第3話 隣人

 あの挨拶からしばらく経った。それこそ一週間ほどだろうか。いや、一週間は経っていないような気がする。体感では一週間以上経っているような気がするが、恐らく僕の気持ちが早まってそう感じさせているに違いない。

 僕は気を紛らわせるために何度も執筆を試みたが、キーボードに添えた手は、石化してしまったかのように微動だもしなかった。なのでもちろん、ここ一週間近くは久井先生のもとにプロットすら持っていけていない。その焦りも相乗し、日が経てば経つほど僕の執筆は億劫なものになった。


「あぁーあ、今日も調子でないなぁ~」


 僕は声を出せば気分が変わるのではないか。と、大きな声で不満を部屋中にまき散らしてみた。しかしそれをくみ取る者もいなければ、反応する者もいない。僕はやり場のない不満を胸いっぱいにしながらパソコンの前でただただ胡坐をかくだけであった。

 麗子さんが隣に越してくると知ってから、僕から連絡をしようか、それとも相手がまた連絡をしてくるのではないだろうか。と自分からメッセージを送ることはあえてしなかった。なのでメッセージは、驚いた? で止まったままとなっていた。僕はそのメッセージを見ながらため息をつくと、スマートフォンを布団に投げ、自身も布団に飛び込んだ。


「……はぁ、見ていて来るものじゃないからなぁ」


 僕はそう言いながらうつ伏せになり、スマートフォンの画面を伏せて布団に置いた。僕は枕を抱いて叫びたい気分であったが、その気持ちをぐっと抑えて枕に顔を埋めた。時折息が苦しくなり、平泳ぎの息継ぎをするように顔を上げ、そしてまた顔を埋めた。かれこれそれを数回繰り返し、急に今までの行動が馬鹿げてきて、僕は真顔になって玄関の方を向いた。すると、それに合わせてインターホンが鳴った。僕はあまりのタイミングの良さに、ビクッ。と体を上ずらせた。


「はい?」


 僕はワンテンポ置いてから、インターホンに返事をしながら立ち上がった。そしてゆっくりと玄関に向かい、鍵を開けて尋ね人を招き入れた。


「どうも、隣に越してきました。羽代麗子です」


 麗子さんはまるで初めてであるかのように挨拶をした。顔を上げた彼女は何か言いたそうにしていたので、僕は軽く会釈をすると、彼女の言葉を待った。


「流石に、引いてるよね? でもね、本当にこれは偶然なの。本当に……」


 麗子さんの目には薄っすらと涙が潤んだ。僕は慌てて言葉を探した。


「あー、えっと、別に、何も思ってないですよ?」


 脚本家志望とは思えないほど、僕の語彙力は低下していた。パッと思い浮かんだ言葉はどっちつかずで、どちらかと言えば彼女を傷つけてしまうような危うい言葉であった。


「そう……ならいいけど。それじゃ、私まだやることがあるから」


 麗子さんはそう言うと、ドアノブを握って無理矢理扉を閉めた。僕は瞬く間に閉まってしまった扉の前に茫然と立ち尽くした。じわじわと理解が及んでいき、麗子さんを怒らせたことに気が付いた。僕は先ほどよりも不機嫌になって布団にダイブした。そして泣きじゃくる子供のように足をばたつかせながら枕に顔を埋めた。

 しばらくして僕の体力が尽き、僕は死んだように静止した。自業自得ではあるのだが、先ほどまで暴れていたせいで急に眠気が僕に襲い掛かってきた。時刻はおおよそ二時、もしくは三時頃であろう。この時分は一番睡魔が増すように思われる。僕はそんな睡魔に負けじと立ち上がろうとした。しかし体は言うことを聞かず、どんどん布団に埋もれていく。このまま下の階に突き抜けてしまうのではないかと思うほど、僕は脱力していた。

 もうすぐ眠りにつきそうなとき、五感が冴え渡ったのか、それとも聴覚だけが覚醒したのか、とにかく隣室でバタバタと荷物を移動させる音が聞こえてきた。先ほどは自分が暴れていたせいもあり、こんな音は聞こえていなかったのだが、こうして静かに横たわっていると、意外と隣との壁が薄いらしく、隣室が少しでも騒がしくなると音はこちらまで抜けてくるようだ。

