第十二話 …花こそ散らめ 根さえ枯れめや


応天門おうてんもんは、朝堂院ちょうどういんの正門。

宮城は周りに溝が掘られて、五メートルほどの高さの築地塀ついじべいで囲まれている。この外壁には、東西にのびる北壁と南壁に各三門、南北にのびる東壁と西壁に各四門、計十四の門があって衛士えじが守っている。

南壁の真ん中にあるのが朱雀門すざくもんで、朱雀門を入ると正面に朝堂院がある。

朝堂院は、むかしは政治の中心だったが、いまは儀式に使われている。

ここも塀で囲まれて、北側に天皇の高御座たかみくらをおく大極殿だいごくでんがある。大極殿の南は、東と西の端に四棟ずつの建物が建つ。これが八省はっしょう狭義きょうぎの意味で朝堂とよばれるところ。中央は朝廷とよぶ、なにもない広場だ。大きな儀式があるときは、大極殿に天皇が御座して、朝廷に百官が居並ぶ。その南は朝集院ちょうしゅういんと呼び、朝廷に入るまえに官人が身づくろいや時間待ちをする場所にあてられている。

朝堂院には、朝集院に入るために南壁に三門があるだけで、東西の壁には大きな門がない。その三門の中央が応天門で、東に長楽門ちょうらくもん、西に永嘉門えいかもんがある。中央の応天門は、宮城の外壁にある朱雀門とおなじ直線上に位置している。

最近は途絶えているが、外国から国賓が訪れたときは、都域の南門の羅生門らしょうもんをくぐり、道幅約七十メートルの朱雀大路すざくおおじをとおり、朱雀門を抜けて宮城に入る。朱雀門の内側も、幅七十メートル以上、長さ約二百メートルほどの広場になっていて、正面に朝堂の三門が見える。

中央の応天門を抜けて朝集院をとおり、朝廷に入ると北側に大極殿だいごくでんがそびえている。

応天門は、都の東西の中心線上にあり国力を誇示するための大切な門だ。

門といっても、幅約三十二メートル、奥行約十六メートルで瓦葺かわらぶきの二階建。左右に棲鳳せいほう翔鸞しょうらんとよぶ二階建ての楼をそなえる巨大な建造物だ。

去年と今年は正月の朝賀ちょうががなく、東大寺の僧が最勝王経さいしょうおうきょう大極殿だいごくでんで講じただけだから、清和せいわ天皇が元服した一昨年の雪の正月の朝賀から、朝堂ちょうどう応天門おうてんもんも正式には使われていない。

日常の清掃が行き届いているとはいえず、十数年まえになるが、男女いずれかさえ判別ができない白骨死体があるのを、修理に入った技人てひとがみつけている。

さらに東西の真ん中に建っているから、左右の衛門府えもんふが一緒に警備しているせいで責任も曖昧になっている。

官庁が閉まった夜の宮城が、完全に密閉されているかというと、そうでもない。

朱雀門をはじめ、大内裏の門を守る衛士えじは日給が二十文しかでないので、いつも金に困っていて少し握らせれば通してくれる。門が閉じられてから宮城に入りたい人は結構いて、庶民も外の畑から家に帰るときに、宮城をぐるっと回るより近道だから通り抜けに使っていた。


それでも桜が散りはじめる季節の深夜、応天門のそばには火の気はない。空気は乾燥していたが、応天門だけでなく東西に造られた二つの楼まで、きれいに燃えてしまったのだから、通りすがりの人が捨てた松明やいまつが火元の失火とは考えられない。炎上直後から、左大臣の源まことの家人が放火したという噂が広がった。

応天門炎上のつぎの日に、「伴大納言ばんだいなごんさま」と呼びとめられて善男は立ち止まった。大枝音人おおえもおとんど)と菅原是善《すがわらのこれよしが寄ってくる。貞観格式じょうがんかくしき(法律)選定委員会の仲間で、日本で最高の知識人たちだ。

「くれぐれも慎重に行動なさってください」と是善。

「さきに手をあげると急所をさらすことになります。大納言さまは、この国に必要な方です。ご自分を大切にしてください」と音人。

まえにも、おなじようなことを、誰かにいわれたような気がする。

「左大臣さまの家人が放火したというのは、ただの噂です。庶民はいまのまつりごとに不満をもっていますから、色々なことをいうでしょう」と是善。

「それだけならよいのですが、この噂は仕組まれて流されたのかも知れません。それなら相手は策を講じておりましょう。ご用心ください」と音人。善男は眼を細めて、うなずいた。それは、あるかも…。


まことの手のものが放火したという噂は、たしかに都合がよすぎる。

正月に出された集合禁止令と禁酒令は、太政大臣の良房からの苦情がもとで清和天皇が発令したものだ。これで源信を追いつめられるとみて、善男は反対しなかった。

正月の叙位で、紀氏や伴氏は地方へ赴任することが多い。あちらこちらで送別会を開くが、集合禁止令のほうは事前に許可さえとれば問題はない。禁酒令は特例が病気のときと、神にささげるときになっていて、そのほかは認められない。

左大臣の源信は十代から父の嵯峨の帝の宴にでて、五十六歳になる今日まで酒を飲みつづけている。四十年も酒びたりの男に禁酒ができるとは思えない。飲酒を告発できれば、病気の治療だと辞表をだすだろう。大臣の辞表は受けとらないが、病気で辞表を出したら、二度と政治に口を挟むことができなくなるだろう。その程度に考えていた。

まさか応天門が燃えるとは思ってもいなかった。伴氏にとって応天門は思い入れのある門だ。奈良の都では、朝廷の南門は大伴門と佐伯門と呼ばれていた。伴氏や同族の佐伯氏は門氏族もんしぞくといって、門を建てる費用も彼らが負担した。

桓武天皇が造った平安京では門氏族を使わなかったが、応天門がある南の門は大伴氏がけ負ったところだ。

だから善男は、応天門の炎上は自分に対する嫌がらせだと思い、源信の家人が放火したという噂を信じかけていた。しかし源氏が放火したのなら、そんな噂を流すわけがない。これほど源氏放火の噂が高いということは、操作しているものがいる。

善男の背中がゾクリとする。



こちらは、惟喬これたか親王の邸。

「放火と認めるなと言われましたのか?」と惟喬親王が聞きかえす。

「はい」と、いちど自邸にかえって、夜半になってから訪ねてきた右馬頭うまのかみ業平なりひらが答える。

「放火でなければ、失火ですか。応天門のまわりに火の気はありません。それに下層階は、燃えづらい土塀と太い柱と厚い扉と石畳でできています。

どういう失火で、兵部省ひょうぶしょう弾正台だんじょうだい宿直しゅくちょくが煙の匂いに気がついたときに、すでに火の手が下層階と上層階の全面と、東西の楼にまで回るのでしょう」と惟喬親王。

