第十四話 大原や 小塩の山も 今日こそは…


八七六年(貞観じょうがん十八年)。

四月十日のこく(午後十一時から午前一時ごろ)に、今度は大極殿だいごくでんが燃えた。火は数日も燃えつづけた。

応天門おうてんもんを再建したのに、応天門の先にドンと建っている大極殿が灰になった。冷泉院れいせんいんが燃えて、淳和院じゅんないんが燃えたが、これは宮城の外にあった。大極殿は宮城の内にある。

応天門の炎上ぐらいで騒いだのが嘘のように、もっと大規模な放火がつづいている。民家を焼く小規模な放火も、ひんぱんに起こる。

都は焼け跡と、水害による崩壊家屋ほうかいかおくだらけで、戦禍せんかにみまわれたような惨状さんじょうだ。

大極殿が燃えてから、やっと近衛このえ兵衛ひょうえの夜間巡廻がはじまった。


業平なりひらは近衛でも、中将なので巡廻はしなくてもよく、やれやれ助かったと思っていたら、晩秋になって「大原野神社おおはらのじんじゃにお参りするから供をするように」と、春宮しゅんぐう女御にょうご高子たかいこから呼び出しがかかった。

高子の近習きんじゅう寂林じゃくりんからも、顔を見せて欲しいと手紙がきたので業平は会いにでかけた。皇太子が成人まえだから東宮の後宮こうきゅうに妃はなく母の高子と側近が使っていて、寂林も部屋を与えられている。

業平は五十一歳。睦子の寂林は少し歳上で五十三、四歳のはずだ。

「女御さまは、大原野神社へのお参りを楽しみにしておいでです。これからは外出も難しくなられるでしょうから」と寂林。

「どうしてでしょう」と業平。

「帝が譲位じょういを決められたようすです」と寂林。

「こんなに早く?」と業平。

「ご病弱です」と寂林。

「それは、色々とお辛かったでしょうねえ。大原野神社に行幸ぎょうこうされないのでしょうか」と業平。

「ご一緒されたいでしょうねえ。帝は宮城の外にお出かけになったことが、ほとんどございません」と寂林。

「お気の毒です。早く退位なさって、ご自由に過ごされますことをねがっております。それでは皇太子さまが即位されますか」と業平。

「そうなりますでしょう。

高子たかいこさまが、どちらに住まわれるのか分かりませんが、動けるうちは、わたしは高子さまについて行きます。

大原野へ参る日は人も多いでしょうから、親しくお話しをする機会もないでしょう。

業平さま。あなたの晴れ姿を、わたしはほまれに思いながら拝見していますよ。今日は、こうして、ゆっくりとお顔を拝見できてようございました。

つぎは、いつ、お会いできるのやら…」と寂林。

「色々ありましたねえ」と業平。

「はい。はい。楽しかったですねえ。

もう一度、生まれ変われるとしても、わたしは、おなじ方々とお会いしたいですよ」と寂林。

「わたしもです」と業平。

「かならず、また、お会いしましょうね」と寂林。

「はい。現世か来世で…きっと、また」と業平。



このところ右大臣の基経もとつねは、まことのあとをついだ左大臣の源とおるに隠れて、内裏の清涼殿せいりょうでん清和せいわ天皇と密談をつづけていた。

皇太子が自分が即位した八歳になってから、清和天皇は強く譲位をのぞむようになった。もう少しと引き留めているが、もともと丈夫な体質ではなく、即位の事情を知ったときに苦しまれたので、やめたくなるのも無理もないと基経も思う。

そのうえ天候の不順、作物の不作、どんどん広がる放火。大極殿の再建には着手したが先行きの見通しは暗い。二千人余りもの死者をだした水害の被害者の家族と、水害で壊れた三千軒以上の家屋の再建を支援する余裕もない。

壊れたのは民家だけでなく、一町ごとを囲んで都の景観を保っている築地塀ついじべいも崩れが目立つ。国には修復する予算がない。

国庫に金がないのは平安京に移ってからズーットのことだが、とくに嵯峨さが天皇の時代と、良房が政権の牛耳ぎゅうじりはじめてから貯蓄をおこたっていた。節約を進めている清和天皇のせいではない。 

だが清和天皇が譲位したら、即位する幼帝に代わって政務を執る人が必要になる。

参議さんぎをしている源氏は、すでに嵯峨源氏だけではなく、仁明にんみょう天皇の子の源まさるや、文徳もんとく天皇の子の源能有よしありがいるから、以前ほどまとまっているわけではない。

それでも、どうすれば、左大臣の源とおるを押さえ込んで、右大臣の藤原基経もとつねを幼帝の補佐にできるだろうか。

そして、どうすれば、良房の猶子ゆうしが幼帝を補佐することで起こる、嫌悪や恐れや拒否反応を、最小限に食い止められるだろうか。

基経と清和天皇が話し合っているのは、このことだ。



大原野おおはらのには、奈良の春日神宮にまつられる藤原氏の氏神うじがみを移した大原野神社(京都市西京区大原野)がある。この地に神社を建立したのが桓武天皇の皇后の藤原乙牟漏おとむれだから、大原野神社には藤原氏の女性で、皇后こうごう皇太后こうたいごうや天皇の母后になる女人がもうでる習わしがある。

