第十三話 …唐紅に 水くくるとは


八六七年(貞観じょうがん九年)の元日。

清和せいわ天皇は即位してから、朝堂院ちょうどういん朝賀ちょうがの儀式をしたことがない。元日に雨が降ったり、前日の天気が悪くて朝廷が湿っていたりしたからだ。この日の天気は悪くなかったが正門の応天門がないから、やはり朝堂院は使えなかった。だから、そばに仕える侍臣をあつめて、紫宸殿ししんでんで宴をした。朝堂院は公的な儀式の場で、紫宸殿は天皇の居住する内裏の中にある内輪の儀式の場だ。

七日には、紫宸殿で青馬あおうま節会せちえが行われた。青馬は白馬のことで、正月に白い馬をみると縁起が良いとされる。左右の馬寮めりょうから、飾り立てた白馬と馬部うまべが出てきた。庭に立った右馬頭うまのかみ在原業平ありわらのなりひら艶姿えんしも、例年のことながら正月らしい華やかさをそえる。

しかも今年は、暮れに入内した高子女御たかいこにょうごが清和天皇のそばで御覧している。


最初に清和天皇の女御となった良相よしみの娘の多美子たみこは、今年で十九歳。十七歳の天皇の後宮には、業平と高子が恋人だった七年まえには、まだ十歳ぐらいだった十代の女御や更衣こういがいる。そんな若い妃や、その妃に仕える女房にょうぼうたちも、あの恋歌は知っている。


人知れぬ 我が通い路の 関守せきもりは 宵々よいよいごとに うちも寝ななむ


月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして

 

深窓に育ち、十四、五歳で帝のもとに入内じゅだいする女御は、こんな恋歌をもらうチャンスがない。夜ごと身をかくして訪ねてくれる男がいて、会えなくなっても春の月をながめながら、むかしをしのんでくれるのは、想像するだけでドキドキする世界だ。

この歌を詠んだ業平は、青馬の節会で姿をみている。四十二歳のオジサンにしては、色が白くて容姿や仕草が美しく、恋物語の当人として若い娘にも許容可能な人だ。相手の高子は二十五歳。伝説だと思っていたその人が、入内してきた。


基経もとつねは、女御や更衣や、その女房たちが、高ぶっているのを感じている。ちょうど五節の舞姫を見るときのような興奮が伝わってくる。

基経にも娘がいるが、まだ入内できる歳に育っていない。笑いものになるかも知れない高子の入内に踏み切ったのはカケだった。入内を暮れの最後にしたのも、日をおかずに高子と業平が揃う、この節会があるからだ。

庭の業平が動いて、体が高子の方にむいた。高子と顔が合った業平は、ごく自然に会釈えしゃくをした。高子も自然に目元で挨拶をかえした。ホーッと空気がゆれている。入内は成功かもしれない。高子は品があって艶やかな女になったと基経も思う。昔から強気な妹だから、大人の色香を漂わせてもりんとしていて汚くみえない。

都は餓死者がししゃがでて強盗が横行している。九州では阿蘇山あそざんと大分にある火山がが噴火した。応天門が焼けるまえと世情不安や異常気象は変わっていない。

変わったのは、飢える庶民を助けようと熱心に考えたり動いたりする官僚が流刑にされていなくなり、民政みんせいかえりみることのない太政大臣の良房が、天皇の住居である内裏に住んでいることだけだ。



在原家の事業じぎょう蔵麿くらまろは、目がまわって吐き気がした。立っていられない。

代書屋だいしょやのホウは代替だいがわりした。名はおなじだが、ずっと若いホウが耳に筆を挟んで店にいる。その若いホウのもとへ、いつものように炊き出しの足しになる寄付を届けた帰りだった。

虫干むしぼしをしているので、守平の邸も業平の邸も忙しくて、だれもつれていない。蔵麿は路ばたにしゃがみこんだ。右京五条三坊あたりで、人通りはあるけれども気づいて立ち止まる人はいない。小路には息が絶えた人や、絶えそうな人が転がっていることがめずらしくない。餓死者があふれている都では、老人がしゃがんでいても構ってくれる人はいない。

「グエーッ」と戻したが、酸っぱい胃液がでただけだった。汗が噴きでているらしく膝にポタポタと落ちてくる。もう、いい歳なので、お迎えがきたのだろうと、蔵麿は観念かんねんした。

帯をつかまれたので顔を向けたら、鋭い目つきの若い男たちがいた。死者の身ぐるみを剥いで売り払ってしまう奴らだ。人さらい、火つけ、強盗も、やっているかもしれない。ふところの銭をとられ、帯を抜かれ、なえ烏帽子えぼしを外された。手慣てなれているらしく暴力を振るわれなかったから、蔵麿は大人しくしていた。自分のものでも腹の足しになるのなら、まあ……いいっか。

「おま……クラジ……ってか?」と、一人が腕をかきながら蔵麿の顔をのぞきこむ。すごく若い。十五、六歳だろう。ぜんぜん覚えがない。蔵麿は在原家の邸の中で働いて一生を過ごして来たから、知り合いも少ない。知らないうちに恨みを買っているかもしれないが、こんな若い男は知らない。

「ちっ‥い目……ホウ……さっ…で……」

「…に教え…ぞ……」

耳が痛くて気分が悪くて、どうでもよくなった。

ガタガタ揺れるので、フッと意識がもどったときには、荷車で運ばれていた。

「蔵麿さんよ。いま守さまのお邸に届けやすから、しっかりなせえ」これは・・・土師小鷹はじのおだかの声だ。

「業さまも、向かっておられる」と岡田剛おかだのごうの声もする。

「眼を開いてください。眠っちゃだめですよ」と、たぶん岡田栧おかだのえいだろう。

体も口も動かなかったが、蔵麿は小さな目から涙を流した。もうすぐ死ぬのに、わたしなんぞのことを・・・こんな、わたしを心配してくれる人がいる…ありがとう…ありがとう。

「蔵麿さま。蔵麿さまーァ」と遠くから、叫古井さけびのふるいの泣き声が近づいてくる。



七月十二日。

大山崎おおやまざき廓町くるわまちにある妓芸所ぎげいしょに、「よく熟れてるよ。お師匠しょさん」と、若いがザルで冷やしたうりをもってきた。

「まったく、朝から暑いったら、ありゃしない」と首にはさんだサラシで顔を拭く。

「ありがと」とアチャは、さっそく瓜を切りわけて木皿に盛った。

「こっちへおいで。蝉丸せみまるねえちゃんだよ。聞こえるかい。母ちゃんが、瓜を切ってくれたよう」と若い妓女ぎじょ

茶茶は蝉丸と山崎に移って、若い妓女に琵琶びわを教えている。琵琶の巧みというほどの腕ではないが教えるのが性に合っていて、音色を聴きわける耳を持っていたから良い師匠だ。

去年の秋に、ジュツが亡くなったのは知っている。山崎に移るというのに顔を見せなくなったジュツが気になって、アチャがごうえいの兄弟に言いつのったのだ。

「十五、六年になるかい。月に一度か二度だけど、ずっと、あたいのことを気にかけて通ってくれた男など、あん人しかいないんだ。あん人は、あたいの大切な家族だ。ね。そうだろ。だから、ほんとうのところを探って教えとくれ」

「おれたちだって、ずっと、おめえの・・・」と拽。

「そうじゃない!」

「なにかい。おれたちゃ、おめえを食いものにした鬼か」と剛。

「そうじゃないってば! あん人には、あたいと蝉丸しか、気にかける人がいなかったんだよう。そこんところが分かるかい? 分かってやってくれるかい」と阿茶。

それで剛と栧が、おおかたの事情を教えてくれた。

それまで阿茶はジュツの名さえ知らなかった。聞いたことはあるが渋るので、おまえさんとか、父ちゃんと呼んでいたからだ。

・・・太政大臣家に仕える家原芳明いえはらのよしあきという舎人だった。側に仕えて毒見をする役目で、ご主人の身代わりになって亡くなった。きれいな死顔だったそうだ。まっとう過ぎたから、ずるく立ちまわって生きることができなかった・・・。