「じゃあ、失火も認めなければよいでしょう」と業平。

「え…」

「親王。政治の世界で生き抜くこつは、問題をさけて静かにしていることです」と業平。

弾正台だんじょうだいが、放火も失火も認めずにすむと思いますか」と惟喬。

惟喬親王は弾正伊だんじょういんだ。応天門炎上の原因を調べなければならない。

「えーっと、どなたでしたっけ。新しい弾正台の大弼だいすけ?」と業平が、手にした扇の先を有常ありつねにむける。

大弼だいすけは弾正台の次官で、これまでは惟喬の父の文徳天皇の学士だった菅原是善すがわらのこれよしがつとめていたが、正月の人事異動で変わったばかりだ。

「藤原冬緒ふゆおどのです」と業平と連れだって来ている、刑部権大輔ぎょうぶのだいすけの紀有常。

「どのような方ですか」と業平。

廷臣ていしんの心得ぐらいは、お持ちでしょうな」と有常。

「それじゃ、すべてを大弼にお任せなさい。ほかに何人か人のいるところで、わたしは若く、なにごとも不慣れですので、お任せしますということです。

弾正台の報告は藤原なにがしどのが上手にまとめられましょう。

親王は、なにも分からずに、丸ごとお任せの立場にいましょう」と業平。

「冬緒どのも明言は避けられましょうな。

放火と決めたところで、火をつけている人を見とがめて捕えたわけではありませんから」と有常。

「わたしは、口だしするなというのですね」と惟喬。

「はい。黙っておいでなさい。とても、きな臭いでしょう」と業平。

「燃えてしまいましたからねえ」と有常。

「こういうときは目立ってはなりません。

すべてが過ぎるまで私情を捨てて、ひたすら無責任に人任せになさるべきです」と業平。

「それがまつりごとごとに携わるものの心得なら、わたしは帝でなくてよかったと思ってしまいます」と惟喬。

「そうです。幸いなことに親王は帝ではありません」と業平。

「父の帝のお気持ちを考えますと、なんと、ふがいない子だと、この身が情けなくなります。父の帝が、さぞ嘆かれるておられるでしょう」と惟喬。

「帝でなく、ただの父親であられたら、子の幸せだけを願われたでしょうよ。

嘆かれるどころか喜ばれます」と業平。

「どうして、そんなことが言えるのです」と惟喬。

「正しく生きることは立派です。そのためには、まず生きていなければなりません。いまの政治に不満を抱くものに担ぎ上げられて、政争にまきこまれても正しいことはできませんよ」と有常。

「そんなつもりはありませんが、馬のジイや紀のジイは卑怯者ひきょうものすすめをしている気がするけど…」と惟喬。

「身近にいる人の幸せを守れば、大きなことをしなくても、みんなの幸せに繋がるはずです」と業平。

「生きて、自分の手の届く範囲で、正しいと思うことをなさればよいのです」と有常。

「職務がありますので、わたしたちは伺えないことがあるかもしれませんが、亡くなった兄の仲平が、木挽きを連れてお邸に詰めてくれるそうです」と業平。

惟喬親王の顔が明るくなった。

業平と有常にとって、惟喬親王は出世のための道具ではなく、産まれたときからいとおしみ成長を見守ってきた大切な子だった。



善男は私情にとらわれて判断力が鈍っていた。二年ごしになる左大臣の源信との確執。信の手のものが放火したと、日に日に大きく広がる噂。応天門の再建には莫大ばくだいな国費が掛かるという見通し。明日の米にも困る庶民のために、備蓄米をためられない。仁明天皇の民への思いが実らないことへの怒り。

感情的になる要素はまだある。伴大納言なんだいなごんは五十五歳。

なにかをする年齢としては最後のほうだった。しかも、このときの近衛府このえふは、民政を重んじて善男と志を一つにしている右大臣の藤原良相がしている。源信に、負けるわけがない。

だが善男は、目先にとらわれて大変な人を見逃してしまった。

太政大臣は未成年の天皇の補佐をするが、天皇が成人すれば政治に関わることができない名誉職だ。だから善男の頭には、良房は存在しなかった。



放火犯もつかまえられず目撃者もいなかったが、左大臣の源信が応天門に放火したという噂が高いので、伴大納言は事情を聴くべきだと主張した。ずっと信は登庁していないから、太政官の最高位は右大臣の藤原良相よしみだ。

左右近衛に緊急命令が下ったのは、応天門が燃えて三日後の閏三月十四日だった。

近衛兵は、左大臣の源信の邸をとり囲んだ。

左近衛大将さこのえのたいじょうの藤原良相(よしみ)のところに、左近衛中将で中納言の藤原基経もとつねがやって来たのは、信の邸を取り囲んだときだった。

「右大臣さま。このたびの出動を、太政大臣さまはごぞんじでしょうか」と基経が聞く。

「太政大臣は政務にかかわる方でありませんので、報告の必要はありません」と良相の嫡男の常行つねゆきが答える。  

「しかし、現職の左大臣さまへの嫌疑という重大事です」と基経。

「登庁をうながしても、書面を送っても、左大臣さまからは応答がありません。

これほど放火のうわさが高くなりましては、このままにしておくと世情が不安になります」と常行。

「わたしが太政大臣さまに、お知らせいたしますまで、どうぞ源信さまへの執行をお待ちいただきたい」と基経もゆずらない。

左大臣の邸を右大臣が囲んで、連行して事情徴収しようという大事だ。これまで良房は、良相に政務を一任して口を出さなかったから「分かった」と良相は了承した。



東一条第で基経の報告をきいた良房は、家令かれいを呼んだ。

参内さんだいする。女子の唐衣からごろもを着て女輿おんなごしで行く。当座の暮らしにいるものを揃えて、従者に持たせるように」

「は」と家令がさがる。

「ジュツ」と良房。

几帳きちょうの影から、ジュツと呼ばれる側番舎人そばばんとねりが気配もさせずに出てきた。

基経は、叔父の良房よしふさ猶子ゆうしだからこそ、中納言まで出世できた。だが良房と共に暮らしたことはない。猶子になったときから、九条にある邸を与えられて住んでいる。

だから良房の私用人は少ししか分からないが、側番舎人とよぶ静かな男たちがいるのは知っている。かれらは干支えとの名で呼ばれていて、ときどき顔ぶれが変わる。口元に傷があるジュツという男は古株の方だ。

「ジュツ」

もう一度名をよんで、なぜか良房は基経のほうを向いて言いつけた。

「屋根を修理させた者どもを、閑院かんいんの小屋の一つに寝泊まりさせている。いいか。その者たちの仕事は終わった。例のものを与えてるようにと、シに伝えてくれ」

ジュツの体に緊張が走るのを基経は目にした。その基経をながめて、基経に話すように良房が続ける。

「分かっているな。ジュツ。薬草園でつくっている茶色の小瓶に入っている例の水薬を、気づかれないように修理のものたちに飲ませるように、シに伝えて欲しい」

舎人たちに唐衣をもたせた家令がきて、良房の冠を外して唐衣を頭から掛けた。良房は醜悪な女装になった。

「基経」と良房。

「はい」

「参ろう」


良房が女装して内裏にむかったのは、違法だからだ。法令によって太政大臣だじょうだいじんは成人した天皇の政治に口出しができない。いまの太政大臣は飾り物で、右大臣うだいじん左大臣さだいじんの邸を取りかこんでいる緊急事に参内する理由がない。

