第42話

 牛丼一徹店内調理場。広くは無いが必要十分な設備が整っていて日々の業務で磨かれた使い勝手のいい厨房だ。少々年季は入っているものの清潔に保たれているのも見て取れる。吉乃にとっては懐かしい場所でもある。


「そうそう、うんうん、そうだったそうだった。さすが私。よく覚えてる。冷蔵庫の食材もバッチリじゃん」


 一通り確認を終えた吉乃よしのが顔を上げどこか満足気に呟いた。


「またこの厨房に入れるとは思わなかったなあ」


 そんな彼女に怪訝な表情で尋ねる紅緒べにお。彼は厨房の隅にあった折り畳み椅子に座っている。


「なあ本当に大丈夫なのかよ、そんなの受け取って」


 そんなのとは現在調理台の上に置かれている丼のことだ。そう、例の丼である。あのあと吉乃が米屋よねやから受け取ったのだった。


「大丈夫だよ。あ、でもマイ丼のサービスってのは変だったかな。普通丼持ち歩かないよね」


 マイ丼のサービスしてるんですけど、先輩持ってませんか?


 吉乃はそう言って米屋から丼を受け取っていた。


「いや、大丈夫ってんならいいけどさ……」


 もちろん丼の異様を目にしている紅緒としては納得がいかない。とは言えこの期に及んでどうする訳にもいかない。


「この子も普通に使って欲しかっただけなんだよ。だって丼だもんね」


「丼、丼って……、はあ、そうなのかね」


 確かに今のところ大人しくしているようで異常は見られない。


 調理台から視線を外し溜息混じりに客席の方を見やる紅緒。吉乃もそれに習う。


「まあ、あいつも大人しく待ってるし……」


 紅緒が視線を送った先では米屋が席についていた。そこは吉乃曰く空いているといつも先輩が座っていた席だそうだ。


「あいつは大丈夫なのか?」


 と紅緒。

 米屋はこんな状況なのに何も言わず席についている訳だ。確かにこちらの方が異常かもしれない。


「しょうがないよ、先輩はまだ夢を見させられている状態なんだから。でも大丈夫、なんとかなるから。うん、私がなんとかする」


「……そうかい」


 意気込む吉乃に力なさげに頷いて紅緒が続ける。


「ああ、そうだ、荷物そのまま持って来たからな。桃酒とか必要なもんあったら使えよ」


 そう言うと、やっぱ疲れたと紅緒は椅子の上で目を瞑ってしまった。


「いいよ、紅緒は休んでて」


 それから吉乃は紅緒が持って来た荷物からエプロンを取り出した。店長に貰った一徹のエプロンだ。


 吉乃は手慣れた様子でそれをつける。最後に気を引き締める意味も込めてきつめに背中の紐を縛る。


「さて、やるか」

 

 丼の中、吉乃による夢と現実が入り混じる牛丼調理が始まった。






 調理台に並べられた牛肉、玉ねぎ、各種調味料、そして桃酒と生姜。それぞれ牛肉玉ねぎ調味料は厨房にあったもの、桃酒と生姜は紅緒が持って来たものだ。


 まずは玉ねぎを切る。良く火が通るように薄く。厚さにバラツキが出ないように慎重に、だけど素早く。


 切り終えたらまな板から玉ねぎをどかし、今度は牛肉を切る。大きな一片はきちんと丁寧に切り揃える。


 それから牛肉に桃酒と擦り下ろした生姜を揉み込み下味をつける。


 鍋に各種調味料、だし汁を入れ合わせる。分量を間違えないよう、ケアレスミスにはいつだって注意。擦り下ろし生姜、桃酒も適量加える。どちらもあくまで隠し味、入れ過ぎてバランスを崩さないように。


