名前はまだない

悠井すみれ

薔薇の名前

 幼いころ、私の世界は薔薇色だった。子供の悩みや憂いのなさの喩えではない。そもそも薔薇の色というのは、絵の具や色鉛筆みたいに赤い色だとは限らない。


 「アイスバーグ」は、氷山の名の通りにひんやりとした白。ペンギンが遊びシロクマが寝そべる氷山の中には、白い小さな薔薇が詰まっているのだ。もしも南極の氷が溶けたら、途方に暮れたペンギンが、海にあふれる薔薇をつついて首を傾げるのかもしれない。


 「ラバグルート」の意味は、灼熱の溶岩。炎よりもなお熱く煮えたぎる赤の色は濃く強く、時に黒みを帯びてさえ見える。火山の火口で燃え溶ける薔薇の花のイメージは、煮詰められるジャムみたい。きっと、濃い甘さの中にスパイシーな火花が弾ける味だ。


 「マリア・カラス」──からすというのに、明るく華やかなピンク色なのが不思議だった。けれど、昔の外国の歌姫の名前だと教えられて腑に落ちた。「彼女」が演じた物語を彩るのは、遠い国や時代の戦争、病、復讐、別離、身を焦がす恋。マリア・カラスの薔薇の色は、歌姫が演じた女たちの、激しい情熱の色なのだ。


 夕焼けを見れば「ポリネシアン・サンセット」の香りと共に南国の海に沈む太陽を思った。「伊豆の踊子」は、その名の薔薇と同じ、明るい黄色の着物だったはず。オリンピックの報道に触れるにつけ、「聖火」の花弁の、白と紅のあわいが浮かんで胸がときめいた。薔薇の名前と色と意味とを結び付けることで、私の世界は色鮮やかな空想に彩られたのだ。


 そのような見方を教えてくれたのは、園芸を趣味にしていた祖父だった。


 誰もが思い浮かべる剣弁高芯咲きの、いわゆる薔薇色をした花だけが薔薇ではない。素朴な一重咲き、丸いシルエットが可愛らしいカップ咲き、お姫様のドレスの襞のように花弁が密集したロゼッタ咲き。様々な形の様々な色の花たちに、作出者はその佇まいを端的に表した名を与える。そして初めて薔薇は完成する。その名に秘められた物語を知り、そこからイメージを膨らませるからこそ、私の世界は薔薇色だったのだ。




 祖父の授業は、主に神代植物公園で行われた。ばら園を散策しながら、それぞれの品種やその由来にまつわるエピソードを教えてくれたのだ。それらをヒントに即興で物語を紡ぐのは楽しく、発想を祖父に褒められては得意になるのが私の常だった。

 ただ、その日祖父に連れて行かれた一角は、私が好むところではなかった。新品種コンクールに出展された苗が植えられたその花壇には、品種名や来歴の案内が添えられていないのだ。ばら園のほかの花壇と同じ手入れをされ、同じく美しく芳しい花が咲いているとしても、私の想像を刺激する最後のピースがまだ足りない。名前のない薔薇は、そのころの私にとっては未知のヴェールの向こう側の、どこかぼやけた存在だった。


 孫の浮かない顔には気付かないまま、祖父はその花壇を覗き込む男の人に近付くと気さくに声をかけた。当たり障りのない挨拶の後、その人は私に目を向けた。


「可愛いお嬢さんですね。──先生の、お孫さんですか?」


 祖父は教師ではなかったが、園芸の知識を見込まれて人に教えることもあったらしい。その男の人は農学を専攻する学生で、薔薇の交配の研究で生まれた花を、コンクールに出展していたのだとか。私がそのような事情を知ったのは、後になってからだったけれど。


「娘のところの美優みゆです。薔薇が好きでね、ここの品種は全部覚えている」

「へえ、それはすごい」


 その時の私は、何年生だったか。十歳にはなっていなかっただろう。知らない男の人にいきなり話しかけられるなんて、恥ずかしい。そんな年ごろだ。祖父の陰に隠れて、まともに挨拶をすることもできない私に気を悪くした風もなく、その人は優しく微笑んだ。


「美優ちゃんだったら、この花にどんな名前をつけてくれるかな?」

「名前」

「うん。この花、まだ名前がないんだ。ゼミで多数決になるんだけど、良い案があれば」


 鸚鵡のように繰り返した私に、その人は辛抱強く笑みを保った。祖父も、横から勝手なことを言ってくれた、と思う。子供の羞恥心を、ますます掻き立てるようなことを。


「そうだ、いつも素敵なお話を考えてるじゃないか。美優ならできるだろう?」


 彼の目の中に、ぽかんとした顔の私が映っていた。呑み込みの悪い子供の顔だ。彼は私に目線を合わせて語りかけてくれていたのに、思い返すだけでも居たたまれない。でも、だって、私は愕然としていたのだ。良い案なんて何ひとつ浮かばないということに。


