第43話
「お待たせしました、先輩」
目の前に置かれた丼を見て
「これは?」
「開けてみてください」
彼の手元で、立ち昇る湯気と共に出来立ての牛丼が姿を現す。
煮汁の絡んだ艶やかな牛肉と玉ねぎ、見えずともふっくらとその存在を感じさせる白米、そして食欲を刺激する甘じょっぱい馴染みのあの香り。
米屋も反応を示す。
「この匂い、知ってる」
それを聞いて自慢げに笑う吉乃。
「ええ、そうでしょうとも。これは最高の牛丼であり先輩の好物なんですから」
「牛丼、俺の好物……」
米屋が吉乃の顔からもう一度丼に視線を落とす。反射的にだろうが彼の喉がゴクリと鳴った。頭ではまだ思い出していないようだが、鼻も口も胃袋も本当は忘れていないのかもしれない。
彼の手が食事を始めようと箸を持った。しかしそれを「待ってください」と制止する吉乃。
「最後の仕上げがあります」
そう言って彼女は紅生姜の容器を取り出した。それから小さなトングでその中身を牛丼にのせ始めた。丁寧に、だけど大胆に思い切って。
一回二回、まだのっける。三回四回、まだ終わらない。五回六回……、吉乃はこれでもかと紅生姜をのっける。それはまるでいつか彼女が見た光景をなぞるように。あの日からの日々を一つ一つそこに乗せながら。
やがて牛丼の具が紅生姜で埋まって見えなくなって、最終的に丼の上にはピンク色の小山が出来上がっていた。
「さあ、どうぞ」
「こんなに……」
常識的ではない量を前に表面上は狼狽えた様子を見せるも、そんな態度とは裏腹に米屋の喉は再び鳴っていた。
彼は少し迷った後、恐る恐る丼に箸を刺し、掬うように具を持ち上げた。箸の上には絶対に紅生姜しかのっていないのだが、傍から見たら牛丼ではなく紅生姜を食べているようにしか見えないのだが、彼の隣ではその牛丼を作った張本人である吉乃がこれこそあなたの牛丼ですと言わんばかりに自信ありげに微笑み見守っている。
一口、思い切って米屋が口に入れる、そして軽く咀嚼した後飲み込み、まだ戸惑いつつも二口目、さらに続いて三口目。
彼の表情が物語る。
辛い、しょっぱい、なんだこれ……、なんなんだこれ……、でも……、なんか、なんか……。
「美味しい」
彼はそう呟くと改めて箸を進め始めた。紅生姜、牛肉、玉ねぎ、ご飯、それらを丼を手に持ち次々口に運ぶ。次第に見て分かるくらい夢中に米屋は牛丼にがっつき始めた。
そんな彼の姿を見つめ吉乃は思う。紅生姜に乗せた、過ぎてしまった日々のことを思い出しながら。
ねえ、先輩、私、ちゃんと知っています。覚えています全部。先輩が恋をしていたこと。丼に飲まれてしまって、いえ、例え時の流れの中であなたが忘れてしまったのだとしても。だってあの頃のあなたは私にとって憧れだったから。
正直に言えば、今の今までずっと迷っていました。記憶を思い出して貰うことも、言えないままでいた自分の気持ちを伝えることも。だから私も丼に飲み込まれちゃったのかもしれません。駄目ですね、私。
迷っている間は、辛い日々もあったし、好きになれない自分もいました。でも、私、やっと、そんなことも含めて無かったことにしたくないって思えたんです、この今に繋がる過去の全部を。それに先輩にも忘れて欲しくないって。
人に話したらきっと馬鹿にされてしまうけれど、私にとって牛丼は特別なものなんです。そしてこれは我儘だけど、先輩にとってもそうであって欲しいんです。恋をしていた、私と同じ、あの頃を思い出す味のままで。
だからこの牛丼で思い出してください。いいえ、例えこの先何度忘れたって私が思い出させて見せます。この牛丼で。
吉乃が見つめる先、米屋がまた箸を持ち上げた。箸の上には牛肉と玉ねぎ、ご飯、それと多めの紅生姜。それを彼は大口を開け迎え入れ、そして満面の笑みにも似た幸せそうな表情を浮かべる。
その時、箸に付いていた牛肉の欠片が零れ落ちた。その欠片は、まだ中身の残った丼の中に落ちていく。それは一瞬の出来事。けれど吉乃の目にはあの日と同じようにひどくゆっくりと映っていた。
牛肉はまるで空を舞う花弁のように軽やかにゆっくりと回り、踊るように、あるいは惑うように、だけど確実に柔らかなご飯の上へと、紅生姜で赤く、赤く染まったご飯の上へと落ちていった。
米屋が牛丼を食べ切り満足そうに箸を置くと、吉乃が言った。
他に客も店員も居ない静かな店でその声は響く。
「先輩、雨が、降ってきましたね」
ガラス越しに見える景色のように、言葉に躊躇いが滲んでいるのは胸の痛みが嘘じゃないから。
「傘をお貸ししましょうか、迎えに行くんですよね。彼女さんを」
ハッと顔を上げる米屋。その表情からはぼんやりとしたものは無くなっていた。
「そうだ、俺、なんで……、あ、松谷……」
「行ってください。傘はそこに」
吉乃が指さす入口の横には赤い傘が一本立てかけられていた。
「ほら、先輩。お代は特別にツケでいいですから」
「でも……」
まだ状況が呑み込めていない様子の米屋だったが、吉乃に急かされるままに席を立ち傘を手にする。
「松谷、ありがとう」
店を出る際、米屋が小さく言った。混乱しているがとにかく礼を、そんな感じだった。しかしそれを上書きするように店先に立つ吉乃はハッキリ口にした。迷いのない店員の口調で。
「ありがとうございました」
少し離れて一度振り向き揺れた赤い傘を見送って、吉乃は店内に戻っていった。
牛肉とご飯と紅生姜 てつひろ @nagatetsu
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