第2話 繰りかえす人生

 怪しいのはアイツだ。名前は、

 ――DJ魔女――


 ジョッキー仲間から忠告されていた。魔女は闇鍋を食わすから気をつけたほうがいい。闇鍋、それはむろん違法ではなく脱法ですらなく、あくまでも合法的な液体スープだという。けれど『飛ぶ』。えらい勢いで。仲間がビビりまくるほどヤバいらしい。


 俺は数ページ前に戻る。見つけた、DJ魔女だ。

 誰かがこぼしたZIMA(ジーマ)のせいで靴底がべとつくフロアを大またに歩きわたりDJ魔女のあとを追う彼女はひと目でわかる長いマントを着ているので群衆のなかでも見つけることはたやすい追いついた俺はマントの肩に手をかけて振り向かせる声をかけてもどうせ聞こえやしないダンスチューンの爆音のなかでは会話は成立することはない振り返った魔女を身振り手振りでハコの外に連れ出す外は身ぶるいするほど寒い俺は話を切りだす聞きたいことがある闇鍋のことだ彼女はマントのフードをあげて見せた顔は意外に若くて驚く魔女という名前から年かさの女を想像していた俺はたじろいだ彼女が口を開いた何も話すことはないし帰っていいかしらここは寒いから小さな声で早口につぶやきハコへ戻ろうとする魔女を俺はさえぎる話を聞いてくれ俺は記憶をなくしてどういうわけかコインランドリーにいるここから一刻も早く脱出して俺がいるべきところへ帰りたいんだ記憶喪失にきみが作る闇鍋が関与していると思えてしかたがないんだ本当のことを教えてくれ魔女は俺の言葉を聞いて笑ったあなたは記憶を失ったんじゃないまだ知らないだけ私に会いにきてはダメ先に進むのです俺は魔女の言葉に面くらった意味がわからない先へ進むとはどういうことだ目の前にはコインランドリーの洗濯機がある前へは進めない俺はもう一度魔女に懇願したヒントをくださいと魔女は少し考えたのち言い放った私の言葉はあなたの言葉よく考えて未来へと進むのですもう一度思い出してみてかならずや記憶が戻るからあなたは私が話しているように感じているかもしれないけれど皆あなたの頭の中で起きていることなのです先へお進みなさい十ページほど


 俺は息のつまる長いトンネルを抜けた感覚に襲われ、空気を求めてあえいだ。

「何だよ十ページって? いまの文字の雪崩のような現象は?」

「いっぺんに質問しないで。ひとつづつ解決しましょう……」

 銀髪ショートヘアの魔女がゆるやかな口調で答える。

「まずひとつ。いま起こった現象ですね……あなたは本を読んでいることに気づいてますか?」

「本?」

「本をななめ読みしながら自分の思考をオーバーラップさせる、それで起きたのがさきほどの文字雪崩現象です。いまあなたは他人の自叙伝を読んでいるのですよ、まだお気づきではないですか?」

「バカな。きみがここにいるじゃないか」

「いいえ。現実をごらんなさい、目の前には洗濯機しかないでしょう?」

「……」

「わたしはあなたの頭の中にだけ存在します。いってみれば私はあなた。あなたを客観的に観察しているあなた自身です」

 魔女は自らの顔を指でさし、ついで私をさした。


「いったん受け入れよう、きみが実在しないこと、そしていま俺は本を読んでいることを。だが何のために読んでいる?」

「失った記憶を補うために」

「そうかやはり俺は記憶を……原因は額のキズか、魔女の闇鍋か」

「どちらも違うわ。記憶をなくすことなんて、誰にでも起こりえる自然なことよ」

「自然なこと? なら、本を読んでいるわけを聞かせてもらおうか」

「本を読む理由。それは物語をとおして得た他人のすばらしい人生を仮想体験することで、現実の自分を束の間忘れること。新たな知識を得ること。そして心の穴を埋める代償行為です。それはいいのです読書とはもともとそういう性質のもの。ところが、あなたは失った記憶の穴埋めに他人の人生を使ってしまった。だからつじつまが合わなくなる」