女輿で内裏に入った良房は、清涼殿せいりょうでん清和せいわ天皇に会った。

「急を要することですので参内いたしました。帝。帝が左大臣を捕縛ほばくするように命じられましたのか」と良房。

「捕縛ではない。応天門の炎上のことで左大臣に色々の噂がある。

それについて訊ねたいことがあるが、左大臣は参内もせず質疑書しつぎしょにも応答していない。参内をうながすために迎えにゆくと報告をうけている」と清和天皇。

「どのように答えられました」

「わかったと、答えた」

清和天皇は二年まえまで、この外祖父の良房に政務をまかせていた。ずっと良房や太政官たちの言うとおりにしてきたから、おなじことをしただけだ。

「左大臣の邸をとりかこむと聞いておられますか」と良房。

「……」

近衛このえを動員することを了承されましたか」と良房。

「細かいことは忘れた」と清和天皇。

「近衛兵を使って、左大臣の邸を囲むと聞いておられないということですか」と良房。

広廂ひろひさしに坐ってひかえている基経からは、清和天皇の顔はみえない。

きっと不快な表情を浮かべているだろう。十六歳は語彙ごいが少なく抗弁こうべんもうまくないが、大人より的確に物事を見抜く目があるはずだ。

良房のように言葉尻をとらえて、ゆったりと、たたみかけるやりかたは、おもしろくないだろう。

清和天皇は答えない。太政大臣は政治に関与しないはずだとも、参内しない左大臣の態度はおかしいともいわなかった。

「帝。左大臣の邸を近衛の兵で包囲すると、はっきり説明されて了解されましたか」と良房が、おなじことを質した。

許しもなく右大臣の良相が近衛兵を動かしたという答えをえるまでは、良房はおなじ質問を繰かえすつもりだろう。

まだ自信のない清和天皇は、祖父の良房に押さえ込まれてしまうだろう。


広廂しに座っている基経もとつねは、良房の声を聞きながら考えていた。

基経は、応天門が燃えた翌朝に、良房に東三条第に呼ばれた。

「源信が放火したいうと噂を広げろ。それに伴善男が食いついて良相が動いたら、豪族系の官人と源氏を押さえられる」と良房が言った。

右大臣が左大臣を追いつめれば、少年天皇の手に余る事態になる。

それをきっかけに、自分が政界に返り咲くつもりかと思ったが、基経は黙って従った。良房の後継者になれるチャンスだからだ。 

それから先は、基経も加わって左大臣の源信の放火説を広めた。

放火直後に立った噂だったから、あっというまに広がって、応天門の放火犯は左大臣の源信だと、だれもがささやきはじめた。

そして伴善男が、信に事情を確かめようと言いだした。源信と反目したことがある右大臣の良相は、善男の告発を受けた。

基経は、そのあいだの善男たちの動きを見張って良房に報告し、近衛が信の邸をとり囲んだのをたしかめて、内裏に近い東一条第に移っていた良房に知らせた。


だか今日までは、応天門の炎上は源氏の仕業だろうと基経も思っていた。

源信と伴善男は対立している。源信なら国の建造物を焼くというバカな行動をとるかもしれない。だから応天門が焼けてすぐに、源信が焼いたという噂が自然に立った。それに油を注いで広げたのは、良房に命じられた基経だ。

でもいまは、応天門を焼いたのが源信だと思えなくなった。

さっきの側番舎人そばばんとねりへの良房の指示は、基経に聞かせるためのものだ。

屋根の修理に集めたものは仕事が終わった。薬草園で作っている例のもの、茶色の小瓶に入っている水薬を、気づかれないように修理のものたちに飲ませるようにと良房が言うのを、基経は確かに聞いた。

どういう意味なのか。薬なら、気づかれないように飲ませる必要はない。

屋根の修理をする者たちは身が軽い。応天門は二階の方が火の周りが早かった。

かれらの仕事は終わった・・・。まさか、彼らを使って応天門を焼いたは良房なのか。そして口封じのために瓦職人を・・・。気づかれないように飲ます水薬とは、毒のことか?

例のものと言うからには、それは使われたことがあるのだろう。

文徳天皇・・・。文徳天皇は、食後に薬湯を飲んで急死した。その薬湯を入れたわんは洗って返された。返しに来たのは古子女御こしにょうごの女房だった。

文徳天皇も、良房が殺めたのか・・・。

そういえば、文徳天皇が亡くなったあとで、良房の妹の古子女御は一品に除位されたが、その古子女御は、いまどこにいる?

なぜ基経に聞こえるように水薬の話をした。

なぜ基経が簡単に推測できる話を聞かせた?

試されていると基経は思った。ここは正念場しょうねんばだ。

用済みにならないように、毒など盛られないように気を引き締めるのだ。


「近衛を動員することを、お聞きになっていないのですね」と部屋のなかでは、良房がおなじことを繰かえしている。

「……朕は知らぬ」と、疲れた清和天皇の声がきこえた。

そのあと基経は、右大臣の良相のもとに走って、天皇の口勅こうちょくとして、左大臣の邸を取りかこむ近衛兵の撤退てったいを要求した。



良房が出かけてから、ジュツは東三条第に帰った。慌ただしく良房が東一条第に移ったときに、シは三条第に残されていた。

「どうした」と、シが聞く。

側番舎人になってから、長いあいだ一緒に働いてきた先輩だ。二人とも口数が少ないので話をすることもなかったが、夜ごと息をひそめて良房のそばに控えていた。

あいての体の筋肉が動いても感じられる近さだったから、いつの間にか、互いの考えまで汲み取れるようになっている。シはジュツを気遣って、いつも見守ってくれていた。

「なにか、頼まれたか」とシ。

「…伝えろと」とジュツ。

「わたしに、なにを」

閑院かんいんにいる…」

「ん」

「屋根の修理をした者たちに…」

「どうした。ジュツ」とシが聞いた。ジュツが震えている。

「例のものを、そっと与えよと…」とジュツ。

「……」

「茶色の小壺に入ったもの…あれは、なにでしょうか」とジュツ。

「知らない。何度か薬草園に取りにいったことはあるが、あるじさまに渡しただけだから」とシ。

「わたしも取りに行きました。そのあとで帝が…」とジュツ。 

「われらは何も知らない。言われたことをしているだけだ。よけいなことは、なにも考えるな。忘れろ」とシが立ち上がって、自分の行李こうりから銭を貯めた袋を取り出した。

「ジュツ。できるなら畿外きがいへ逃げてくれ。わたしのことは気にするなよ。ここでのことは、すべて忘れろ」とシ。

どこか安らいだ目をして、ジュツの肩を励ますように握ると、シは寝泊まりしている小屋から自分の銭袋を抱えて出て行った。


つぎの朝、東三条第の裏の畑で草むしりをしていたジュツのところに、麻井という舎人がやってきた。

「家原さん。驚かれますな」と麻井。

邸の中で使われているジュツの名は、家原芳明いえはらのよしあきという。

刈田満好かりたのみつよしどのは、あなたと一緒にお側番そばばんをしておられましたな」と麻井。

刈田満好は、邸内で使われているシの名だ。ふつうの舎人の麻井は、東三条第に長く勤めている。シやジュツとちがって親も親戚も妻も子もいて、妻子が暮らす家もある。

「昨夜、刈田どのが亡くなりました」と麻井。

「‥…」

「屋根の補修工事のための職人が、閑院かんいんで寝泊まりしていたそうです。刈田どのは、かれらをねぎらうために雑炊ぞうすいを用意された。

おそらく、まちがって毒のある葉物でも混じっていたのでしょうな。食当たりです。まじめな方でしたので残念です」と麻井。

ジュツは、足もとに目をやった。

「刈田どのは身寄りのない方で、妻帯さいたいもなさいませんでした。

お邸で従者のいみごとはできませんが、子供のころから勤めておられましたから、今夜、清水坂きょみずざかにある小堂で、わたしたちが簡単に見送ろうとと思います。いらしてください」と麻井。 

