第2話 きっかけ

 インスタント食品で食い繋ぐギリギリな毎日ではあったが、久井先生の指導が僕に合っていたのか、最近は、と言ってもまだ数日なのだが、何となく良いアイデアが良く浮かぶようになった気がするし、それを物語にする能力と言うものも成長しているのを実感していた。

 起床して数時間が経っていた。僕は空腹を満たすために冷蔵庫やら戸棚やらを漁った。しかし今すぐに腹を満たせるものが無かったので、僕は仕方なく外食をすることにした。駅に出ればファストフード店やファミリーレストランが何軒かあったがはずだ。それに、無かったとしても電車に乗って店を探せばいい話である。と僕は考えながらアパートを出て鍵を閉めた。

 時刻は十二時を回って少しした頃であった。春らしい温かい気候であった。僕は陽気な気分になり、軽い足取りでバス停まで向かい、他にバスを待っている利用客がいなければ今すぐにでも鼻歌を歌い出してしまうほど、気分が良かった。

 数分待っていると予定通りにバスが来た。僕はそれに乗って最寄り駅に向かう。ものの数分で駅に着くと、僕は電子マネーを利用してバスを降り、駅を見回した。ロータリーがあり、バスはいろんな場所に通じているようであった。エスカレーターに乗って上に行き、少し歩くと電車の改札があった。とりあえずはこの駅で食事を済まそうと、改札を確認だけして方向転換をした。改札のすぐ後方には駅に付属しているスーパーや飲食店が複合されている施設があった。僕はそこに入っていき、食品売り場を抜けてフードコートに向かった。


「意外と混んでるんだな~」


 僕はフードコートに入って真っ先にそう呟いてしまった。それもそのはずで、今日は平日だというにも関わらず、家族で食事をしている人もいれば、高校生だけで食事をしているグループもあった。そんな中でも婦人会のような集まりで、数人の女性たちがべらべらと喋っているのが目立っていた。僕はそれらのグループを避け、なるべく端のテーブルに座った。そして並んでいる飲食店のジャンルを見て、ちょうど真ん中あたりにあった牛丼が目に付いた。僕は気が変わる前に立ち上がり、牛丼を注文した。トランシーバーのような呼び出しベルを渡され、それが鳴るのを待った。

 少し込んでいたせいか、十分少々でベルが鳴った。僕はお盆に乗った牛丼とサラダを受け取り、先ほどの席に戻った。


「いただきます」


 僕は両手を合わせてそう言うと、割り箸を割って牛丼を食べ始めた。するとその時、牛丼からとは思えない甘い匂いを僕は嗅いだ。ふと顔を上げると、そこには以前痴話喧嘩から救った彼女がいた。僕が見つけるよりも前に彼女はこちらを見ていたようで、顔を上げるとすぐに目が合った。そして偶然を装うかのように、彼女はニコリと笑って僕に近付いてきた。


「もしかしてこの間の……?」


 彼女は恐る恐る話しかけてきた。しかしその眼にはどことなく確信が宿っていた。なぜなら僕の格好が、以前出会った時と全く同じであったからだ。それに、彼女は僕の顔を見るとすぐ、机に置いていた僕のスマートフォンを見た。それから僕に微笑みかけたのだ。


「どうも、ええっと……」


 返事をしたは良いものの、この後に続く言葉が思い浮かばない。僕は急に相手の顔を見ているのが恥ずかしくなった。そもそもそれほど女性の相手をするのが得意ではないこともここで思い出していた。


「お見苦しいところをお見せしました」


 彼女は切り出し口の無い僕に気が付いて、先に先日の詫びを入れ、深々と頭を下げた。それを見た僕は更なる羞恥心に苛まれた。


「あ、その、頭を上げてください」


 僕はつっかえながら彼女にそう言うと、彼女は頭を上げてまたニコリと笑った。そして彼女は整った顔を僕に少し近付けると、ざわついているフードコートの中、小さな声で僕に話しかけてきた。初対面の人に聞き返すのはどこか気が引けたので、僕は集中してその言葉を聞き取ろうとした。彼女の潤んだ唇が動き始め、そして小さな吐息の後に話し始めた。


「相席、いいかな?」


 内容はたったのそれだけであった。聞き逃してもおかしくないほどの文字量であったが、それはとても鮮明に僕の鼓膜を震わした。


「ど、どうぞ」


 僕は勢いに負けて彼女を対面の席に招き入れた。彼女は席を引いてゆっくりと腰を下ろした。


「ありがとう。失礼するわね」


 彼女はそう言うと、テーブルに両肘をついて顎を包むように両手を添え、僕の顔を覗き込んだ。僕は箸を持ったまま彼女の瞳に吸い込まれていくような感覚に陥った。辺りはまだ寂然としている。先ほどまで聞こえていた婦人会の世間話や、家族団らん、それに友人との馬鹿話。それらはまったく僕の耳に入ってこない。