細かいことまでは知らなくても、あの人らしいと阿茶は思う。

ここでの阿茶は、東の市で妓女をやっていて、馴染の芳明に身請みうけけされて蝉丸が生まれたと言っている。なんども話したら、それが本当のような気がしてきた。蝉丸には、おまえの父ちゃんは、大きなお邸に勤めていた家原芳明という舎人で、ほんとうに心根のやさしい男だったと聞かせている。

油蝉あぶらぜみ一斉いっせいに鳴きだした

「父ちゃんが来た」と六歳になる蝉丸が耳を傾ける。

「まったく、おまえの父ちゃんは心配性だねえ。こんなに、うるさくしなくても、いつだって、そばにいてくれるのが分かっているのにさあ」と阿茶。

蝉丸せみまるが琵琶を手にしてかなでではじめた。蝉の声がスーッと引く。

妓芸所のそばを掃いていた若者が、ほうきを止めて琵琶の音に耳をかたむけた。ジュツから教えられた剛と栧を頼って、良房の邸を逃げたビ(未)だ。

「子供なのに、ホント。上手いねえ。双砥そうとっていう大師匠たちが、だれでも琴や和琴や琵琶や笛を習えるようにと、こんなに楽器を集めてくれたんだからさあ。妓女だって芸ができりゃ、こっちから男を選べるよって言ったんだろう。ねえ。お師匠さん。あたいにも、みっちり稽古をつけておくれよ」と若い妓女が口元についた瓜の汁を指先でぬぐってめながら言った。

青砥せいと白砥はくとが知ったらたまげるだろうが、これから、しばらく時が経ってから、芸の巧みな妓女たちは宮中に呼ばれるようになる。五節の舞姫も、妓女たちを女房にしたてて参内さんだいした。



おなじ七月十二日。

阿茶が住む廓町のそばの山崎の船泊ふなどまりに、善淵よしぶち守平もりひらと一緒に、業平なりひらは来ていた。超昇寺ちょうしょうじ相慶寺そうけいじの寺僧たちも、大和から来たらしい百姓の姿もある。

今年の七月七日の奈良の帝の命日にも、一圓いちえん不退寺ふたいじまでもこれなかった。見舞いに行ったら「そろそろ死にそうだから、海に行きたい」と言う。一圓は祈祷僧きとうそうで薬事にもくわしい。本人が死にそうだと言うのなら、きっと、そうだろうと、善淵が少し大きめの舟を仕立てて願いをかなえることにした。

骨と皮しかないような姿になった一圓は、目を輝かせている。舟に乗れるのが、うれしくてたまらないらしく、両脇を超昇寺の僧に支えられて船床のご座の上にチョンと置かれた。

見送りの百姓たちが念仏を唱えだした。一圓が、そろそろと手をあげて指を動かした。手を振っているつもりなのだろう。まるで、どこかに遊びに行く幼子のようだと、業平はおもわず手をふっりながら叫けぶ。

「いってらっしゃぁーい! 一園さーん」

「父上に会ったら、よろしくーゥ!」と、いまは神祇伯じんぎはく(神儀を行う局の長官)の善淵も手を振る。

「一圓さん。お元気でぇ~!」と、右兵衛権佐うひょうえごんのすけの守平も伸びあがって手を振って叫び、となりの百姓に聞かれた。

彼岸ひがんに参られるのに、お元気でといっても、よいのでしょうか?」

「ン……細かいことにこだわると、体に悪いと一圓さんに叱られるよ」と守平。

「そうですか。じゃあ、お元気でー」

「ありがとう。一圓さーん」

「いってらっしゃい。ありがとう」

「そのうち、おらも行くからよーゥ」

一圓は淀川を下って、難波の海に夕日が沈むころに六十四年の人生を終えた。


この年の十月十日には、「応天門の変」のあと休職して辞職をねがっていた、右大臣の藤原良相も五十四歳で亡くなった。やろうとしていた行政は挫折したが、熱心な仏教徒であった良相も極楽浄土ごくらくじょうどの光を感じて旅立っていった。



つぎの八六八年(貞観十年)の二月十八日に、文徳もんとく天皇の御陵ごりょう野火やびで焼けた。

そして、おなじ日に、右衛門督うえもんのかみで、伴善男のあとに順子皇太夫人の大夫になった藤原良繩よしただが亡くなった。

勘解由使局かげゆしきょくで行われた伴善男とものよしおの放火に関する尋問と、左衛門府で行われた生江恒山いくえのつねやまの殺人に関する尋問の、両方に立ち会った人だ。

藤原良縄よしただは良房や良相のイトコで、生前の文徳天皇に仕えて信頼されていた。温厚で控えめな人格者なので口にすることはなかったが、文徳天皇の悲運をいたみしのんで御陵のそばに別荘を作り、そこに紀氏出身で尼僧の母を住まわせて、毎年、命日には法華経ほっけきょうこうじつづけて御陵の掃除も欠かさなかった。

良縄が文徳天皇陵を守っているのは、官人たちはよく知っていた。

国に大きな変わりがあるときや、新年の挨拶などの報告を欠かさない天皇家の陵がある。報告するのは十陵と決まっていて、血統が代わった光仁こうにん天皇からの陵に参詣している。文徳天皇の田邑陵たむらりょうもその一つだが、良房は十陵に参詣や報告するときに、田邑陵を後回しにしたり、忘れたりする扱いをしていた。亡くなったあとも、文徳天皇に陰湿いんしつな嫌がらせを続けていた。

そのことも、官人たちはよく知っている。 

文徳天皇の御陵が焼けた日に、御陵にじゅんじるように良縄よしただが無くなった。

そのすぐあとに、清和せいわ天皇が病で倒れられたことが伝わった。

これぞ祟りだ。文徳天皇が怒っておられる。


応天門の炎上のあとで、伴氏と紀氏の二大豪族が粛清しゅくせいされてから、一年半が経っている。

現在の太政官は、右大臣の良相が亡くなって、残る左大臣の源信は邸に閉じこもって登庁していない。大納言の伴善男は流刑にされて、もう一人の大納言の平高棟も亡くなった。ごん大納言だった藤原氏宗うじむねが大納言になり、基経もとつね常行つねゆきが中納言になっているが、ほかには人がいない。

藤原良相よしみという藤原氏の良心が亡くなって、良房にたいする怨嗟えんさが、泥のなかから上る泡のようにブクブクと吹き出てきた。


五月五日の端午たんごの節会も中止になり、かわりに六十人の僧が紫宸殿ししんでんで清和天皇の病気快癒かいゆのために大般若経だいはんにゃきょうとなえた。


内裏も妙なことになっている。

内裏は天皇の居住空間で、天皇の後宮の女御にょうご更衣こういと、天皇の身近に仕える者しか住めない。天皇の子でさえ母方の里で育つし、太政天皇や皇太后は、宮城の外にある後院に居住する。

