第十三話 …唐紅に 水くくるとは
八六七年(
七日には、紫宸殿で
しかも今年は、暮れに入内した
最初に清和天皇の女御となった
人知れぬ 我が通い路の
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして
深窓に育ち、十四、五歳で帝のもとに
この歌を詠んだ業平は、青馬の節会で姿をみている。四十二歳のオジサンにしては、色が白くて容姿や仕草が美しく、恋物語の当人として若い娘にも許容可能な人だ。相手の高子は二十五歳。伝説だと思っていたその人が、入内してきた。
基経にも娘がいるが、まだ入内できる歳に育っていない。笑いものになるかも知れない高子の入内に踏み切ったのはカケだった。入内を暮れの最後にしたのも、日をおかずに高子と業平が揃う、この節会があるからだ。
庭の業平が動いて、体が高子の方にむいた。高子と顔が合った業平は、ごく自然に
都は
変わったのは、飢える庶民を助けようと熱心に考えたり動いたりする官僚が流刑にされていなくなり、
在原家の
「グエーッ」と戻したが、酸っぱい胃液がでただけだった。汗が噴きでているらしく膝にポタポタと落ちてくる。もう、いい歳なので、お迎えがきたのだろうと、蔵麿は
帯をつかまれたので顔を向けたら、鋭い目つきの若い男たちがいた。死者の身ぐるみを剥いで売り払ってしまう奴らだ。人さらい、火つけ、強盗も、やっているかもしれない。
「おま……クラジ……ってか?」と、一人が腕をかきながら蔵麿の顔をのぞきこむ。すごく若い。十五、六歳だろう。ぜんぜん覚えがない。蔵麿は在原家の邸の中で働いて一生を過ごして来たから、知り合いも少ない。知らないうちに恨みを買っているかもしれないが、こんな若い男は知らない。
「ちっ‥い目……ホウ……さっ…で……」
「…に教え…ぞ……」
耳が痛くて気分が悪くて、どうでもよくなった。
ガタガタ揺れるので、フッと意識がもどったときには、荷車で運ばれていた。
「蔵麿さんよ。いま守さまのお邸に届けやすから、しっかりなせえ」これは・・・
「業さまも、向かっておられる」と
「眼を開いてください。眠っちゃだめですよ」と、たぶん
体も口も動かなかったが、蔵麿は小さな目から涙を流した。もうすぐ死ぬのに、わたしなんぞのことを・・・こんな、わたしを心配してくれる人がいる…ありがとう…ありがとう。
「蔵麿さま。蔵麿さまーァ」と遠くから、
七月十二日。
「まったく、朝から暑いったら、ありゃしない」と首にはさんだサラシで顔を拭く。
「ありがと」とアチャは、さっそく瓜を切りわけて木皿に盛った。
「こっちへおいで。
茶茶は蝉丸と山崎に移って、若い妓女に
去年の秋に、ジュツが亡くなったのは知っている。山崎に移るというのに顔を見せなくなったジュツが気になって、アチャが
「十五、六年になるかい。月に一度か二度だけど、ずっと、あたいのことを気にかけて通ってくれた男など、あん人しかいないんだ。あん人は、あたいの大切な家族だ。ね。そうだろ。だから、ほんとうのところを探って教えとくれ」
「おれたちだって、ずっと、おめえの・・・」と拽。
「そうじゃない!」
「なにかい。おれたちゃ、おめえを食いものにした鬼か」と剛。
「そうじゃないってば! あん人には、あたいと蝉丸しか、気にかける人がいなかったんだよう。そこんところが分かるかい? 分かってやってくれるかい」と阿茶。
それで剛と栧が、おおかたの事情を教えてくれた。
それまで阿茶はジュツの名さえ知らなかった。聞いたことはあるが渋るので、おまえさんとか、父ちゃんと呼んでいたからだ。
・・・太政大臣家に仕える
細かいことまでは知らなくても、あの人らしいと阿茶は思う。
ここでの阿茶は、東の市で妓女をやっていて、馴染の芳明に
「父ちゃんが来た」と六歳になる蝉丸が耳を傾ける。
「まったく、おまえの父ちゃんは心配性だねえ。こんなに、うるさくしなくても、いつだって、そばにいてくれるのが分かっているのにさあ」と阿茶。