「それ、食べないの?」


 その言葉で突然僕に時間が戻って来る。辺りはもとの喧騒を取り戻し、耳の中は急に騒がしくなった。彼女は硬直する僕と牛丼を交互に見ると、首を傾げてまたニコリと笑った。彼女が笑顔になると、彼女の周りに星が煌いているような幻覚に襲われながらも、僕は箸を動かして、少し冷めた一口目の牛丼をようやく頬張った。

 彼女の視線は気になったが、それは彼女自身も自覚しているようで、一方的に話を始めた。


「私、羽代麗子はしろれいこ。よろしくね。改めて、こないだはありがとうね」


 ニコニコ話す彼女に、僕はぺこぺこと頭を縦に振った。


「君は?」

「ん、僕ですか?」


 僕は焦って牛丼を無理矢理飲み込んでそう言った。


「うん、そう」

「ごほん、僕は滝宏也って言います」


 僕は喉に詰まりかけた米を吐き出すため、いたって普通に咳き込みながらそう言った。


「ふーん、宏也君か。年は?」

「えっと、二十ですけど」

「そっか、じゃあ私より下だね」

「そうなんですか」


 なんだか年を聞くのも失礼な話だな。と思った僕は、あえて彼女の、麗子さんの年を聞くことは止めた。すると麗子さんは口を尖らせ、目を細くして僕の顔を覗き込んだ。


「年、聞かないの?」

「あ、いえ、だって失礼かなって」

「ふーん、そう、ならいいけど」


 僕はその返答に何か嫌悪感を抱いた。そこは自分で言い出すところなのでは無いだろうか? と思ったからである。しかし彼女はしたり顔で牛丼を頬張る僕を見るだけであった。


「なんで誇った顔をしてるんですか?」

「うーん、なんでだと思う?」

「はぁ、知らないですよ」

「もう、つまんないの。ちょっとは興味持ってよね」


 麗子さんはそう言うと、顔を僕から背けた。流石に怒らせたか? と僕はちらりと彼女の方を見た。しかしそこには、空想を楽しむ乙女らしい笑顔を浮かべた麗子さんがいた。僕にはそれが少し不気味に思えた。なぜ会話がここまで上手く進行していないのに笑えるのだろう。と思いながら、僕は残っている牛肉と白米をかきこんだ。


「ごちそうさまでした」


 父母に礼儀はしっかりとな。と言われてきた僕は、手を合わせてこう言った。そして空いた皿の乗ったトレイを持ち、返却口に向かって歩き始めた。


「何処に行くの?」


 彼女がそう言って僕を止めた。


「これを返しに行くんですよ」

「そう、それで、そのまま帰るの?」

「えぇ、他に用事は無いですから」

「ふーん、じゃあ私も今日は帰ろうかな」

「はぁ、そうですか。それでは」


 僕は素っ気なく彼女に接した。なぜなら彼女に気を留めてしまったら、どうせしなくてもいい後悔をすると思ったからである。それは本当に不毛なものだと思う。彼女が話しかけてきた。彼女が僕に微笑みかけた。それが愛だ! なんて馬鹿なことは考えない。そんな勘違いはしない。そのためにも、前段階で彼女を僕から拒絶する必要がある。と僕は信じ切っていたからである。

 こうして僕と麗子さんのファーストコンタクトは終わった。相手が一方的に話し続けていたようにも思えるが、その一方的なキャッチボールの玉を全て受け取り、相手に返さず籠に片付けた僕は立派な勝利を飾ったと言えるのではないであろうか。と、僕は勝手な妄想に浸りながら帰宅した。


 それから数日が経ち、脚本でも書こうかとパソコンの電源を入れたとき、パソコンの横に置いてあったスマートフォンがふわっと明るんだ。メッセージが届いたようだ。僕はスマートフォンを手に取り、電源を入れた。思った通り、メッセージアプリからの通知であった。僕はアプリを開き、メッセージ欄を開いた。するとそこには、未登録の人からのメッセージが届いていた。


「誰からだ……」


 どうせ無作為に送られる迷惑メールのようなものだろう。と思っていた僕は、そのメッセージをタップした。するとそのチャット相手の名前が「羽代麗子」となっていることに気が付いた。


「羽代……麗子……」


 僕は少し背中が痒くなった。なんで知っているんだ? と一瞬考え込んだが、確かあの時、フードコートに行ったとき、僕はスマートフォンを机に置いたままだった。それに、メッセージアプリを開きながら机に置き、牛丼が冷める前に食べ終えようと必死だったし、後半は彼女との会話に気を取られていたような気がしてきた。

 メッセージの内容は「どうも、羽代麗子です。アプリ開きっぱなしだったから、私のほうに登録させてもらっちゃった」と書かれており、その後にはお茶目な顔文字が添えられていた。