「分かんない」


 顔が熱くなるのを感じながら、やっと、それだけを呟いた。彼には聞こえないくらいのか細い声だったかもしれない。それは、人見知りだけが理由では、なかった。

 薔薇に新しく名前をつけるなんて発想は、それまでの私には微塵もなかったのだ。

 薔薇色の世界は私の宝物だった。両親も友達も先生も知らない、私だけの美しい空想。それが、急に色褪せた。私は人が描いた世界に塗り絵をしていただけ、決して、自力で描いた訳でもその色を作った訳でもなかった。不意にそう気付いてしまったのだ。


「無理しなくて良いよ。薔薇はどんな名前でも良い香りだって──言いますよね?」

「シェイクスピアだね。ほら、『スウィート・ジュリエット』は知ってるだろう?」


 その人と祖父が気を遣ってくれたのがまた惨めで、私は黙って俯いていた。背伸びしたお話を知っていたからって、何の自慢になるだろう。祖父と違って、私は薔薇を咲かせられない。その人と違って、新しい花を生み出せる訳でもないのに。


 何と言われようと、私の薔薇色の世界は終わってしまった。それを、静かに悼んでいたのだ。ただ、幼く美しい世界の名残のように、マリア・カラスの鮮烈な花の色が目蓋を灼いた、と思った。彼の薔薇の色も形も、覚える余裕なんてなかったのに不思議なことだ。




 白い日傘をくるくると回しながら、私は植物公園のばら園を歩く。何年経っても、薔薇の色も香りも変わらない。高台の東屋から大温室を望むと、右手にコンクール出展中の薔薇の花壇があるのも、同じ。その傍らで、私に手を振る人は──年齢相応に、大人びたのだろうか。大学も院も卒業して、今は学生に教える立場になっているそうだ。そして、彼の目に映る私はどうだろう。少なくとも、笑顔で挨拶ができるようにはなったけれど。


「こんにちは。祖父がよろしくと言っていました」

「ありがとう、わざわざ。……先生の具合は?」

「そんなに悪くもないんですけど。薔薇の写真、撮らせてください。きっと喜ぶから」

「うん、もちろん。それはもう」


 この十年ほどの間に祖父は老いて、身体も衰えた。それでも薔薇への情熱は変わらないから、私を名代に遣わしたのだ。今回の彼の薔薇は、ウェディングケーキに載ったキャンディのリボンを思わせる、艶やかなピンク色の大輪の花。彼はもう何度も新しい色と香りをこの世に送り出している。それを最初に知る人間のひとりになれるのは、光栄だ。


「この子の名前は? 何が良いかな」

「どうでしょうね……なかなか、思いつかないですけど」


 スマホのシャッター音が響くこと数度。私が首を振ると、彼は残念そうに肩を落とした。


「美優ちゃんのインスピレーションを刺激する花にはなっていないか……」


 祖父が最初に語った印象を、彼はいまだに持ち続けているらしい。彼にとって、私は空想癖のある子供のまま。薔薇の名付け親どころか、自分自身の感情に名前をつけることもできないのを、彼はまったく知らないのだ。成長にも気付いてもらえているかどうか。


「良いじゃないですか。名前がなくても綺麗なんだし」


 この感情の名は──初恋、というほど甘くはないだろう。あの時閃いたマリア・カラスの薔薇の色は、ひと目惚れを疑った私が後からこしらえた幻に過ぎないはず。あの時の私は薔薇色の世界の終焉に打ちひしがれて、それどころではなかったのだから。

 ただ、彼の言葉は覚えている。どんな名で呼んでも薔薇は芳しい。それなら名前がなくたって。物語がなくたって。ただ、ありのままの薔薇を愛でれば良い。


「シェイクスピアだっけ? さすが、よく知ってるね」


 違う。貴方の言葉なのに。私の世界を蘇らせてくれた言葉なのに。


「ちょっと違いますけど。でも、そう思うんです」


 少しだけがっかりしながら、私は顔では笑ってまた日傘を回す。白はアイスバーグの薔薇の色。氷の冷気が振ると思うと涼しい気分。その程度の空想は、今の私も遊ばせるのだ。


 彼の薔薇にも私の思いにも、名前はまだない。けれどはっきり決める必要もないだろう。私の世界は前ほど薔薇色ではないけれど、灰色でもない。それで十分じゃないだろうか。

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