髪を解く


 

 化粧室で真っ赤な口紅を塗った。ひと塗りする毎に丁寧にティッシュで押さえて、色落ちしないよう塗り重ねる。塗り終えると、鏡の中の自分を見つめた。

 大丈夫。今、ここにいるのは、ただの女子大生じゃない、モデルの私だ。

 そう自分に言い聞かせる。ドリンクバーでコーヒーのお代わりを注いで席に戻ったところで、日向さんが現れた。


「電光石火の早業ですね」

「何、言ってるの」

 苦笑いを浮かべた日向さんは、「それで、」と口を切った。

「それで、結妃ちゃん、どうしたの?」

 どうしたの? と聞かれたら何と答えようか、考えていなかった訳ではない。それでも考えていた言葉はどこかに消え失せていて、代わりに口から出てきたのはずいぶんと無様な言葉だった。

「考えたくないことほど考えちゃうのは何ででしょうね」

「あ、コーヒーをひとつ」

 横を通り過ぎようとする店員を引き止めてオーダーすると、日向さんは改めて私の顔を見た。

「何、考えてたの?」

「言っていいんですか?」

「いいに決まってるじゃない。っていうか、言いたいことがあるから、わさわざ僕のこと呼び出したんでしょう?」

 日向さんはいつもと変わらぬ柔和な笑顔で答えた。

 私はゆっくりと息を吸いながら、香南の髪を思い浮かべた。あの、栗色の髪を。あの、柔らかく甘い髪を。数時間前までこの手の中にあった、あの髪を。

「……髪が、解けてたんです」

 それだけ言うのが精一杯だった。「髪が。私が編んだ髪が」

「……ああ。あの髪、ね」

 日向さんの目が三日月のように細くなった。

「見せてもらったよ。写真」

 凄いね。あんなに色んな髪、作れるなんて。美大に通ってるだけあって手先も器用なもんだ。今から誰かにつけば、ヘアメイクだってものになるんじゃない? やる気あるならいいひと紹介できるけど?

 あくまでもいつもと変わらない日向さんの態度に酷く苛つく。そのせいで、つい語気が荒くなる。

「そうじゃなくって、」

「そうじゃなくって、何?」

 日向さんの目が、いつの間にかあの時の目に変わっていた。香南を撮った時の、あの、猛禽類みたいな目。

「……そんな話、香南の髪が解けてたのと何の関係もない」

 声が震えそうになるのを喉元で抑え込んだ。

「結妃ちゃん、」

 日向さんの声が低く低く潜る。

「あの髪。『この髪を解けるなら』、って彼女が言ったんだ。『その覚悟があるのなら』って」

「それで、」

 思わずなじるように口にしていた。「日向さんにはあるんですか? その覚悟が」

「きみが見た通りさ」




 香南の髪を編む時。髪を触り、撫ぜながら、思い描く形に少しずつ作り上げていく。香南の描く線を思い浮かべ、心の中でなぞりながら、少しずつ編み込んでいく。

 そうやって私が香南の髪を編んでいる間、では香南は何をしているかと言えば、香南は香南で絵を描いているのだった。何を描くかはその日次第。授業で出された課題のラフの時もあれば、ラフではなく課題そのものを描いている時もあった。ただのいたずら書きの時もある。鏡を見ながら自分の顔を描いていることもあった。そうそう。私の顔も。

 香南が描いているものを私は少ししか見られない。私の目は香南の髪に向き合っているから。香南も私の手元を見ることはほとんどなく、自分の絵を描くことに集中している。私たちはそうやってそれぞれの作業に没頭し、口から溢れる言葉はごくわずかだ。そのわずかな言葉も、たいていの場合、大した意味を持たない。

 そうやってできあがった髪に、香南は感想らしい感想も言わない。ただ「ありがとう」と言って、はにかむくらいだ。私も香南の描いた絵を「見せて」とは言わない。たまに、そう、本当にたまに、香南の方から見せてくれるのを待つだけだ。

 気まぐれだか、納得いく出来だからか、香南が見せてくれる基準がどこにあるのか私には分からない。ただ、何が描かれていたとしても、香南の絵は必ずあの線で描かれている、それだけが変わらない。