高子が、業平を護衛につけて大原野に行きたいと言ってきたときに、基経は「これだ!」と膝を打った。

業平と親しく話すようになったのは、左近衛さこのえの中将をしていた二十八歳のころで、そのまえから高子と業平の恋は世間を騒がせていた。もう基経は四十歳になるから、業平と高子の恋は十何年もまえのことになったが、あの歌は歌いつがれている。

去年、基経が四十歳(数え歳、満三十九歳)の祝いのうたげをしたときに、九条の邸に業平も来てくれた。大勢の客のなかに混じると、五十をすぎた業平がいまだに目立つ。色が白くて動きが優美で、際立きわだって輝くオーラを発している。人々が業平をみる目も、優れて美しいものを称賛しょうさんするような…そう。業平は、業平という芸術作品なのだ。

都は飢えと水害と放火でボロボロになっている。庶民は不満をえたぎらせてすさみきっている。そのなかで藤原氏の血が濃い幼帝を即位させ、良房の猶子が補佐すれば不満は拡大する。

でも幼帝の母后の高子には、有名すぎる元彼がいる。その業平は、良房の被害者として同情を集める惟喬これたか親王の庇護者ひごしゃだ。

高子と業平。人々が好んで口にする恋歌の二人に、庶民の気をそらす大祓おおはらえをしてもらおう。むかし業平は自分のことを大幣おおぬさと歌ったことがあるから、大祓いにはもってこいだろう。 

ただ基経がのり気になって清和天皇にも話していることは、高子にも悟られないようにした。基経が絡んでいることが分かると、業平がヘソを曲げるかも知れないからだ。

基経の四十歳の祝いのときも「おめでとうございます」と言いながら、業平はこんな歌を詠んだ。


桜花 りかひくもれ いらくの むといふなる 道まがふがに

(桜の花よ たくさん散って 老いが来る道を 分からなくしてくださいよ)


藤原氏は芸術的な感性は高くないが、これは、どう読み解いても、一時的に華やぐ桜でかくせても老いへの道は消えませんよ。へーえ。もう四十ですか。ずいぶん年をとりましたねえと、からかわれただけだろう。


美しくみやびやかだが、業平にはかくとなる信念がある。表立って藤原氏のお先棒さきぼうかつがない。業平なら基経のねらいも見破るだろうが、基経さえ表にでなければ、庶民の楽しみと縁のある高子のために、うまくやってくれるはずだ。

高子は皇太子の母で従三位をもらったが、いまの肩書は清和天皇の女御。清和天皇は皇后を立てなかったので、三后とよばれる皇后、皇太后、太皇太后のどれでもない。大原野へも女御として私的に行くから、おおげさなことは控えなければならない。

高子自身は民衆のまえに姿をみせないから、高子の代わりになる車を基経は色々考えてつくらせた。車の工夫を考えているあいだ楽しかった基経は、時康ときやす親王を邸に招いたときに酒の肴に話してみた。

時康親王は仁明にんみょう天皇の皇子で四十六歳。仁明天皇と突然死した寵妃ちょうひ沢子さわこ女御のあいだには、宗康むねやす親王、時康ときやす親王、人康ひとやす親王の三人の皇子がいた。

沢子女御は、基経や高子の母の乙春おつはるの姉妹で、基経は人康親王の娘を妻にしている。この三人の親王と基経は、母方の従弟で、妻の父とその兄弟という二重の縁でむすばれている。

宗康親王も人康親王も亡くなってしまったが、残った時康親王は温厚な人柄を慕われて皇族の重鎮じゅうちんとなっていた。

「わたしも、まいりましょう」と時康親王ときやすしんのうが言った。

「わたしも母は藤原氏ですから、一度は大原野神社にもうでてみたかったのです」

二品民部卿みんぶきょうの時康親王の参加で、藤原氏に縁のある親王や貴族たちも加わることになった。公式行事ではなく、一人の女御の私的な参詣さんけいに自主参加するのだから、左大臣の源とおるをはじめとする源氏からも苦情が出せない。

まいりといっても、野宴をもうけて飲み食いをして歌を詠んで遊ぶ。貴族たちのピクニックで、高子女御の大原野参りは参加者がふえて、予定よりもずっと大規模なものになった。 

基経は渋い顔を作りながら、せっせと野宴の設営や、食べ物の配送の準備をした。

公式行事ではないが朱雀大路すざくおうじを練り歩くのだから、御霊会ごりょうえより派手だ。あとは…そう。乗り物がフンをするので、行列が通ったあとは、藤原氏から掃除のための雑色をだそう…。



春宮の女御の私的な氏神詣うじがみもうででだから、基経は京職きょうしきにも、通過のときに牛馬を放逐ほうちくしないようにと通達するぐらいの、軽い対応でよいと連絡した。

ところが当日は、日の出のころから人々が朱雀大路に詰めかけた。行列に加わる近衛兵このえへいの恋人や家族たち、供をする舎人とねりたちの家族や知り合い。そして数日まえから、数々の恋と恋歌で有名な在五中将ざいごちゅうじょうが供をすることが広まって、なまの在五を一目見ようというフアンや野次馬が、どっと集まってきた。


春宮の女御の行列が、朱雀門から出てきた。

最初に巻纓けんえい(冠の先の飾りを巻きこんだもの)の冠に、おいかけ(耳当て)をつけた正装の近衛このえの兵が通った。名門氏族しぞくの子息が多い近衛兵は人気者だ。そのあとで牛車ぎっしゃが引きだされてくる。