その内裏に、天皇の母方の祖父の良房が住みこみ、母の明子までが暮らしている。

母の嘉智子かちこ太皇太后に北面して座った仁明にんみょう天皇も、内裏で同居はしなかった。ありえないことだ。



青葉が目に鮮やかな初夏がきた。まだ暑くもなく、吹きぬける風が心地よい。

中納言の藤原基経もとつねは、内裏のなかを麗景殿れいけいでんに向かっている。池の傍に花菖蒲はなしょうぶが咲いている。

良房や明子が内裏に住むのを認められない基経は、呼ばれないかぎり内裏に参内さんだいしない。めずらしく今日は、妹の高子から呼びだしがかかった。

「お呼びでございますか」と基経。

「……」

呼びつけておきながら、六歳下の同母妹は不機嫌そうな顔を基経に向けた。

基経には姉がいたが、平高棟たいらのたかむねの室となり応天門が焼けた年に亡くなった。その一年後の昨年には、高棟もあとを追うようにってしまった。

いまは基経の姉妹は妹の高子だけで、あとは兄弟しかいない。

高子とは父の邸だった琵琶第びわだいで一緒に育ったが、手を焼いた。いや手を噛まれた。基経の手の甲には、幼い高子がつけた白い小さな歯形が残っている。

「二人にして。だれも来ないように見張っておいで。女童は庭で遊んでいなさい。

だれかが来きたら、すぐに知らせるのよ」と高子が人払いをした。

これまでにないことだから、二人きりになると基経が声をひそめて聞いた。

「なにか、ございましたか?」と基経。

「できました」と高子。

「なにが?」

「お子に決まっているでしょうに」と高子。

「……たしか帝は伏せっておられますが」と基経。

もう四か月ちかく、清和天皇は公式の場に出ていない。病が公表されてからも二か月が経つ。だから基経は重病だとばかり思っていた。

「なにを疑っているのです。中納言。

帝は、もともと丈夫なご体質ではございません。無理をなさると体を壊されます。ですから心を病まれて、神経を尖らせて、ろくに食事も眠りもとらずに過ごされましたので、二ヶ月まえに血を吐かれました。医師は穏やかに過ごされるようにといっていますし、お体のほうは少しずつ回復してきております」と高子。

「心を病まれるとは、なにかございましたのでしょうか」と基経。

田邑たむらの帝(文徳天皇)のことを、知られたのです」と高子。

「…どこまで」と基経。

崩御ほうぎょに不審があったことは、ご存知です。その先は、ご自分でお調べになったようです。それなら、あとは推量できるでしょう。

田邑の帝が亡くなって得をしたのは、あの方だけですから」と高子。

「…」

「中納言は、どこまで関わっておられるのでしょうか」と高子。

「田邑の帝のことは、なにも関わっておりません」と基経。

「ほんとうですか」と高子。

「ほんとうです。冷泉院れいせんいんに駆けつけたときには手遅れでした」と基経。

「中納言は、あの方の猶子ゆうしです。わたしでさえ関わりがないとは信じられません。帝に、どうご説明すれば、よろしいのでしょう」と高子。

「帝に?」と基経が聞き返した。

それまで目の前のことだけを考えて、基経は清和天皇のことを忘れていた。

良房が立てた幼帝という思い込みがあるし、応天門事件のときに太政大臣に執政しっせいと任すという詔を出しているから、十八歳の清和天皇が、どのような意志を持っておられるのか、思いやっていなかった。

これでは文徳天皇に対する良房の態度とおなじだ。

女御にょうごさま。

わたしは、太政大臣がなさったことに関わっておりません。

ただ右大臣の良相よしみさまが、左大臣の源まことさまのお邸を取り囲んだときに、もしかしたら応天門を焼かせたのは、太政大臣では無いかと思いました」と基経。

「応天門まで?」と高子。

「帝に詰め寄よられたときも、再び政権をにぎるために応天門を焼かせたのかと疑いました。それを見過ごしました。わたしが、やましく思うのは、それだけです」と基経。

「裁かれた多くの方が、冤罪えんざいだったというのですか。それを見逃したのですか。中納言は、どこまで信用できるのでしょうか」と高子。

「冤罪や暗殺に手を貸したことは、一度もありません」と基経。

「冤罪を見逃したなら、手を貸したも同じでしょう!」と高子。

「分かっています。いまだに悔やんでいます」と基経。

「人を陥れてまで出世をしたいなら、中納言はあの方の同類です。恥ずかしくないのですか。慈しんで育ててくださった両親が、悲しまれると思わなかったのですか。

帝は、真っ直ぐで純粋な心を持ったお方です。その方を、あの方や、あなたのような奸臣かんしんがいさせたくありません!」と高子。

「…奸臣。わたしは、はかりごとをめぐらせて、人をおとしめたりしません」と基経。

「応天門のことは、やましく思っているのですね」と高子。

「もう少し早く気がついていたら、どなたかに、ご報告できたかも知れません」と基経。

「直前まで知らなかったのですか」と高子。

「事前には、なにも聞かされてません。わたしが気がつくころには、局面が変わっていて、どう動けば良いのか分かりません」と基経。

「良いように使われただけなら、まだ、間に合うかも知れません。

冤罪えんざいをつくったりや暗殺をしたりしないと、両親の名にかけて約束できますか」と高子。

「約束します」と基経。

「心から信用した訳ではありませんが、中納言。

即位の事情を知ってしまわれた帝を、あのかたから守って欲しいのです」と高子。

「わかりました。でも、帝はどうして、そのことを知られたのです」と基経。

「あちらの方です」と高子は、西のほうにアゴをしゃくってみせた。

高子は女御だから、麗景殿れいけいだんという内裏の東側の一棟を使っている。西隣りは常寧殿じょうねいでんで、そこには清和天皇の母の明子皇太后あきここうたいごうが住んでいる。

「お目にかかったことは?」と高子。

「何度もありますが、親しく言葉を交わしたことはありません。静かで控えめな方です」と基経。

「帝の母君で、わたしたちのイトコです。隣にいらっしゃるので、幾度かおたずねしました。

控えめと言うより、人の気持ちを察して、人の都合に合わせる方に見えました。

逆らうよりも従うほうが楽なのでしょう。

でも自分を抑えて我慢ばかりしていたら、心はきしむでしょう。

ときどき、ご自身を喪失そうしつされて、いろいろと叫ばれます。

ここにも、聞こえてくることがあります」と高子。

明子の情緒じょうちょが不安定なのは基経も聞いている。良房のところでは、狐憑きつねつきと言っている。生霊いきりょう死霊しりょうがついたいうこともある。

「田邑の帝の御陵が燃えたあとは、ひどく動揺されました。そんなときに帝が行き合われました」と高子。

「帝は、なにを聞かれたのですか」と基経。

「わたしは立ち会っていませんが、いつも叫ばれることは同じです。

田邑の帝を殺したのは、一品女御のコン狐で、明子さまがコンを叩いて殺そうとされます。あちらの女房たちはコン狐がついたと言いますが、わたしの耳にはコンではなく、コシ女御と叫ばれているように聞こえます」と高子。

「古子…」と基経。

「なにか、ご存じ?」と高子。

「太政大臣の妹で、わたしたちの叔母です。文徳天皇の女御でした。わたしも疑ったことがあります」と基経。

「なぜ?」と高子。

「あの日、文徳天皇は、ご薬湯を召されてから苦しまれたと聞きました。召し上がった薬湯を入れた椀は、古子に仕える女房が洗ってくりやに返しに来ました。

文徳天皇が亡くなられてから、古子女御は一品になりました。古子は天皇に召されたことがなく、子供の居ない女御です。春宮しゅんぐうの女御の明子さまが従一位下なので、皇族だけがたまわる一品を古子がいただいたのが不自然でした」と基経。

「で、その人は、いまどこに?」と高子。

「染殿で、明子さまと一緒に出家されたと聞きますが、どこにおられるかは存じません」と基経。

「一品の女御の行方が分からない? 

