こんばんは、ジェームズ
飯田太朗
第1話 初めての、ラジオ
三人目の娘を産んだ後、目に見えて体調を崩した。
高齢出産の部類に入るので出産も産褥期もとにかく辛かった。入院していた病院で「少し様子を見ましょうか」と一週間の入院を余儀なくされ、晴れてベッドの民となった私には時間ができた。
体は鉛のように重く、腰や背中に疼痛があり、とても何かをできた体じゃないのだが、頭は冴えていた。本職である研究でもしてやろうかと思ったが、夫である名木橋先生に止められた。
「休め。異論は認めん。休め」
先生の低い声で言われると何だか仕方ない気になってしまう。そういうわけで妙にさえた頭にボロボロになった体、という状況でベッドに取り残された。隣には私の愛しい、三人目の娘が眠っていた。
赤ちゃんの世話は大変だ。授乳、沐浴、おむつの交換。多分、新米ママさんならこれらのことに追われててんやわんやでとてもじゃないが余裕なんてないだろう。でも私は三人目で、多少だが慣れていた。手際よく色々なお世話をできたし、看護師さんも私の体調を気遣って何かと助けてくれた。とにかく頭だけが冴えていて、ずっと考え事ばかりしていた。
私の病室は個人部屋だったのだが、三階建ての病院の二階で、窓からは通りがよく見えた。夫である名木橋先生がお見舞いに着た後、上の娘二人を連れて帰っていく後姿を微笑ましく思いながら見ていたものだ。
先生は仕事の都合上、三時半くらいに来ることが多かった。長女のさくらは次女のすみれを連れて学校終わりの四時か五時くらいに。先生よりも少し遅れて来ることが多かった。
面会時間は三十分くらい。先生はこっそり一時間以上いることが多かったけど、娘たちはきっかり三十分。だから夕方五時半には暇になる。夕食をとった後、消灯時間までの間、何もないエアポケットみたいな時間ができる。看護師さんに体を拭いてもらったり医師から簡単な問診があったりするのだが、どうしても一時間程度時間ができる。退屈だった。何もない一時間というのは妙に長い。
ラジオをやろう。ふとそう思った。
今時は便利だ。アプリと端末さえあれば誰でも何でも配信できる。おしゃべりする相手は病院内にもいたが対面のコンタクトというのは何だか気疲れしてしまう。その点、誰が聞くわけでもない話を延々と垂れ流すラジオは気分転換にもなるし、疲れない。そう思って、ラジオ配信アプリを入れた。
初めは何を話そうか迷った。でもいつものように先生と娘たちを見送った後、通りに面した塀の上に、一匹の猫がいることに気づいた。
その猫はどうやらこの辺りに住み着いている猫らしく、通り掛けのおばさんが何やら話しかけて餌らしきものを与えて帰るのをよく見かけた。後で調べてみると、どうやらこの辺りは地域猫の制度というものを導入しているらしい。地域住民に合意を得て、理解と協力の元放されている特定の飼い主がいない猫。避妊手術を受けた状態で放たれているので、増えすぎて困ることもないらしい。
地域猫の証として、オス猫は右の耳の先を、雌猫は左の耳の先を小さくカットして区別するらしい。
私が見かけた猫はどうやらオスらしい。何と呼ばれているのかは分からないが銘々好きな名前で呼んでいるのだろう。私も彼に名付けたくなった。そして思いついた。
あの猫に話しかけるようなラジオにしよう。
となるとやはり名前だ。どんな名前がいいだろう。
咄嗟に、ビリーという名前が浮かんだ。名木橋先生からもらった頭蓋骨の模型で、中に脳みその模型が入っている。先生は神経心理学と大脳生理学の専門だから、脳のモデルが必要なのだ。国文学の専門である私には必要のないものだったが、先生の気配が感じられる気がして大切にとってある。あの名前を猫につけようか。
いや、でもビリーはビリーだしな。何か違う名前がいい。そう思って、痛む腰と貧血でふらつく体を支えながら病院内のレストランに入ると、同じ入院患者さんと思しき人が一冊の本を読んでいた。イアン・フレミング。007か。
ジェームズという名前がいい。そう思った。ジェームズ・ボンドのジェームズ。野良猫ジェームズ。素敵だと思った。そういうわけで、入院期間の残り四日間。私はジェームズに語り掛けるラジオをやろうと思った。
時間は夜八時にした。赤ちゃんが眠る時間だということと、仕事終わりや夕食終わりの人たちに向けて、猫の話なんて何だが素敵だな、と思ったからだ。
ハンドルネームは何がいいかと思った。少し悩んで、「私」を意味する言葉で猫の鳴き声っぽい音の「ミィ」がいいと思った。ラジオパーソナリティの私は「ミィ」だ。素敵な名前だと思った。
病室。個室だから他に誰もいない。思うがままにおしゃべりできる。
マイクの付いたイヤホンを使って配信を始める。
「こんばんは、ジェームズ」
私のラジオはそんな挨拶から始まる。
「今日から三夜にわたって、期間限定のラジオをやらせてもらいます。お相手は私、ミィです。話す内容は猫のこと。私のいる部屋から見える地域猫のジェームズについてお話しします」
ちらりと配信画面を見る。視聴者が三人。この広い世界の中で、たった三人。嬉しかった。私の話を、三人が聴きに来てくれている。