一番手の控えめな茶色の濃淡の檜皮ひわだを、細かく升目模様ますめもように張った網代車あじろぐるまがチラリと見えた。網代車というのは、四位、五位の貴族が利用するが、ときには、それ以上の位階をもつ貴族が装いをこらして使うこともある。

「どなたの、お車でしょう」と見物人がヒソヒソと話す。

たいがいは、なぜか事情通がいて鼻高々に説明するのに見当のつく人がいないようだ。だが、その牛車が、両脇を舎人とねりにはさまれて大路に乗り出してきたときに、見物人はどよめいた。

見たこともない大きな黒牛が車を引いている。きれいにそろった太い二本の角が重々しげに天をつき、動くたびに黒光りする筋肉が盛りあがる。牛は臆病おくびょうなので、暴走したり、立ち止まったり、路をそれることもある。見物人は、あわてて子供の手をつないだり、抱き上げたりしはじめた。

牛車の先頭を行く大きな黒牛は、牛飼いわらべの「チェ・チェ・ホレ・ホレ」とたくみにあやす声にしたがって、落ちついた足運びで止まらずに歩いて行く。

そのあとに、半蔀車はんしとみぐるま網代車あじろぐるまがつづいた。なかほどで、立派な屋根を乗せた豪華な唐庇車からびさしぐるまが通った。

「親王さまだ」とだれかがささやく。車は身分によってちがうから、この車の主は太上天皇か三后か皇太子か身分の高い親王だ。

そのあとに糸毛車いとげぐるまが来たので、見物人のどよめきは最高潮にたっした。糸毛車は、車の側面をより糸でおおったもので、青色は皇后や皇太后や皇太子が、紫色は女御にょうご更衣こういが使う。

基経が考えて用意したのは、青紫の糸毛車の右側面のうえに白い月をあしらった車で、反対の面は月の光を受けたすすき。前面に下しているれんと、下に長く垂らす二枚の下簾しもれんは、季節の紅葉を思わせる赤から黄色への濃淡だった。

その糸毛車のすぐ横を、灰色まだらの胸の厚い馬にまたがった近衛の中将がつき従っている。五十一歳になったが、だれに聞かなくても一目で分かるあでやかな美しさを見せつけて、在五中将が通ってゆく。


月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして


春の月の夜に恋した人が乗る、秋の月を思わせる糸毛車につき添って、在五さまが行く。業平の乗る馬は右馬頭うまのかみをしていたときに、東北の御牧みまき(官の牧場)から送られた馬のなかで、特に優れた二十頭を清和せいわ天皇がみて、その中から好きな馬を選んでよいと帝からたまわった名馬だ。


四条辺りでは、奈良から来て、業平の邸のサンセイたちの棟を宿にしている、仏師の慶行けいぎょうが家族を並べていた。慶行の娘の桔梗。桔梗とサンセイのあいだに産まれたウハギ。ウハギの肩を抱いているのは運行うんこうと名乗るのを許された、モクミと小夜のあいだに生まれた二十五歳の若い仏師だ。小夜もいる。まだ名乗りを許されていないモクミの下の息子の杉丸が、サンセイの下の娘のナツメとつないだ手を上げて「とうさん!」と声をかけた。

業平の横を歩くサンセイとモクミが笑顔で答える。業平も首をまわして微笑みかけた。このころから、どよめきは歓声にかわった。

七条では、岡田ごうえいの兄弟が、新しい水干を着て待っていた。横には土師小鷹はじのこたかがいる。若いホウも手下たちもいる。その姿を遠目でとらえて、先頭を行く大きな黒牛が引く網代車がみすを巻きあげた。

信濃からもどってきていた守平もりひらが、倫子りんこと子たちに野宴やえんを見せてやりたくて、大原野詣でに参加したのだ。

守平はヒョイと車から顔をだして、剛や栧や小鷹やホウに手をふった。黒牛を、みごとに引いて、しばらく都で話題になった犬丸も兄たちに笑顔をみせる。

大原野では、太秦うずまさ眷属けんぞくを引きつれて、もとのムカデこと秦能活はたのよしかつが酒を献上するために来ていた。

参詣さんけいのあとの野宴で、参加者は歌を詠んだ。そのとき業平が詠んだ歌。


大原おおはらや 小塩おしおの山も 今日こそは 神代かみよのことも 思いづらめ

(大原の神々も 今日だけは むかしのことを 思いだしているでしょう)


言葉の流れが心地よくおごそかかな文字を使っているが、大原の西方にある小塩の山は、業平が元服したときに淳和じゅんなの帝の遺骨を散骨したところで、いわば山が淳和天皇陵のようなものだ。

「神代のこと」は「むかしはね」というときにも使うから、高子と業平の恋のことか、過ぎた時代のさまざまな出来事か、ほんとうに神さまの世のことか、あいまいで分からないところが業平らしい。しかも過去のことをすべて、神代のことと祀り上げてしまう鎮静効果ちんせいこうかもある。