もしかして、明子さまは、本当にあったことを叫ばれているのでしょうか。

まさか、明子さまが古子女御を…」と高子。

「それは無いでしょう。明子さまが一人になることはありません。

誰かが止めに入ります。そう思わされているのかもしれません」と少し考えてから、基経が答えた。

「帝も、古子女御が帝を殺したと、明子さまが叫ばれたのを聞かれたでしょう。それから、ご自分で調べられたのでしょう。体調を崩されたのは、その後です。

父の帝を殺した外祖父が、内裏に住んでいれば病にもなるでしょう。

でも、良かった…」と高子。

「なにが?」と基経。

「明子さまが、あんなふうになられたのは、文徳天皇を深く愛しておられたからでしょう。

帝の母君は父君を愛しておられた。帝は愛されて誕生されたと言ってさしあげられます」と高子。

「ところで女御さま。さきほど、確かご懐妊されたとおっしゃいましたよね」と基経。

「言いました」と高子。

空耳そらみみかと思うところでした。おめでとうございます。

出産のために戻られるお邸のことですが、明子さまに相談して染殿そめどのを、お願いしてみたらいかがでしょう」と基経。

「明子さまも病んでおられます。これ以上、明子さまを政治の道具にするのはやめてください!」と高子。

「たしかに、琵琶第びわどのや、わたしの邸より、生まれてくる子にはくが付くと計算しましたが、太政大臣ような陰湿な企みはしていません。

明子さまが誕生された染殿で、文徳天皇の初孫が誕生するのです。明子さまのお気持ちも、少しは晴れるかと思います。

太政大臣が染殿に来ないように工夫します。それなら、よろしいですね」と基経。

「ぜったい来させないでください。あなたも呼ばない限り来ないでください」と高子。

「はい」やっと基経は、笑みを浮かべた。

生まれる子が男子なら、文句なしに第一親王で皇位継承権を持つ。

それにしても高子でさえ、良房のひな形のように基経のことを疑う風潮は、なんとかしなければならない。



九月十四日に、紀静子を母とする惟条親王これえだしんのうが二十二歳で亡くなった。

夏に雨が多かったからか、左京二条三坊にある惟喬これたか親王の邸は、黄や赤の紅葉が色鮮やかだ。どこかに金木犀きんもくせいがあるのだろう。香りがする。

「さびしいな」と二十四歳になった惟喬親王がつぶやいた。

「はい」と髪に白髪が目立つようになった、五十三歳の紀有常きのありつねが、痩せた肩を落として答える。

業平なりひらは広廂に坐って庭を見ている。生まれたときから知っている、若い人に先立たれるのが辛い年代になってきた。

庭を掃くほおきの音が聞こえて、百舌鳥もずの鳴き声がする。

染み入るような寂しさが漂っている。

そこに無粋なうなりが混じった。ときどき唸って途絶える。

「なんの音です」と有常が聞いた。

仲平なかひらどのです」と惟喬。

「兄上が来ているのですか」と業平。

「ロクロを備えにこられた」と惟喬親王。

「ロクロ?」と業平。

「あの土器を回したり、鋼を削ったりするロクロですか」と有常。

「仲平どのは、斎部文山いんべのふみやまにロクロの使い方を伝授されて、それで木を削れるように工夫されたのです」と惟喬。

「斎部文山・・・ああ、大仏の首をつないだ名工ですか。そういえば、そんなことを、ずっと昔に聞いたような・・・」と業平。

「そのロクロを、なぜ仲平どのは親王のお邸に備えていらっしゃるのです」と有常。

「わたしに教えてくださるそうです」と惟喬。

「親王がロクロをまわされると?」と業平が、膝を滑らして惟喬のそばに寄る。

「この美しい手が、兄上のようになってもよいのですか。あんな、ごつごつした節だらけの指になってもよいのですか。爪だって兄上のはヘラのようです」と業平。

「馬のジイは、仲平どのが木を削られたときにも、そんなに心配されましたか」と惟喬。

「いいえ。兄は、もともと兄ですから、なぜ兄の手の心配を、弟のわたしがするのです」と業平。

「仲平どのがおっしゃいました。人はものを造り生みだすことができる。ものを壊したり失くしたりしていては、心は満たされない」と惟喬。

「それは、そうでしょうが…」と有常。

「馬のジイと紀のジイには、歌を生みだす才があります。わたしは仲平どのに習って木を削ってみたいのです。わたしも、ものを生みだしてみたいのです」と惟喬。

「あんな音を立てれば、ますます、お邸に奇怪なものが住みついていると噂されますよ」と有常。

「この邸と、むかし橘逸勢たちばなのはやなりどのが住んでいらした空屋敷の稲荷は、怪奇現象が起こる都の二大名所ですからね」と惟喬。

雁がカギの形に並んで空を渡って行く。



十二月十六日の深夜。

二十六歳の高子は、染殿で貞明親王さだあきしんのうを出産した。清和天皇の第一皇子だ。

そして十二月二十八日に、左大臣うだいじん源信みなもとのまことの家から、訃報が届けられた。


応天門の放火を命じたとして伴中庸とものなかやすが裁かれて、連座の罪で父親の伴大納言ばんだいなごんが流刑にされたあとに、源信は左大臣の職を辞める奏上そうじょうをしたが許可されなかった。

それからは公の席に顔をださなかったが、鬱々うつうつとした気持ちを晴らそうと摂津国せっつのくに(兵庫県。西に六甲山、北に丹波山がある場所)にある別荘に行った。

十二月二十五日の寒い日に、信は小鳥を追って馬で山を駆けていたという。そして落馬して沼に落ちた。供の者が沼から助けだしたが、すでに呼吸がなかった。一度は心肺が蘇生そせいしたが意識は戻らないままに、馬を愛し鷹狩たかがりを好んだ源信は五十八歳で亡くなった。

源信は、はじめて源氏を名乗った嵯峨源氏の一郎だった。

信の死から三百三十一年後に、はじめて武士による鎌倉幕府を開いた源頼朝よりともが、落馬によって亡くなっている。

人の笑いや涙を乗せて時は流れるが、眼にみえぬ糸が時の流れをつないでいるようだ。



翌八六九年(貞観十一年)二月一日に、生後一か月半の貞明さだあき親王が皇太子に立坊された。赤子が皇太子になるのは二度目で、政を執っているのが太政大臣の良房だから、清和天皇の立坊ときほどの騒ぎはなかった。

藤原高子たかいこは、春宮しゅんぐう(皇太子)の母となった。

相変わらずの気候不順で国庫に貯えはない。干ばつや長雨で不作になれば、すぐに民が飢死する状況がつづいている。

六月には陸奥国むつのくに(東北)で大きな地震と津波が起こった。

兵乱が続く新羅しらぎから逃亡して来た難民は、賊徒ぞくととなって日本海沿岸の九州や山陰の島をおそっている。

そんななかで、十九歳になった清和天皇がみことのりをだす。

「百姓は国の宝、気候不順で農民は望みを失った。すべては治世の悪さが責任だ。これから、ちんの衣食に使う国費を減じようと思う」

飢える庶民のために仁明天皇が行った官費の節約を思い出させるみことのりだ。

仁明天皇、文徳天皇、清和天皇と続く、藤原良房の傀儡かいらいともいわれる若き天皇たちは、それぞれの個性でやり方はちがうが、良房に抗って庶民のためになるまつりごとを行おうとしていた。

