第74話 御殿に巣食う悪意
「絵都さま……おはようございます……絵都さま」
まだ夜は明けきってきっておらず、空は暗い。奥御殿に与えられた小さな自室で朝の支度をしていると、若い女中の
――またか。
絵都を取り巻く、朝の空気が一段と冷たくなったように感じられる。今度はいったいなんだろう。
「今度はどこなの?」
「御殿とお城との渡り廊下、その突き当たりでございます」
「分かりました。すぐ支度するので待っていて」
渡り廊下の突き当たりだなんて、だんだんと大胆になってきたわ。以前よりずっと人目につきやすいじゃない――。
身支度を終えて部屋を出、すでに着物を襷掛けにしている百に案内させて現場に向かう。渡り廊下の突き当たりは、物置き代わりに使われている暗い一角だった。
「ここです」
文机や行燈などが積み上げられた廊下の突き当たりは、折れ曲がっていて昼間でも光が差さない。百の指差したその壁に、
『呪』――と。
広く白い壁に、大きく朱墨で描かれている様子のがいっそう禍々しく、ひと目見て背筋が寒くなった。まだ書かれて間がないのだろう、床にまで垂れた朱墨は濡れている。不安そうに見つめる若い百の顔が青ざめていた。強い悪意が込められた悪戯だ――いや、これはすでに「呪い」か。
「すぐに消しましょう。わたしが文字を壁から削り取ります。
「はい」
絵都は袂から襷を取り出すと、手早く着物の袖をたくし上げた。早くしないと夜が明ける。人目にもつきやすくなる。奥御殿に「呪い」だなどという噂が駆け巡って、やがて尚姫さまの耳に入るだろう。
――そんなことはさせない。
背にかけた襷をきゅっと絞ると、懐から手拭いと小刀を取り出して壁の文字に取りついた。もうこれで何度目だろう? 尚姫に投げつけられた呪いの言葉を始末するのは。
☆
「今朝は早くからご苦労さまでした」
その日の午後、絵都の姿は
「今月は、これでもう……?」
「五度目です」
「まあ」
もうそんなにもなったのかしら――おっとりと桜野は驚いているが、現場での対応に当っている絵都にしてみれば、「いい加減にしろ」と声を荒げたくなる。絵都の顔色が変わったのを見て、お腹が減っているとでも思ったのだろうか、「まずはおひとつ摘んでみてはいかが?」などと勧めてくる。もっとも、お腹が空いているのは確かなので、絵都もいただくのにやぶさかではないのだが……。うん、美味しい。
「尚姫さまのお耳には?」
「幸い見つけたのが早く、ご存じありません」
「よかった」
「朝早くから骨を折っていただいた絵都さまのお陰でございます」
楊枝をもった手の爪に、まだ白い漆喰が残っている。まさか奥勤めに上がって壁塗り職人の真似事をしようとは。しかし、懐妊している尚姫は、いまが非常に難しい時期で体調も精神的にも安定していない。少しの刺激も避けたいのだ。それが――。
「こんなにも御殿内に落書が続いたのでは、いずれ姫さまのお耳に入るのではと、気が気でありません」
桜野は「落書」と含みを持たせた言い方をするが、そのありようは尚姫とお腹の子に対する「呪い」に他ならない。これまでにも奥御殿の壁やら天井やらに『死』だの『殺』だの忌まわしい言葉が書き付けられているのを見つけては、絵都と百とが人知れず始末してきたのである。
「この度の落書も?」
「何者によるものかは、分かりません。ですけれど、おそらくはこの度も――」
「
「しっ……」
絵都は唇に指を当てて桜野に注意を促した。人払いしてあるとはいえ、どこに人の目があり耳があるか知れたものではない。それが城内の奥御殿というところである。ここへやってきて一ヶ月、絵都はそのことを痛感していた。ここでは秘密の話ほど噂として漏れるのが早いのだ。
もっとも、絵都や桜野の敵が、もうひとりの奥女中取締、
(つづく)
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