第71話 騒動への助走

 ――伽耶かや


 名を呼ばれたような気がして目を覚ました。夜具の上に身を起こすと、濃い阿片の香りが沈澱する暗がりのなか、臥所を共にしている老人の割れた笛から漏れてくるような寝息が聞こえてきた。呼んだのはこの男でなさそうだ。


 夜も半ばを過ぎているのだろう。月の影は大きく傾き、建て付けの良くない雨戸の隙間からいく筋かの光を部屋の中へ差し入れていた。白い光の筋が磨き上げられた床を冷たく輝かせている。


 不意に彼女を「伽耶」と名付けて呼ぶようになった男のことを思った。彼女を暗闇から掬いあげてくれた、たまらなく愛おしい男。


 ――伽耶。


 そういえば、この部屋の光景は山の王の棲み処と似ている。暗い部屋、冷たい床、愚かで残酷な人たち。


 ――今日からお前の名は「伽耶」だ。返事をしなさい――伽耶。


「はい」


 伽耶の小さな声に豪奢な襖で隔てられた隣室で人の気配が動いた。青海の繊細で美しい四季が描き込まれた襖絵。彼女は自分が山の王の棲み処ではなく、青海山の中程にある奇妙公の山御殿にいることを思い出した。畳を踏むかすかな音が近づいてくる。


「目を覚ましているのか――

「伽耶だ」


 襖が薄く開いて揺れる火影が畳の上に広がった。伽耶の隣で眠っている奇妙公を橙色に浮かび上がらせた。顔や手足を覆う無数の皺のあいだに濃い影が走る。それは阿片中毒者に刻まれた死へ至る刻印だ。


……」

「よせ、わたしの名は伽耶だ。いま行く、入ってくるな」


 眠っている奇妙公を起こさないように気をつけながら夜具を抜け出すと、手探りで身支度を済ませ滑るように隣室へ抜け出すと、黒づくめの忍び装束に手燭を提げた若い男が伽耶を待っていた。


「なんの用だ、球磨くま。ここへ男はやってくるなと申し渡されているはずだ」

「はじめてやってきたが、さながら奇妙公を押し込めるために作られた監獄のような部屋だな。そんなに恐ろしい奴なのか、そこの死にかけの老人は」


 音を立てぬよう、そっと後ろ手に襖を閉めた。いつ奇妙公が目を覚ますとも限らない。球磨は思慮の足りない男だ。


「声を落とせ、球磨。老人が目を覚ますぞ」

「――言っておくが、お前と違っておれはが嫌いだ。おれはもとの名がいい。五番目の子どもだから。それで十分だ、わかりやすい」


 わかりやすい――か。世の中が、白か黒か、善か悪か、すべて球磨の言うとおり分かり易いものであれば、どんなにか生きやすかっただろう。残念ながら、世界はそんなに単純なものではない。だから伽耶はであることをやめて伽耶となったのだし、五郎のことは球磨と呼ぶのである。


「それで、だ」

「ふん。あいつが呼んでいる」


 七分の軽侮と三分の畏怖を込めて球磨があいつと呼ぶのは奇妙公の股肱にして、伽耶たちに名を与えた板野新二郎に他ならない。


「板野さまが!」

「うれしそうに声をあげるな。おれたちにこの山御殿へ集まれとの命令だ。まったく、何があったのか知らんがこんな夜中に迷惑なことだ」


 球磨に先導される形で連れていかれたのは、奇妙公の山屋敷のなかで最も北端にある一角、板野新二郎が私室として使っている簡素な部屋だった。奇妙公の寝室とは対照的に、白無地の襖を四方に巡らせた部屋には、火鉢と机のほか、調度と呼べるものは何もない。球磨に続いて、加耶が部屋に足を踏み入れるとすんと炭の匂いが鼻を衝いた。暖かい部屋では男がふたり加耶たちを待っていた。


火火兎ひびと香我美かがみ!」


 山の王の棲み処では、火火兎は、香我美はと呼ばれていた、五郎だった球磨を含めた皆、加耶のたちである。


「どうしてここに……?」

「もちろん、われらが主人に呼ばれたからさ」

「久しぶりだな、加耶。しばらく見ないうちに女らしくなった。女は化けるというが、ほんとうだな」


 背が高く、痩せぎすで、もっとも年長の男が火火兎。それとは対照的にずんぐりとした小男で、頬に笑みを絶やさないのが香我美。幼い頃、加耶が山の王の棲み処へ連れられて以来、ずっと面倒を見てくれていたたちだ。しかし、きょうだいたちが全員集められているのだとしたら、もうひとり、ここには見えない姿がある。


がいない」

紫央しおだ」

「彼女はまだだ」


 そのとき、部屋の奥へと通じる襖が開き、奥女中のなりをした若い女を引き連れた武士が部屋へ入ってきた。年の頃は三十半ばから四十手前だろうか、一振りの研ぎ澄まされた刀を思わせる風貌のこの武士こそ、加耶と四人のきょうだいたちの主人、板野新二郎だった。


 板野と共に部屋へ入ってきた奥女中が、衣擦れの音も華麗に彼の足元に跪いた。さいごに部屋へ現れた奥女中姿の女もであり、いまでは加耶のたったひとりの女きょうだいとなってしまった、紫央だった。


「皆、そろっているようだな」


 板野新二郎が口を開くと、きょうだいたちは全員紫央に倣ってその場に跪き、頭を垂れた。


「こんな夜更けにお前たちを集めたのは他でもない。長い間、おれが待ち続けて知らせが、今夜、城内からもたらされた」


 板野新二郎の声は落ち着いていたが、普段から身近に接している伽耶には、板野の興奮と緊張が伝わってきた。言葉の端々が震えているのだ。


「紫央の手柄だ」


 板野の足元に蹲っている紫央が、いっそう身体を縮めるように頭を下げた。彼女は長崎で殺された未那都と代わって、青海城内の奥御殿に潜入している。いったい紫央がなにを。


「尚姫が藩主の子を身籠った」


 もしその子が男子であるなら……青海は藩主の跡継ぎを巡って分裂する、藩は真っ二つに割れるだろう。


「それこそ、おれが待ち望んでいた時。この青海藩をひっくり返すための隙が生まれる時だ」


 板野の言葉を聞いていた伽耶は自分の身体が、芯から震えるのを感じた。あの時、加耶たちが山を下りると決めた時、山の王が言っていた通りのことが起ころうとしていた。


 ――板野新二郎この男は天地を逆さまにする男だ。お前たちは、この男の業を助けるため、山を下りるのだ。


 板野新二郎は自身もその場に跪くと五人の男女それぞれに頭を上げる命じた。促されて顔を上げた加耶の目とぶつかった板野の目が熱く潤んでいた。


「おれに力を貸してくれ――我ら六人で青海を手に入れよう」


 ああ、わたしはこの人のために生き、そして死ぬだろう。


(つづく)

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