第73話 尚姫からの手紙

「お断りします」


 絵都は、城内奥御殿の状況を調べてほしいという橘厳慎からの依頼を言下に断った。


「お前……ことは藩の大事だ。もう少し考えてから返事をしてもいいのではないか?」

「時間をかけても同じです」


 兵庫が苦々しそうな顔で自分を見るのも構わない。


「しかし、絵都……」

「お話がこれだけでしたら失礼します。夕飯の支度もありますから」


 ひとつ頭を下げると、さっさと兄の部屋を出てしまった。夕飯の支度はあらかた終えていたのだが。


 中庭に面した廊下から、屋根のひさし越しに見える空は青く、冴えた空気のなか、道場からはいつものように竹刀を打ち合わせる音が聞こえてくる。


 ――まったく、男の人というのは。


 絵都は怒っていた。

 ただそれは、お城の奥御殿で働くようにと命じられたことに対してではない。


 ――尚姫さまのことを何ひとつ気にかけていないなんて。


 尚姫は、まだ十九。生まれ育った赤城から遠く離れた青海へ輿入れして二年。頼りになる者の少ないこの地で初めての出産だ。心細い思いをしているところへ、兄の言うような騒動が起きているとなれば、大変な不安を抱えているはずだ。


 可憐と言っていい年頃の尚姫の心中を考えれば、命じられるまでもなく奥御殿へ伺ってお世話をしてあげたいところだが、橘家老や兄たち、男の人の頭の中は藩内外の政治や争いごとのことばかり。絵都のことも奥御殿や尚姫の様子を探って伝える間諜スパイ程度に考えているのだろう。


 ――無神経なんだから。


 そうしてぼんやり廊下に立っているところへ、道場の方から男がやってきた。稽古着を着た男は、師範代の本間蓮太郎ほんまれんたろうだ。絵都を見つけてほっとした様子だった。


「よかった。奥にはおられなかったので探しました」

「どうかしましたか」


 本間が言うには、絵都に来客だという。


「わたしに?」

「はい。お供を連れた女性の方です」

 

 慌てて勝手口に向かうと、そこに待っていたのは、品のいい立ち姿をした武家の女だった。小女をひとりお供に連れている。


「ごきげんよう」

桜野さくらのさま!」

「絵都さま、お会いしとうございました」


 深々と頭を下げるその女は、青海藩の奥御殿で働く奥女中たちの取りまとめ役である奥女中総取締おくじょちゅうそうとりしまり、桜野だった。


「ご無沙汰しています。お元気にされていましたか。このたびは尚姫さまのご懐妊、おめでとうございます」


 奥の座敷で対面した絵都と桜野は、改めて深々と礼を交わした。


「ありがとうございます。絵都さまもお元気そうで、安心いたしました。長崎で命を救っていただいたこと、尚姫さまと思い出しては折々に語り合っております」


 桜野は、輿入れしてきた尚姫御付きの奥女中で赤城藩から共にやってきた。青海では数少ない尚姫の理解者である。ひとしきり、長崎での出来事など思い出話に花を咲かせたところで、桜野が今回、斎道場を訪ねてきた理由について切り出した。


「本日、伺いましたのはほかでもございません。尚姫さまが、是非、絵都さまに奥御殿へいらしてほしいとの思し召し」

「尚姫さまが?」


 驚いた。一日に二度も城内奥御殿への出仕を要請されるとは。しかも二度目は奥御殿の主人である尚姫から直々に。


「尚姫さまから預かってきております」


 そう言って桜野が差し出したのは、尚姫から絵都に宛てた手紙だった。その優美な手跡は確かに尚姫のものだ。読むと、時候の挨拶に始まり、長崎で身を守ってくれたことへの礼が厚く述べられた後に、身体に子を宿してうれしいこと、反面、それを境に奥御殿で奇怪な出来事が起こるようになり、とても恐ろしい思いをしていることが綴られ――。


『毎日、怖い思いをしております。無理なお願いとは分かっていますが、絵都さまどうか奥御殿へいらして。わたしとお腹の子どもを守ってください。お願いします』


と結ばれていた。


 兄の兵庫によると、流言や怪文書の類は尚姫に知られぬうちに橘家老が部下に命じて始末させているとのことだったが、聡明な尚姫には、すでに知られてしまっているのだ。


 味方の少ない奥御殿で身重の身体を抱え、心細い思いをしている尚姫の姿が目に浮かぶようだ。


 ――おいたわしい。


「絵都さま……。尚姫さまに力を貸していただけないでしょうか」


 桜野からそう言われるまでもなく、絵都は腹を決めていた。兄や家老たちの思惑など知ったことではないが、奥御殿へ出仕しよう。あそこ伏魔殿で何が起こっているのか、この目で見届けるのだ。


 ――尚姫とお腹の御子は、わたしが守ってみせる!


(つづく)

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