歌を詠んだ人たちに、高子は用意してきた褒美の品を与えた。業平の歌はおもしろがって、糸毛車に招きよせて特別に自分の着ていた衣を与えた。

漢詩が尊ばれるようになってから、貴人が和歌に特別な恩賞おんしょうを与えるのは恐らくこれが始めてで、業平も歌で褒美を貰うのは始めてだった。



そのすぐあとの十一月十八日と十九日に行われた新嘗祭にいなめさいを最後に、清和天皇は染殿そめどの神璽しんじ宝剣ほうけんをもって移り、譲位の意志を発表する。

そして十一月二十九日には、貞明さだあき皇太子が東宮から染殿に向かい、譲位が行われた。

このとき大極殿だいごくでんは焼失していた。内裏の紫宸殿ししんでんで譲位をすることはできたが、清和天皇は自分の生まれた藤原氏の私邸を使った。譲位のあとで太上天皇となる清和天皇が住む、後院ごいん冷泉院れいせんいんも焼失していたのだ。

自費で修業道場を建設中だった正子太皇太后まさここうたいごうが、淳和院じゅんないんをと申しでるほどのひどいいありさまだった。 

「ずっと体調が悪く、政務につくことが耐え難かった。しかし災害が続き天下は安らかではない。そのことを考えると、ますます体が弱っていく。朕も幼いときに即位して、助けるものがあって政が執れた。皇太子は幼いが、補佐するものがいれば政を行えるだろう。左大臣の源とおるは、かねてから病により職務が負担だと奏上している。右大臣の藤原基経もとつねは政務に熱心で、夜昼となく働いていて、譲位する貞明さだあき皇太子の外叔父になる。

上に立つものが多いときは下が苦しいという。だから太政大臣という職を止めて、それに付属する諸経費をはぶき、基経を摂行せっこうとする」と清和天皇が、譲位のみことのりを出した。

四十歳の藤原基経は、右大臣のままで幼帝に代わって政務をみる立場に立った。

そして清和太上天皇は、そのまま染殿を御座所とした。



国に大きな変わりがあるときに、報告を欠かさない天皇家の陵がある。報告するのは十陵と決めていて、血統が代わった光仁こうにん天皇からの陵に参詣している。

藤原順子じゅんこが亡くなったときに、良房よしふさが、それまで十陵に入っていた高野新笠たかののにいがさを省いて、順子を加えた。高野新笠は桓武かんむ天皇の母だから、これからも子孫が皇位を受け続いて行くと、新笠の大枝陵を守る大枝氏は憤慨ふんがいしたが、音人おとんどに説かれて従った。

ほかに良房は藤原四墓を選んで、十陵とおなじ扱いをしていた。

良房が亡くなったときに基経は、良房の墓を加えて五墓として、五墓は国とは関わりなく藤原氏が守るようにした。

良房の黒い記憶を早く消してしまいたい基経は、清和天皇の譲位がきまると、まず文徳天皇の田邑陵たむらりょうだけに、天皇の交代の報告の勅使ちょくしをむかわせた。

勅使に選んだのは大江音人おおえのおとんどと、文徳天皇がこよなく愛した惟喬親王これたかしんのうを支えつづけた在原業平ありわらのなりひらだった。


十二月二十九日。明日は来年という歳の瀬に、大江音人は業平と二人で唐庇車からびさしぐるまで揺られている。

「広い!」と業平がはしゃいでいる。

「はじめてか」と音人。

常行つねゆきどのの葬儀のときの遺贈いぞうの通達と、鴻臚館こうろかん渤海使ぼっかいしを訪ねたときに唐庇車に乗りましたが、もっと小ぶりでした」と業平。

勅使は天皇の名代だから、唐庇車を使って供も多い。長く弁官をつとめた音人は、数えきれないほど勅使も務めた。武官で位階の低い業平は、勅使の経験が少ないから車のなかの広さと装飾に興奮している。

「これだけ広いと六人は乗れますね。歌合せもできます」と業平。

「この車を使われる方は、そんなに詰め込まれるのを好まれない」と音人。

わだちの音がうるさいし揺れるから、忍び会いにも使えます。少々、声をあげても揺すっても分かりません」と業平。

「業平。いくつになった?」

「想像しただけです」

「まったく在家ざいけは好奇心がつよい。業平。わたしは在家の血を受けて、大枝に育てられて良かったと、つくづく思っている。

父の本主もとぬしは、わたしの好奇心を知識の世界へと導いてくださった」と音人。

「本主先生も、わたしを導くことには、失敗されたのではないでしょうか」と業平。

「同じことをしても、受け皿がちがえば色も変わる」と音人。

「そうですねえ。おなじように愛しても、それを大切に思ってくださる方と、足りない部分だけを並べたてる方がいますからね。

ああいうのは皿の代わりにざるを持っているのでしょうね。

心がざるでは、人に愛されたという温かみを貯めようもなく、愛されたことへの満足もなく、笊だけにヌルヌル苔が生えて水はけも悪くなる。

すると新しく入ってくる愛も腐ります。

生きているだけで多くの人が愛を与えてくれるのに、それが分からないとは、なんとも寂しいですねえ」と業平。

「どういう講釈こうしゃくだ。ところで業平。惟喬親王のご様子はどうだ」

「皇位に立つ機会を失くされて、失意のままに山里に隠れられたと言われていますけど、わたしにはロクロを回しに小野へ行ったり、都に帰ってきたりして、すごく楽しそうに見えます。