「あの、亡くなったのは…」とジュツが聞いた。

「刈田どのだけです。職人たちは、刈田どのが苦しまれていると告げにきたあと、怖くなったのか逃げたそうですよ。臨時やといだそうですから、しかたがないですがねえ」と麻井。

足もとにアリが行列している。体よりも大きな白いものを背負ったアリが、よろけながら歩いていく。職人たちに自分の貯えを与えて逃がしたのはシだ。ジュツは、アリの行列をいつまでも眺めていた。



放火犯の噂が高い左大臣の源信と、近衛兵をつれて源信の邸を包囲した右大臣の藤原良相のもとへ、天皇の勅使ちょくしがたてられた。

双方のいい分を聞き、双方の納得のいくように処理するためだ。

清和天皇の名をかりて、良房によって選ばれた勅使は、参議で右大弁うだいべん大枝音人おおえのおとんどと、左中弁さちゅうべんの藤原家宗いえむねらだった。



季節は、一月二月三月が春。四月五月六月が夏。七月八月九月が秋。十月十一月十二月が冬と呼ばれる。時間は干支えとの名で十二に分けられている。一区切りを一刻という。一刻は、だいたい二時間だが、日の出と日の入りを基準にして分けるので季節によって少しちがう。

いまは夏の盛りの五月の末。応天門おうてんもんが炎上して二か月半がたっている。


右京八条四坊の一角は、いち外町そとまちとおなじじように、一町を三十二戸に分けた下級官僚用の共同住居地だ。一戸は東西十丈(約三十メートル)、南北五丈(約十五メートル)の細長い敷地で、百三十六坪(約四百五十平方メートル)の広さがあるから、居住用の掘立小屋だけではなく畑が耕されて、ニワトリ小屋や道具小屋などもある。

外壁がまわる一町の内の三十二戸は、垣根などで区切っているだけで、小屋はうすい板張りなので、暮らしのようすが隣近所につつぬけだ。

その一戸に京識きょうしきの役人がやって来たので、年寄りや女子供が遠巻きにあつまって見物している。

「ですから、見学だけさせてください」と役人に頼み込んでいる男がいる。

着ているもので六位ぐらいの三十前後の男だ。

ここに住む人は七位や八位の下級官人で、勤務状態がよく能力を認められても正六位上が出世の限界で、五位以上にはなれない。役人に交渉している男は、六位を初位(最初の位)として五位以上の貴族になる人らしい。

おなじ六位でも、そこをスタートにする人と、ゴールにする人では見かけも違う。スタートにする人は、まず歳が若く、着物の布が上質で新しく、面立ちも整っていて、おっとりした物腰をしている。

「部外者は、立ち入り禁止です」と役人。

「あの友人に、世の中を案内しています。おねがいします」と若い男。

数男かずおさま。ご友人は、いまさら世の中を案内しなければならないような方なのですか」と役人。

「いえ。言葉をまちがえました。都を案内しています」と数男と呼ばれた男。

「都を案内するなら、市にでも、お連れになったらどうですか。あれ、あれ。あんなところに座りこんで念仏を唱えようとしています。数男さま。ご友人を早く外に連れだしてください。ズウーッと離れて見ているだけ。いいですね」と役人。

京識の役人は、きげんが悪い。応天門が焼けてから忙しくて、ろくに休みをもらっていない。

そんなところに備中国びっちゅうのくに(広島県)の権史生ごんのしせい(副書記)の大宅鷹取おおやけのたかとりが、娘が殺されたと言ってきた。

「ジャマにならないように、向こうにいてください」と役人にしかられた数男は、経を唱えはじめたのぼるの手を引っぱって、見物人があつまっているところに退いた。

数男かずおどの。殺されたのは、まだ若い娘さんだというではありませんか」とのぼるがいう。

「ええ。たしか十四歳とか」と数男。

「気の毒に。ご遺体は、まだあるのでしょうか。せめて経だけでも唱えさせていただきたいと、もう一度、たのんでもらえませんか」と登。この男も三十前後で、鼻筋の通った生まれの良さそうな顔立ちをしている。

「いいから、なにもしないで大人しくここにいてください。父が京識きょうしきにいるだけで、わたしが勤めているわけではありませんから、これ以上は無理です。ムリ! 分かりますか」と数男。

「はじめから、遺体はありませんよ」と、そばで見物していた色の黒い中年の女が教えてくれた。

「遺体がない?」と登。

「ええ。鷹取さんは娘を殺されたとさわいでいますが、なぜ、いまになって騒ぐのか分かりません。このところ、おモトちゃんの姿を見ていませんからねえ」

「亡くなったのは、おモトちゃんという娘さんですか」と数男。

「あの鷹取の娘にしておくのが可哀想なぐらい、大人しい娘でしたがね。しばらく見かけていませんなあ。てっきり売られたのかと思っていましたがね」と、年をとった男が話に加わった。

「娘を売るって、自分の娘を売るのですか」と登。

「鷹取は、たちのよくない男でしてね。親も娘も売りかねないような奴ですから。

だいたい備中びっちゅうの権史生だと言いふらしているが、なら、どうして都にいるのか分からない」と年より。

「ほら。おモトちゃんは、二町先の町内の生江恒山いくえのつねやまの息子の、えーっと、ヨッちゃんといったっけか、あの子と仲がよかったろう。

それを鷹取が嫌って、ヨッちゃんを袋叩きにしたことが、あっただろう」と女。

「あった。あった。あの子は善信よしのぶって名だが、片足が折れて、いまでも引きずっているよ。

十五やそこいらの子供を、大人が寄ってたかって殴らなくともいいものを…なあ」と血色のよくない中年男の野次馬も加わった。

体調を崩して散位寮さんいりょうに臨時の仕事を探しにも行けずに、家にいるのだろう。

「おモトちゃんを見なくなったのも、あのころからだねえ」と中年の女。

「それって、いつのことです」と登が聞く。

「ンーっと、鷹取のところに、あの日下部くさかべという男が住みはじめたころですかな」と老人。

「こんどは、日下部ですか。それ、だれです」と登。

「そう、そう。鷹取のような奴のところに間借りをして、けっこう仲よくやっているから、ふしぎに思ったのを覚えていますよ」と顔色の悪い男。

「だからですね。それはだれで、いつのことです」と登。

「なにが?」と、みんなが登を見た。

「いいですか。たった今、大宅鷹取おおやけのたかとりさんが、娘のおモトちゃんが殺されたと訴えて、京識の役人が来ています。分かりますね。

でも、みなさんがおっしゃっているのは、こうです。

二町先の生江常山いくえのつねやまさんの息子のヨッちゃんと、おモトちゃんは仲が良かった。幼なじみでしょうか。それとも初恋でしょうか。それが気に入らない鷹取さんが、ヨッちゃんを襲って怪我をさせた。そのころから、おモトちゃんの姿は見ていない。鷹取さんの家には間借り人が住みはじめた。

