第75話 城内を侵食する闇

 青海城内の奥御殿には二人の奥女中取締おくじょちゅうとりしまりがいる。ひとりは、輿入れの際、赤城からやってきて、正室・尚姫付きの女中たちを束ねる桜野さくらのであり、もうひとりは、藩主・義茂よしもち付きの女中たちを束ねる早波はやなみだ。


 早波は奥御殿ここへ絵都がやってきたときから、敵意を剥き出しにしていた。奥御殿へ上がった際の挨拶回りに彼女の部屋を訪れた時には、ひと言も口を利かず、目を合わせもしなかった。


「なんなの、あの早波って人」


 絵都は部屋を出た後、思わず口にしてしまった。


「早波さまは……わたしたちのことをだと思ってるんです」


 思いがけず独り言に返事があって驚いた。見ると、女中頭格の身分で勤めることになった絵都お付きの若女中だというももと目があった。くりくりっとした目が可愛らしいまだ十七歳になったばかりの娘だ。


「敵って……」

「早波さまは、尚姫さまにお子ができたことを喜んでいないんです」


 形のよい眉と眉のあいだに、悲しそうな陰を作って声を低くする。御殿の廊下ではだれが聞いているか分からない。


「喜ばない……どうして?」

「早波さまが、義明よしあきさまの乳母めのとを務めてきたからです」


 あっと思った。義明さまとは、先年元服を済ませたばかりの現藩主・義茂よしもちの一人息子である。早波は、その義明が元服するまでの養育係――乳母だったのだ。義明に対する情愛は人一倍に違いない。


「生まれてくるお子が、もし男の子であったら……義茂さまは生まれた男の子を嫡子に据えるだろうと、もっぱらの噂です」


 先の奥方さまとは、仲がよろしくなかったから――と百の声がさらに低くなって消えてしまいそうである。藩の表にまでは漏れてこない、城内御殿にわだかまる闇を語っているからだ。そうか。藩主・義茂と病で亡くなった先の正室との間はそれほどまでに冷え込んでいたのか。


「ということは、義明さまの乳母である早波……さまにとって、尚姫さまとお腹のお子は邪魔者?」

「はい」

「尚姫さま付きである桜野さま配下のわたしは、早波さまにとってのというわけ?」

「……はい」


 あの時、嫌な予感がしたのである。いや、予感というのはおかしい。はっきりとは自覚しなかったものの、この時、奥御殿に渦巻く禍々しい気配を感じた。一瞬それに触れた絵都は、慌てて手を引っ込めたのだ。


 絵都が奥御殿に入った後「敵」の放つ悪意は、すぐに形を成して絵都や百たち、尚姫に仕える奥女中に襲い掛かった。


 奥御殿のあちらこちらに、尚姫とお腹を子どもを呪詛する言葉が綴られた紙が置かれるようになったのだ。御殿の柱に人形が打ち付けられていたこともあった。


「実は、絵都さまが来られる前にも同じようなことがありました」


 百の話によれば、奥御殿ではじめて柱に打ち付けられた藁人形が見つかった時は大騒ぎになり、その噂が尚姫の耳に入ってしまったのだという。


「お可哀想に、噂をお聞きになった尚姫さまは動転の余り気を失われてしまって。すぐに気づかれて大事には至らなかったのですが」


 お腹の子どもになにかあっては大事おおごとだと奥御殿じゅうが震え上がった。


 ――ああ、それで尚姫さまはわたしに助けを求める手紙を、桜野さまに託したのか。


 以来、立て続けに尚姫を呪詛する落書きが見つかった。『殺』や『呪』、『死』といったいった不吉な言葉が、御殿や廊下の壁、ときには天井板に書き込まれるのだ。いずれも、尚姫とお腹の子どもに対する強い悪意に満ちていた。


「いったい何者が」


 場所は、男子禁制が徹底され、出入りが厳しく制限されている青み城内の奥御殿である。外からやってきた者によるものとは考えにくかった。尚姫を呪詛し、あわよくばその出産を妨げようとする者は城内にいる。


「最初に、御殿で藁人形を見つけたのは?」

「それが……」


 絵都に尋ねられた百は、その可愛らしい顔にはじめて困惑した表情を浮かべた。それはであり、もっとも疑われるべきはずの早波配下の奥女中だったという。


「女中頭を勤める紫央しおどのという方です」

「紫央――どの」


 どうしてだか、絵都たちを取り巻く空気が一段重く、冷たくなった気がした。夕暮れ迫る御殿の長廊下のそこかしこで、闇がわだかまりはじめていた。


(つづく)

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真・青海剣客伝 藤光 @gigan_280614

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