国の赤字を補填ほてんするには、官の出費を制限するのが早い。それを天皇が述べたことで、目標を失いかけていた節度ある官人たちはホッとした。



それからの三年半で、多くの人がってしまった。

りっぱな跡継ぎを育ててから、岡田狛おかだのこま土師雄角はじのおづのは亡くなった。

孫と遊び暮らしていた守平の母のシャチもいない。

隣の妙信尼みょうしんにも亡くなってしまった。

去年の冬のはじめには、日置仲平ひおきのなかひらも近江の家で息を引き取った。

若い人では妙信尼の娘の眞子内親王まこないしんのうも亡くなった。

高位の人も去っていった。

一人息子の文徳天皇を亡くしたあと、とうらいいと信仰と慈善に後半生を捧げた順子太皇太后じゅんこだいこうたいごうも亡くなった。

順子が亡くなった次の年の八七二年(貞観十四年)には、渤海国ぼっかいこく(ロシア沿岸。中・北朝鮮北部)から使いがきた。この国は交易のために来日するが、渤海使が来たころから咳逆病かいぎゃくびょう(インフルエンザ)がふたたび大流行する。

内裏に住んでいる太政大臣の良房よしふさが高熱をだして咳をしたので、いそいで輿こしに乗せて内裏に近い東一条第に運んだ。死亡率の高いこの病は空気感染することが分かっていたから、基経もとつねは見舞いにも行かなかった。

娘の明子皇太后も、内裏から染殿そめどのには行くが、途中にある東一条第に寄ろうとしなかった。

半年の闘病のすえに、九月に良房は六十八歳でこの世を去った。娘の明子皇太后と猶子の基経は、朝廷からの援助を断って葬儀を密葬にした。

基経にいたっては、良房の喪も開けないうちに、自分の墓を実父の長良ながらの隣につくりはじめた。

皇位継承を操り内裏に住んだ良房の記憶は、早く忘れさられて欲しかった。

それが去年のことで、そのころには応天門も再建されている。



二十三歳になる清和せいわ天皇の太政官は、左大臣に源とおる。右大臣に藤原基経もとつね。大納言は源まさると藤原常行つねゆき。中納言は南淵年名みなみぶちのとしなと藤原良世よしよ。参議に、大江音人おおえのおとんど。源つとむ在原行平ありわらのゆきひら菅原是善すがわらのこれよし。藤原仲統なかむね。藤原家宗いえむね。源能有よしありが並んでいる。

去るものがいれば生まれて来るものもいる。

高子たかいこが入内してから、清和天皇は子に恵まれるようになった。

春宮の女御の高子も、貞明皇太子のほかに、貞保さだやす親王と敦子あつこ内親王をもうけている。

行平の娘も入内して、包子内親王しげこないしんのうをもうけた。藤原良相よしみの死後に、禁酒令と無届の集合禁止令は消えてしまったから、行平は孫娘が内親王と認められた祝いの宴をもうけた。

親王や内親王となるのは、藤原氏と橘氏と皇女を母とする子に限るという規約があるから、臣籍降下した在原氏から内親王が出るのはうれしいだろう。

守平もりひらは正五位上になった。

変わらないのは業平なりひらで、いまも正五位下の右馬頭うまのかみだ。



八七三年(貞観十五年)の正月。

夜明けまで雨が降ったので朝賀ちょうがはなかった。

業平はサンセイとモクミをつれて、左手に高野川たかのがわが流れる山道を馬を引いて登っている。登るにつれて狭い道が雪深くなってきた。

業平は四十七歳。サンセイとモクミは五十歳ぐらい。

すでに三人とも老境に入っている。時が移ろっていく。やがて自分も時のわだちの外に追いやられるだろう。おなじ時代を生きた人が欠けてゆくときに感じる寂しさを、それぞれが抱えている。

ぬかるんだ雪道を、業平たちは登ってゆく。行くさきは小野郷おのごう(左京区大原上野町)という、三千院さんぜんいんの少し手前にある山里だ。

去年の七月十一日に、惟喬これたか親王が出家して、この小野郷に移り住んでしまった。三千院に入ったわけではないから、出家して移るにしても、ここには、ほかに寺もない。

傾斜を開墾かいこんした狭い田畑と、木挽こびき小屋しかない場所だ。


「親王がご出家されて、二か月ほどで太政大臣が亡くなったのですから、還俗げんぞくなさったらどうです」と木挽き小屋に着くなり業平が文句を言った。

「太政大臣のために出家したわけではありませんから。どうです。田舎ですが空気がおいしいでしょう」と惟喬親王。

「田舎というのは、ひなびておもむきのある別荘があるところをさします。ここには杉しかありません。これは田舎ではなく深山幽谷しんざんゆうこくといいます。

ねえ。もっと近場の寺に入られたらどうですか。それが嫌なら、ご自分の寺をつくりましょうよ」と業平。

「馬のジイ。泥だらけです。どうして馬に乗らなかったのです」と惟喬。

「雪の山道ですよ。馬が滑ったら可哀想でしょう。

お願いですから、こんなところに住まないでもらえませんか」と業平。

「ともかく風呂に入ってきたら、どうでしょう」と惟喬。

「今日は、入浴する日でしたか?」と業平。

「深山幽谷におりますからこよみはありませが、今日は正月。元日なのは確かでしょう。泥をつけていて良い日ですか?」と惟喬。

風呂はカマで湯をわかし、湯気をながしこむ蒸気風呂で、この集落は炭だけは豊富にある。少し崖下になるが西に高野川が流れているから水もたっぷりある。

「体をお拭きします」とサンセイとモクミが入ってきた。

「どうして裸だ?」と業平。

「日帰りのつもりで着替えを持っておりませんから、ぬれてしまいます」とモクミ。

「業さま。親王さまは明るくなられましたね」とサンセイ。

「顔色も良くなられました。生きがいを見つけられたようにうかがえます」とモクミ。

「おまえたち…。わたしの体は、いつ拭いてくれる」と業平。

「冷えてしまいましたから、しばらく待ってください。ああ、いい気持ちだ」とモクミ。

「もしかしたら親王さまは、ご出家ではなく、仲平さまの跡をついで山人さんじんになられるつもりではありませんか。ここには経本も仏壇も見当たりません」とサンセイ。

「やりたいことがあるのなら、この暮らしも悪くありませんよ」とモクミ。

「おまえたちも山に帰りたいか」と業平。

「いいえ。わたしたちは在五さまを見届けます」とサンセイ。

「おい。先に、わたしをかせるつもりか」と業平。

「まあ気にせずに。あれ? 業さま。尻の肉が落ちてきましたね。少し鍛えましょう」とモクミ。

「さあ。業さま。お体をお拭きしましょうか」とサンセイ。

風呂から上がったら、惟喬親王が図面を広げていた。

「なんです」と業平。

「ロクロの設計図です。仲平どのが残されたのに、手を加えて改良しようと思っています。これを使えば皿や椀などをつくるのが楽になります」と二十九歳の惟喬親王が目を輝かせた。小野郷に惟仁親王を訪ねて、業平が詠んだ歌。


忘れては 夢かとぞ思う 思いきや 雪踏みわけて 君を見むとは

(現実を忘れて いまでも夢ではないかと思います 思いがけずに 深い雪を踏みしめて あなたの姿を見なければならないとは)


つぎの年の九月二十一日に、「朕が庶兄しょけい惟喬親王これたかしんのうは、先帝が鍾愛しょうあいなされた方だから」と清和せいわ天皇は、惟喬親王に百戸を与える。

四品親王の封禄ほうろくは出家しても給付されるので特別手当だ。惟喬親王は返上したが、この兄弟のやりとりが、業平には痛ましかった。

庶兄(血筋の劣った兄)と呼び、先帝が愛された皇子だからと封戸を与えようとした清和天皇は、文徳天皇崩御ほうぎょの事情をすべて知ってしまったのだろう。自分に皇位を渡そうとしたために父を失った惟喬親王と、外祖父に擁立ようりつされて、何も知らずに父を追いやった清和天皇と、どちらも辛いだろう。