そうですね。まちがいないですね。いいですか。

じゃあ、これは、いつのことですか。みんな、おなじころに起こったのですか」と登。

「そういえば、そうだ。みなおなじころ、火事のチョット前に起こった。

日下部くさかべが住みこんだのが、いっとう先で、それから生江常山いくえのつねやまの息子がおそわれた。そうか。もしかしたら、常山の息子をおそうのに、日下部が手をかしたかもしれませんねえ」と顔色の良くない男。

「応天門の火事の前というと、もう三ヶ月も、まえのことですよね。

みなさんは、おモトちゃんの姿を、そのころから見かけていないのですね」と登。

「ああ。見てないよ」「おなじ町内にくらしていれば、姿ぐらいは目につきますよ」「顔を合わせれば、挨拶ぐらいはしますからね」

「大宅鷹取さんは、備中の権史生だとおっしゃいましたね。生江常山さんは、なにをしている人ですか」と登。

伴大納言ばんだいなごんさまの、ご子息の従者をしていなさる」と老人。

「それじゃ、息子さんがおそわれて怪我をしたときに、届をだしていますよね」と登。

「いや。いや。えーっと、日下部くさかべが、たしか、あの男は太政大臣だじょうだいじんさまの奉公人とかで、それも太政大臣さまに直接仕えているとホラを吹くもので。もし、それが本当なら面倒だからと泣き寝入りしたとか。

えー。ところで見かけない顔だが、あなたは、どちらさまで」と顔色が悪い男が聞いた。

「わたしは……」と名乗ろうとした登を引っ張って、数男かずおが答えた。

「京識の紀今守きのいまもりの息子で、紀数男きのかずおと申します。

この人は、遠いトオーイ縁戚で、都のことを知りませんので案内しているところでして…。どうも、おじゃまいたしましたッ!」


「でね」とのぼる

六月に入ったばかりの昼下がり。暑いから、業平なりひら直衣のうしの片袖を脱いでいる。その姿が色っぽい。

「息子を襲われた生江恒山と、娘を殺されたという大宅鷹取は、いがみ合っていたらしいのです。鷹取たかとりは、恒山つねやまが娘を殺したといっているのですが、遺体がないので京識きょうしきは取りあげないのですって」と登。

「そうですか」と業平。

「よけいなことに、首を突っこむのじゃありませんよ。あっちこっち嗅ぎまわると、ろくなことになりません。わたしは、それでしくじりました」と妙信みょうしん尼。

「後宮から下げられたのは、そういうわけですか」と業平。

訪ねてきた登をつれて、妙信は隣の業平の邸でヒマつぶしをしている。登の父は、仁明にんみょう天皇。母は更衣こうい三国みくにまち。つまり妙信尼の息子だ。

最初の名は、常康親王つねやすしんのうという。

母の過失で宮中を出されて、紫野むらさきのにあった邸を雲林寺うんりんじという寺にして出家して、深寂しんじゃくと名乗った。

そのあと還俗げんぞくしてしまったが、それを知った仁明天皇の皇子の、時康ときやす親王、元康もとやす親王、源まさる、源すずし、源ひかるらの異母兄弟が「どうぞ官吏にしてほしいと」奏上して、貞という新姓と正六位上の位階をもらった。

「でも、母上」と登。

「登さん。あなたは貞朝臣登さだのあそんのぼるという官吏なのです。

よけいなことに首をつっこまないで、まじめに勤めてください」と妙信。

「ン……」

「登さま。たとえ会うことができなくても、遠くから見守るだけでも、ほどほどの暮らしで、つつがなく健康に、日々を楽しく過ごしてくれることだけを親は子に願っています。妙信さんを心配させてはいけませんよ」と業平。

「あら、在五さま。いつになく父性的ですね。なにか、ございましたの?」と妙信。

「いいえ。ちょっと、疲れが…」

馬寮めりょうが忙しかったのは、近衛が出動したときだけでしょう。今年は端午たんごの祭りも取り止めですし…」と妙信。

「いいなあ。馬ですか。わたしは、お坊さんをしてましたから騎乗できません」と登。

「よければ、うちの舎人と馬で練習なさったら?」と業平。

「いまからでも、おねがいできます?」と登。

「サンセイ。頼む」と業平が声をかける。

「登さま。こちらにおいでください」とサンセイが招く。

「あの子。やってゆけましょうか。今は、なんでも物珍しくて張り切っていますが、厭世的えんせいてきなところもありましてね。仁明天皇の蔵人頭くろうどのかみをなさっていた良岑宗貞よしみねのむねさださま、僧となられた遍照へんじょうさんが気にかけてくださっているのですが…」と登を目で追って、妙信が溜息をついた。

「妙信さん。だいじょうぶだと思いましょうよ。子を信じることと、子のために祈ることしか、親にはできません」と業平が言った。



応天門の炎上のあとで、左大臣の源まことと、信の邸を取りかこんだ右大臣の藤原良相よしみ双方そうほうを、上手く収めたのは大枝音人おおえのおとんどだった。

清和せいわ天皇に報告するために、音人が内裏の清涼殿せいりょうでん広廂ひろびさしにひかえたのは、四月になってからだ。邸の門を閉じた源信が、自分の家人や馬を差しだしたり、それは受け取れないと信のもとに戻したりしていたので、時がかかった。

御簾みすごしに、清和天皇の影が見える。

「左大臣さま、右大臣さまともに、ご納得あらせられました」と音人。

「わかった」と清和天皇。

御簾のなかから香の香りがただよってくる。

それぞれ好みの香りを混ぜて、特別な香りをつくり着る物に炊きこむ。体温や体臭によっても匂いは変わるから一人一人が特別な香りをもっていて、それだけで相手を判別できる。

音人は、若い清和天皇とはちがう香りを利き別けた。

老いを隠す濃厚で高価な香りだ。太政大臣が清涼殿せいりょうでんのなかにいる。応天門の炎上事件は終わったのではなく、まさに渦中なのだと音人は察した。


五月六月と各地から飢饉きがの報がよせられて都の餓死者もふえたから、音人は忙しかった。六月になって、ようやく応天門を再建するために木材を発注した。

高階岑緒たかしなのみねおから「久しくお目にかかっておりませんが、たまには、お顔をみせてください」と手紙をもらったのは六月の末だった。

高階岑緒は、音人が左小弁だったころの左中弁。直接の上司だった。文徳天皇と静子更衣のあいだに生まれた恬子やすこ内親王が、伊勢斎宮として都を出立したときに、伊勢権守いせのごんのかみとして一緒に伊勢に赴任して、一年と少しまえに職務を終えて都にもどっている。

音人が多忙なのは承知しているだろうし、それを斟酌しんしゃくせずに誘いをかけるような人柄ではない。暇はなかったが、少し気になることがあったので、音人は岑緒の誘いに応じた。