妓芸所のそばを掃いていた若者が、ほうきを止めて琵琶の音に耳をかたむけた。ジュツから教えられた剛と栧を頼って、良房の邸を逃げたビ(未)だ。
「子供なのに、ホント。上手いねえ。
おなじ七月十二日。
阿茶が住む廓町のそばの山崎の
今年の七月七日の奈良の帝の命日にも、
骨と皮しかないような姿になった一圓は、目を輝かせている。舟に乗れるのが、うれしくてたまらないらしく、両脇を超昇寺の僧に支えられて船床のご座の上にチョンと置かれた。
見送りの百姓たちが念仏を唱えだした。一圓が、そろそろと手をあげて指を動かした。手を振っているつもりなのだろう。まるで、どこかに遊びに行く幼子のようだと、業平はおもわず手をふっりながら叫けぶ。
「いってらっしゃぁーい! 一園さーん」
「父上に会ったら、よろしくーゥ!」と、いまは
「一圓さん。お元気でぇ~!」と、
「
「ン……細かいことにこだわると、体に悪いと一圓さんに叱られるよ」と守平。
「そうですか。じゃあ、お元気でー」
「ありがとう。一圓さーん」
「いってらっしゃい。ありがとう」
「そのうち、おらも行くからよーゥ」
一圓は淀川を下って、難波の海に夕日が沈むころに六十四年の人生を終えた。
この年の十月十日には、「応天門の変」のあと休職して辞職をねがっていた、右大臣の藤原良相も五十四歳で亡くなった。やろうとしていた行政は挫折したが、熱心な仏教徒であった良相も
つぎの八六八年(貞観十年)の二月十八日に、
そして、おなじ日に、
藤原
良縄が文徳天皇陵を守っているのは、官人たちはよく知っていた。
国に大きな変わりがあるときや、新年の挨拶などの報告を欠かさない天皇家の陵がある。報告するのは十陵と決まっていて、血統が代わった
そのことも、官人たちはよく知っている。
文徳天皇の御陵が焼けた日に、御陵に
そのすぐあとに、
これぞ祟りだ。文徳天皇が怒っておられる。
応天門の炎上のあとで、伴氏と紀氏の二大豪族が
現在の太政官は、右大臣の良相が亡くなって、残る左大臣の源信は邸に閉じこもって登庁していない。大納言の伴善男は流刑にされて、もう一人の大納言の平高棟も亡くなった。
五月五日の
内裏も妙なことになっている。
内裏は天皇の居住空間で、天皇の後宮の
その内裏に、天皇の母方の祖父の良房が住みこみ、母の明子までが暮らしている。
母の
青葉が目に鮮やかな初夏がきた。まだ暑くもなく、吹きぬける風が心地よい。
中納言の藤原
良房や明子が内裏に住むのを認められない基経は、呼ばれないかぎり内裏に
「お呼びでございますか」と基経。
「……」
呼びつけておきながら、六歳下の同母妹は不機嫌そうな顔を基経に向けた。
基経には姉がいたが、
いまは基経の姉妹は妹の高子だけで、あとは兄弟しかいない。
高子とは父の邸だった
「二人にして。だれも来ないように見張っておいで。女童は庭で遊んでいなさい。
だれかが来きたら、すぐに知らせるのよ」と高子が人払いをした。
これまでにないことだから、二人きりになると基経が声をひそめて聞いた。
「なにか、ございましたか?」と基経。
「できました」と高子。
「なにが?」
「お子に決まっているでしょうに」と高子。
「……たしか帝は伏せっておられますが」と基経。
もう四か月ちかく、清和天皇は公式の場に出ていない。病が公表されてからも二か月が経つ。だから基経は重病だとばかり思っていた。
「なにを疑っているのです。中納言。
帝は、もともと丈夫なご体質ではございません。無理をなさると体を壊されます。ですから心を病まれて、神経を尖らせて、ろくに食事も眠りもとらずに過ごされましたので、二ヶ月まえに血を吐かれました。医師は穏やかに過ごされるようにといっていますし、お体のほうは少しずつ回復してきております」と高子。
「心を病まれるとは、なにかございましたのでしょうか」と基経。
「