仕えるものは人の数にも入らない賤民せんみんですが、そういう人たちで、気力や胆力がそなわり、知恵があって愛情深い人を、わたしは山ほど知っています」と業平。

「業平。親王のことは心のなかでご報告して、口にしたり、ご寮のまえで歌を詠もうなどという気を起こさないでくれよ」と音人。

「これだけ広いと横になれるかな。ちょっと、失礼」と業平。

「在五中将。今日は勅使だから、頼むから大人しく座っていろ。お座り! ナリヒラ!」と音人がどなった。



八七七年(元慶がんぎょう元年)。

一月三日に、貞明さだあき皇太子が豊楽殿ほうらくでんで即位した。

豊楽殿は、朝堂院の西隣にある宴会用の施設で、即位した天皇は九歳。のちに漢諡号かんじごう陽成ようぜい天皇という幼帝だ。

高子は皇太夫人こうたふじんになった。

左大臣は源とおる。人事は変わらずに、右大臣の基経もとつねが幼帝の代りに摂行しっこうすることになった。

このとき二品時康ときやす親王は、民部卿みんぶきょうから式部(卿しきぶきょうにうつり、守平は従四位上に階位を進める。



一月二十三日に、業平の盟友で、歌の仲間で、しゅうとで、従四位下の位階をもち、雅楽頭うたのかみ周防権守すおうごんのかみを兼任していた紀有常きのありつねが六十二歳で亡くなった。

前年の十一月二十九日に、伊勢斎王の恬子内親王やすこないしんのうが、天皇の譲位に伴って退職していた。もうすぐ会えるという思いを残しての死去となった。

紀有常は、政府の中核から追われた紀氏へ和歌への道をしめした。

有常が亡くなったときに、まだ五、六歳になったばかりの親戚の子が二人いた。

有常の従兄の孫になる子で、のちの紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものりだ。

この二人も従弟同士で、成人してから勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう(天皇の命で作った和歌の本)である古今和歌集こきんわかしゅうを、他二名とともに編纂へんさんする。

その仮名序かなじょ(仮名文字で書かれた序文)で、紀貫之きにつらゆきが「六歌仙ろっかせん」を選んでいる。六人の和歌の仙人だ。

六歌仙のなかでも有名なのが、仁明にんみょう天皇の女房だった小野小町おののこまち、出家して遍照へんじょうと名乗った仁明天皇の蔵人頭くろうどのかみ良岑宗貞よしむねのむねさだ。業平が大幣おおぬさぶりを発揮して、後宮の女房たちを追いかけていた蔵人のころの上司だ。

そして、在原業平ありわらのなりひらだ。

貫之は、業平の歌を「その心余りで言葉たらず、しぼめる花の色なくて、匂い残れるがごとし」と批評する。菊の花などは、盛りがすぎて色の変わった花を、もっとも美しいと愛でて香りを楽しむ時代だから、仙人と認めたうえでの、この評が酷評かどうかは世人定めよ、だろう。

古今和歌集のなかでも、業平の歌は詞書ことばがきがついているので知られている。この本ができるのは有常の死から三十年もあとのことだが、有常の遺伝子は業平から離れることはなかった。

弘道王と藤原保康が、恬子やすこ内親王を迎えに伊勢に立ったのが三月一日。

卜定ぼくじょうが下りてから十九年。家族と離されていた恬子は、そのあいだに母と次兄と叔父を亡くし、帰京してすぐに妹の珍子内親王も亡くすことになる。

でも見守りたい人がいる恬子内親王は、六十五歳まで強く静かに生きていく。



三月八日。皇太夫人の高子は、染殿にくらしている清和太上天皇をたずねた。

染殿は一部を改良して、太上天皇の後院の清和院せいわいんになった。

このとき、清和太上天皇は二十七歳。高子は三十五歳。重荷をおろした太上天皇は、高子を歓迎した。

清和院には明子皇太后あきここうたいごうもくらしている。桜のつぼみは膨らみはじめたばかりだけれど、気候はうららかな春。タンポポやスミレが、草の中から顔をのぞかせている。

この日の宴は夜中まで盛りあがり、高子は夜半に内裏に戻ることになる。

酔って夜中に内裏に帰還した皇太夫人は、この人しかいない。。

藤原高子ふじわらのたかいこは、人生の四季を自分のために使い切った。

青春のころは、語りつがれる歌とともに業平との恋に燃え、成熟した朱夏しゅかは、八歳年下の青年天皇を支えて三人の子をもうけ、落ちついた白秋には、すでに清和太上天皇(八八〇年。三十歳崩御)が亡くなっていたので、東光寺こうとうじの僧の善祐ぜんゆうとの熾火おきびのような恋に燃えた。

自分のために人生を活かすのが難しかったときに、藤原北家の娘という枠のなかで生まれた高子は中傷や非難を恐れなかった。善祐と恋をしていたときは皇太后こうたいごうだったので、宇多うだ天皇に「けしからん!」と称号を取り上げられて、恋人の善祐を伊豆に流されてしまった。

ただし俸禄ほうろくは、そのままだったから、住むところや暮しには困らない。取り上げられた皇太后という称号に、高子は、どれほどの価値をおいていたのだろうか。

高子の息子の陽成ようぜい天皇が、即位してから七年後の八八三年(元慶七年)十一月十日。

散位で従五位下の源陰の息子のすすむが、殿上でんじょうで撲殺されて死亡した。益は陽成天皇の近習で、事件が起こったのは殿上。殴ったのは十五歳の天皇だから事件は内々で処理されたが、二か月後の八八四年二月一日に、陽成天皇は病のためという理由で十六歳で譲位じょういすることになった。 