 どの工程も丁寧に手間を惜しまず。食べる人のことを考えて調理を進める。簡単な料理だからこそ、それが大事なんだと店長にも教えられた。


 調味液に玉ねぎを入れ火にかける。やがて熱が入り鍋の中身がぐつぐつと煮込まれていく。


 調理を進めながら吉乃は思う。米屋を想った日々を。


 初めて彼と会った日。

 自分の気持ちを自覚したあの時。

 店で働きながら米屋を想った日々。

 そしてあの日のことも。


 しっとりと街に沁み込むような雨が降っていたあの日。


 店長に頼まれた買い出しの途中、偶然見てしまったのは女性と歩く米屋の姿だった。


 二人は一本の赤い傘を持って寄り添い微笑み合っていた。


 思わず立ち止まった吉乃の頭に、いつか友達から聞いた話が浮かんだ。


 米屋先輩好きな人居るらしいよ。


 それは黙々と米屋を想うだけの吉乃に見かねた友達がしたお節介だった。


 それを知って、もちろんショックを受けなかった訳では無い。だけど米屋が幸せになれるなら例え自分の恋が叶わなくとも、米屋の願いが叶うことが一番だと自分に言い聞かせた。


 けれど女性と歩く彼を見た時、自分には見せない彼の表情を見た時、気が付いてしまった。


 私はどうしようもなく嫉妬している。私は本当は私以外の人と作る先輩の幸せなんて願っていない。

 そんな湧き上がる気持ちが抑え切れなかった。それも初めて知った感情だった。


 その時、目の前の鍋が吹き零れそうになり、吉乃は慌てて火を止めた。


 危ない。何やってんだ私。集中しろ。


 火はそのまま止めておく。蓋をして保温し玉ねぎに味を沁み込ませる。その間に出来る限りの洗い物を済ませる。


 過去、吉乃は自分の中の気持ちを嫌悪した。あんな気持ちが自分の中にあることが怖かった。


 そして吉乃は米屋への好意ごと自分の気持ちにも蓋をした。そうすることで米屋の幸せを願える自分でいたかった。物分かりの良い自分でいたかった。可能性を秘めた綺麗なままの恋を隠し持っていたかった。


 吉乃はそれで終わりにしたつもりだった。


 しかし伝えられなかった気持ちは玉ねぎに沁み込む味のように吉乃の心に深く沁み込んでいった。それは自分でも無自覚なままに。


 蓋をして心に置いたままの鍋、時にはそれは自由を奪う見えない足枷となり日々の生活の中、彼女の足を引っ張った。やがてそんな鍋の存在さえ忘れようと鍋の周囲の感情も見ないようになった。そうして何時しか吉乃は無感情のままに日々を過ごす大人へとなっていた。


 洗い物を終え、鍋に再び火を入れる。


 味の沁みた玉ねぎの上に生姜と桃酒で下味を付けた牛肉をほぐし入れる。


 だけどそう、吉乃は思ってもいなかった。再び鍋の蓋を開ける日が来るなんて。しかもこんなに突然あっさりと。


 煮込んでいる途中で出てきた灰汁を取る。


 あったのは未練だとか後悔だとかとは違う熱を保ったままの恋心。自分でも恥ずかしくなって笑ってしまう程に。それから……。


 また蓋をして弱火にし、しばらく煮込む。


 タマ子ちゃんや飯田兄弟との出会いがあって、店長と奥さんとの再会があって、桃ちゃんにも会って、レシピを教えてもらって、そしてやっと今の気持ちになれた。


 煮込んでいる間に付け合わせの紅生姜を用意する。


 うん、そうだ、きっかけは全部あの紅生姜。どう言う訳か生意気な男の子になって現れた、かつて私が嫌った紅生姜。お馬鹿な話、ほとんどこの店で完結していた私の小さな恋にとってのライバルポジション。

 そんな奴と一緒に暮らして……。


 ああ、おかしな日々だ。この今は本当に。でもきっと、たぶんそう、いつか手放しがたくなる私の日々だ。あの恋があったからこそ出会えた日々なんだ。叶わなかった恋だったけれど、報われなかった恋だったけれど、無かったことになんかしたくない。だからもう戻りたいなんて思わない。


 やがて煮汁も減って牛肉に味がなじんだ頃、牛丼の具は完成を迎える。

 出来上がった牛丼の具が向かう先に待つのは、丼に盛られた温かく優しい真っ白なご飯だ。

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