業平と紀有常は、生涯をかけて惟喬親王をいとおしんだ。

惟喬親王は五十五歳まで生きて、のちに木地師きじし(木細工をつくる人)の始祖しそとして、山に暮らす人たちにあがめられ続ける。



八七四年(貞観十六年)。

二月の中旬。梅が良い香りを放ってほころびかけたころに、行平ゆきひらが自邸で送別会を催した。

参議さんぎで従三位になって、左衛門督さえもんのかみを兼任する行平が、太宰権帥だざいのごんのそちとなって九州に行くことになった。

行平は交際が広いので、源氏や藤原氏も多く集まった。

接待側にまわって奮闘ふんとうした守平と業平は、夜も更けた宴のあとで、ハレの場で行平とゆっくり向き合った。

北側の衣桁いこうには衣が掛けてある。

大宰府に行くにあたって、清和天皇が自分の着ていた衣服を行平に与えたものだ。貴人の使った衣をもらうことは名誉なことで、天皇のものだから家宝になる。

「ずいぶん、はりきってますね」と守平。従四位下で信濃守しなののかみ遙任ようにんしている。

「太宰府に帰るのは四十何年ぶりだろう。五十年近くになるな」と行平は言った。

大宰府は、仲平と行平と守平が生まれたところだ。

「覚えているか」と行平。

「わたしは幼かったので、ほとんど覚えていません」と守平。

「わたしは、父上の笑顔や海などを覚えている。

子供のことだから、話の脈絡みゃくらくは定かではないが、ところどころだけを色鮮やかに思いだせる。

いつも父上が遊んでくださったような気がする。よく海のそばの家に連れていってもらった。貝を拾ったり、魚を釣ったり、泳いだりした。

仲兄は海人あまの子と混じり、海人の子のようだった…」と行平は遠くを見る目をした。

「きっと仲兄には、わたしより鮮明に、あのころの記憶が残っていたのだろう。

だから廷臣ていしんに嫌気がさして、自由な空気を吸いたくなったのだろうな」と行平。

「うらやましいですね。行兄も、仲兄も、守兄も。

父上はお忙しかったし、住む棟もちがったから、わたしは遊んでもらった記憶が残っていません」と業平。

「おまえだって、父上を馬にして乗っていたぞ」と守平。

「ほんと?」と業平。

「疲れて帰っていらしても、馬だ、肩車だ、高い高いだと、すぐせがんだ」と守平。

「都に帰ってからは住むところがちがって、めったに父上と会えなくなった。

わたしも寂しかったが仲兄も寂しかっただろう。

そばで暮らしている守と業がうらやましかった…」と行平。

「わたしは、業みたいに甘えませんでした」と守平。

「わたしは守がいたから、少しも寂しくなかった」と業平。

「大宰府にいたころの父上は左遷だった。海人よりは、はるかに豊かに暮らしていたが、都から遠ざけられて、帰るあてのない流人るにんのようなものだった。

そんな暮らしのなかで子と遊んで笑っておられた父上は偉かったと、つくづく思うようになった」と行平。

「へこたれるような人なら、わたしたちは存在していません。

とくに、わたしは、ここにいませんよ」と守平。

「子供で状況が分からなかったから、あのまま大宰府で、ずっと暮らしていたいと思った。顔を合わせて、みなで暮らせたのが楽しかった」と行平。

「ずっと大宰府におられたら、わたしが生まれませんよ」と業平。

「偶然のように、いまのわれらがいるのだな」と守平。

「一人一人が、つながっているのでしょうねえ」と業平。

「大宰府に帰ったら、海のそばに借りていた、あの家に行く。そこで、みなを思いだす。

仲兄の母君も、わたしの母も若かった。シャチどのは輝いていた」と言って、行平は右の眉を上げて言い足した。

「業。おまえのことも、ここにはいないが、こんな子がやって来るよと思いだすことにする」

「頼みますよ。行兄。体に気をつけて、かならず元気に戻ってきてください。

待っていますから」と業平。

参議で左衛門督の行平を、天皇の勅命ちょくめい権帥ごんのそちとして派遣しなければならないほど、大宰府は荒れていた。新羅しらぎの海賊船がたびたび周辺を襲い、軍備のための兵も派遣している。田畑の測量も長い間やっておらず、納税の基準も不明になっている。

五十六歳になった行平は、その地に喜んで出発した。そして精力的に活動し、壱岐いきの島まで渡って実情を調べて測量し、納付のうふ割振わりふりへの問題点と解決策を奏上そうじょうする。

守平は皇嗣系の守なので遙任していていいのに、気候が良いうちに信濃を見たいと、ふらりと出かけてしまった。



四月十九日の丑刻うしのこく(午前一時ごろから三時ごろ)に、淳和院じゅんないんから火がでた。

熟睡していた大江音人おおえのおとんどは、「淳和院が燃えている!」という声を聞いて飛び起きた。すぐに身支度をしながら自分の邸のものを集める。

「炎から身を守るには、水にしめらす布が必要。できるかぎりの布と、怪我人を運ぶ手押し車と、太皇太后だいこうたいごうさまと、恒寂入道こうじゃくにゅうどうさまをお移しする、担ぎやすい軽い輿を用意して、向かえるものは、すべて淳和院にさんじろ! まず人を一人残さず、お助けしろ!」と音人が命じる。

音人の邸から淳和院までは約一キロ余り。日常の移動の基本は歩くことだから、音人も座りっぱなしで暮らしてきたわけではない。だが音人は日本を代表する知識人。体より頭を使って生きてきたから、勢い込んで走りだしたらタタラを踏みそうになった。

「走れるものは、先に行け!」と音人が叫ぶ。

淳和院は四町(約六万平方メートル、一万八千坪余り)の広さがある。夜中なので気づくのが遅く、火は天をがしている。熱風が渦を巻き、火のついた戸板が空に舞う。三十メートルも近ずくと肌が焼けるように痛いし、着ている衣服や髪が燃える。

太皇太后だいこうたいごうさま。入道親王さ!! 太皇太后さま!」

音人たちは避難した淳和院の人を探して、正子大皇太后と恒寂入道を見つけた。

「太皇太后さま。風は南西から吹いております。風上にお移りください」と音人。

「まず、先に、みなの安全を」と正子。

「太皇太后さまの無事を確かめなければ、人が避難ひなんしません。お移りになったところに、みなさまを誘導します」と音人。

正子太皇太后は、音人が用意した軽くて動きやすい粗末な輿に乗って、淳和院の南西の松林のなかの院に避難した。

輿からおりた正子は乱れたようすもなく、燃える淳和院を見た。正子のまえに音人が片膝を立ててひざまづく。

六十四歳の正子は、母の橘嘉智子たちばなのかちこにそっくりになった。まえにひざまずく六十三歳の音人は、実父の阿保親王あぼしんのうによく似ている。焔が二人の半身を、ゆらゆらと照らした。

「大江朝臣」と正子。

「はい」

「子供たちが大勢います。すべての者たちの無事を確かめてください」

「はい」

太皇太后と淳和院の人々を無傷で救出したのは、大江音人と、その眷属けんぞくだった。



淳和院火事の報を聞いて、右大臣の基経もとつねは内裏に駆けつけて六衛府ろくえふを集めた。まず天皇を警護しなければならないから、こちらも迅速に動いている。それから淳和院に衛府えふの兵をだしたが、すでに火の手は止められなかった。

二十日に暴雨が降って火事は鎮火ちんかした。

すぐに正子は、失火を深くわびる書を奏上そうじょうした。

四月のうしこくに失火はない。警備がゆるい淳和院は、放火しやすい場所だ。いち早く正子は、放火犯を出さないための対策をとったのだ。

嵯峨さが天皇を父に、橘嘉智子たちばなのかちこ皇后を母に、仁明にんみょう天皇を兄に持つ、淳和じゅんな天皇の皇后の正子は、藤原氏の血が入っていない皇嗣の血統を受けつぐ女性だ。