 僕はその音に耳を澄ませた。音に集中し始めたことで眠気も徐々に覚めていくようであった。僕は次第に目を開け、だがしかし、まったく動かずに隣室の音に耳を澄ませた。ガタガタ。と重いものを引きずる音や、ドン。と荷物を床に置いた音、バタン。と強く扉を閉める音まで聞こえてきた。しかしその音を最後に、隣室から音がしなくなった。僕はこのタイミングで体を起こすことにした。

 集中していたせいか、こんなにも喉が渇いていたのに僕は気が付かなかった。立ち上がって真っ先に冷蔵庫に向かい、二リットルペットボトルに入っている麦茶を出してコップに注いだ。そしてそれを一気に飲み干し、プハァ~。と一息ついた。空になったコップはテーブルに置き、僕はパソコンの前に戻った。何かに集中したことにより、今なら他のことにもこの集中を持続できる気がしたのであった。

 いざパソコンの前に座ってみたが、どこか気持ちが忙しく、小刻みに貧乏ゆすりをしていた。座っているのがいけないのだろうか。と、僕は少し辺りを散策することにした。財布と自宅の鍵、それにスマートフォンをそれぞれ違うポケットにしまい、僕は家を出た。

 僕が家を出るとすぐ、慌ただしく鉄階段を上って来る音がした。カツンカツン。と、階段は甲高い音を響かせた。それは階段から共通廊下を伝わって、僕の足裏をくすぐった。


「あ、宏也くん。お出かけ?」


 階段を上がってきたのは麗子さんであった。隣室から音がしなくなったのは、麗子さんが外出していたからだったのか。とここでようやく僕は納得がいった。


「はい、たまには散歩でもしようかなと」

「そうね。たまには運動もしないとね?」


 麗子さんはあたかも僕が引き籠りのような口調でそう言った。


「は、はは。そうですよね。それでは」

「うん、私ももう少ししたら部屋のお片付けが終るから、今度ゆっくり食事に行きましょうね」

「はい、是非」


 麗子さんは優しくはにかみ、僕の横を通って隣の部屋に消えていった。思いのほか麗子さんは先ほどのやり取りを気にしていないようにも思えてきて、僕は少し機嫌を良くしながらアパートの階段を下りた。


 ……三十分近く自宅付近を散策し、気も紛れたので帰宅することにした。すると冷たい雫が僕の頬に落下してきた。僕はそれによって立ち止まり、空を見上げた。空は黒雲で覆われており、見上げた顔に再び雫が降ってきた。雨か。僕は頬から顎に伝わろうとする雫を手で拭い、足早に帰宅することにした。

 雨はあっという間に強くなった。結局僕はずぶ濡れになり、このまま部屋に入るのも嫌で僕は部屋の前であぐねていた。すると二〇四号室の扉が開き、麗子さんが出てきた。


「あら、やっぱりずぶ濡れだね?」


 麗子さんは笑いながら僕にタオルを押し付けた。


「いや、えっと」

「いいの! 使ってよ」


 麗子さんはそう言うと、無理矢理僕の手にタオルを握らせた。


「風邪ひいちゃうよ? 早く中入らないと」


 麗子さんは何かを待つように手を広げて僕の前に出した。


「この手は何ですか?」


 僕は麗子さんに無理矢理握らされたタオルで髪の毛を拭きながらそう言った。


「鍵だよ。君の部屋のカーギ」

「鍵って……」

「どうせ碌なもの食べてないでしょ? 私が作ったげる。ほいほい」


 麗子さんは手招きをするように、鍵を催促してきた。昼間のこともあったので、またここで機嫌を損ねられても嫌だなと思った僕は、鍵をポケットから取り出して、麗子さんに手渡した。


「ありがと。私は夕飯作るから、宏也くんはお風呂入って」

「は、はい」


 やはり昼間のことは然程気にしていないのだろうか。と僕は疑いながらも、どこか安心して帰宅した。そして麗子さんの指示通り、僕は靴を脱ぐとすぐに風呂場に向かった。雨に濡れて重くなった衣服を籠に入れ、シャワーの蛇口を捻って温かいお湯を全身に浴びた。

 急なことで風呂は沸かしておらず、僕はシャワーで簡単に済ませるとすぐに風呂を出た。バスタオルで隈なく体を拭い、下着を穿いて部屋着に着替えた。


「すみません。お待たせしました」


 僕はそう言いながらリビングに戻ってきた。そして彼女の料理を作る背中を見ながら席に着いた。


「早かったわね。こっちはもう少しかかりそうだから、待っててね」


 麗子さんは手際よく料理をしながらそう答えた。僕はその背中を見ながら、あれ、着替えって風呂場に置きっぱなしだったかな? と朝の行動を思い出そうとしたが、朝は寝ぼけていることが多いのでほとんどの情報があてにならないな。とため息をついた。


