第4話 悪夢

 麗子さんとの夜会を経て、僕と麗子さんの距離は縮まったように思えたが、あれから麗子さんから連絡が無く、僕は退屈な毎日を送っていた。それに六月に入ったせいか、それともこないだの雨のせいなのだろうか。なんだか調子が優れないこともあり、ここ最近は本当に無気力であった。

 しかしそんな僕も腹は減る。特に何も考えず仰向けになって天井を仰いでいたが、その天井目掛けて音が文字になって飛んでいくように見えるほど、大きな虫が鳴った。


「腹減った……。あの飯をまた食える日は来るのかな……」


 僕はぼーっと空腹を堪えながら麗子さんの手料理を思い出していた。見て良し、味良し、嗅いで良し、僕の胃袋は完全に彼女に掌握されてしまったようであった。当初の予定では、彼女に気を許すつもりなど全くなかった。それどころか僕は彼女から遠ざかろうとしていたのだが、これも運命が言うものなのだろうか、僕はいつの間にか彼女に親しみを抱き、そうして恋に落ちてしまったのかもしれない。

 運命と言うものは不思議なものだなぁ。と僕は彼女にもらったポスターを眺めながらそう思っていた。彼女が初めここに引っ越してきたときは少し嫌な気分になったものだが、あの雨の日も彼女がいなければ、僕は外で服が乾くのを待ってから帰宅していただろう。

 僕が物思いに耽っていると、久しぶりに自宅のチャイムが鳴った。僕はそれにすぐさま反応した。麗子さんが訪ねてきたと思ったからである。バタバタと足音を立てながら玄関へ向かい、僕はすぐに鍵を開けた。


「はい?」


 僕は努めて冷静を装った。しかしその顔にはどことなく焦りがあったであろう。


「こんにちは、今平気かな?」


 扉を開けたそこには麗子さんが立っていた。僕はニヤつきそうな口角を制御しながら、はい、暇です。と答えた。すると彼女は共同廊下から玄関に入り、黒いハイヒールを脱いだ。


「そこで待っていてください」


 僕はそう言いながら、雨の日に彼女が座っていた椅子を指さした。


「別にそのままでもいいのよ?」


 麗子さんは僕の次の行動を知っていたかのように、笑いながらそう言った。


「いえ、僕のポリシーがあるので」


 僕はそう言って左の口角だけを上げた。

 彼女は「分かったわ」と言ってまた笑った。僕はその笑顔を見ると彼女に背を向けて脱衣所に向かった。脱衣所には僕が着回している数着の服が乱雑に置かれていた。僕はそれを見て畳まなきゃな。と思いながらも、一番近くに一番しわ無く置かれていた洋服とズボンを選択して着替えた。部屋着はいつも和室まで持っていくのだが、今日は麗子さんが来ているので持っていくのを止め、脱衣所に放り投げてリビングに戻った。


「すみません。お待たせして」


 僕がリビングに戻ると、麗子さんは和室を覗き込むように立っていた。


「あ、ごめんね。私の部屋と構造が似ててつい」

「そうなんですか。じゃあこの向こうも和室なんですね?」


 僕は麗子さんの横に立ってポスターが貼ってある壁を見てそう言った。


「そうよ。この向こうが私の部屋」


 僕はその言葉に少しの興奮を覚えたが、そんな煩悩を打ち消して会話を続けた。


「このアパート、意外と壁薄いですよね」


 何か話題は無いかと必死に探した結果、アパートの設計に関しての話を振ったのだが、言い終わった後に、これはセクハラに近い言動だな。と今にでも頭を抱えたいほどであった。


「そうなの? 私はあまりそう感じたことないけど」


 麗子さんはクスクスと笑いながら椅子に戻った。


「なんで笑うんですか?」

「だってなんだかおかしくって」


 そう言う彼女を見ていると、僕も自然と笑顔になっていた。


「そうだ、またご飯作ってあげる」


 麗子さんはテーブルにのしかかるようにして、上目遣いで僕にそう言った。


「え、でも、悪いですよ」

「いいの、私も一人でご飯は寂しいから」

「そうですか……。それなら外食にしませんか? 僕が奢りますよ?」

「うーん、それも良いけど~。それとも、私の料理じゃイヤ?」

「そんなことは無いですよ! ただ申し訳なくて」

「いいのよ、そんなこと気にしなくて。それなら材料費を持ってもらおうかな?」


 麗子さんはそう言うと、椅子から立ち上がって鞄を持った。


「帰るんですか?」

「違うわよ。夕飯の買い出し」


 麗子さんはそう言って笑うと、すぐ玄関に向かってハイヒールを履いた。早く行くよ? と麗子さんが言ったので、僕はせかせかと準備をして靴を履いた。

 僕は鍵をかけて麗子さんの後を追った。麗子さんは既に階段を下っており、腕時計をちらりと見て、階段を下り始めた僕の方に顔を向けた。

 僕と麗子さんは近くのスーパーに向かって歩き出した。僕は何か話題を見つけようと辺りを見回しながら麗子さんの少し後ろを歩いていた。すると麗子さんは急に立ち止まり、何かを思い出したように、あっ。と言った。


