つめていた。今年八歳になる春斗はるとくんだ。


「カバンにいれておきました」

 わたしはご主人の夏物のシャツを手際良く旅行カバンに詰めこみながら、春斗くんに微笑みかけた。しかし春斗くんは、わたしと視線があった瞬間、さっとご主人のかげに隠れてしまう。半月前、お手伝いとしてやって来た日からずっとそうなのだ。


「ありがとう。それと、いつものことだけど春斗の態度は気にしないでください。奈緒子さんは嫌われていないから」

 ご主人は白い歯をみせ、ほがらかに笑った。わたしは思う。これでひげをはやしてなかったら二十代に見えるのに。でも、ご主人のように貿易などという商売をしている以上、若く見られることはメリットにならないようだ。


 ほがらかなご主人に対し、春斗くんは笑わない子どもだった。彼がご主人のうしろに隠れたのも子ども特有の照れからではない。『おとなしすぎる』からなのだ。専門家なら具体的な専門用語を使って症状を説明できるのだろうけど、わたしはそういった知識がない。だから、おとなしすぎるとしか言えない。その事情から、春斗くんは、すでに学齢に達していたけれど学校にかよわず、わたしという家庭教師をつけている。


「奈緒子さん、文鳥にエサやってくれた?」

「まだです。あげておきますね」


 この家では、ベランダの窓際につがいの文鳥を飼っている。春斗くんへの誕生祝いだそうだ。しかし当の春斗くんはほとんど文鳥に興味をしめさず、その世話をするのは、わたしあるいはご主人の役目と決まっていた。


 文鳥のエサをかえている途中で、水をかえる必要もあることを思いだした。

 小さな陶器製の容器の水を外に捨てるため、居間のガラスサッシを開ける。開いた窓のすき間から冷たい風が吹きこんできた。低くたれこめた薄鈍うすにび色の空から雪片がひらひらと舞い落ち、少し離れたところを流れる川面に浮かんで白いまだら模様を作っている。今年は雪が早いようだ。


「雪が降ってきました」

「どうりで寒いはずだね。日本が雪でも、やっぱりインドは暑いんだろうな」

 ご主人は羽織っていたラムウールのカーディガンを脱ぎ、アロハシャツ姿になった。十二月も半ばを過ぎたこの時期に、半袖シャツはとても目新しい感じがする。


「奈緒子さん本当にいいの? もうクリスマスも近いことだし、休暇をとるのに遠慮はいらないよ。まだ若いんだから」

「いいんです」

「そうかい? では申し訳ないけど世話になるね。帰りはイブの夕方ごろになるかな。それじゃ、春斗のことお願いします。わがまま言ったら叱って下さい……春斗、おとなしく待っていれば、クリスマス・プレゼントを買ってきてあげる」

 旅行カバンを手にさげたご主人は春斗くんの頭をくしゃくしゃとなで、書斎の中に消えていった。

 扉の電子ロックがカタンと微かな音を立てる。


 そう。いつもご主人は書斎の扉に鍵をかけ、数日間の旅にでる。書斎の扉の向こうは世界につながっているのだ。『転送装置』ひとつで専用ネットワークが通じているところなら、世界中どこへだって『転送』できる。

 そうしてご主人は旅にでてゆき、数日たったころ書斎の中で小さなチャイムが鳴る。ご主人の帰宅が完了した合図だ。


 しかしそのチャイムの音色ときたら、電子レンジのチャイムそっくりなのだ。

 わたしはこの音を聞くたび、巨大な電子レンジのふたを開けると体中からホカホカと湯気をたてたご主人が「いい風呂だった」と言いつつあらわれる、そんなイメージが浮かんできて、笑いをこらえるのに苦労する。


 この家にきてわずか二週間のわたしでさえ、ご主人のルーティンワークには、すっかり慣れてしまった。


――ご主人が書斎の中に消えて電子ロックがカタンと落ちる。

――数日すると書斎の中でチャイムが鳴って、ご主人があらわれる。


 このルーティンに変化があるとすれば、それは毎回の『調理』時間が長いか短いかくらいのものだった。


 そして、クリスマスイブ。

 今日も昼から小雪のちらつく空模様だった。この調子で降りつづくなら、文字どおり明日はホワイト・クリスマスになりそうだ。


 わたしはご主人の帰りを待ちながら、居間でCDを聞きながら拭き掃除をしていた。流れている曲はショパンのバラード第1番。ピアニストはアシュケナージ。耳になじんだ曲の異変を、わたしはすぐに察知した。彼の右手が、長く微妙な半音階の坂を転がり降りてくるところで、音がひとつ飛んだのだ。


 不思議に思ってCDプレーヤーを調べていると、背後でカチャリと音がする。うしろを振り返ったわたしは、ショックを受けた。頑丈な電子ロックで施錠されていた書斎扉が、うすく開いていたのだ。


 ご主人の到着を心待ちにしているわたしが『調理終了』のチャイムを聞きのがすはずはない。にもかかわらず、中からしか開けられないはずの電子ロックがはずれている。何かトラブルでも起きたのだろうか?

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