「お財布とスマホ。ズボンに入れっぱなしだったからそこに置いておいたわ」


 麗子さんは振り返り、和室のちゃぶ台の方を指さしてそう言った。


「あ、あと鍵もね」


 そう言ったときは既に料理を再開していた。


「ありがとうございます」


 勝手に財布とスマホを触られたことに多少の拒絶はあったものの、料理までしてくれる彼女に心を開き始めている僕がいた。僕はそんな彼女にお礼を述べ、和室の方へ向かった。

 財布とスマホを念のために確認をしたが、特に変わった点は無く、僕はホッとして財布をいつもの鞄にしまい、スマホを持ってリビングの席に戻った。


「おまたせ~」


 すると丁度良く、麗子さんがきれいに盛り付けした料理がテーブルに並べられた。


「おぉ、料理お上手なんですね」

「あら、見た目だけで褒めて良いの?」

「こんなに綺麗で不味いわけが無いと思ってつい」


 僕と麗子さんは静かに笑った。そして笑い終えた僕と麗子さんはふと目が合い、声には出さずゆっくりと口角を上げた。これが初めての食事であるのにもかかわらず、僕と麗子さんは数回目のデートのような、ぎこちなさと恥じらいの中で食事を始めた。


「ん、思ってた通り、美味しいですよ」

「本当に? ありがとね」


 僕は麗子さんが作った食事を褒めた。お世辞ではなく、自然とこの言葉が出てきたのである。麗子さんは嬉しそうに僕が食事する姿を眺めている。


「麗子さんは食べないんですか?」

「食べるよ。宏也くんの反応が気になってね」


 麗子さんはニコニコしながら箸を手に持った。

 ……途切れ途切れではあったが、僕と麗子さんは一気に距離を詰めるでもなく、距離を取り過ぎるでもなく、程度良い会話を交わしながら食事を終えた。


「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

「ありがと。また来てもいいかしら?」

「はい、もちろん」


 僕は流れのままに承諾した。麗子さんは嬉しそうに頷くと、綺麗に平らげられた皿をシンクに運び、皿を洗い始めた。


「あ、いいですよ。僕がやるんで」

「いいのよ。私が勝手に作ったんだから」


 麗子さんはそう言いながら、既に数枚の皿を洗い終えていた。僕は今更止めるのも失礼な気がして、席に座って麗子さんが皿を洗い終えるのを待った。


「よし、おーわり」


 麗子さんは手際よく皿を洗い終えると、持ってきた鞄から一枚のポスターを取り出した。


「何ですか、それ?」


 僕は単純に気になって、麗子さんが持っているポスターを見ながらそう言った。


「これね。君にあげようと思って」


 麗子さんはそう言ってポスターを広げた。広げられたポスターを見て僕は驚いた。それが大好きなミュージシャンのポスターだったからである。


「この人、僕が好きなアーティストなんですよ」

「え!? そうなの? 若者に人気って聞いたから、知らないけど貰ってきちゃったんだよね~」


 麗子さんは笑いながらそう言うと、続けて話し始めた。


「知ってるなら君にあげるよ。私はミュージシャンとか分からなくてさ」


 麗子さんはポスターを丸めて僕に手渡してくれた。僕はそれを受け取ると、和室に向かって何処に飾ろうかと一周した。しかしポスターを飾れる場所は麗子さんが住む二〇四号室側にしかなく、僕はポスターを一度ちゃぶ台に置き、リビングに戻った。


「あの、ポスターなんですけど、麗子さんが住む部屋の方にしか飾れなくて」


 僕は何を思ったのか、麗子さんにそう聞いた。


「ふふ、別にそんなこと聞かなくてもいいのに。どうぞ。好きなところに貼ってね」


 麗子さんは笑いながら、当然のようにそう言った。僕としても聞かなくていいことを聞いてしまったな。と笑って誤魔化した。

 僕は引き返してポスターを貼り、改めて麗子さんに礼を言った。彼女は既に鞄を右手にかけ、帰る準備を済ませていた。


「あの、今日はありがとうございました」

「ううん。いいのよ。私も楽しかったから。それじゃ、また今度ね?」

「はい」


 僕と彼女は互いに笑顔になり、雨が誘った偶然の夜会を終えた。

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