気になることというのは、病が流行っているから伊勢斎宮が六月の祭りを欠席するという報告を、五月に弁官局べんかんきょくが受けとっていたからだ。

調べてみたが、今のところ伊勢に病は流行っていない。それを一か月もまえに、大事な催事さいじへの欠席の理由にするのは奇妙だ。

長いあいだ伊勢権守だった岑緒なら、なにか知っているかもしれないと音人は思った。


「ご無沙汰しております」元の上司だが、いまの音人おとんど参議さんぎ右大弁うだいべん。岑緒の位階を超えている。

「お忙しいでしょう」と高階岑緒たかしなのみねお

「なにかと」

「わざわざ、お招きしても酒もだせません。手間取ってはなりませんので用件だけをお伝えします」と岑緒。

「お察し、ありがとうございます」と音人。

「わたしに孫ができました」と岑緒。

「はい」

「息子の茂範しげのりの子といたします」

「?」 …子といたしますとは、どういう意味だ? と音人が岑緒の目を見た。

「多くの気をうけた場所で生まれただけあって、元気な男子です。母子ともにすこやかですので、あとのことは、すべて当家とうけにお任せください。

今後、いっさい、お関わりになりませんよう」と岑緒。

当家に任せろ。いっさい関わるな。弁官だった岑緒が、言葉使いを間違えるはずがない。多くの気を受けた場所。多くの気があつまるという多気たきは伊勢斎宮のある場所だ。伊勢斎宮は別名多気たき、あるいはたけの宮とよぶ。

応天門が炎上したから世間の目がそれたが、静子が亡くなった直後に広がった業平の歌は・・・。あの歌で呼びかけた禁断きんだんの恋の相手は? 動揺したことのない音人が片手をついた。まさか…?

夢かうつつか、寝てか覚めてかも覚えていないのに、子が生まれたァ~ッ!

業平が伊勢に行ったときから数えると、あの歌が流れたのは妊娠が分かったころだ。夢うつつとは 世人さだめよといい切ったのは、ことが露顕ろけんしたときに、相手は自分だと責任を負うつもりで詠んだのか。

「岑緒さま。気つけ薬をいただきたい!」と音人。

「わたしも気つけ薬をご相伴しょうばんしましょう。命の誕生を寿ことほいでやってください」と、人払いをしていた岑緒が手元の鈴を鳴らした。

「人は想定外のことは、ふれずにすまそうとします。しかし良くできていますな。

夢かうつつか。寝てか覚めてか。あのことばが、この世のことか、あの世のことか、わけもさだかではない方向に人の心を導いて、何もなかったと、のちの世に伝えてゆくでしょう」と岑緒。

このとき生まれた子は高階師尚もろひさといい、のちに高階家を継いでゆく。高階師尚の子孫は、後白河法皇ごしらかわほうおうの世で「建久の変」をあやつった丹後たんごの局。足利尊氏あいはがたかうじのときの高師直こうのもろなおなど、多彩な人材を歴史のなかに生みだしていく。



東のいち外町そとまちにあるこまの小屋の中で、狛の息子のごうがジュツに聞いた。

「これは、おまえさんの全財産じゃないのかい。病気ともみえないが、どうして、これを、いまアチャに渡す必要があるのだい。なにが、あったか」

「……」

「多少のことなら手をかせる。話しちゃくれないかい」と狛。

ジュツが、阿茶のもとに銭袋ぜにぶくろを運んできた。

律令が施行されてから、国は銭を使うことを奨励しょうれいしてきた。良房は、使用人にたいしての銭払いはよい。雑色のころはタダ働きだったが、側番として身近に仕えるようになってから、ジュツも銭をもらっている。茶茶に会いに来るとき以外に使うこともなかったから、銭の真ん中の穴に、よった麻紐を通した銭差ぜにさししが、かなり貯まっている。

「アチャと蝉丸せみまるは、山崎の遊郭ゆうかくのなかにある双砥妓芸所そうとぎげいじょへ移そうと話し合っていたところだ」とごう

ジュツが、不安そうな目をする。

「もう亡くなってしまったが、わしの古馴染ふるなじみみの婆さんたちが、妓女ぎじょに音曲を教えていた場所だ。

アチャも若いになら琵琶びわを教えられるだろう。

蝉丸のためにも、それがよかろうと思ってな。

おまえさんも一緒に行ったらどうだい。仕事はみつけてやれる」と狛。

「一緒に行こうよ。父ちゃん」と蝉丸が言った。ジュツの顔がゆるむ。

「すまない。父ちゃんは、ご用がある。いつか、蝉になって会いにいく。父ちゃん、来たぞと聞こえるように、うるさく鳴く。毎年、毎年、会いにいく。約束だ。蝉丸」とジュツ。

「おまえさん! いったい、どうしたんだい?」と阿茶。

ジュツは、阿茶と蝉丸を交互に見て立ちあがると二人に深々と頭を下げて、狛の小屋を出た。来るときに担いできた銭の入った麻袋が重かったので、帰り道は足が軽い。阿茶のもとに置いてきたのは銭ではなく、家原芳明でもジュツでもない、名の分からない本当の自分だった。

銭を使うことは奨励されたが、新銭がでると旧銭の価値が下がるような不安定なもので、このあと銭経済はすたれていく。



八月まで日照りがつづいたから、米の生育を心配して朝廷は雨乞いを熱心にやった。応天門は焼失したが五か月もまえのことなので、ふつうの日常がもどっている。

ところが八月三日。備中国びっちゅうのくに(岡山県西部)の権史生ごんのししょう大宅鷹取おおやけのたかとりが、伴大納言と、その息子で右衛門佐うえもんのすけ伴中庸とものなかつねが、応天門に放火したと告訴した。

どうじに鷹取は、娘が伴大納言の息子の従者の、生江恒山いくえのつねやまに殺されたと訴えた。

伴家の従者の殺人罪と、伴大納言親子の放火罪の二重の告訴だ。

鷹取は大初位下。最下位だが官人なので、正式に告訴してくれば取りあげない訳には行かない。まず告訴人として、鷹取を左検非違使さけびいしの獄に捕えた。告訴人は囚われるきまりで、それだけの覚悟と結果への自信がないと告訴はしない。


放火事件は、八月七日から勘解由使局かげゆしきょくで、参議で勘解由使局の長官の南淵魚名みなみぶちのうおなと、参議で右衛門督うえもんのかみ藤原良縄ふじわらのよしなわによって、伴大納言ばんだいなごんへの事情聴衆がはじめられた。

勘解由かげゆというのは、国司が異動するときに前任者から後任者にする申し送りを監察するところだが、長官の南淵魚名が左大弁をかねていた。

大事件のばあいや被疑者が高官のときは、弁官局で左大弁と右大弁が事情聴衆をするのがふつうだが、右大弁の大枝音人が外されて、最初から右衛門督の藤原良縄が加わった。放火事件と殺人事件は別件で、殺人事件についての取調べは、このときはしていない。


伴善男は、告訴人の大宅鷹取が備中権史生にっちゅうごんのししょうだと知って、さきに源つとむ備中守びっちゅうのかみをしていたから、これは源氏が仕組んだ意趣返いしゅがえしだと思った。