「…どこまで」と基経。
「
田邑の帝が亡くなって得をしたのは、あの方だけですから」と高子。
「…」
「中納言は、どこまで関わっておられるのでしょうか」と高子。
「田邑の帝のことは、なにも関わっておりません」と基経。
「ほんとうですか」と高子。
「ほんとうです。
「中納言は、あの方の
「帝に?」と基経が聞き返した。
それまで目の前のことだけを考えて、基経は清和天皇のことを忘れていた。
良房が立てた幼帝という思い込みがあるし、応天門事件のときに太政大臣に
これでは文徳天皇に対する良房の態度とおなじだ。
「
わたしは、太政大臣がなさったことに関わっておりません。
ただ右大臣の
「応天門まで?」と高子。
「帝に詰め寄よられたときも、再び政権をにぎるために応天門を焼かせたのかと疑いました。それを見過ごしました。わたしが、やましく思うのは、それだけです」と基経。
「裁かれた多くの方が、
「冤罪や暗殺に手を貸したことは、一度もありません」と基経。
「冤罪を見逃したなら、手を貸したも同じでしょう!」と高子。
「分かっています。いまだに悔やんでいます」と基経。
「人を陥れてまで出世をしたいなら、中納言はあの方の同類です。恥ずかしくないのですか。慈しんで育ててくださった両親が、悲しまれると思わなかったのですか。
帝は、真っ直ぐで純粋な心を持ったお方です。その方を、あの方や、あなたのような
「…奸臣。わたしは、
「応天門のことは、やましく思っているのですね」と高子。
「もう少し早く気がついていたら、どなたかに、ご報告できたかも知れません」と基経。
「直前まで知らなかったのですか」と高子。
「事前には、なにも聞かされてません。わたしが気がつくころには、局面が変わっていて、どう動けば良いのか分かりません」と基経。
「良いように使われただけなら、まだ、間に合うかも知れません。
「約束します」と基経。
「心から信用した訳ではありませんが、中納言。
即位の事情を知ってしまわれた帝を、あのかたから守って欲しいのです」と高子。
「わかりました。でも、帝はどうして、そのことを知られたのです」と基経。
「あちらの方です」と高子は、西のほうにアゴをしゃくってみせた。
高子は女御だから、
「お目にかかったことは?」と高子。
「何度もありますが、親しく言葉を交わしたことはありません。静かで控えめな方です」と基経。
「帝の母君で、わたしたちのイトコです。隣にいらっしゃるので、幾度かお
控えめと言うより、人の気持ちを察して、人の都合に合わせる方に見えました。
逆らうよりも従うほうが楽なのでしょう。
でも自分を抑えて我慢ばかりしていたら、心は
ときどき、ご自身を
ここにも、聞こえてくることがあります」と高子。
明子の
「田邑の帝の御陵が燃えたあとは、ひどく動揺されました。そんなときに帝が行き合われました」と高子。
「帝は、なにを聞かれたのですか」と基経。
「わたしは立ち会っていませんが、いつも叫ばれることは同じです。
田邑の帝を殺したのは、一品女御のコン狐で、明子さまがコンを叩いて殺そうとされます。あちらの女房たちはコン狐がついたと言いますが、わたしの耳にはコンではなく、コシ女御と叫ばれているように聞こえます」と高子。
「古子…」と基経。
「なにか、ご存じ?」と高子。
「太政大臣の妹で、わたしたちの叔母です。文徳天皇の女御でした。わたしも疑ったことがあります」と基経。
「なぜ?」と高子。
「あの日、文徳天皇は、ご薬湯を召されてから苦しまれたと聞きました。召し上がった薬湯を入れた椀は、古子に仕える女房が洗って
文徳天皇が亡くなられてから、古子女御は一品になりました。古子は天皇に召されたことがなく、子供の居ない女御です。
「で、その人は、いまどこに?」と高子。
「染殿で、明子さまと一緒に出家されたと聞きますが、どこにおられるかは存じません」と基経。
「一品の女御の行方が分からない?
