第74話 御殿に巣食う悪意

「絵都さま……おはようございます……絵都さま」


 まだ夜は明けきってきっておらず、空は暗い。奥御殿に与えられた小さな自室で朝の支度をしていると、若い女中のももが現れて襖越しに絵都を呼んだ。低く押し殺したその声には隠せない切迫感がこもっている。


 ――またか。


 絵都を取り巻く、朝の空気が一段と冷たくなったように感じられる。今度はいったいなんだろう。


「今度はどこなの?」

「御殿とお城との渡り廊下、その突き当たりでございます」

「分かりました。すぐ支度するので待っていて」


 渡り廊下の突き当たりだなんて、だんだんと大胆になってきたわ。以前よりずっと人目につきやすいじゃない――。


 身支度を終えて部屋を出、すでに着物を襷掛けにしている百に案内させてに向かう。渡り廊下の突き当たりは、物置き代わりに使われている暗い一角だった。


「ここです」


 文机や行燈などが積み上げられた廊下の突き当たりは、折れ曲がっていて昼間でも光が差さない。百の指差したその壁に、あかく大きな文字が描かれていた。


『呪』――と。


 広く白い壁に、大きく朱墨で描かれている様子のがいっそう禍々しく、ひと目見て背筋が寒くなった。まだ書かれて間がないのだろう、床にまで垂れた朱墨は濡れている。不安そうに見つめる若い百の顔が青ざめていた。強い悪意が込められた悪戯だ――いや、これはすでに「呪い」か。


「すぐに消しましょう。わたしが文字を壁から削り取ります。ももは壁を塗り直して」

「はい」


 絵都は袂から襷を取り出すと、手早く着物の袖をたくし上げた。早くしないと夜が明ける。人目にもつきやすくなる。奥御殿に「呪い」だなどという噂が駆け巡って、やがて尚姫さまの耳に入るだろう。


 ――そんなことはさせない。


 背にかけた襷をきゅっと絞ると、懐から手拭いと小刀を取り出して壁の文字に取りついた。もうこれで何度目だろう? 尚姫に投げつけられた呪いの言葉を始末するのは。



「今朝は早くからご苦労さまでした」


 その日の午後、絵都の姿は奥女中取締おくじょちゅうとりしまり桜野さくらのの部屋にあった。お茶菓子をそばに置いて差し向かいで座っている。人払いされた部屋の隅に控えているのは、絵都付きの若女中、ももただひとり。


「今月は、これでもう……?」

「五度目です」

「まあ」


 もうそんなにもなったのかしら――おっとりと桜野は驚いているが、現場での対応に当っている絵都にしてみれば、「いい加減にしろ」と声を荒げたくなる。絵都の顔色が変わったのを見て、お腹が減っているとでも思ったのだろうか、「まずはおひとつ摘んでみてはいかが?」などと勧めてくる。もっとも、お腹が空いているのは確かなので、絵都もいただくのにやぶさかではないのだが……。うん、美味しい。


「尚姫さまのお耳には?」

「幸い見つけたのが早く、ご存じありません」

「よかった」

「朝早くから骨を折っていただいた絵都さまのお陰でございます」


 楊枝をもった手の爪に、まだ白い漆喰が残っている。まさか奥勤めに上がって壁塗り職人の真似事をしようとは。しかし、懐妊している尚姫は、いまが非常に難しい時期で体調も精神的にも安定していない。少しの刺激も避けたいのだ。それが――。


「こんなにも御殿内にが続いたのでは、いずれ姫さまのお耳に入るのではと、気が気でありません」


 桜野は「落書」と含みを持たせた言い方をするが、そのありようは尚姫とお腹の子に対する「呪い」に他ならない。これまでにも奥御殿の壁やら天井やらに『死』だの『殺』だの忌まわしい言葉が書き付けられているのを見つけては、絵都と百とが人知れず始末してきたのである。


「この度のも?」

「何者によるものかは、分かりません。ですけれど、おそらくはこの度も――」

早波はやなみさまが」

「しっ……」


 絵都は唇に指を当てて桜野に注意を促した。人払いしてあるとはいえ、どこに人の目があり耳があるか知れたものではない。それが城内の奥御殿というところである。ここへやってきて一ヶ月、絵都はそのことを痛感していた。ここでは秘密の話ほど噂として漏れるのが早いのだ。


 もっとも、絵都や桜野のが、早波はやなみであることは隠しようのない事実として認識されているのだが。


(つづく)

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