三ツ矢サイダー

三毛猫マヤ

三ツ矢サイダー

 ひんやりとしたドアノブを回し、体を前に倒すようにして鉄の扉を開いた。

 薄闇に慣れていた瞳に光を感じてぎゅっと閉じると、砂埃をのせた生暖かい風が頬をすり抜けて行く。

 額に手のひらを添え、日除けを作ってゆっくりと瞳を開いていった。

 そこは四方にねずみ色の金網が巡っていて、アスファルトの床は夏特有の強烈な日差しのもと、白く発光しているみたいだった。

 私は正面の金網に向かい、ゆっくりと歩き出す。

 足元でローファーとアスファルトが硬質な音を響かせる。

 手を伸ばし、指を絡めると金網の軽く乾いた音がした。

 視線の先で世界は、ねずみ色の幾何学模様きかがくもようで縁取られていた。

 自分がまだ学生だった頃に、毎日のように通った道、クラスメイトが暮らしていたマンション、下校時によくパグを連れていたパグじいさんは、まだ変わらず散歩に行っているのだろうか。

 そんな他愛のないことを考えていると、湿り気を帯びた熱風が首筋を通過して、汗がするりと滑り落ちた。

 貧血気味の体質と夏の日差しに包まれたせいか、徐々に頭がぼんやりとしてくる。

 私はきびすを返すと日影のベンチへ向かった。

 ハンカチを敷き、ベンチに腰掛けると軽く息をつき、片手に持っていたサイダーのキャップを捻るとピキッとボトル缶が鳴いた。

 一口だけ口に含む。

 舌の上でシュワシュワと泡が弾ける感触に目を閉じると風もどこか涼やかに感じる。

 ふいに、さわさわと胸が揺らいだ。

 まるで凍っているものを溶きほぐすように、私は手のひらでサイダーを包み込みながら、こころの中で彼の名を紡ぐ。

『…ヒロくん……』

 遠くて近い、蝉時雨。

 乾いた車輪の空転音。

 あの日にかえる音……。


          *


 夏の夕暮れ坂道。

 伸びるふたつの影法師。

 からから、からから、ふたりの自転車が鳴いている。

 無愛想な彼と引っ込み思案な私が帰宅するときに聞く夏の音。

 少し前を歩く彼、その後ろを歩く私。

 いつものパターン、いつもリピート。

 これからもそうなる筈だった……。

 坂のてっぺんに着いたとき、彼が足を止めた。

 前方の気配に気付き、ワンテンポ遅れてそれにならう。

 強い西日を受けた彼の背を見る。

 幼い頃は私より小さかったのに、いつの間にか抜かれていた。

 しばらくそのまま見つめていたが、不思議に思い、おそるおそる声をかけた。

『…あの…ヒロくん……』

 前を向いたまま、彼の低い声が応えた。

「マユ、オレ、九月から東京の中学校に通うことになったから」

 最近声変わりしたばかりの声はどこか非現実的で、ちょっとだけ私のショックを和らげてくれた、気がした。

『…転校……するんだ』

「親父の仕事の都合でさ」

 私はゆっくりと一度まばたきをすると、そっか、と極力明るい声で言った。

 内心の動揺を隠せたことに安堵して、同時に何かを失ってしまった気がして……ちくり、胸が痛んだ。

 彼の背中をじぃっと見つめて夢想する。

 彼は今、どんな顔をしているのだろう。

 知りたいけど、知りたくない。

 彼が平然としていたら嫌だし、かといって素直に悲しんでる顔も見たくない。

 結局のところ悲しみしか残らないわけで、だったら知らないほうがいいのに、それでも知りたいと思う私の想いは、からから、からからと、空転する車輪のようだった。

「じゃあまあ、そーゆーことだから」

 それだけ言い、彼は自転車にまたがると坂の上から一気に滑り降りていった。


 何度か点滅を繰り返し、机の上にライトが灯る。

 私は机の引き出しから写真を取り出す。

 小学校の林間学校の集合写真。視線は自然に私の隣に立つ彼を見る。

 はじめこそ、その反応に戸惑い否定もしたが今は違う。

 ことんと、落ちるものがあった。

 胸に手を添えれば、その存在を、確かに感じることができる。

 まあるくて、やわらかで、じんわりと暖かい。

 でも、時折ぞくりとする冷たい針がそこには潜んでいて、私の胸がちくりと痛む。

 そんな痛みすらも心地よく思える、不思議な存在。

 ひとつまばたきをすると写真を元に戻して、机にある手鏡を取る。

 目元がまだ、かすかに赤い。

 顔を上げ、窓の外へ視線を送る。

 空はようやく色を群青に変える頃、等間隔に街灯が灯っている。