もしかして、明子さまは、本当にあったことを叫ばれているのでしょうか。
まさか、明子さまが古子女御を…」と高子。
「それは無いでしょう。明子さまが一人になることはありません。
誰かが止めに入ります。そう思わされているのかもしれません」と少し考えてから、基経が答えた。
「帝も、古子女御が帝を殺したと、明子さまが叫ばれたのを聞かれたでしょう。それから、ご自分で調べられたのでしょう。体調を崩されたのは、その後です。
父の帝を殺した外祖父が、内裏に住んでいれば病にもなるでしょう。
でも、良かった…」と高子。
「なにが?」と基経。
「明子さまが、あんなふうになられたのは、文徳天皇を深く愛しておられたからでしょう。
帝の母君は父君を愛しておられた。帝は愛されて誕生されたと言ってさしあげられます」と高子。
「ところで女御さま。さきほど、確かご懐妊されたとおっしゃいましたよね」と基経。
「言いました」と高子。
「
出産のために戻られるお邸のことですが、明子さまに相談して
「明子さまも病んでおられます。これ以上、明子さまを政治の道具にするのはやめてください!」と高子。
「たしかに、
明子さまが誕生された染殿で、文徳天皇の初孫が誕生するのです。明子さまのお気持ちも、少しは晴れるかと思います。
太政大臣が染殿に来ないように工夫します。それなら、よろしいですね」と基経。
「ぜったい来させないでください。あなたも呼ばない限り来ないでください」と高子。
「はい」やっと基経は、笑みを浮かべた。
生まれる子が男子なら、文句なしに第一親王で皇位継承権を持つ。
それにしても高子でさえ、良房のひな形のように基経のことを疑う風潮は、なんとかしなければならない。
九月十四日に、紀静子を母とする
夏に雨が多かったからか、左京二条三坊にある
「さびしいな」と二十四歳になった惟喬親王がつぶやいた。
「はい」と髪に白髪が目立つようになった、五十三歳の
庭を掃く
染み入るような寂しさが漂っている。
そこに無粋な
「なんの音です」と有常が聞いた。
「
「兄上が来ているのですか」と業平。
「ロクロを備えにこられた」と惟喬親王。
「ロクロ?」と業平。
「あの土器を回したり、鋼を削ったりするロクロですか」と有常。
「仲平どのは、
「斎部文山・・・ああ、大仏の首をつないだ名工ですか。そういえば、そんなことを、ずっと昔に聞いたような・・・」と業平。
「そのロクロを、なぜ仲平どのは親王のお邸に備えていらっしゃるのです」と有常。
「わたしに教えてくださるそうです」と惟喬。
「親王がロクロをまわされると?」と業平が、膝を滑らして惟喬のそばに寄る。
「この美しい手が、兄上のようになってもよいのですか。あんな、ごつごつした節だらけの指になってもよいのですか。爪だって兄上のはヘラのようです」と業平。
「馬のジイは、仲平どのが木を削られたときにも、そんなに心配されましたか」と惟喬。
「いいえ。兄は、もともと兄ですから、なぜ兄の手の心配を、弟のわたしがするのです」と業平。
「仲平どのがおっしゃいました。人はものを造り生みだすことができる。ものを壊したり失くしたりしていては、心は満たされない」と惟喬。
「それは、そうでしょうが…」と有常。
「馬のジイと紀のジイには、歌を生みだす才があります。わたしは仲平どのに習って木を削ってみたいのです。わたしも、ものを生みだしてみたいのです」と惟喬。
「あんな音を立てれば、ますます、お邸に奇怪なものが住みついていると噂されますよ」と有常。
「この邸と、むかし
雁がカギの形に並んで空を渡って行く。
十二月十六日の深夜。
二十六歳の高子は、染殿で
そして十二月二十八日に、
応天門の放火を命じたとして
それからは公の席に顔をださなかったが、
十二月二十五日の寒い日に、信は小鳥を追って馬で山を駆けていたという。そして落馬して沼に落ちた。供の者が沼から助けだしたが、すでに呼吸がなかった。一度は心肺が
源信は、はじめて源氏を名乗った嵯峨源氏の一郎だった。
信の死から三百三十一年後に、はじめて武士による鎌倉幕府を開いた源
人の笑いや涙を乗せて時は流れるが、眼にみえぬ糸が時の流れを
翌八六九年(貞観十一年)二月一日に、生後一か月半の
藤原
相変わらずの気候不順で国庫に貯えはない。干ばつや長雨で不作になれば、すぐに民が飢死する状況がつづいている。
六月には
兵乱が続く