「嘘だ。俺は確かにDJだった!」

 俺は叫んだ。

「信じられないなら十ページ先から読んでごらんなさい。あなたの記憶のつづきが書いてあります」


 よし、十ページ先だな。俺は手さぐりでページを繰った。


 ふたたび目の前に熱いクラブの情景シーンが広がる。群衆の汗が蒸発し、ハコの湿気がひどい。屋内で雲さえ生じそうな熱気だ。フロアに並べられた巨大なスピーカーのボイスコイルが飛びだす寸前まで弾み、バスドラムの強烈な重低音をキックする。シンセサイザーのメロディにキレのいいフィルタがかかり、クチュクチュした有機的な音を立てる。


 俺は渋谷のクラブに戻っていた。テーブルにおかれたDJコントローラーのターンテーブルをコスり、半透明に淡く光る正方形のパッドを叩き、あらかじめ仕込んでおいた効果音オカズを送り出す。群衆が俺のDJパフォーマンスにサムアップで応え、俺もますますノッていく。俺はサイコー、客もサイコー、渋谷の夜はアツい……


「お別れのときがきました」

「えっ?」

「あなたを呼んでいるひとがいます」

 魔女の声がわたしの思考を邪魔する。クラブの情景がゆがみはじめ、ゆっくりと渦を巻きながら薄れ消えてゆく。


「やめてくれ! わたしはもう少し楽しみたいんだよ、キラキラしたこの人生を」

 やっと見つけた安住できる記憶が奪われていく。

「読書を楽しむだけならいいけれど。ほどほどにしないと。あなたは自分の記憶と他人の記憶を混同してしまうから。きわめて危険なのです」

 魔女の銀にみえた頭髪は白髪だ。皮膚はしわしわではないか。これが現実のわたしか、客観的判断をするという自分の。


「せめて俺の記憶を奪わないでおくれよ」

「奪ってなんかいませんよ。最初から存在しなかった記憶だもの」


 頭の中でDJだった『俺』の声が自信たっぷりに「あばよ」という。

 魔女が「ごきげんよう」と深々とおじぎをした。


 ◇


「……おばあちゃん、おばあちゃんってば」

 見覚えのある顔。誰だったか……そうかヨメの亜沙子さんだ。でもわたしは返事をしない。のどが詰まって、声がうまくでてこなかったから。


「そのおばあさん、頭から血をだしてるけど大丈夫かい?」

 わたしを怖がった中年女性だ。洗濯物をドラムから取りだしながら亜沙子さんに話しかける。

「ええ、おばあちゃんってば、けさ玄関で転んじゃってね。見ためは痛そうだけど大丈夫ですよ」

 ホホホと笑って亜沙子さん。わたしの痛みはわからないだろうに、安請けあいをする。笑いながらわたしの手にある本に目をとめた。


「あら。おばあちゃん、どうしたのこのご本……」

 亜沙子さんは、わたしの手からもぎ取ろうとハードカバーの本を引っぱる。わたしは必死に抵抗する。無表情のまま本をしっかりにぎる、生まれたての赤ん坊がものをつかんで離さないように。

「おばあちゃん見せなさいってば」

 奪わないでおくれよ。やっと見つけた楽しい人生だから、もっと楽しみつづけたいんだよ。目にしょっぱい涙がにじんでくる。

「よしなよ、おばあさん泣いてるみたいだよ」

 洗濯物の中年女性が心配そうな声をだす。


「大丈夫ですよ。足はしっかりしていますけど、頭のほうはすっかりボケちゃってねぇ。一日中ほとんどだんまりで、何を思って生きているんだか……今日だってそう。ふっと気がついたら家にいないじゃない? フラフラと外を歩かれると連れもどすのがたいへんで、たいへんでっ」

 亜沙子さんはわたしの手から力まかせに本を奪いとった。

「あらやだ、ほら見てよ『やさぐれDJ放浪記~渋谷編~』ですって。おばあちゃんがDJってねぇ。本の中身はぜんぜん理解できてないんですよ、ぜ~んぜん」

 亜沙子さんと中年女性は互いにヒラヒラと手をうち振りながら「やあねぇ」と声をそろえて笑いだした。


 わたしの記憶に人生はない。かつては存在したが、忘れてしまった。わたしは記憶を取りもどすため本を読む。本の中に人生を発見すると、わたしは夢中で生きた。幾度も幾度も繰りかえし生き直した。それはじつに簡単なことだ。なにしろ、すぐにわたしは記憶をなくしてしまうから。


 終

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コインランドリーの中の人生 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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