次の天皇は仁明天皇の皇子で、皇族の重鎮だった時康ときやす親王で、即位して光孝こうこう天皇となる。仁明天皇と沢子女御の子だ。 

高子と善祐の恋を裁いた宇多天皇は、光孝天皇の子になる。

高子は長寿ちょうじゅで、玄冬げんとうの季節は動物園のようになった息子の陽成太上天皇ようぜいだじょうてんのうがくらす二条院で歌合せをしたり、善祐との思い出が深い東光寺に住んだりして六十八歳で亡くなった。東光寺は高子が建立した寺だ。



陽成天皇が即位した年(八七七年・元慶がんぎょう元年)も、やはり日照りがつづいて雨が降らなかった。

四月に大極殿だいごくでんを建て直すことが決まった。新しい天皇を迎えての、大嘗祭だいじょうさいの準備もはじまった。

参議で従三位、左衛門督さえもんのおかみ大江音人おおえのおとんども、大嘗会の検校けんぎょうになって忙しい日を送っていた。いよいよ大嘗祭が近くなった九月二十六日には、御前次第司おんまえのしだいのつかさの長官になった。大嘗祭の前半をとりおこなう総責任者だ。音人の次官には、学者として頭角を現してきた菅原道真すがわらのみちざねがついた。

だが音人は、大嘗会の十五日まえの十一月三日に六十六歳で亡くなった。


「めずらしく、疲れたと言っていたようです」と玉淵たまぶち

「働きすぎでした」と千里ちさと。音人の息子たちだ。

枕元におかれた愛用の品のなかから、業平は使い古した小袋をとりあげた。

「いつも肌身につけておりました。なにを入れているのか聞いても教えてくれませんでした。業平さまは、ご存知ですか」と玉淵。

糸のほぐれた青龍せいりゅうの刺繍を、そっと指先で業平はなぜる。

「いいえ。存じません。秘しておられたのなら、このまま、ご一緒に送ってさしあげましょう」と業平。

「はい。まじめで偉すぎる父でした。でも、もしかしたら父にも、若いころに秘めた恋の一つもあったかもしれませんね」と千里。

「そうかもしれません」と業平。

「それを大切にしていたのなら親しみが増します」と玉淵。

音人の葬儀には公卿くぎょうや貴族たちも集まったが、若い学生が多く参列した。

現役で亡くなった大江音人は、江相公ごうそうこうともいわれ、文人閥ぶんじんばつ江家ごうけの始祖になる。

その子孫は、博士、大学頭、東宮博士などの数々の学者と漢詩文の名人をだす。大江朝綱あさつな、大江匡房まさふさ、大江広元ひろもとなど、大江を名乗る人は音人の子孫で、大江から別れた北大路きたおうじ家も子孫になる。



八七八年(元慶二年)。

去年の大嘗会だいじょうえで業平は従四位上になったが、有常につづいて音人が逝ったので寂しい。

一月十一日。業平は左大臣の源とおるの邸の、河原院かわらいんに来ている。

大臣の邸の大きさは二町までと決められているが、河原院は六条四坊十一町から十四町までの四町(約六万平方メートル・一万八千坪余り)を占める広大な邸だ。

去年の暮から正月にかけて、左大臣の融が辞表をあげてきた。右大臣の基経が摂行せっこうとなったことが不満なのだ。その奏上を却下する勅使ちょくしとして、業平は来ている。

まだ十歳の陽成天皇が勅書をつくるわけがなく、左大臣に留まるようにとの丁寧ていねいな書は、融を超えて幼帝の摂行となった基経がつくらせたものだ。辞表を出したときから、融も引き留められるのは承知している。

勅書をを読みあげたあとで業平が席を立つと、「すこし、話してゆかれませんか」と融にさそわれた。

融は、嵯峨天皇が臣籍降下させた源氏の八郎。仁明にんみょう天皇が猶子ゆうしにしたので、八番目だが嵯峨源氏のなかでは大きな顔をしている。亡くなった源氏の一郎のまことと仲が良く、鷹狩が趣味で、むかし「謀反むほんを企んでいる」という投書に、信と一緒に名を書かれた。

とおるは宴会も好きで和歌も詠む。この河原院も美しくととのえて人を招く趣味の人だ。行平は近衛にいたころから融と親しくしているが、業平は、この人は好みではない。気に入らない。

この河原院の庭には、海水を焼いて塩にする釜が供えられている。塩釜しおがまで海水を燃して客を招いてみせる。その融の感覚に馴染めない。趣味人だからこそ敬遠したい。


塩は命をつなぐもので労働者の給金にもなる。いまは銭が流通しているが、まだ物々交換は行われている。稲穂と塩は、銭と等しいものだった。それは地球のどこでもおなじでサラリーの語源はラテン語の塩だ。

日本には、庶民の下に売り買いされる奴婢ぬひという人たちがいる。官奴婢と寺奴婢と私奴婢がいるが、馬より安く売られて肉体労働者として無給で働く。嫌な主人だと塩加減をする。飯を与えるときに、塩をつけると沢山食べてしまうから減らすのだ。最下層の人にも庶民の貧乏人にも、塩一握りは命にかかわる価値があった。