 その中に一本だけ、断続的に明滅を繰り返す物があった。

『……』

 黙したまま、吸い寄せられるように見つめる。

 群青の壁紙の中、明滅する一つの灯りはどこか寂しげに映る。

 ふいに、首筋にひやりとした寒気を感じ、私はベッドへと潜り込む。

 目を閉じると、先程の明滅する街灯があった。点いては消え、消えては点き……やがて、意識とリンクして、落ちた。


 夏休みが来て、八月が終わる。

 今日は彼が東京へと旅立つ日……私は彼を見送るために家を後にした。


 高速バスの待合室にある大きな柱、そのたもとにあるソファーにヒロくんはいた。

 近付くと目を閉じて音楽を聴いていた彼は不機嫌そうにこちらを見上げた。

 彼はイヤホンをバッグにしまうと、立ち上がって自販機のほうに向かう。

 私は少し迷ったが、彼の後を追いかける。

 自販機に立つと小銭を入れ、横に立つ私に振り向く。

 私はぼんやりと彼の顔を見つめ、急に恥ずかしくなって顔を伏せた。

 しばらくしてピッという電子音がして缶が落ちる音、拾い、そうして……。

 ぴと。

『ひあっ!』

 私は奇声を上げていた。

 彼が意地悪そうな笑みを浮かべ、私の手にサイダーを握らせてくれた。

 ゴツゴツと骨張った暖かい手にぎゅっとされてどきどきしてくる。

 頬が熱くなってないか心配になり、頭を下げた。

 この前切ったばかりの前髪の短さが頼りなかった。

「これ、マユの分な」

『え?』

「え、じゃねぇよ」

 彼が自販機からおつりを取るためにしゃがんだ時、私はある事実に気付いた。

『…てゆーか、ヒロくん?』

「あん?」

『私、サイダーとかの炭酸もの……』

 苦手なんだけどと続けようとして、彼の先程の笑みを思い出す。

 わざとじゃん、絶対に!

 私はむっとして彼を睨んでやったけど、彼に「うわっ、ブスが更にブスになってる」なんて酷いことを言われただけだった。

「オレもマユと一緒がいいかな」

『え?』

 彼の指先には、サイダーのボタン。

 私が見つめる中、彼は自分用の三ツ矢サイダーを取り、人差し指でプルタブを立てる。

 プシュッ、という涼しげな音が聞こえ、そのままぐいっとあおった。

 ぐびり……音と共に、彼の喉が大きく一度波打つ。

 その喉仏をじぃっと見つめながら、先程の彼のセリフを考える。

 マユと一緒がいい……とは、マユと一緒に居たい、離れたくないという意味ではなかったのか。

 それとも彼がただ言い間違えただけなのか?

 ……わからない。

 いや、そもそも私は彼と離れたくないなんて言ったことないし……。

 本人に聞いてみてもはぐらかされそうだし、もし素直に返されたら私は恥ずかしくて家まで逃げ帰ってしまい、彼を見送ることが出来なくなってしまう。

それは絶対後悔する。

 でも聞かないのも聞かないで……どちらにしても後悔しかない気がして思考がぐるぐると堂々巡りしていた。

「なんだ、飲まねーの?」

『あ、ううん、の、飲むよ。うん、飲む飲む!』

 慌てて開封し、ぐっと傾ける。

『ゲホッ! ゴホッ!』

 思考に夢中で炭酸であることを忘れて飲んで、せる。

 しかも鼻がつぅんとしてくる。

「まったく、な~にやってんだか」

 涙目になった瞳に彼の輪郭がボヤけて優しく映った。

 彼がポケットからポケットティッシュを取り出し、そっぽを向きながら私に差し出した。

「ほら、これで鼻水ふけって」

『は、鼻水なんて垂らしてないよう…』

 私の情けない声を聞くと彼は鼻を鳴らす。

「…ったく、マユは本当、ガキの頃から変わんねぇなぁ」

 呆れたように言って、彼が私の頭をぽんぽんと叩いた。

 うわわ……。

 彼の不意打ちに慌てて頭を伏せた。

 頬が火照っているのが分かり、意識すると余計に恥ずかしくなってくる。

 彼に悟られないように小さな呼吸を繰り返す。

 気持ちが落ち着いてきた時、私は二つの出来事に気付いた。

 背後より聞こえる、規則正しい女性の声のアナウンス、鼻息の荒い駆動音。

 そして、彼の触れている手のひらが震えていることに……。

「マユ…」

 俯いたまま、小さく頷く。

「お前、確か都会とかに憧れてたよな。 で、オレはその都会に引っ越す訳で……つまり、なんだ、えーと、だから、さ。 その……マジでさ、気が向いたらでいいから、つーか気が向けって感じなんだけどさ、とにかく…だから……」