そんななかで、十九歳になった清和天皇が
「百姓は国の宝、気候不順で農民は望みを失った。すべては治世の悪さが責任だ。これから、
飢える庶民のために仁明天皇が行った官費の節約を思い出させる
仁明天皇、文徳天皇、清和天皇と続く、藤原良房の
国の赤字を
それからの三年半で、多くの人が
りっぱな跡継ぎを育ててから、
孫と遊び暮らしていた守平の母のシャチもいない。
隣の
去年の冬のはじめには、
若い人では妙信尼の娘の
高位の人も去っていった。
一人息子の文徳天皇を亡くしたあと、
順子が亡くなった次の年の八七二年(貞観十四年)には、
内裏に住んでいる太政大臣の
娘の明子皇太后も、内裏から
半年の闘病のすえに、九月に良房は六十八歳でこの世を去った。娘の明子皇太后と猶子の基経は、朝廷からの援助を断って葬儀を密葬にした。
基経にいたっては、良房の喪も開けないうちに、自分の墓を実父の
皇位継承を操り内裏に住んだ良房の記憶は、早く忘れさられて欲しかった。
それが去年のことで、そのころには応天門も再建されている。
二十三歳になる
去るものがいれば生まれて来るものもいる。
春宮の女御の高子も、貞明皇太子のほかに、
行平の娘も入内して、
親王や内親王となるのは、藤原氏と橘氏と皇女を母とする子に限るという規約があるから、臣籍降下した在原氏から内親王が出るのはうれしいだろう。
変わらないのは
八七三年(貞観十五年)の正月。
夜明けまで雨が降ったので
業平はサンセイとモクミをつれて、左手に
業平は四十七歳。サンセイとモクミは五十歳ぐらい。
すでに三人とも老境に入っている。時が移ろっていく。やがて自分も時の
ぬかるんだ雪道を、業平たちは登ってゆく。行くさきは
去年の七月十一日に、
傾斜を
「親王がご出家されて、二か月ほどで太政大臣が亡くなったのですから、
「太政大臣のために出家したわけではありませんから。どうです。田舎ですが空気がおいしいでしょう」と惟喬親王。
「田舎というのは、
ねえ。もっと近場の寺に入られたらどうですか。それが嫌なら、ご自分の寺をつくりましょうよ」と業平。
「馬のジイ。泥だらけです。どうして馬に乗らなかったのです」と惟喬。
「雪の山道ですよ。馬が滑ったら可哀想でしょう。
お願いですから、こんなところに住まないでもらえませんか」と業平。
「ともかく風呂に入ってきたら、どうでしょう」と惟喬。
「今日は、入浴する日でしたか?」と業平。
「深山幽谷におりますから
風呂はカマで湯をわかし、湯気をながしこむ蒸気風呂で、この集落は炭だけは豊富にある。少し崖下になるが西に高野川が流れているから水もたっぷりある。
「体をお拭きします」とサンセイとモクミが入ってきた。
「どうして裸だ?」と業平。
「日帰りのつもりで着替えを持っておりませんから、ぬれてしまいます」とモクミ。
「業さま。親王さまは明るくなられましたね」とサンセイ。
「顔色も良くなられました。生きがいを見つけられたように
「おまえたち…。わたしの体は、いつ拭いてくれる」と業平。
「冷えてしまいましたから、しばらく待ってください。ああ、いい気持ちだ」とモクミ。
「もしかしたら親王さまは、ご出家ではなく、仲平さまの跡をついで
「やりたいことがあるのなら、この暮らしも悪くありませんよ」とモクミ。
「おまえたちも山に帰りたいか」と業平。
「いいえ。わたしたちは在五さまを見届けます」とサンセイ。
「おい。先に、わたしを
「まあ気にせずに。あれ? 業さま。尻の肉が落ちてきましたね。少し鍛えましょう」とモクミ。
「さあ。業さま。お体をお拭きしましょうか」とサンセイ。
風呂から上がったら、惟喬親王が図面を広げていた。
「なんです」と業平。
「ロクロの設計図です。仲平どのが残されたのに、手を加えて改良しようと思っています。これを使えば皿や椀などをつくるのが楽になります」と二十九歳の惟喬親王が目を輝かせた。小野郷に惟仁親王を訪ねて、業平が詠んだ歌。
忘れては 夢かとぞ思う 思いきや 雪踏みわけて 君を見むとは
(現実を忘れて いまでも夢ではないかと思います 思いがけずに 深い雪を踏みしめて あなたの姿を見なければならないとは)
つぎの年の九月二十一日に、「朕が
四品親王の
庶兄(血筋の劣った兄)と呼び、先帝が愛された皇子だからと封戸を与えようとした清和天皇は、文徳天皇
業平と紀有常は、生涯をかけて惟喬親王を