配信時間には制限があった。三十分。しかしちょうどいい気がした。体調的にも病院的にも、あまり長くは話せない。制限時間内でとりとめもない話をして、終わりにしよう。そう思って話し始めた。
「まずジェームズは……」
こう語り出して、何だか大学の講義みたいだ、と我ながらおかしかった。私の本職は大学の研究者だ。たまに教鞭をとることもある。その癖かな。そんなことを思いながら話す。もちろん、赤ちゃんを起こさないように、声のボリュームに注意しながら。
「かわいいでしょ」
自分の猫でもないくせに、ジェームズのことを自慢する。本当は、今隣でぐっすり眠っている産まれたばかりの娘のことを紹介したいくらいだけど、でも今は、私だけの赤ちゃん。
放送時間の三十分。初回放送は上手くいった。三人の視聴者は時々コメントをくれた。
〈ミィさん声が素敵ですね〉
〈ジェームズかわいい〉
でも最後のひとつのコメントが気になった。たった二文字だったが、脈絡のあるようでないような二文字で、ちょっと私は首を傾げた。
〈すき〉
ハンドルネーム「ゆうしろう」さん。
この〈すき〉は好意的な意味だろう。嬉しくはあった。私の声が好きなのか、話が好きなのか、猫が好きなのか。分からなかったが、分かっても仕方ない気がした。私は配信アプリを閉じるとベッドの身を横たえた。頭が心地よく疲れていた。体はズタボロで、ハッキリ言ってベッドの上に身を横たえるのも少ししんどいくらいだったが、こうして些細だが活動できたことに達成感を覚えていた。
隣で眠る赤ちゃんを見る。口をもにょもにょ動かしている。つやつやの肌。思わず頬を撫でる。食べちゃいたいくらいかわいい。愛しい。ため息が出たが肺が弱っているのか掠れた息だった。少し咳き込む。赤ちゃんに飛沫がかからないよう、顔を背けたのだが、その時に腰が音を立てて少し痛かった。満身創痍だ。出産は本当に大変なのだ。
ベッドに沈む。今夜はよく眠れそうだ。
*
「おはようございます名木橋さん。元気ですか」
看護師の新谷くんが声をかけてくれる。病院の共有スペース。私は足腰のリハビリも兼ねて、病室から十メートルくらいの共有スペースのソファまでゆっくり歩くことにしている。
雪みたいに軽くて脆い、そんな赤ちゃんを連れて十メートル、ゆっくり歩く。朝のこの時間は比較的体調もよくて、しっかりとした足取りで歩ける。そうじゃなきゃボロボロの体で新生児を連れて歩けない。
私に声をかけてくれた看護師の新谷くんは何科の看護師か知らないが、よく共有スペースに患者さんたちの様子を見に来る。聞いたところによると、以前患者が共有スペースで倒れたまま発見が遅れた事故があったらしく、看護師の見回りが強化されることになったらしい。
私は微笑むと「元気です」と小さな嘘をついた。本当はそこかしこが痛い。筋肉の痛み、骨の痛み。でもやっぱり頭は冴えている。
「名木橋さん、声が綺麗ですね。体調がいいのかな」
新谷くんはいつも何かにつけて患者さんを褒める。この間は共有スペースで編み物をしていたおばあちゃんに「素敵な編み物ですね」と声をかけていた。多分、明るい言葉をかけることで少しでも入院生活を前向きなものにしようと努力してくれているのだろう。嬉しい努力だった。
「北村さん、元気そうですね。今朝の問診はどうでしたか?」
私の座っているソファ。隣に腰かけている北村さんに新谷くんが声をかける。北村さんは私と同時期に出産したママさんだった。ボブの似合う三十代くらいの女性で、二人目になる女の子を産んだそうだ。八歳になる一人目がいるらしく、お父さんは一人目のお子さん……息子さん……と一緒によくお見舞いに来てくれている。
私は旦那さんにも息子さんにも会ったことがあった。北村優史郎さんと巧くん。旦那さんは何だか大人しそうな、線の細い男性で、巧くんはちょっと活発な、クラスでも人気者になりそうな男の子だった。
出勤前に来てくれているのだろうか。大抵九時か十時くらい、旦那さんと巧くんは一緒に北村さんのところに来る。
北村さんと、旦那さんも交えて雑談する。
「女の子の育児って初めてで」
北村さんが縋るような顔になる。うんうん。育児って不安なことだらけだよね。
「名木橋さんはどんなことに気をつけました?」旦那さんが訊いてくる。
「うーん、女の子だからって特別なことはしなかったけど、強いて言うなら骨格が弱いって話を聞いたことがあるから、抱っこする時や寝かす時は神経を使ったかな」
「あなた、巧の時みたいに荒っぽく抱っこしちゃ駄目だよ」
北村さんが旦那さんに釘をさす。旦那さんは困ったように「分かったよ」とだけ告げると、北村さんの腕の中の赤ちゃんを見つめた。愛しそうな目。気持ちはすごくよく分かる。
「あ、赤ちゃんだ」
この日はいつも一人遊びをしている巧くんが、珍しく大人の会話に混ざっていた。私の腕の中の赤ちゃんを見て、興味津々、という顔をしている。
「何才?」
巧くんが訊いてくる。私は笑って答える。
「ゼロ才だよ。生まれたばっか」
「そっかぁ」
「かわいいでしょ」
と、巧くんがポカンと私のことを見つめてきた。それから頷く。
「うん!」
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