第2話 初めての、恋
「こんばんは、ジェームズ」
二夜目。
私は病室で二回目の放送を迎えた。途中、隣で眠っている赤ちゃんがぐずりそうになるというトラブルはあったものの、三十分間の放送は無事に終えることができた。
今夜は五人のリスナーがいた。それぞれコメントをくれた。
〈うちも猫飼ってるんで分かります! かわいいですよね!〉
〈猫飼ったことないけど、かわいいなぁ。飼ってみたいな〉
〈地域猫っていうのがあるんですね! 初めて知った〉
〈うちの近所にも気分屋な猫いるー〉
リスナーは五人だった。そう、五人だった。
これは別に何もおかしいことじゃない。一人につき複数のコメントを入れることはできるし、逆にコメントを入れないこともできる。リスナーの頭数に対しコメントの数が前後するなんてことはある種当たり前なのだが、しかし五件目、六件目のコメントが私の頭に引っかかった。昨夜と同じ、「ゆうしろう」というアカウントから。コメントは以下だ。
〈なぎばし〉
〈すき〉
*
昨夜のことが頭に引っかかっていた。
なぎばし。すき。
私の名前を知っている。それだけで少し恐怖を覚えた。うっかり名前言っちゃったかな? そんな覚えはないんだけれど……。
もやもやしたまま、日課の歩行を始める。軽くて脆い赤ちゃんを抱えてゆっくり、病院の共有スペースに向かう。
「名木橋さん、体調はいかがですか」
看護師の新谷くん。今日はちょっと歩行に疲れたので、共有スペースのソファに沈みながら、「疲れちゃった」と告げた。新谷くんが心配そうな声を出す。
「一人で戻れそうですか」
「ええ。多分平気です」
「産婦人科の看護師を連れて来ましょうか」
「いえ、それには及びません。休めば大丈夫」
それからふと、気になることがあったので聞いてみる。
「新谷さんって、何科の看護師なんですか?」
すると新谷くんが笑って答える。
「心療内科です。だからですかね、人の話を聞くのが好きで」
人の話を聞くのが好き。
何となく、何となく、だけど。
思い付きを口にしてみる。
「昨夜は、夜勤だったり?」
新谷くんは首を傾げる。
「いいえ? 昨夜は家でゆっくりラジオを聴いていました」
ちょっと、どきりとする。
「そうですか」
新谷くんとは、それで終わり。
*
そわそわしている北村さんの旦那さんを見かけたのは、十一時頃、トイレに行くために病室から出た時だった。一人でトイレに行くにも苦労する私は、少し顔をしかめながら廊下を歩いていた。すると同じく顔をしかめた北村さんの旦那さんを見かけたのだ。足元にいる幼い息子の巧くんも不安そうな顔をしている。思わず声をかける。
「妻の容態が急変しまして」
産後の女性の体調が悪くなるのはよくあることだ。しかし男性からすると大きな心配事だろう。私は北村さんの旦那さんを慰める。
「大丈夫。大丈夫ですから」
そう、声をかけながら、ふと思い出す。
北村さんの旦那さん。
北村優史郎さん。
*
新谷くんか、北村さんの旦那さんか。
そんなことを考えながら三夜目のラジオを迎えた。本当は名前がバレそうになった昨日の段階でやめてもいい気はしたのだが、何となく負けて堪るかというど根性と……これがよくないのだけれど……今夜が最後だしという名残惜しさとが私を後押しし、最終夜のラジオ放送となった。いつもの通り、始める。
「こんばんは、ジェームズ」
さて、今夜は放送最終夜です。そう断ってから話を始める。
とりとめもないことを話した。ジェームズはどこから来たのか。どんな環境で育ったのか。去勢されているようだが、昔恋人はいたのか。そんなことを、だらだらと三十分。
コメントは十件。最終夜だからだろうか。少し盛り上がっているようだった。
そして、あった。
あの、謎のコメント。
〈今日は、ありがとう〉
何となく、このコメント主が誰か、分かった気がした。
*
翌朝も日課の歩行をした。いつもより少し早く、共有スペースに到着する。赤ちゃんと会話をしながら……新生児と会話、できるんだよ。うーとかあーとか、赤ちゃんの声と同じトーンを返すの……のんびりしていると、例によって新谷くんがやってきて朝の挨拶をしてくれた。私は返す。
「おはようございます」
「今朝はどうですか、名木橋さん」
「調子はいいです」
素直に答える。
「今日が退院ですね」
「ええ。お世話になりました」
丁寧に、お礼を言う。新谷くんはそれから共有スペースにいる何人かに声をかけると、仕事に戻っていった。
「おはようございます」
北村さんが娘さんを抱いてやって来た。私はにこやかに応じる。
「昨日は大丈夫でした?」
すると北村さんは困ったような笑顔を浮かべた。
「ちょっとお腹が痛くなっただけで。夫が狼狽えていたでしょう? 話聞きました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いえいえ」
それから、やってくる。
北村さんの旦那さん。
「昨日はありがとうございます」
旦那さんが頭を下げる。私はにっこり笑う。
「大丈夫ですよ」
それから、産まれたばかりの娘に夢中になっている北村さんご夫妻を眺め、二人から少し離れたところで寂しそうにしている長男の巧くんの方に向かって、小さく手招きする。
巧くんは素直に応じた。私は私のところにやってきた八歳の男の子に、自慢の娘を見せた。
「かわいいでしょ?」
「うん!」
「おばさんの声もかわいかった?」
巧くんが、ちょっとびっくりしたような顔になる。でもそれから、嬉しそうに顔を綻ばせると、大きく頷いた。
「うん!」
それから巧くんは、もじもじとむず痒そうに体を動かしてから、こう告げた。
「おれ、なぎばしさんが好き!」
私は微笑む。
「ありがとう」
「たぶん、恋!」
小学二年生の男の子の口から出た「恋」という言葉に、私は思わず微笑んでしまう。
そう、そうだよね。女の子だって幼稚園で初恋したりするんだもん。男の子だって、このくらいの歳で初恋を迎えたって、おかしくないよね。
「お父さんのアカウント使ってラジオ聴いてたの?」
私の質問に巧くんは少しポカンとしてから、すぐに頷いた。私は巧くんの頭を撫でる。
「ラジオ、聴いてくれてありがとう」
巧くんはその場で小さく跳ねながら口を開いた。
「ラジオ、つづけてよ」
私は首を横に振る。
「ちょっと難しいかな。おばさん、体調悪いから」
「げんきないの?」
「うん、ちょっとね」
「おれがげんきにする!」
「うん、ありがとう」
それから私は、巧くんの頭を撫でながら、それでもお父さんとお母さんにはバレないようにこっそり、こう告げた。
「人を好きになるのって、素敵なことだよね」
「うん!」
「毎日が輝く。巧くんも楽しかった?」
「うん!」
「おばさん、もう巧くんと会えなくなるかもしれないけど」
すると巧くんは目に見えてしょんぼりした。でも、私は、そっと彼のことを撫で続けた。
「でもおばさん、巧くんのこと忘れないからね」
巧くんが、また跳ねた。それから私は、男の子が好きそうなアイディアを思いつき、口にする。
「また会えた時のために、合言葉、決めようか」
巧くんの顔がパッと華やぐ。
「うん!」
「何がいい?」
すると巧くんはすぐに答えた。
「こんばんは、ジェームズ!」
了
こんばんは、ジェームズ 飯田太朗 @taroIda
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