「どうかしたんですか?」


 僕がそう言うと、麗子さんは鞄からボールペンとメモ用紙を出して何かを書き始めた。そして僕の問いに答えぬまま、麗子さんはボールペンを走らせた。


「ごめんね。買ってほしいものは書いておいたから、これを買ってきてもらっても良いかな?」


 麗子さんは忙しなくそう言った。僕は答える間もなくメモ用紙を握らされると、麗子さんは走ってアパートに戻っていった。あっという間に事が済んでしまったので、僕は息をするのも忘れているほどであった。大きく深呼吸をすると、僕は麗子さんの背中から目を離してスーパー目指して再び歩き始めた。

 僕は一人でスーパーに到着し、麗子さんが書いたメモを片手にカートを押した。書いてある品はそれほど多くなかった。なので僕は素早く買い物をして回り、書かれたもの全てをカゴに入れ、会計に向かった。

 会計を終えた僕は、レジ袋を片手にスーパーを出た。今日の夕飯がこの袋に入っているんだ。と考えると、僕はたちまち空腹感に襲われた。麗子さんも待っているだろうし、早く帰ろう。と僕は少し速足で帰宅した。

 アパートが見える一直線に入り、そこから僕はスピードを上げてアパートを目指した。ほとんどジョギングになっていた僕は息を上げながら階段を上り、自宅前に着くとポケットから鍵を出した。開錠して部屋に入ろうとドアノブを捻ったが、なぜか鍵がかかってしまっていた。


「あれ……。間違えて閉めたか……?」


 僕はそんなことを言いながら、もう一度鍵を鍵穴に入れ、鍵を一周させた。そしてドアノブを捻ると、今度はちゃんとドアが開いた。

 不用心だったな。と思いながら帰宅した僕は、麗子さんが来るまで材料を冷蔵庫に入れておくことにした。冷蔵庫を開けると買った覚えのない缶ビールが二本入っていた。そもそも僕はビールを飲まないので、ここに入っていてはおかしいものであった。僕は急に寒気がした。買ってきた材料をテーブルに置き、僕は部屋を見回し始めた。

 キッチンに変わったところは無く、脱衣所、浴室にも異常は無かった。僕は最後に残った和室に向かった。まずは一番怪しい襖を開け、収納スペースの中を見た。しかしそこには何もない。僕は壁に手を添えながら、それに沿って進んでいった。そして麗子さんから貰ったポスターの前にたどり着き、一度外してみよう。と僕はポスターを外すことにした。四つ角の画びょうを外し、僕はポスターと画びょうをちゃぶ台に置いた。そしてポスターが貼ってあった壁を見ると、そこには小さな穴が開いていた。その瞬間、全身に鳥肌が立った。

 僕は生唾を飲み込むと、その穴を覗いた。するとその先には当然麗子さんの部屋があった。ポスターを貼る前に気が付くべきだったな。と僕が思っていると、麗子さんが鼻歌を歌いながら視界に入ってきた。僕はすぐに目を逸らそうと思ったが、小さな穴の先にいる彼女の行動が気になり、目を離せずにいた。

 すると麗子さんは何かが入っている風呂敷を畳に置き、結びを解いて中の物を確認し始めた。鋭利なナイフ、ハサミ、麻縄、キリ。彼女はそれらを確認すると、再び風呂敷を結って立ち上がった。

 緊張で痰が絡み、僕は思わず軽い咳ばらいをした。すると穴の向こうの彼女はピタリと止まり、ゆっくりと穴が空いている壁の方を向き、ニコっと笑った。その時完全に彼女と目が合ったのを確認した僕は、一歩後ずさった。その直前、彼女が風呂敷を持って家を出ようと歩き出したのを見た僕は、走って自宅の鍵を閉めた。