惟喬親王は五十五歳まで生きて、のちに
八七四年(貞観十六年)。
二月の中旬。梅が良い香りを放ってほころびかけたころに、
行平は交際が広いので、源氏や藤原氏も多く集まった。
接待側にまわって
北側の
大宰府に行くにあたって、清和天皇が自分の着ていた衣服を行平に与えたものだ。貴人の使った衣をもらうことは名誉なことで、天皇のものだから家宝になる。
「ずいぶん、はりきってますね」と守平。従四位下で
「太宰府に帰るのは四十何年ぶりだろう。五十年近くになるな」と行平は言った。
大宰府は、仲平と行平と守平が生まれたところだ。
「覚えているか」と行平。
「わたしは幼かったので、ほとんど覚えていません」と守平。
「わたしは、父上の笑顔や海などを覚えている。
子供のことだから、話の
いつも父上が遊んでくださったような気がする。よく海のそばの家に連れていってもらった。貝を拾ったり、魚を釣ったり、泳いだりした。
仲兄は
「きっと仲兄には、わたしより鮮明に、あのころの記憶が残っていたのだろう。
だから
「うらやましいですね。行兄も、仲兄も、守兄も。
父上はお忙しかったし、住む棟もちがったから、わたしは遊んでもらった記憶が残っていません」と業平。
「おまえだって、父上を馬にして乗っていたぞ」と守平。
「ほんと?」と業平。
「疲れて帰っていらしても、馬だ、肩車だ、高い高いだと、すぐせがんだ」と守平。
「都に帰ってからは住むところがちがって、めったに父上と会えなくなった。
わたしも寂しかったが仲兄も寂しかっただろう。
そばで暮らしている守と業がうらやましかった…」と行平。
「わたしは、業みたいに甘えませんでした」と守平。
「わたしは守がいたから、少しも寂しくなかった」と業平。
「大宰府にいたころの父上は左遷だった。海人よりは、はるかに豊かに暮らしていたが、都から遠ざけられて、帰るあてのない
そんな暮らしのなかで子と遊んで笑っておられた父上は偉かったと、つくづく思うようになった」と行平。
「へこたれるような人なら、わたしたちは存在していません。
とくに、わたしは、ここにいませんよ」と守平。
「子供で状況が分からなかったから、あのまま大宰府で、ずっと暮らしていたいと思った。顔を合わせて、みなで暮らせたのが楽しかった」と行平。
「ずっと大宰府におられたら、わたしが生まれませんよ」と業平。
「偶然のように、いまのわれらがいるのだな」と守平。
「一人一人が、つながっているのでしょうねえ」と業平。
「大宰府に帰ったら、海のそばに借りていた、あの家に行く。そこで、みなを思いだす。
仲兄の母君も、わたしの母も若かった。シャチどのは輝いていた」と言って、行平は右の眉を上げて言い足した。
「業。おまえのことも、ここにはいないが、こんな子がやって来るよと思いだすことにする」
「頼みますよ。行兄。体に気をつけて、かならず元気に戻ってきてください。
待っていますから」と業平。
参議で左衛門督の行平を、天皇の
五十六歳になった行平は、その地に喜んで出発した。そして精力的に活動し、
守平は皇嗣系の守なので遙任していていいのに、気候が良いうちに信濃を見たいと、ふらりと出かけてしまった。
四月十九日の
熟睡していた
「炎から身を守るには、水にしめらす布が必要。できるかぎりの布と、怪我人を運ぶ手押し車と、
音人の邸から淳和院までは約一キロ余り。日常の移動の基本は歩くことだから、音人も座りっぱなしで暮らしてきたわけではない。だが音人は日本を代表する知識人。体より頭を使って生きてきたから、勢い込んで走りだしたらタタラを踏みそうになった。
「走れるものは、先に行け!」と音人が叫ぶ。
淳和院は四町(約六万平方メートル、一万八千坪余り)の広さがある。夜中なので気づくのが遅く、火は天を
「
音人たちは避難した淳和院の人を探して、正子大皇太后と恒寂入道を見つけた。
「太皇太后さま。風は南西から吹いております。風上にお移りください」と音人。
「まず、先に、みなの安全を」と正子。
「太皇太后さまの無事を確かめなければ、人が
正子太皇太后は、音人が用意した軽くて動きやすい粗末な輿に乗って、淳和院の南西の松林のなかの院に避難した。
輿からおりた正子は乱れたようすもなく、燃える淳和院を見た。正子のまえに音人が片膝を立ててひざまづく。
六十四歳の正子は、母の
「大江朝臣」と正子。
「はい」