 香南の線を経糸に、香南の髪を緯糸に、長い時間をかけて私は織物を織ってきたのだ。ゆっくり丁寧に機を織る。心を込めて機を織る。そうして出来上がった織物を、私は拙い写真で残している。




「髪を解いている時にね、」

 明日の天気でも話すみたいに日向さんは続けた。

「彼女、聞きもしないのに自分から言ってきたんだ。『あの時、私が何、思ってたか分かりますか?』って」

 あの時、っていつだろう。考える間もなく日向さんは言葉を重ねる。

「写真撮る時、僕が彼女に言ったの覚えてる?『一番欲しいもののことを思い浮かべてみて』って」

 ああ、そう言えばそんなこと言ってたっけ。

「『私は”私”が欲しい、ってあの時、思ってました』。そう言ったよ。彼女」

 日向さんが目を細めて私を見た。私のこと値踏みしてるみたいな目。

「てっきり僕は、きみのことでも考えてたのかと思ったけどね」

 そんなこと、私はちらとも思わなかった。そうであったらいいのに、とすら思わなかった。

「それ聞いて思ったよ。やっぱり僕の目は正しい、って。そして結妃ちゃん、やっぱりきみは僕の同類だ、って」

「同類、って何がですか?」

 無性に腹が立った。何が同類だ。私は日向さん、あなたとは違う。

「写真は、見たままを撮ろうとしたら失敗する。見たままなんて撮れやしない。そんなことできないんだ。それに、そんなことをする必要もない。

 写真はね、自分が見たいものを撮るんだ。新しい何か、訴えたい何か、望む何か、欲しい何か。

 だって、ひとは皆、自分が欲しいものしか見えてないでしょう? 欲しいものしか見ないでしょう?」

 そう言われたらそうかもしれない。私は、香南と、香南の絵、香南の線しか見ていない。

「いい加減、諦めなよ。だってもうとっくにふたりとも分かってるんだから」

 そう言うと、日向さんは大きな封筒を取り出してテーブルの上に置いた。

「シャッターを押しながら、ぼくは見たいものを描いた。シャッターを切られながら彼女は欲しいものを心に描いた。そうして出来上がったのが、この写真だ」

 これはきみの分。もちろん、同じものを彼女にも渡したよ。

 笑みを浮かべて、日向さんは立ち上がった。

 封筒を手に、私も席を立つ。




 いつの間にか夕暮れの時間だった。

 店を出ると西日が斜めに長く伸びている。眩しくて目を眇めた。日向さんは「じゃあ、」と片手を上げ、道路を渡っていく。挨拶も返さないまま、私は駅へと向かう。

 脳裏には、あの日の香南。立ち姿から描いていた絵からあの線から光り輝く髪から何から何まで丸ごと全部、今も目に焼き付いたまま離れない。

 それを全部、撮ろうと思った。

 だって、見たいものを撮れるんでしょう? 欲しいものを撮れるんでしょう?

 だったら私が一番見たいものは、結局、誰が何と言おうと、あの時の全てだ。欲しいものはあの時の全てだ。


 カメラを買おう。髪を編むのは、もうやめだ。代わりにカメラで、今度は見たいものを撮る。私が見たい、欲しいものを。

 心の中で誓いながら、封筒を開けた。

 何枚か入った中、一番上にあった写真に、香南と私、ふたりが写っていた。

 写真の中で、私の手が香南の頬に伸び、それはまるで絡まり合う蔦の葉のようだった。そうして、一枚の紙の上で、私たちは分かちがたくひとつだった。ふたりのシルエットは、そのまま香南の描く線のように、融けてもつれて涙を流しながら甘くて苦い喘ぎ声を漏らしていた。



 畜生。

 悔しくて、悔しくて、悔しい。あんまり悔しくて、私は空を見上げる。あの日の夕日よりも濃いオレンジが空一面に広がっている。

 畜生。

 心の中でもう一度呟くと、まぶたでシャッターを切った。

 この夕日も忘れない。絶対に絶対に忘れてなるものか。

 いつか必ず私も撮ってやる。私の望む幸せを。私の望む未来を。
















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私の幸せなんてこんなもの。 満つる @ara_ara50

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