自分の扶持ふち(収入)を貧民の救済と孤児の養育につかった正子は、おおやけの場にもでず、政に口もださなかった。ただ朝廷からの援助を断るときの奏上文そうじょうぶんは、礼をつくして理を説くみごとなもので官僚らをうならせた。

淳和院が焼けたあとで、左大臣以下参議以上の公卿くぎょうたちは、それぞれが誘い合って、正子の避難している松林院しょうりんいん慰問いもんする。政治に影響力のない人だが、その人柄は皆に慕われていた。

このあと正子は、父の嵯峨の帝がくらした嵯峨院を寺にする。その真言宗大覚寺しんごんしゅうだいかくじ(右京嵯峨大沢町)の開山は、恒寂入道親王こうじゃくにゅうどうしんのう。阿保親王が嘉智子皇太后に渡した親書で廃太子となって、文徳天皇に皇位をゆずった正子の息子の恒貞つねさだ親王だ。

さらに正子は自己負担で、大覚寺のそばに僧尼の治療のために斎治院さいじいんを建て、淳和院を道場に再建して六十九歳で亡くなる。

良房による謀略の時代の渦中を生きた正子は、そばにいる人の都合で人生を左右されずに、弱い者のために自分の生命を使い切った。淳和天皇と正子皇后は、この時代の清流だった。


この年の八月二十四日に、都に台風がきて四十あまりの家が流されて溺死者が多くでた。続いて九月七日にも台風と豪雨で、三千百余棟の家屋が破損し数千人が水に流された。

溺死者の遺骸いがいを並べ切るには鳥辺山とりべやまは狭い。五条の河原にも、すきまなく遺体が並べられている。まだ担がれたりむしろで運ばれたりして遺体は増えている。その間をボロのようになった着物を着て、家族を探す人たちがさまよっている。

「オーイ。お役人さま。家族の方々から、不明者の名と年恰好ぐらいは聞きとって控えてくれねえかい!」と、立っているだけで何もしない役人に、たまりかねた犬丸いぬまるが大声をあげた。犬丸が連れてきた春丸や寅丸や黒丸の牛飼い童たちが、口々に不平の声を上げはじめる。

「ムダだ!」と土師小鷹はじのこたか

「役人は、上からの命令がなきゃ動かねえ」と岡田剛おかだのごう

「それでも人かい! 心がねえのかい!」と犬丸が、京職きょうしきの役人にむかって叫ぶ。

「あてにしねえこっちゃ。やつらだって、上にわなきゃ仕事がねえ。心ぐらい持ってらァ」と小鷹。

「おっ立ってるだけの奴を、食わせるために租税そぜい払ってんかよう!」と犬丸。

「おい。犬。おまえ払ってるんか」と次兄の岡田えい

「ああ。兄貴たちゃ、払ってねえのか」と犬丸。

市籍人ししゃくにんは免除だ」と岡田|剛。

「土師の。おめえは」と拽。

「わしらは、大王おおきみ献上けんじょうされた部民のたばねだからよ。租税にゃ、とんと縁がねえし、これっから先も、一切かかわりたくねえ。

おい。じょうちゃん。おめえさん。親はどこでィ」と泣きじゃくりながら遺骸を確かめている、五歳ぐらいの女の子に土師小鷹が声をかけた。

「見つからねえのか」と小鷹。

「…」

「家もねえのか」と小鷹。

「…」

「このままじゃ、おめえも死んじまうぞ。わしんとこ来ねえか」と小鷹。

「おめェんとこは、むさい男ばかりじゃないか。わしのとこへ来い」と岡田剛。

両肩に遺体を担いで運んできた秦能活はたのよしかつが、それを横たえながら口をはさむ。

「嬢ちゃん。そいつのとこへ行くと女郎にされちまうぞ。おめえ、孤児かい」と能活。

「親が出てくりゃ、いいがよ。見つからねえらしい」と小鷹。

「もしも家族が見つからねえようだったら、わしのとこに来な。おかいこを飼ったり、糸をつむいだりできるさ」と能活。昔のムカデだ。

「おい。盗人ぬすっと。被害者の衣をぐんじゃねえぞ!」と岡田拽が、どなる。

「剥いでんじゃねえや。まだ、息してやがるから、傷口に薬、ぬってんだよ」と、いつか蔵麿の身ぐるみを剥ごうとした若者が、どなり返した。

「信用してやってくだせえ」と若いホウが、浮浪者をつれて現われた。

「こんなときに悪さをしでかしたら、人非人にんぴにんにゃしちゃおけねえ。蹴とばして、良民に戻しやすよ。部民の親方たち。どっかに命あるものを収容する仮小屋を建てておくんなさい。救護しやす」と若いホウが言った。



つぎの八七五年(貞観十七年)。

つぎつぎに自然災害が起こる。不作がつづいて米の値も上がったままだが、国庫が空だから対処ができない。まえの時代のつけだ。庶民の不満は火を呼んだ。

一月二十八日に、こんどは冷泉院れいせんいんが炎上した。冷泉院も淳和院とおなじに四町の広さがある。文徳天皇の御座所ござしょだったが、清和天皇は内裏で暮らしているから常住している人が少ない。

これも警備が手薄てうすな政府の建物だ。冷泉院の火は二日間も燃えさかり、五十四棟を焼失した。


二月二日に、真如しんにょの息子の在原善淵よしぶちが亡くなった。

五十歳になったら出家するといって初登庁したのだが、五十を過ぎても出家せずに、最期は従四位上の大和守で五十九歳だった。

善淵と安貞やすさだの兄弟は、一年とちょっとまえに父の真如の俸禄ほうろくを「たぶん、もう生きていないと思います」とことわる奏上そうじょうをした。生きていれば真如は八十に近い。その奏上は認められなかったので、善淵が亡くなったときも四品高岳親王たかおかしんのうの真如の報禄は払われつづけていた。

善淵が亡くなった直後に、さきの右大臣の良相よしみの嫡子の常行つねゆきが三十九歳でった。基経とおなじ歳だ。

常行の葬儀は、従二位を追贈する勅使ちょくしとして業平なりひらが遣わされて厳かに行われた。



「さびしくなりました」と盃をかたむけながら、紀有常きのありつねが言う。

七月八日の夜のことで、庭先に蛍が飛んでいる。有常は業平の邸の廂で飲んでいる。

昨日は二人して奈良の不退寺ふたいじへ出かけて、奈良の帝の法要をしてきた。

「つぎは、わたしが逝く番でしょう」と有常。

「気の弱いことを」と、この正月の叙位で従四位下の右近衛中将うこのえのちゅうじょうに昇進した業平がなぐさめる。

「むかしのことを考えますと、すっかり弱ってしまいました」と有常。

業平も、むかしのことを思い出している。

むかしも奈良の帝の命日には、不退寺ふたいじに行った。

その帰りに山崎のそばにある水無瀬みなせの離宮で、惟喬これたか親王と落ち合った。好い酒をたずさえ、狩りといって馬に揺られて、心地よい場所を見つけると、その場で酒を汲みかわして歌を詠んだ。 

いつかなど道に迷って「ここは、どこでしょう」と聞いたら、「天の川だ」と教えられてびっくりした。水無瀬の離宮から、それほど遠くない南東に天の川という場所があったのだ。そのとき業平が詠んだ歌。


狩り暮らし たなばたつめに 宿借やどからむ 天の川原かわらに われは来にけり  

(狩りをして いつの間にか 天の川に来てしまった 今宵の宿は 七夕姫にお借りしましょうよ)


