第72話 騒動のはじまり
悪い噂は千里を走るというが、青海藩、宝川家の正室・尚姫が懐妊したという噂は、果たして良い噂なのかそれとも悪い噂なのか――。
青海城下の
「耳が早いな。お前、どこからその話を聞いてきた」
「樅木の
今朝、槇から届いた手紙で尚姫の懐妊を知った。先年、藩の正室・尚姫が藩主に従って長崎へ赴いた際、絵都が尚姫の身辺警護に当たったことを知っている槇が、わざわざ報せてくれたのである。
「むしろ、いま知ったお兄様が遅かったのではないですか?」
「ふむ、悪事は千里を走るというからな。悪い噂は人づてに伝わるのが早い」
「悪い噂なわけありません。藩のご正室におめでたがあったのですよ。喜ばしいことに決まっています」
「それはそうだが、立場が異なれば、慶事も凶事にすり替わるからな」
尚姫は、先年妻を亡くした青海藩主・
「そこへ尚姫さまご懐妊のしらせ。ますます義茂さまと海北家の繋がりは強くなるだろう。正室のおめでたは、たしかに慶事にちがいないが、こと攘夷、保守派にとっては凶事であろうよ」
「そういうものですか」
絵都に藩の政治のことはよく分からない。しかし、どうも風向きがおかしいことはなんとなく分かってきた。そもそも、なぜわたしは兄の部屋へ呼ばれたのかしら。尚姫さまのご懐妊――わざわざ城内の噂話を聞かせてくれるような兄ではないはずだが?
「奥へ勤めに上がらんか」
「は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。奥勤め……。
「それはお城の奥御殿で働けということですか?」
「そうだ。じつは彦右衛門から話があってな。ぜひ、お前に奥御殿へ入ってもらいたいということだ」
「また……ですか」
またというのは、先年尚姫が長崎へ赴いた際、身辺警護ために絵都が一時的に奥勤めに上がったことを指している。奥御殿でのお勤めは、細かい決まりやしきたりが多く、体力以上に気を使う。頭が良くて、気配りのできる女こそが、求められている所だ。
「とても、わたしに奥勤めが向いているとは思えませんが……」
「それは承知の上だ」
――まあ、失礼。
兵庫の言葉には、絵都に対する配慮がやや欠けている。
「尚姫さまのご懐妊は、おめでたいことではあるが、藩内の保守派と開国派のあいだに新たな亀裂を生じさせている。詳しくは彦右衛門も語りはせぬが、すでに藩公に近い者たちの間では不穏な動きがあるようだ」
「不穏な?」
「……嫡子、
「まさか」
藩主義茂には、代々家老職を務める小倉家からきた先妻とのあいだにもうけた子どもが三人いる。そのうち十七歳になる男子が、嫡子、義明だ。城下では悪い噂を聞くことがない代わりに、良い話を聞くこともない。暗愚ではないが、まず凡庸な跡取りであろうと絵都は思っていた。
「なんの理由があって」
「理由など、後からいくらでもつけられる。要は藩内の主導権争いだ。彦右衛門が家老職筆頭に抜擢された前後から、藩内では保守派と開国派の綱引きが激しくなっていてな。
いまの藩主、義茂様が彦右衛門の改革政策を支持していることもあって、現在は開国派の意見が通りやすい。しかし、保守派は藩内の多数派であるし、譜代の重臣も多い。危ういながらも、両派はちょうど釣り合いがとれていたのだ」
「それが尚姫さまのご懐妊で……」
「うむ、開国派が勢いを得て均衡が崩れはじめた。尚姫さまに男子が生まれることを見越して、義明さま追い落としにかかる者たちが出てきたのだ」
いまはそんなことに
「奥御殿の内情は、表で働く男たちには分からぬ部分が多いからな。そう。内部に入り込まない限りは……」
「そこで橘さまが、わたしに奥女中となって御殿の内情を探れ――と」
「先の長崎での一件では、よく尚姫さまをお守りして、藩公からの厚いと聞いている。今回の件、お前が奥御殿に入って調査してくれれば、これほど頼もしいことない――というのが、彦右衛門からの言葉だ」
一昨年の長州征討により、一旦は幕府に恭順を示した長州藩だったが、その後内乱や政変が続き、反幕府勢力が政権を握った。いま西国を舞台に再び「幕府対長州」の緊張感が高まっている。青海藩としても、世情が騒然とするこの時に、跡取りの座を巡る内輪揉めなどしている場合ではない。
「青海藩のため、奥御殿で働いてくれるな?」
やや大げさかもしれないが、絵都の両肩に青海藩の将来がかかっている――といってよかった。
(つづく)
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