 確かに僕の不注意ではあったが、流石に非常識だと思ったので、僕はすぐに返信の内容を打ち込んだ。


「こんばんわ。確かに僕の不注意でしたが、勝手に登録するのはどうかと思います」


 と送った。少し押しが弱いかとも思ったが、これで強気に出ても僕の幼稚さが露呈してしまい、さらに彼女のペースに巻き込まれかねないと思った結果がこの内容を思案させた。

 返信はすぐに来た。僕はすぐそれに返信することが出来たが、あえて焦らすことにした。と言うよりかは、彼女に対する恐怖が勝っていたのかもしれない。

 僕はスマートフォンから目を放したいがために、布団にスマートフォンを投げた。そして電源を入れたままにしていたノートパソコンに手を伸ばし、ワードソフトを開いて文字を打ち始めた。

 …………それからしばらく、僕は集中して物語を紡いでいた。そのうちに彼女から届いたメッセージのことも忘れ去っており、少しの休憩のつもりで布団に寝転がったら、そのまま寝落ちしてしまったらしい。目覚めると僕はすぐにスマートフォンの電源を入れた。しかし催促のメッセージが届いているわけでもなく、僕は思わず首を傾げながら起床した。

 内容を確認するためにアプリを開いてみると、確かにメッセージは届いていた。僕は心のどこかでメッセージそのものを無かったものにしようとしていた節があり、やっぱり来ていたのか。と思いながら、チャットルームをタップして開いた。


「そうよね……。ごめんなさい。気持ち悪かったらブロックしてください……」


 想像していた返信とは違い、僕は少し戸惑った。麗子さんの性格からして、「えぇ~、いいじゃん。減る物じゃないし」などと来るものだと勝手に思い込んでいた。僕は急に言い過ぎたような気がしてきて、考える間もなく手が勝手に返信を打ち始めていた。


「こちらこそすみません。少し言い過ぎました」


 僕は絵文字も顔文字も無く、淡々とした文面を送った。こちらの方が反省しているように見えるだろう。と思った僕なりの配慮であった。

 昨晩は早かった返信も、流石の真昼間ではなかなか返ってこなかった。恐らく彼女も仕事があるのだろう。と僕は思い、スリープ状態にしていたパソコンを開いて昨晩の作業の続きをしようとその前に座った。……しかしパソコンの画面を見るよりも、スマートフォンの画面が気になり、僕はまったく作業が捗らないままでいた。そんなとき、インターホンが鳴った。


「はーい。今行きまーす」


 僕は寝起きでぼさぼさの髪のまま、玄関に向かった。そして靴は履かずに扉を開け、頭を掻きながら外を見た。


「どなたですか?」

「私だよ」


 そう言って顔を出したのは、父の友人であり、このアパートの管理人である多田たださんであった。


「あぁ、どうも多田さん」

「やぁ、宏也くん。実はね、空き部屋になっていた隣のことなんだけど」

「隣? 二〇四号室ですか?」

「うん、そうだ。その二〇四号室に新しい入居者が来るよって話だ」

「はぁ、分かりました」


 僕は聞きたいことが山ほどあったのだが、聞くのも失礼な気がして、了承すると扉を閉めた。本当は、どんな方なんですか? 男性ですか? 女性ですか? 年は? など、僕にしては珍しく、気になって仕方が無かった。それはなぜだろうかと考えると、麗子さんから返信が来ていないという不安。それとは相反し、麗子さんに惹かれつつある自分が、もしかしたら隣に来る人は……。という希望を持っていることが災いし、転居者が気になるのだろう。僕はそんなことを考えながら冷蔵庫を開けた。


 翌日、再び昼頃に多田さんが僕の部屋を訪問した。なにやら隣に越してくる人が僕に挨拶したい。とのことであった。僕は流されるままに返事をし、多田さんが玄関を去ると僕のスマートフォンがバイブレーションした。僕はついそれに反応し、スマートフォンの電源を入れた。するとメッセージが届いており、その相手は羽代麗子。と書かれていた。メッセージの内容は、


「驚いた?」


 と書いてあるだけであった。僕は何のことだろうか。と思い、スマートフォンをポケットにしまい、多田さんがいなくなった玄関を見るとそこには、麗子さんが立っていた。


「返信してよね?」


 麗子さんはそう言って笑うと、続けてこう言った。


「隣に越してきました。よろしくね?」


 そう言うとひらりと身を翻し、麗子さんは風のように去って行ってしまった。


「なんだ、知り合いだったのか?」


 麗子さんがいなくなった後に多田さんが顔を覗かせた。僕はその質問に対して曖昧な頷き方をしてその場を誤魔化すと、多田さんはのけ者扱いされたのが嫌だったのか、ふーん。と言いながら扉を閉めた。

 扉が閉まると、僕はすぐに冷蔵庫からお茶を取り出し、そしてラッパ飲みでお茶をゴクゴクと飲んだ。極度の緊張で一気に口が乾いてしまったらしかった。なにせ、彼女が隣に越してくるのだから……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る