あの頃でさえ、業平は馬のジイ。有常は紀のジイと言われていた。

若くはなかったはずなのに、そのとき見たもの、そのとき居た人、そのとき感じたことを、これが最後だとは思っていなかった。おなじことが、また出来ると思うことで、人は安心できるのかも知れない。

昨日、不退寺に行っただけで業平も有常も今日は昼まで寝ていたから、とてもじゃないが、これから惟喬親王に会いに小野郷に登る体力はない。

「あのときは、あとで三日も寝ましたよ」と有常。

「どのとき?」と業平。

「ほら。雨乞いをしたでしょう」と有常。

去年は水害で二千人以上の人が亡くなったのに、今年は雨が降らずに神泉苑しんせんえんの池に船を浮かべて、その上で鐘を鳴らして舞いを踊った。

池に龍が住んでいて、音曲を捧げれば雨を降らしてくれると陰陽寮おんみょうりょうが言ったからだ。

雅楽頭うたのかみは、きれいな舞姫にかこまれて役得だと思っていましたが、三昼夜も寝ないで歌え舞えじゃ…ねえ。わたしは六十歳ですよ」と有常。

「雨、降りませんね」と業平。

「降りません! 歌舞音曲は一日だけで切りあげるのがよいのです。夜昼なく三日もうるさかったので、竜神さまも気を悪くなさっているでしょう。降るなら集中豪雨ですよ。

ところで、お願いがあるのですが、邸をたたもうと思います」と有常。

「それは、また、どうしてです」と業平。

「大きな邸は負担ですから、手ごろなところに移って身辺を片付けようと思い立ちました。ついては少し、あずかっていただけませんか」と有常。

「はい。それは、よろしいですが、なにを?」と業平。

「親戚の娘たちです」と有常。

「わたしに?」と業平。

「はい。あなたは紀氏の娘がお好みですし、恋は伊勢のほうで終わりになさったから、ほかの方に預けるよりも安心できます」と有常。

「なんのことだか」

「身内に不幸があったときは解任のはずですが、どうして、あの方は戻ってこられないのでしょう。あの方にもう一度、わたしは会えるでしょうか」と有常。

「…きっと会えますよ」と業平。

伊勢斎王の恬子内親王やすこないしんのうは、静子や惟条親王が亡くなったあとも斎王として伊勢に留まっている。

このあと雨が降った。

集中豪雨ではなかったが、なかなか止まず木が倒れて家が壊れる被害がでた。



夏の終わりに業平へ、春宮しゅんぐう女御にょうご高子たかいこから呼びだしがきた。いま高子は貞明皇太子さだあきこうたいしと一緒に、東宮とうぐう(春宮)に暮らしているという。

東宮は、惟喬親王の両親の文徳天皇と紀静子が、若いころに暮らしたところだ。

二人が甘美で切ない恋の錦絵にしきえったところだと、外壁を見ただけでジーンときていた業平だが、なかに入ったら、そんな思いはブッ飛んだ。

ニワトリが駆けずっている。仔犬が吠えて走っている。なぜか仔馬まで、きれいに刈り込まれた庭木をんでいる。

ほのかではかなくて、やるせない情感など皆無かいむ。どこにもナイ。


案内されたのは皇太子の御座所ござしょらしく、御簾みすも降ろさずに高子が女房にかこまれて座っていた。女房たちが興奮しているようだから、業平と高子。恋歌で有名な二人に似合う舞台を、なぜしつらえる工夫ができなかったのかと、平伏しながら業平はガッカリした。

「おひさしぶりです。在五さま」と高子。二人の間を取りつくろう気もないらしい。

「ご無沙汰いたしております」と業平も答える。

でも高子はカラッとして、頭の切れが良さそうな魅力的な女になった。

「歌を詠んでいただきたくて、お呼びしました」と高子。

よけいな会話も、はぶくつもりらしい。そういえば若いころも必要なことしか言わなかった。そこに魅かれたのだった…っけ。かな?

女御にょうごさまにお仕えいたします、寂林じゃくりんともうします」と、高子のそばにいる尼が挨拶をする。業平は一瞬だけ目をつむった。

しばらく会っていないが、声も姿も大叔母の睦子むつこにちがいない。

右近衛中将うこのえのちゅうじょう在原朝臣業平ありわらのあそんなりひらともうします」と業平も軽く頭を下げる。

「みなさんで屏風びょうぶを運んできてくださいませ」と寂林が女房たちに言った。

そこに男の子が駆け込んできた。歳より大柄にみえるが、七歳になる貞明さだあき皇太子だろう。中央の御座に坐ったので、業平は少し下がって平伏した。

「なにしている?」子供にしても甲高い声だ。

「歌を頼みました」と高子の声がする。

「歌!」

「皇太子さま。すこしは落ち着きなさい!」と高子の声がする。

ドンドンと音がするので、業平は顔をあげてみた。皇太子が御座のうえで飛び跳ねている。これは、そうとうに…ヘンだ。

「お座りください。皇太子さま!」と寂林が怖い声をだした。

皇太子の目が鋭くなって、プイと部屋からでて行く。皇太子についてきた近習が皇太子の跡を追う。それで高子と寂林と業平だけが残った。

「あのう…睦子どのですよね」と業平。

「そう、わたしです。わたし」と寂林。

「在五さま。どう思われます。皇太子さまは、あれで頭は良いのです。でもカンが強くて人の言うことを聞きません。それで、わたしが一緒に住むことにして、寂林もよびました」と高子。

「わたしに聞くまでもなく、お分かりでしょうに」と業平。

「ええ。最も帝に不向きなご性格です」と高子。

「女御さま。なにごとにも執着なさいませんように。上手に捨てて、皇太子さまと共に生きのびる工夫をなさいませ。そして与えられた命を活かされませ」と業平。

女房たちが運んできたのは、紅葉を浮かべて流れる川の絵が描かれた屏風びょうぶだった。

「ここに置いておくと、いつ破られるかと心配なのでしまっています」と寂林。

「竜田川を描いた、みごとな作品です。これに歌をつけてください。帝に献上けんじょういたします」と高子。

「帝に? わたしが詠んでもよろしいのでしょうか」と業平。

「ええ。かまいません。まだ二十五歳ですが、ご自身の立坊に関わる苦悩も受け止められた、帝は清らかで真っ直ぐな心を持った青年です。

遍照へんじょう(良岑宗貞)さんにも頼みましたら、息子さんの素性そせいさんを、よこして下さるそうです。お二人の歌をつけます。

どうなさいました? 在五さま」と高子が、ポカンとしている業平に聞いた。

「思い出しました。あなたのことです。その正直で真っ直ぐな気性と行動力に、わたしは心を奪われたのです。

高子さま。これからも、ご自分の選んだ道を、しっかりと歩んでくださいませ」と業平。

「心を込めた歌をお願いします。在五さま」と高子。

「はい。うけたまわりました」と業平が平伏した。


谷川を流れる紅葉の屏風をみて、業平が詠んだ歌。


ちはやぶる 神代かみよも聞かず 竜田川たつたがわ 唐紅からくれないに 水くくるとは

(神さまの時代でも 聞いたことがないでしょう 竜田川の水を 真っ赤なくくり染めのように 紅葉が染め上げるとは)


くくり染めは糸をくくって染める「しぼり」のことで、竜田川が赤いしぼりの布のようだという意味だろう。


百人一首に取り入れられたこの歌が、「鬼一口おにひとくち」から始まる年の差三角関係の大団円だいだんえんを飾る歌になる。

藤原良房に擁立されて、なにも知らずに父の文徳天皇を追いつめた清和天皇。

文徳天皇が愛した第一皇子の惟喬親王を、擁護し続けた在原業平。

その二人を愛して愛された、藤原良房の姪の高子。

三人の懐の深さを、しみじみ味わえる名歌だ。








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