髪を編む
モデルの仕事が続いたのと授業の休講がいくつか重なったのとで、美術館からこっち、いつもより少しだけ長く香南に会えない日が続いていた。それだけでどうにも気持ちが落ち着かない。理由なんて要らないから会いに行こうと思った矢先、香南の方から連絡が入った。
『髪を編んで欲しいの』
今まで何度となく編み込みをしてきたけれど、香南の方から頼まれたのはこれが初めてだった。嬉しさより戸惑いの方が大きい。それでも言われるまま駆け付けた。美術館に行く前に寄った、いつものカフェ。同じ席で香南が待っていた。
「急に、ごめんね」
わずかに強張ったような面持ちで、香南がメニューを差し出す。
「予定なかったからいいよ、」
見ないままメニューを押し返して、いつものコーヒーを頼む。
「で、どうしたの?」
「ん。ちょっと」
珍しく香南が口ごもった。そのまま沈黙が流れる。
黙ったまま水の入ったグラスを手にした。中で氷がきらきらと光って見える。グラスをゆっくり回すと、氷がグラスにぶつかる高い音がする。
口をつけないままグラスをテーブルに戻し、笑顔を作って指で横を差した。香南は目元を緩めると、するりと隣に移ってきた。
「で、どんな風にすればいい?」
いつもは私が見つけたり教わったりした形を、香南に尋ねることなく好き勝手に編んでいる。でも、今日はわざわざ頼んでくるくらいだから、何かしてみたい髪型でもあるのだろう。そう思って聞いたのに、香南ときたら「結妃にお任せで」なんて言うから拍子抜けした。
「ほんとに何でもいいの? したいのはないの?」
「んー。だったら、なるべく解きにくいのがいいかな」
ようやくいたずらっ子みたいな笑みを浮かべて香南が言った。
「何、それ」
ふふふ。香南は笑ったまま、それ以上何も言わない。それならと、今までしてきた中で一番手がかかった覚えがあるものに決める。
「結構かかるけど、時間、大丈夫?」
「うん。平気」
ふふふ。笑い声に促されるようにして髪を手に取る。香南の髪はいつものように私の手の中で緩やかに流れてたゆたう。流れる髪がいつになく私の心を泡立たせ、波立たせている。
手をかけ、時間をかけ、気持ちを込めて、髪を編む。今まで幾度となく香南の髪を手にし、編んできた。それでも今日は、今まで以上に丁寧に丁寧に編み込んだ。その間、私たちはいつものようにほとんど口を利かなかった。
テーブルの上でグラスの氷がゆっくりゆっくりと解けていく。解けて増えた水を少しずつ飲みながら香南の髪を編む。コーヒーはとうに飲み終わっている。席でこんなことをしている私たちの所に、店員はやってこない。グラスはとうとう空になった。
「できたよ」
頭の上から声をかけると、香南が見上げるようにして
「ありがと」
そう言って、微笑んだ。
「じゃあ、悪いけど、今日はもう行くね」
いともあっさり口にすると、
「またね」
香南はソファから立ち上がり、手にした伝票ごと手を振った。思いがけない香南の行動に私はただ呆気に取られて、黙ってその背中を見送った。
呆然としていたのはそれほど長くなかったはずだ。我に返ると、急いで後を追って店を出た。香南の後ろ姿がまっすぐに駅へと向かっているのが遠目に見える。
このまま別れる気には到底なれなかった。せめて誰と会うかくらいは知りたかった。私に頼んでまでして編み上げた髪で、一体、誰と。
こんなことするなんてどうかしてる。そう思いながら、それでも後を追った。これがいわゆる”ストーカー”ってやつ? 自嘲気味の笑いが溢れる。多分、香南は駅から電車に乗るんだろう。駅まではともかく、問題はそこからだ。バレずに同じ電車に乗って目的地まで辿り着けるのかどうか。
もし気付かれたら? とにかく謝るしかない。腹を括った。
上り線に乗り込んだ香南は、ターミナル駅で乗り換えた。そこから3駅。降りるとスマホを見ながら歩き出す。見覚えのある駅、見覚えのある道。いつ、何で来たのだろう。思い返しながら後を追う。駅から5分ほど歩いたところでようやく気が付いた。ここはたしか日向さんの事務所兼自宅の近くだ。
日向さんの事務所には仕事で何度か行ったことがあった。その事務所に香南が入っていく。そう言えば日向さん、写真が出来たら渡すって香南に言ってたっけ。ぼんやりと思い出しながら、でも、と思った。
でも、どうして香南は、ここに来ることを私に隠したんだろう。どうしてここに来るのに髪を編んでと頼んだのだろう。どうして香南はひとりで来たのだろう。
どうして、が頭の中を駆け巡る。それこそどうしていいか分からなくなって、事務所の斜向かいにあったファミリーレストランに入った。通りに面した席に座ると、窓の外に事務所の入り口が見える。ドリンクバーとケーキをセットで頼んで、椅子に身体を預けた。
写真を受け取るだけなら大して時間もかからないはずだ。そう思ってコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。それなのに、いくら待っても香南は出てこない。もちろん日向さんもだ。
ぼんやりと外を眺め続ける。時間がのろのろと過ぎていく。席を外している間に香南が出てきたらと思うと、コーヒーのお代わりをしに行く気にもなれない。ドリンクバーにしたのはムダだったか、急いで取ってくれば大丈夫か、それともトイレに行きたくならないよう飲まずにいるのが賢明か、そんなどうでもいいことだけを考えていた。いや、考えるようにしていた。
ずいぶんと長い時間が流れて、ようやく香南らしき人影が現れた。即座に断言できなかったのは、髪のせいだ。
髪が、私が編んだはずの香南の髪が、きれいに解かれ、美しく艶かしく緩やかに波打っていた。
その姿を見て、私の息は止まった。なんで。なんで解かれているのだろう。ついさっき、香南に頼まれてあんなに丁寧に私が編んだ、香南の髪が。
時計を見ると、香南が日向さんの事務所に入ってから2時間以上が過ぎていた。その間、私はコーヒー一杯とケーキひとつを傍らに、ひとり黙って窓の外を眺めていただけだった。
ゆっくりと立ち去る香南の背中に、栗色の髪が柔らかく揺れている。曇り空にもかかわらず、いつも以上に美しく艶かしく輝いて見える香南の髪。あの髪に今すぐ触れたい。そうして指に絡ませながら、きつくきつく編み直したい。二度と解けないくらいきつく。そう思いながら、ただ黙ってガラス越しにその背を見送った。代わりにカードケースから一枚の名刺を取り出し、書かれた番号をスマホのテンキーでタップした。
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