源氏ならば見え透いた謀略ぼうりゃくだろう。まず伴家と関わりのない大宅鷹取が、どうして善男が放火したと立証できるのか。ほんとうに放火はしていないし、もしも、そんな大罪を犯したのなら、会ったことのない大初位下の微官びかんに犯罪をもらすはずがない。

善男のいい分は事実だったので筋が通っていて説得力があり、伴大納言は放火に関与していないと南淵魚名みなみぶちのうおならが結論を出そうとしたのが、八月の半ばだった。

善男と主義や政治理念を共有する右大臣の良相よしみをはじめ、太政官たちも善男の無罪を認めていた。

ところが八月十九日になって、「天下のまつりごとは、太政大臣だじょうだいじんる」と、十六歳の清和せいわ天皇がみことのりを出してしまう。これで引退したはずの太政大臣の良房よしふさが、政治の全権を握って返り咲いた。

そのあと八月末になってから、殺人事件で左衛門府さえもんふに監禁されたまま放置されていた、生江恒山いくえのつねやまへの拷問がはじまった。生江恒山は、伴大納言の息子の伴中庸とものなかつねの従者なので、このときに中庸も左衛門府に拘禁こうきんされた。

さらに生江恒山の友人で、伴家に従僕として仕えている伴清繩きよただをとらえて拷問する。

取調べ官の藤原良縄よしなわから事情を聴いた善男は、冤罪えんざいを仕組んだのが良房だと知ると、いっさいの抗弁こうべんをやめて口をつぐんでしまった。

生江恒山いくえのつねやまは位階をもたない低い身分で、殺人で告訴されている。自供を得るための拷問は、容疑者が死んでもよいから過酷かこくをきわめる。容疑を認めれば、死刑の判決でも罪一等つみいっとうを減じられて遠流おんるの刑ですむ。

つまり、なんでもかんでも「はい。そうです。やりました」と認めれば、地方で生きていられるが、認めなかったら寄ってたかってじょうで殴り殺される。

殺されてもかばいたい人がいるか、強い信念がないかぎり、自供したほうが楽だから生江恒山と伴清繩は、伴善男の息子の伴中庸が放火を命じたと自供してしまう。

別件の殺人罪で捕えられた伴家の従者が放火を認めて、主人に命じられたと自供したから、これは証拠となる。かれらは中庸の従者だから、伴善男は息子の放火教唆きょうさの責任を取らされることになった。すべてねつ造された冤罪えんざいだ。


九月二十二日に、応天門の放火事件の判決を良房が下した。

伴善男とものよしお伴中庸とものなかつね、紀豊城、伴秋實、伴清繩を、応天門放火の罪で流刑にする。連座れんざの刑で、紀夏井きのなつい、伴河男、伴夏影、伴冬満、伴春道、伴高吉、紀武城、伴春範を、おなじく流刑にする。

これで豪族系官僚の有力者、とも氏と氏が粛清しゅくせいされた。

この事件で、良房の弟で右大臣の良相よしみの心は完全に折れた。

連座の罪で裁かれた紀夏井きのなついは、良相が良吏りょうりとして国の宝と認めた人だ。夏井の連座の理由は会ったこともない異母弟の紀豊城が、伴中庸と親しかったためといういいがかりだ。

伴善男とものよしおは、民政を考える頭の良い能吏のうりだった。

良吏、能吏をそろえて庶民を飢えや病気から救いたい、国を豊かにしたいと思う良相よしみの理想を、兄の良房がつぶした。

事件は複雑に見えるが、仕掛けた方には簡単な仕組みだ。

善男と息子の仲庸の邸に勤めるものは、資人を加えれば三百人に近い。

そのなかから、性悪な男とのトラブルを抱えている気の弱そうな男を選ぶだけでいい。それが大宅鷹取おおやけのたかとりとトラブっていた、生江恒山いくえのつねやまだった。あとは性悪な鷹取のそばに配下を送り込み、指示を与えて殺人と放火を告訴させ、尋問という暴力に頼っただけだ。

人の心を持たず、人を物のように配置できれば、ごく単純な構造だ。

基経もとつねは、全身にウジがたかってくるような不快感にたえた。

ここで自責じせきにかられても、疲弊ひへいするだけだ。いまは、自分が生き残ることを考えよう。基経のまわりには、へつらい人のほかは誰も寄りつかなくなった。



流刑地に罪人を送る車は、窓がない箱で換気がされない。罪人は木箱のなかに閉じこめられて、体をぶつけながら揺られつづける。生きていようが途中で死のうが、体を流刑地まで運べばよいのだから、あつかいはひどい。

伴善男とものよしおは五十五歳になる。こうぶり束帯そくたいもはがされて柿渋色かきしぶいろの囚人服を着せられている。箱がうしろに傾斜して揺れが激しかったから、逢坂山おうさかやまを登ってきたのだろう。糞尿の壺も箱の中におかれているから、悪臭と残暑の熱気がこもっている。

車が止まって、しばらくして前の板が外された。光がまぶしく、そとの空気が気持ちよい。光に目がなれたときに、善男よしおは知らない尼僧が竹筒たけづつを差しだしているのを見た。

冷えた水だ。飢えたように飲んでから、善男は尼僧に顔をむけた。

淳和院じゅんないんにつかえます、橘逸勢たちばないつなりの孫の玲心れいしんでございます」と尼僧が名乗った。

橘逸勢は、この逢坂山越えで衰弱死すいじゃくしした。玲心は葉に包んだ、やわらかい餅を差しだした。

「道中に、少しずつ含んでください」

衣冠束帯いかんそくたいをつけた男と上臈じょうろうと、地下人じげにんの姿をした男たちが見えた。善男の眼のさきを振り返って玲心が言う。

在原守平ありわらのもりひらさまと室の倫子りんこさまです。倫子さまの父君は伴水上とものみなかみさまです。守平さまの横におられますのは、日置仲平ひおきのなかひらさま。もとの名は在原仲平ありわらのなかひらさまです。倫子さまのよこに膝まずいておられるのは、土師小鷹はじのおだかどの、仲平さまの横は、秦能活はたのよしかつどの。

これからの道中、山道はとくに厳しいとぞんじます。坂者さかもの流刑使るけいし饗応きょうおうするようにしてございます」と玲心。

坂者さかものは坂に生息するもの。奈良の都の奈良坂ならざかと、京の都の清水坂きよみずざかが有名だ。

坂者ができるより、ずっとまえに、ずいとう高麗こま百済くだらの国から、大王おおきみに先進技術の指導者が献上けんじょうされた。特殊な技術は力の象徴になるから、献上された技術者たちは庶民と交わることを禁じられて、技術を外にらさないように隠された。技術部民べみんとよぶ技能者たちだ。

物部氏や蘇我氏の権力者が、彼ら渡来系の技人を束ねて大王と結びつけていたが、両者がほろんだあとは、坂上氏や東漢氏や大伴氏と、束ねるものがはっきりしなくなった。

だが駅路えきろをつくる大インフラ工事が行われたときに、この技能者たちの力が必要になった。駅路という路は、山があっても湿地があっても、ひたすら真っすぐ通っている。湿地を埋め、山を切り通す技術が必要だった。

