ワタシノモノ
玉樹詩之
第1話 出会い
春を迎えた僕は、新天地に足を踏み入れた。安いアパートで、そのアパートの管理人が父の友人だったとか何とかで、格安で数年置いてくれるというのであった。
僕は恵まれているな。と思いつつ、そのアパートの一室を借りることにした。アパートは二階建てで、僕の部屋は二階の二〇三号室であった。一番奥は二〇四号室であり、角から一個前の部屋ということになる。引っ越す前に一度その部屋を見に行ったのだが、一人暮らしには十分であった。入るとすぐ六畳ほどの洋室があり、そこにはガスコンロ、シンク、調理台。いわゆるキッチンが備わっていた。その部屋で食事もとれるため、用途としてはダイニングキッチンと言ったところだろう。
玄関から真っすぐ行くと、もう一室備わっている。そこは和室で六畳半ほどだろうか。ここにちゃぶ台を置いて勉強をしたり、パソコンをいじったりし、疲れたらすぐ眠れるように布団を敷くイメージがすぐに沸いた。和室の奥には物干しスペースが少し設けられていた。
部屋を一通り見回し、ダイニングキッチンの左側にトイレとバスルームを確認し、和室には襖の物置が少しあるのを発見した。それを終えると僕はアパートを出た。
「どうだったんだ、
父がアパートの前に停めている車に寄りかかりながらそう言った。
「あぁ、結構いいところだと思うよ!」
「そうか、それならよかった。じゃあ、今日は帰るとするか」
「今行くよ」
僕は鉄で出来た共通廊下を歩き、鉄の階段を下った。そして父が待つ車の助手席に乗り、内見を終えてその日は帰宅した。
それから一か月が経ち、今に至る。二〇三号室には「滝」と書かれた表札がかけられ、中もすっかり家具が揃えられ、既に部屋が完成していた。
それはそうと、僕が引っ越してきた理由は、これも父の友人なのだが、脚本家の友人がおり、その人のもとで脚本を学んでみたい。と、僕が言い出したのがきっかけであった。間柄としては、僕が弟子で父の友人である脚本家、
「荷物は全部運び終えたか?」
父が二〇三号室を見上げながら言った。僕は体を乗り出して答えた。
「終ったよ! あとは父さんがいなくなれば完璧だ」
「おいおい、そんなに早く帰って欲しいのか?」
「嘘に決まってるだろ」
僕と父はいつもの調子で笑った。
「それじゃあ、そろそろ行くからな」
「うん、頑張ってみるよ」
父は言葉で答えず、親指を立てて僕に合図した。僕も同じように親指を立て、父を見送った。
父が走らせる黒い乗用車のウインカーが点灯する。そしてタイミングを計って大通りに出ると、すぐに黒い乗用車は消えていった。それと同時に、僕の胸中には黒い暗雲のようなものがかかってきたような気がした。これが寂しさなのだろうか。と思いながら、僕は二〇三号室の扉を開けた。
「……ただいま」
僕は躊躇しながらも、誰も居ない二〇三号室に挨拶した。当然返って来る言葉は無く、むしろ今自分が放った言葉がそのまま跳ね返ってくるような、幻聴が聞こえてきそうな気さえしてきた。僕はそれに飲まれる前に、いそいそと靴を脱ぎ、ダイニングキッチンに並べられている木椅子に着いた。木のテーブルを挟んだ向かいには、もう一つ木椅子が並べられている。客人用にと母が無理矢理寄越したものであった。
「静かだな……」
僕は誰かが目の前に座っているような口調でそう言った。それは、相談があると呼び出されたにも関わらず、相手がだんまりを決め込んでしまったような口調であった。もちろん返答は無い。僕は退屈そうに背もたれに体重を預けた。まるで父が僕のやる気だけを乗せてどこかに行ってしまったようにも感じてきた。
このままではどうしようもない。と、僕は突然立ち上がった。意志と反し体は怠く、ようやっとついてきているような感じであった。僕はそんな体を和室に運んだ。ちゃぶ台にはパソコンが一台置いており、それで執筆をする予定でいた。僕は早速気を紛らわせようとパソコンの前に胡坐をかいた。
パソコンはノート型で、電源ボタンを押してから、しばらくしてようやくマウスの自由が利いた。あらかじめインストールしていたワードソフトを開いた。しかしそんな気持ちで物語が書ける訳も無く、数十分ブルーライトを浴びた後、敷きっぱなしの布団に転がり込んだ。
「あぁ~、ダメだ。空腹のせいか? それともホームシックか?」
僕は少しでも意識を変えようと、無駄な独り言を枕に向かって発した。
解決策が見つからぬまま、僕は全てを中途半端にして眠りについてしまった。寝るつもりは無く、うたた寝の末目覚めた僕は時計を見ると一瞬、幻を見ているのか。はたまたまだ夢の中なのか。と言う妄想で頭がいっぱいになっていた。しかし時計が指し示す午後七時の表記は現実であった。
僕はそれが電波時計と言うことを忘れ、けっ、どうせ時間がずれているだけだ。と高を括り、信頼するスマートフォンの電源を入れた。すると液晶画面には、午後七時三分。とデジタルに表記されていた。僕はそれを見てようやく眠りについていたことを認めた。
「飯は食わないとな……」
僕は目覚めを明瞭にするために声を出しながら立ち上がると、よたよたと冷蔵庫を開けに和室を出た。
寝起きのせいかとても目が乾いた。何度も瞬きをしながら冷蔵庫にたどり着くと、僕は冷蔵庫を開けて中を覗いた。そこにはいくつかのタッパーが並んでいた。タッパーには、きんぴらごぼうや切り干し大根などが丁寧に詰め込まれていた。そう言えば、母が幾日か分の、持ちの良い料理を入れて持たしてくれたんだっけ。と思いつつ、僕はタッパーの一つを手に取った。そしてそれをテーブルに置き、そこでご飯を炊いていないことに気が付いた。