塩釜を庭につくって難波の海から海水を運ばせて燃やし、それを客に見せる融の趣味は、ただの金持ちの見せびらかしとしか業平には思えない。

まえに業平が、河原院へ菊の宴に招かれて詠んだ歌がある。


塩竈しおがまに いつかにけむ あさなぎに つりする舟は ここに寄らなむ

(いつの間にか 塩竈(宮城県塩釜)に来てしまったらしい 朝の風のない静かな海で 釣りをする人に 寄って欲しいものです)


菊の宴で塩釜を詠むことが人を食った行為だし、招待してくれた人への感謝など欠片もない。融は業平が渾身こんしんの力をこめた歌か、手抜きの歌かぐらいは分かるから、融も業平が好きではないだろう。

勅使としての役が終わったので、業平は下座にまわって座った。

相手は正二位の左大臣だから格がちがう。融は五十五歳。業平は五十二歳。嵯峨源氏は、業平の父の阿保親王の従弟になる。

「おや。塩釜はいかがされました?」と庭をながめて業平が問う。

「やめました」と融。

「それは、また惜しいことです」と業平。

「このごろ何をしているのかなと思うことがありまして。生きているときは短いですねえ」と融。

「そのように、お気の弱いことをおっしゃいますと、わたしも辛くなります」と業平。

「在五どのは自由でうらやましい」と妙にしんみりと融が言った。

「わたしのように取るに足らない年寄りの、なにをうらやましいと言われるのか。

どうぞ、これからもお導きください」と少しだけ融が可哀そうになったので、業平はチョットだけ気持ちも入れた。

母の伊都いつも三十七人の兄弟姉妹がいたから、名も知らない兄弟がたくさんいた。それでも、ほとんどが親王か内親王だった。

四十九人も兄弟姉妹がいるのは、どんな感じなのだろう。そのなかから三十二人が臣籍降下されて源氏にされるのは、どんな気持ちなのだろう。 

わたしに、そんなに大勢の子がいたとしたら、いくら一字名前でも全部は覚えられない。どの子が、どの母親の子なのかも、ゴチャゴチャで分からない。

そんな父親失格の嵯峨天皇の血を誇るだけで、人生を過ごしてしまったのならチョットだけ可哀そうかもしれない。

あの子の親は高階茂範たかしなのしげのりどの。会うことも名乗ることもできないが、どうぞ自分の人生を豊かに使って欲しいと、業平は会ってはいけない子のことを思う。

このあと融は、風雅ふうが棲霞観せいかかん(清涼寺・釈迦堂のある場所。右京区嵯峨)をつくって、退職を許されなかったので左大臣のままで隠居する。ときわまこととおると三代続いて左大臣になった嵯峨源氏は、これで後退する。

仕事に力を発揮して、着実に階位を昇ってくる源氏もいる。文徳天皇の第二子で、伴大納言ばんだいなごんの養女を母とする源能有よしありは、その名に敗けなかった。



三月になってから、出羽の土地の人たちが発起ほっきして秋田城を襲って焼いた。

むかしから関東と東北地方には独自の文化圏があった。それを大和政権が侵略して征服しようとしたが、完全に制圧できていない。

親王任国しんのうにんこくとされる関東平野の北は、大和政権にとって安心できる場所ではない。都では、これらの東北文化圏の人々を夷狄いてきと呼ぶが、劣った人ではなく、おだやかに暮していたのに土地を乗っ取られた人たちだ。

都から派遣されていた出羽守でわのもりは、二千人の官兵をつれて秋田城に向かったが、秋田城に立てこもった千人の夷狄に惨敗する。

そして六月のはじめに、陸奥守むつのもりが出した二千五百人の兵を含む、五千人余りの官兵が秋田城を取りかこんだが、またも惨敗。

六倍近い兵を動かしながら簡単に敗けるのは、官兵が租税の代わりに徴兵した農民の次男、三男で、軍事訓練をうけてなく「いざ戦!」となると、さっさと逃げてしまうからだ。

職業軍人といえるのは、競技会のためにでも日ごろから騎馬きばや弓を練習している六衛府ろくえふに属する二千人余りで、かれらは天皇のそばを離れない。

広く諸国に武勇のものを求めたが、集まったのは、たったの二百六十人だった。

この大事の最中の七月十七日に、基経は摂政せっしょうとなる。すでに天皇の代行をする摂行を許されているので、大きな反発はなかった。

余震が何日もつづく大地震が関東で起こったあと、出羽の戦は終息した。

この九年後の八八七年(仁和三年)に、基経は関白かんぱくになって政治の実権を握る。

この時から藤原北家という呼び方はなくなり、摂関家せっかんけと呼ぶようになる。



つぎの八七九年(元慶三年)五月八日に、清和せいわ太上天皇は落飾らくしょくして出家する。まだ二十九歳の若さだ。

九月九日には、野宮ののみやでの潔斎けっさいが終わった、新しい伊勢斎王の識子さとこ内親王が伊勢に向かって出立した。

右京二條の辻に、目立たないように車を止めて恬子内親王やすこないしんのうが見送っていた。あのときも秋だった。母と兄の車が見送ってくれた……。

左京四条の辻のかたわらにも、サンセイとモクミを従えた車が、ひっそりと止められていた。

いろいろな思いを抱く人々が見守るなかを、斎王の行列が行く。

斎宮の輿のつぎに、伊勢まで送る長送伊勢斎内親王使ちょうそういせさいないしんのうしの、参議の在原行平ありわらのゆきひらの車が従っている。

行平も万感の思いを抱いていた。



十月八日には、大極殿だいごくでん落成らくせいした。

十月二十四日に、出家した清和せいわ太上天皇が奈良に行くことになった。

八歳で即位してから、在位中に宮城の外に出たのは、たったの数回。それも自分が生まれた染殿そめどのと、藤原良相よしみの邸の西三条第と、神泉苑しんせんえんに行っただけだ。