「子供たちが大勢います。すべての者たちの無事を確かめてください」
「はい」
太皇太后と淳和院の人々を無傷で救出したのは、大江音人と、その
淳和院火事の報を聞いて、右大臣の
二十日に暴雨が降って火事は
すぐに正子は、失火を深くわびる書を
四月の
自分の
淳和院が焼けたあとで、左大臣以下参議以上の
このあと正子は、父の嵯峨の帝がくらした嵯峨院を寺にする。その
さらに正子は自己負担で、大覚寺のそばに僧尼の治療のために
良房による謀略の時代の渦中を生きた正子は、そばにいる人の都合で人生を左右されずに、弱い者のために自分の生命を使い切った。淳和天皇と正子皇后は、この時代の清流だった。
この年の八月二十四日に、都に台風がきて四十あまりの家が流されて溺死者が多くでた。続いて九月七日にも台風と豪雨で、三千百余棟の家屋が破損し数千人が水に流された。
溺死者の
「オーイ。お役人さま。家族の方々から、不明者の名と年恰好ぐらいは聞きとって控えてくれねえかい!」と、立っているだけで何もしない役人に、たまりかねた
「ムダだ!」と
「役人は、上からの命令がなきゃ動かねえ」と
「それでも人かい! 心がねえのかい!」と犬丸が、
「あてにしねえこっちゃ。やつらだって、上に
「おっ立ってるだけの奴を、食わせるために
「おい。犬。おまえ払ってるんか」と次兄の岡田
「ああ。兄貴たちゃ、払ってねえのか」と犬丸。
「
「土師の。おめえは」と拽。
「わしらは、
おい。
「見つからねえのか」と小鷹。
「…」
「家もねえのか」と小鷹。
「…」
「このままじゃ、おめえも死んじまうぞ。わしんとこ来ねえか」と小鷹。
「おめェんとこは、むさい男ばかりじゃないか。わしのとこへ来い」と岡田剛。
両肩に遺体を担いで運んできた
「嬢ちゃん。そいつのとこへ行くと女郎にされちまうぞ。おめえ、孤児かい」と能活。
「親が出てくりゃ、いいがよ。見つからねえらしい」と小鷹。
「もしも家族が見つからねえようだったら、わしのとこに来な。お
「おい。
「剥いでんじゃねえや。まだ、息してやがるから、傷口に薬、ぬってんだよ」と、いつか蔵麿の身ぐるみを剥ごうとした若者が、どなり返した。
「信用してやってくだせえ」と若いホウが、浮浪者をつれて現われた。
「こんなときに悪さをしでかしたら、
つぎの八七五年(貞観十七年)。
つぎつぎに自然災害が起こる。不作がつづいて米の値も上がったままだが、国庫が空だから対処ができない。まえの時代のつけだ。庶民の不満は火を呼んだ。
一月二十八日に、こんどは
これも警備が
二月二日に、
五十歳になったら出家するといって初登庁したのだが、五十を過ぎても出家せずに、最期は従四位上の大和守で五十九歳だった。
善淵と
善淵が亡くなった直後に、さきの右大臣の
常行の葬儀は、従二位を追贈する
「さびしくなりました」と盃をかたむけながら、
七月八日の夜のことで、庭先に蛍が飛んでいる。有常は業平の邸の廂で飲んでいる。
昨日は二人して奈良の
「つぎは、わたしが逝く番でしょう」と有常。
「気の弱いことを」と、この正月の叙位で従四位下の
「むかしのことを考えますと、すっかり弱ってしまいました」と有常。
業平も、むかしのことを思い出している。
むかしも奈良の帝の命日には、
その帰りに山崎のそばにある
いつかなど道に迷って「ここは、どこでしょう」と聞いたら、「天の川だ」と教えられてびっくりした。水無瀬の離宮から、それほど遠くない南東に天の川という場所があったのだ。そのとき業平が詠んだ歌。
狩り暮らし たなばたつめに
(狩りをして いつの間にか 天の川に来てしまった 今宵の宿は 七夕姫にお借りしましょうよ)
あの頃でさえ、業平は馬のジイ。有常は紀のジイと言われていた。
若くはなかったはずなのに、そのとき見たもの、そのとき居た人、そのとき感じたことを、これが最後だとは思っていなかった。おなじことが、また出来ると思うことで、人は安心できるのかも知れない。
昨日、不退寺に行っただけで業平も有常も今日は昼まで寝ていたから、とてもじゃないが、これから惟喬親王に会いに小野郷に登る体力はない。
「あのときは、あとで三日も寝ましたよ」と有常。
「どのとき?」と業平。
「ほら。雨乞いをしたでしょう」と有常。
去年は水害で二千人以上の人が亡くなったのに、今年は雨が降らずに
池に龍が住んでいて、音曲を捧げれば雨を降らしてくれると
「
「雨、降りませんね」と業平。