「あ、ご飯が無いな……」
思わず声を漏らすほどであった。
タッパーを見つめて少し悩んだ結果、一度タッパーを冷蔵庫に戻し、レンジで簡単に作れるご飯を求めて近くのコンビニを探すことにした。
スマートフォンで検索するのが最速の手ではあったが、よくよく考えてみれば、自宅付近の情報がまったくないのはこれからが不便だ。と思い立った僕は、自分の足で近所をぶらついてみることにした。
春とは言え、夜は冷えた。なので僕は外套を着たが、これでは流石に着込み過ぎか。と思い、長袖のTシャツと長ズボンに着替えた。これに靴下を合わせて歩きやすい運動靴を履いた。
「よし、行くかっ」
僕は何となくそう言った。気合を入れるためなのだろうか。それは僕にもよく分からなかった。
無駄な考え事を止め、僕は立ち上がって玄関を開けた。開けるとともに肌寒い風が僕に吹き付けた。僕は腕を組み、袖の上から腕を温めようと小刻みに手を動かした。しかし効果は然程なかった。僕はそのまま腕を組みながら、少し腰を曲げて外に出た。そこで財布を忘れたことに気付き、姿勢はそのままに靴を脱ぎ、和室に置いてある鞄から財布を取り出すと、再び靴を履いて玄関を開けた。するとまた肌寒い風が吹き付けたが、今度は何とも思わず外に出ることが出来た。
バタン。と扉が閉まる音とともに、僕の腹の虫が鳴った。
「あぁ~、流石に腹減った。今日は速足に回るか」
僕はそう言いながら既に歩き出していた。階段を下りてアパートの敷地を出ると、車一台分の幅員である道路に出て歩き出した。
とりあえずアパート近辺をブラブラと一周した。夕飯時と言うこともあり、賑やかな家が多かった。僕はそんな家々を見ながら、父が車を走らせて行った大通りの方に出向いてみることにした。アパート近辺は住宅が多く、景観を保つためにもコンビニやスーパーがいきなり現れるとは思えなかったからである。大通りまではそう遠くないので、徒歩でも十分かからないくらいであった。出るとすぐ、乗用車やバイク、それにトラックやバスも目に入る。少し歩けばバス停があり、数個乗り越せばすぐ駅に着く便利な立地であった。
僕はそれらを確認すると、本題であるコンビニを探した。するとそれも案外近場にあった。大通りを横断して右側。つまりは駅方面に向かって少し歩けば一番近いコンビニが建っていた。その奥にも数店コンビニが存在した。しかし奥まで行く必要も無いので、僕は一番近いコンビニに入店した。
「いらっしゃいませ~」
アルバイトの男性が一人レジに立って挨拶をした。僕はそれに構わず白米を探してコンビニの奥に進んでいった。そして目当ての、レンジで温めてすぐに食べられるご飯と、大好きな板チョコレートを買って帰路に就いた。
その帰りであった。僕は信号がある横断歩道まで歩くのが気だるかったので、行き交う車の合間を縫って向こう側に、アパートがある道に渡ろうとした。実際、そんなことをしているなら、横断歩道まで行ってしまった方が早いのだが、ここで優先されたのは、歩くことへの拒否であった。こうして僕がタイミングを見計らっている時であった。
「おい! どこ行くんだよ!」
カジュアルな服装の男が、誰かに怒鳴っている声が聞こえた。
「ちょっと、放して!」
僕は声がした方を本能的に振り向いていた。男が着る、恐らく紫色のシャツの背中がまず目に映った。動きからして、男は右手で何かを掴んでいるようだった。そしてすぐその正体は露になった。男が強引に腕を引き、やけに白んだ細い腕が釣り上げられた。男はさらにその細い腕を釣っていく。細い腕はついに、丸んだ肩を見せた。そのまま全容が明らかになると思われたが、相手もそれに抵抗したらしく、バサッ。と、真っ白い、目に突き刺さるように白いワンピースをはためかせた。
「なんで急に別れようなんて!」
男は声を荒げながらそう言った。
「あなたがそんな人だからよ!」
「俺が何だって言うんだ!」
男は再び強引に女性を引っ張った。女性はついによろけ、歩道の端に追い込まれた。
「なぁ! 俺が何したって言うんだ!」
男は女性に詰め寄る。女性が嫌がる素振りを見せたその時、僕と目が合った。僕はその時なぜか、ドキッ。としたというよりは、キュン。としていた。僕は少しの硬直を経て、スマホを取り出すと電話をしているフリをして見せた。それも大袈裟に。
「もしもし! はい、はい。そうです!」
「お前、何してるんだ?」
男は怒りの矛先を僕に向けた。僕は睨まれるとすぐ、スマホをスリープ状態にしてポケットにしまった。
「彼、ここに呼んでおいたの。何かあったら警察を呼んでくれるようにね」
女性は先ほどまで強引に掴まれていた部分に手を当てながら、勝ち誇ったようにそう言った。
「クソ。また来るからな」
男はそう言うと、警察以前に集まり始めていた数人の顔を見回して、走り去っていった。
僕はそれを確認すると、女性の無事を確認するために近付こうとするが、僕以外の野次馬たちが、特に女性たちが、白いワンピースの彼女を囲んでしまい、僕も僕で、腹の虫が再び鳴き始めたので、ちょうど車通りが無い今が好機だ。と、大通りを横断して帰宅した。
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