そのころから部民は秦氏はた土師はじ氏が束ねるようになったが、かれらは物部氏や蘇我氏のように天皇の近臣ではない。それでも長岡京遷都ながおかきょうせんとや、平安京遷都へいあんきょうせんとは、建築技術をもつ技術部民がいなくては出来なかった。

ふだん部民は境界の外に住んでいて、庶民とは接触しない。地域の境界は坂の上だ。

一方、奈良坂と清水坂の坂者さかものは、埋葬地まいそうちのそばなので、土師氏の仕事である死者の埋葬を手伝った。

さらに朝廷はハンセン氏病の患者も坂に住まわせた。のちに規約ができるが、ハンセン氏病の患者は白い布で頭部を隠すことと、柿渋色の服を着るようにと指示されている。

それから、あっというまに各地の駅路の坂の上に坂者が現れて、汚れをはらい清めを行うようになった。坂者は白い布で頭部をおおっているので、だれが入っているのか分からない。病の人かもしれないし盗賊かも知れない。

ともかく一般庶民は祓い清めてもらって、さっさとすり抜けたほうがよい人たちだ。

逢坂山おうさかやまには関所があり、白い布を被った坂者が、いつも清掃をしている。

善男は、萎烏帽子に白い水干と袴を身につけた、ふつうの舎人姿をした老人が、流刑史たちに酒樽や紙包を渡しているのを見た。

中庸なかつねさまのお子らは、助けようとされている方々がおられます。流刑先の伊豆まで、お心を強くお持ちください」と玲心が言う。

身の汚れを善男に恥じさせないように、わざと離れて佇んでいた守平たちが無事を祈るように頭をさげた。

伴大納言ばんだいなごんこと伴善男の私財は官に没収されて、長く都の橋の営繕えいぜんのために使われた。



紀夏井きのなついの乗せられた流刑の車は百姓に守られた。赴任ふにんして間もない肥後ひご(熊本県)から呼び戻された夏井は、都で裁かれて土佐とさに流された。夏井が長く国守をつとめた四国の讃岐国さぬきのくに(香川県)に入ってから、流刑車が行く南海道なんかいどうの両脇は百姓で埋められた。

自らのことを考えず、百姓のために貯蔵米の蔵を四十棟も造った夏井は、任期が過ぎても国人たちが延期を申しでるほどに親しまれている。沿道には泣き叫ぶ人々や、拝む人々が国境まで絶えなかった。

夏井は流刑先の土佐で山野に入り、自ら薬草を摘んで薬をつくって村人たちを助けながら、その生涯を終える。

紀夏井きのなついを重んじた文徳もんとく天皇や、夏井を評価した藤原良相よしみ伴善男とものよしおが目指したのは、民を思う政治だった。

それを阻止そしした良房は、藤原北家による摂関政治せっかんせいじの基礎をつくりあげた。



天皇が、「太政大臣の良房に政を執政させる」という詔を出したあとで、良房は東一条第に戻ってきた。

家令かれいがジュツの寝泊まりする小屋に、一人の少年をつれて来た。

「ここで子供のころから童舎人わらべとねりをしていた蚊屋史生かやのふみおだ。あるじさまのお情けで、成人して名をもらい側番舎人になった。今夜、いっしょにお目通りさせてほしい」と家令が言う。

まだ、十五、六歳の少年を見て、ジュツがうなずいた。

「身寄りがない子でな。孤児だ。口数は少ないが、まじめな子で口答えをしたことがない。まかされた仕事も手を抜かずにやる。そこを、主さまが認められたのだろう」と家令。

その夜、蚊帳史生は、良房からという呼び名をもらった。ビを見ていると、ジュツはシの気持ちが分かるような気がする。シは、ジュツが可愛かったのにちがいない。なんとなく少しだけ、ジュツはホッとした。 

良房は、内裏の中に直盧じきろ(自分の部屋)を与えられることになっている。東三条第からも荷物を取り寄せて、良房は直盧に持っていく荷物を選んでいる。舎人たちは荷造りにはげみ、邸のなかは慌ただしい。

内裏に移る日が迫って来た夜に、「ジュツ。ビ」と良房が呼んだ。二人が几帳から出て控える。

「ジュツ。例のものを薬草園から取って来てほしい。ビも連れて行け。そのうちビは内裏で使おうとおもう。そのように心がけさせてほしい」

ジュツは、いつものように黙ってうなずいた。


舎人や書史たちが、部屋のなかで荷物を分けている。家令もいる。

「ジュツ、ビ」と良房が呼んだ。

昼なので部屋の隅にヒッソリと座っていたジュツが、まえに出た。良房が不振そうに周りを見まわす。

「ビは?」

「咳をしております」とジュツが答えた。二十年ちかくも側に仕えたジュツの声を、はじめて良房は耳にした。咳にはりている。ビに見せて覚悟を決めさせるのは、またの機会にしよう。

「ジュツ。こんなものが出てきた。いつ、だれに、もらったのか忘れてしまった。試飲してほしい」と良房が、昨日、ジュツが薬草園から持ってきた茶色の小壺を置いた。

ジュツは黙って小壺をとるときざはしを下りて庭にでた。良房には、一度も目を向けなかった。

盛りをすぎた鉢植えの菊が残っている。そのまえに礼儀正しく座ったジュツは、小壺の封をはがして、いつも持っている土器かわらけに液体を満たした。菊の香りがする。空が青い。ジュツは土器を天にかざして、ゆうゆうと飲みほした。


えし植えば 秋なきときや 咲かざらむ 花こそ散らめ 根さえ枯れめや

(植えておけば 秋がこないと枯れたように見えますが 根さえ枯れなければ 秋ごとに花が咲いて 花弁を散らすことでしょう)


菊によせて業平が詠んだ歌だ。

根がしっかり張っていれば、多少の霜にも日照りにもたえて、季節を迎えれば花を咲かせる菊は強く美しい花だ。



十月十五日に、大枝音人おおえのおとんどは奏上を許可されて、姓を大江と変えた。枝ではなく水の集まる江にしたのだ。急ぎすぎると正しいものが折れてゆく。焦らずに、すきまに流れこんでも、手のとどく範囲で出来ることをしようと決めた。

十二月になって、基経が従三位の中納言になった。

おなじ日から、右大臣の良相よしみが辞職願いを奏上しはじめた。


伴大納言が流されたあとの十一月十八日に、清和せいわ天皇の勅で、左大臣の源まことに鷹とはしたかが贈られた。

一連の事件のはじまりは、良相が田畑を踏み荒らすからと鷹狩を禁じたことから始まった。勅に名を借りた良房のいやがらせに、善政を夢みた良相の心は完全に壊れて、出家をねがうようになっていた。

八六六年(貞観八年)は、大江音人にとっても重く苦しく長かった。よく知っている能吏や良吏が消えてゆき、支柱となるはずの良相も傷ついて倒れた。

それにくらべれば業平がしでかしたことは、いっそ小気味よく爽快そうかいではないか。業平は人を愛して、人を生みだしただけなのだから。


歳の瀬の十二月二十七日に、もう一度、音人は業平を意識することになる。

基経もとつねの妹の藤原高子たかいこが、清和天皇のもとに入内じゅだいしてきたのだ。







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