 肩が、震えた。

 それは彼が今までに見せたことのない、あまりにへっぽこで歯切れの悪い態度が可笑しかったからか、それとも別れによる寂しさで頬を伝い始めたもののせいなのか……わからなかった。

 ただひとつだけ……ひとつだけ、こころを震わせるものがあった。

 ちっぽけで、一瞬後には跡形もなく消えてしまいそうなくらいにちっぽけなものだったけど、でも確かに、私のこころを震わせたんだ。

 それは、彼のことのはに応えたいという想い……。

 私は……彼の手を、そうっと気持ち程度だけど、握った。

 彼がびくりとして、でもすぐにぎゅっと握り返してくれる。

 固く、強めに握られた手のひらは痛くて、残暑の汗でベタついていたけど、何故かうれしいと感じた。

 目を閉じて、胸に意識を向ける……ことん。

 まあるくて、やわらかで、じんわりと暖かくも冷たい感触。

「マユ、だから…その……」

 彼が何かを伝えようとする。

 私はゆっくりと首を振る。

 わかったから。

 だから、私は……

「…うん」

 顔を上げゆっくりと一度、頷いた。


 バスが発車して始めの角を曲がる。

 私は一人、自販機の前に佇んでいた。

 自販機から数歩先にあるアスファルトは強烈な日差しにジリジリと焼かれ、向かいにある店先の打ち水の雫がなにかの欠片みたいにきらきらと光っていた。

 私はベンチに座り、目を閉じるとサイダーを一口飲んだ。

 炭酸に舌がしびれ、甘味が抜けて行く。

 耳元で炭酸のシュワシュワという音が響き、弾け、消えた。

 刹那、どこかで鳥の羽ばたく音を聞いた気がした。


          *


 バサリッ……音がして、目を開いた。

 空は青く冴えていて、雲の一群がゆったりと流れている。

 ぼんやりと眺めていると、次第に意識が覚醒してくる。

 ふいに、鉄の扉が軋む音を立てた。

 私は自然に生まれた笑みのまま、そちらへ向き直る。

 そこにはジャージ姿の彼が立っていた。


 十四の夏、彼はこの中学校を去った。

 それから月日が流れ、私たちは教える側の立場になり、この中学校に通っている。

「ん? なんだマユ、サイダー飲んでんのか?」

 彼がベンチに腰掛け、私の手元を見つめて言った。

『うん』

「……マユ、この前ダイエットするとか言ってなかったか?」

 うぐっ、いきなり痛い所を……。

 私はわざとらしく頬に指先を当て、にこやかに返答する。

『…え、えーと、き、今日は特別な日なんだよ~?』

「なんで疑問形なんだよ、しかも声震えてるし、つーか昨日もたい焼き帰りにたべてたよな。一昨日はドーナツ……」

 私の指先が頬にぐんにゃりと沈む。

「…ったく、本当、そういう適当な所は変わんないよな」

『いや、で、でもね、特別な日っていうのは本当なんだよっ!!』

 今日は十年前に、ヒロくんがこの学校を去った日……十年前と繋がる日。

「どうだかねぇ、あ~あ、マユのくだらねぇ話に付き合ってたらのどが渇いちまった」

『ひ、ひどっ!』

「っつーわけで、そのサイダーを寄越せ」

『え?』

 驚いて彼の顔を窺う。

「え、じゃねぇよ。お前、ダイエットしてるんだろ?」

 だって、それはまるで十年前に買って貰ったサイダーを、帰ってきた彼に買ってあげてるみたいじゃないか。

 そんな不思議なめぐり合わせすら、今は必然に思えるのがうれしい。

『…はい』

 私はサイダーを手渡すと、前方を向き、横目に彼の喉が波打つのを盗み見た。

 彼からサイダーを受け取ると、言った。

『お帰り、ヒロくん』

「はぁ? お帰りって、オレは去年からずっとこっちに住んでるじゃねーか」

 私が黙って首を横に振ると、彼は訳わかんねーと言いながら苦笑した。


 彼の帰る場所は、私のあるところでありたいから……だから、私は言うよ。

 ヒロくん、お帰り。










――――――――――完―――――――――

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