「はぁはぁ、今、目が合った……」


 僕は鍵を閉めるとすぐ、玄関を見ながら和室まで下がった。動悸は荒くなる一方で、ついに僕は窓を背にした。するとその瞬間、施錠をしていたはずの鍵が開いていくのを視認した。僕はそれを見ると何も考えられなくなっていった。続いて下の鍵がゆっくりと回っていき、カチャ。という音が鳴った。僕はそれを見てようやく逃げ場を探し始めた。今更収納スペースに隠れるのは遅い、脱衣所は遠すぎる。周りに武器と言う武器は無い。となると……。僕は手探りで窓のロックを解除した。そして窓を少し開け、彼女が入ってきた瞬間に逃げようと覚悟を決めた。

 ガチャ。と言う音とともに、ドアノブが回ってゆっくりとドアが動き始めた。僕はそれと同時に窓を開け、ゆっくりとベランダに出た。


「宏也く~ん。夕飯、作りに来たよ~」


 先ほど穴の奥に見た風呂敷がドアの隙間から覗いた。それを見た僕は恐怖で声が出なくなった。後ずさりしていくと、ベランダの格子に背中を打ち、僕はそこで止まった。


「宏也く~ん? 私よ? 麗子よ?」


 ドアがゆっくりと開く。片手に風呂敷を、もう片手には複製された僕の部屋の鍵を持って麗子さんが歩いてくる。


「どうしたの? 合鍵くらい作ってもいいじゃない? あなたはもう私の物なんだから」


 麗子さんはニコニコしながら僕に近づいてくる。しかし今の僕にはそれが笑顔には見えなかった。まるで狩りを楽しんでいる肉食動物の目に思われた。

 ここはアパートの二階、飛び降りても多少痛むだけで大怪我はしないはずだ。と、僕は手すりを乗り越えて、裏庭に飛び降りた。着地した瞬間、両足の裏に激痛が走る。この高さでこの痛みはあり得ない! 僕は這いずってその場を離れ、足の裏を見た。すると足の裏には数本の針が刺さっており、ドクドクと血が流れ出ていた。


「宏也くん。そこで待っててね?」


 麗子さんはベランダから僕の顔を覗き込んだ。彼女はここに来る。そう思った僕は助けを求めようと下の階の部屋を覗いた。しかし部屋はもぬけの殻であり、家具さえも見当たらず、いつの間にか僕の頬には涙が伝っていた。


「逃げちゃダメでしょ~。さ、お部屋に戻りましょ?」


 麗子さんは金属バットを引きずりながら裏庭に現れた。僕は必死に立ち上がろうとしたのだが、足裏に刺さった針のせいで上手く足が動かない。


「大変だったのよ~。このアパートから人を追い出すの。でももう安心してね。反抗する悪い子は、ちゃんと始末しておいたから」


 麗子さんはニコリと笑った。射程に入った野ウサギを見るように。そしてバットを振り上げると、次の瞬間、僕の意識は失われた。


 …………。頭がガンガンと痛む。視界はぼやけて何も見えない。動こうとしても手足が自由に動かない。そんな中でも軽快な鼻歌だけが聞こえる……。


「あ……、あぁ……」


 息をするのも困難で、呼吸とともに音が漏れた。するとその声ならぬ音に反応し、麗子さんの声がする。


「あ、起きたのね。宏也くん。今ご飯作ってるからね~」


 今ならまだ逃げられる。僕はそう判断した。

 ぼんやりとしていた視界が徐々に鮮明になってきた。僕は逃げ場と道具を探した。しかしそれらしいものはない。手は後手縛り、足も縛られており、僕は立ち上がることも出来ない。そんなことをしていると、麗子さんがテーブルに料理を並べ始めた。


「あ……、助けて……ください……」


 僕は生を懇願した。すると彼女は包丁を持ったまま僕に近付いてきた。


「そっか……逃げたいよね? じゃあ足だけ解いてあげる……」


 麗子さんはそう言うと、僕の足の間に包丁を入れ、縄を切った。逃げられる! 僕はそう思って立ち上がろうとした。しかし足に力が入らない。


「ふふ、逃げられるなら逃げていいよ? でも無理そうだねぇ~。アキレス腱が切れてちゃ」


 彼女は冷笑を浮かべて料理を再開した。


「君は手があれば仕事できるもんね? 私から逃げるための足は必要ないよね?」


 僕は諦めず、どうにか体を上手く動かして、ズルズルと畳を這いずった。


「あ~ん、ダメよ。ここに座って仕事仕事!」


 麗子さんは僕を引きずり、パソコンが置いてあるちゃぶ台前に僕を座らせた。


「逃げようなんて考えないで……。だってあなたはもう……『ワタシノモノ』なんだから」


 腕の束縛も解かれた僕だったが、逃げる気は起きなかった。

 あ、そうだ。物語を書こう。僕はそう思ってパソコンを起動した。

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ワタシノモノ 玉樹詩之 @tamaki_shino

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