「降りません! 歌舞音曲は一日だけで切りあげるのがよいのです。夜昼なく三日もうるさかったので、竜神さまも気を悪くなさっているでしょう。降るなら集中豪雨ですよ。
ところで、お願いがあるのですが、邸をたたもうと思います」と有常。
「それは、また、どうしてです」と業平。
「大きな邸は負担ですから、手ごろなところに移って身辺を片付けようと思い立ちました。ついては少し、
「はい。それは、よろしいですが、なにを?」と業平。
「親戚の娘たちです」と有常。
「わたしに?」と業平。
「はい。あなたは紀氏の娘がお好みですし、恋は伊勢のほうで終わりになさったから、ほかの方に預けるよりも安心できます」と有常。
「なんのことだか」
「身内に不幸があったときは解任のはずですが、どうして、あの方は戻ってこられないのでしょう。あの方にもう一度、わたしは会えるでしょうか」と有常。
「…きっと会えますよ」と業平。
伊勢斎王の
このあと雨が降った。
集中豪雨ではなかったが、なかなか止まず木が倒れて家が壊れる被害がでた。
夏の終わりに業平へ、
東宮は、惟喬親王の両親の文徳天皇と紀静子が、若いころに暮らしたところだ。
二人が甘美で切ない恋の
ニワトリが駆けずっている。仔犬が吠えて走っている。なぜか仔馬まで、きれいに刈り込まれた庭木を
ほのかで
案内されたのは皇太子の
「おひさしぶりです。在五さま」と高子。二人の間を取り
「ご無沙汰いたしております」と業平も答える。
でも高子はカラッとして、頭の切れが良さそうな魅力的な女になった。
「歌を詠んでいただきたくて、お呼びしました」と高子。
よけいな会話も、
「
しばらく会っていないが、声も姿も大叔母の
「
「みなさんで
そこに男の子が駆け込んできた。歳より大柄にみえるが、七歳になる
「なにしている?」子供にしても甲高い声だ。
「歌を頼みました」と高子の声がする。
「歌!」
「皇太子さま。すこしは落ち着きなさい!」と高子の声がする。
ドンドンと音がするので、業平は顔をあげてみた。皇太子が御座のうえで飛び跳ねている。これは、そうとうに…ヘンだ。
「お座りください。皇太子さま!」と寂林が怖い声をだした。
皇太子の目が鋭くなって、プイと部屋からでて行く。皇太子についてきた近習が皇太子の跡を追う。それで高子と寂林と業平だけが残った。
「あのう…睦子どのですよね」と業平。
「そう、わたしです。わたし」と寂林。
「在五さま。どう思われます。皇太子さまは、あれで頭は良いのです。でもカンが強くて人の言うことを聞きません。それで、わたしが一緒に住むことにして、寂林もよびました」と高子。
「わたしに聞くまでもなく、お分かりでしょうに」と業平。
「ええ。最も帝に不向きなご性格です」と高子。
「女御さま。なにごとにも執着なさいませんように。上手に捨てて、皇太子さまと共に生きのびる工夫をなさいませ。そして与えられた命を活かされませ」と業平。
女房たちが運んできたのは、紅葉を浮かべて流れる川の絵が描かれた
「ここに置いておくと、いつ破られるかと心配なのでしまっています」と寂林。
「竜田川を描いた、みごとな作品です。これに歌をつけてください。帝に
「帝に? わたしが詠んでもよろしいのでしょうか」と業平。
「ええ。かまいません。まだ二十五歳ですが、ご自身の立坊に関わる苦悩も受け止められた、帝は清らかで真っ直ぐな心を持った青年です。
どうなさいました? 在五さま」と高子が、ポカンとしている業平に聞いた。
「思い出しました。あなたのことです。その正直で真っ直ぐな気性と行動力に、わたしは心を奪われたのです。
高子さま。これからも、ご自分の選んだ道を、しっかりと歩んでくださいませ」と業平。
「心を込めた歌をお願いします。在五さま」と高子。
「はい。
谷川を流れる紅葉の屏風をみて、業平が詠んだ歌。
ちはやぶる
(神さまの時代でも 聞いたことがないでしょう 竜田川の水を 真っ赤な
百人一首に取り入れられたこの歌が、「
藤原良房に擁立されて、なにも知らずに父の文徳天皇を追いつめた清和天皇。
文徳天皇が愛した第一皇子の惟喬親王を、擁護し続けた在原業平。
その二人を愛して愛された、藤原良房の姪の高子。
三人の懐の深さを、しみじみ味わえる名歌だ。
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