いくら内裏が広くても、その囲いのなかだけで、清和天皇はカゴの鳥のように暮らしてきた。

奈良に行くと伝えると、基経が「危ないから供を連れて行ってください」という。

「いいや。大丈夫だ。放っておいてほしい」と伝えると、今度は天皇のちょくとして近衛このえの兵を差しだしてきた。

近習や動物と遊んでいる陽成天皇が気を利かすはずがないから、清和太上天皇も勅をだして送られてきた近衛をかえした。勅の打ち返しだ。

そして行平と藤原山蔭だけを連れて、清和天皇は牛車で奈良までやってきた。

行平の娘の文子あやこは清和太上天皇の女御にょうごで、包子しげこ内親王と貞数さだかず親王をもうけている。

「ここが国のふるさとだと思うと、深く感じ入るものがある」

はじめての遠出で血色が良くなった清和太上天皇が、行平に同意をもとめるように顔をむけた。行平は言葉が出なかった。

あの木の陰に仲平なかひらが、葛井三好ふじいのみよし小野山人おのさんじんをつれて立っているような気がする。

そこの日だまりで音人おとんど大枝本主おおえのもとぬしと笑っているようだ。

不退寺ふたいじのまえでは、守平もりひら業平なりひら小木麻呂おぎまろにつかまって小言をいわれている。

有常ありつねがいる。善淵よしぶちがいる。安貞やすさだがいる。

サンセイとモクミも、真如しんにょもいる。父上もいる。

みんな若くて…みんな楽しそうで…なつかしくて胸と腹がしぼられる。

真如の封識が、生死が分からないからと切られるのは、それから数日後だ。



八八〇年(元慶四年)。

業平は、有常が残した紀氏の娘を、邸にあずかっている。

去年の暮れに、胸が強打されたように痛くなって倒れたことがあるので、古女房の涼子りょうこも心配してやってきた。雅男みやびおの在五の邸が女家族に乗っ取られるとは思わなかったが、あずかっている紀氏の娘に恋歌を送ってよこす男に、娘の代わりに返歌をつくって面白がりながら暮らしている。

側溝そっこうから水を引いた小さな池の畔には、かきつばたが群れ咲いている。卯の花やサイカチの花も咲いている。

陽が落ちるとき、西の空が茜色あかねいろに東の空が薄青色に分かれるときがある。その、ほんの一瞬だけ、花々が蛍光色に輝く。業平は、そのときが好きだ。今日もひさしに立って、そのときを待っている。

花が輝きはじめた。白い花も、黄色い花も、紫紺の花も…。この世は本当に、なにもかもが美しく精巧せいこうに創られている。

胸の奥をわしづかみされるような衝撃をうけたときに、業平は安心してサンセイ(山精・山の霊)と、モクミ(木魅・木の精)という名の二人の老舎人の腕のなかに倒れ込んだ。

最初の発作が起こったときに業平が詠んだ歌がある。とても分かりやすい歌だ。


ついにゆく 道とはかねて きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

(いつか逝く道だと聞いていたが 昨日今日とは思ってもいませんでしたよ)


五月二十八日。在原朝臣業平ありわらのあそんなりひら そつ享年きょうねん五十五歳。



            完





(作者注)年は西暦を使っているが、月日は史書に合わせた旧暦を使っている。年齢の分かる人は、その年の誕生日が来たらなるはずの満年齢を使った。生没年不明の人は創作した。



参考文献

「日本三代実録」    武田祐吉・佐藤謙三訳  戎光祥出版

「文徳天皇実録」    藤井譲治・吉岡眞之監修・解説 ゆまに書房

「日本後紀」上中下   森田悌 全現代語訳   講談社学術文庫

「続日本後紀」上下   森田悌 全現代語訳   講談社学術文庫

「六国史」       坂本太郎著       吉田弘文館

「平安京の住まい」   西山良平・藤田勝也変著 京都大学学術出版舎

「平安前期の家族と親戚」栗原弘著        校倉書房

「新版伊勢物」     石田穣二訳注      角川ソフィア文庫

「大鏡」        武田友宏編       角川ソフィア文庫

「平安京の暮らしと行政」中村修昭著       山川出版社

「牛車」        桜井良昭著       法政大学出版局

「やまと花万葉」    写真・中村明巳 文・片岡寧豊 東方出版

「平安王朝の五節の舞姫、童女」服籐早苗著    塙書房

「病が語る日本史」   酒井シヅ        講談社社会学文庫
















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麗しき歌人 在原業平 中川公子 @knakagawa

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