第十一話 …夢うつつとは 世人定めよ


八六四年(貞観じょうがん六年)正月。


十四歳の清和せいわ天皇が、大雪の元旦に元服した。

生後九か月で皇太子になり、八歳で即位した清和天皇には模範もはんとなる天皇がいなかった。皇太子は天皇のそばについて、天皇となるための知識を得る。

平城へいぜい天皇も皇太子になったのは十一歳だが、即位したのは三十二歳。父の桓武かんむ天皇の執政を十分に知ることができた。淳和じゅんな天皇は十四年も兄の嵯峨天皇のそばについていた。仁明にんみょう天皇は叔父の淳和天皇から学び、強い影響をうけた。良房の邸で育った文徳もんとく天皇は、すこし出遅れたが、それでも皇太子になってからの八年は仁明天皇の執政を知る時間があった。

八歳で即位した清和天皇は、ほかの天皇が執務するのを見たことがない。父の文徳天皇とは、御簾ごしに二度謁見しただけだから顔も声もおぼえていない。

すでに八歳から十四歳までは即位していたが、すべてを太政大臣の良房に任せて事後報告をうけていた。報告をされても、内容がわからない。除目じょもくなどでズラズラ並べられる人の名が覚えられるわけがなく、なぜ除目されたのかも理解できない。

八歳から十四歳までの子供なら、それがあたりまえだ。清和天皇が好きなのは、童相撲わらべずもうと競走馬を見ること。童舞わらわまいを見るのも楽しみにしている。

これもまた子供なら当然のことだ。


この正月の叙位で、一年も空席になっていた大納言だいなごんが発表された。

大納言は、平高棟たいらのたかむね伴善男とものよしおごん大納言が藤原氏宗うじむね。三人の中納言のなかの二人が大納言、一人が権大納言になることで収まった。空席となった中納言には、まず源とおるがなった。


もと大伴氏の伴氏から大納言がでるのは、大伴旅人たびといらい百四十年ぶりだ。やっと善男は、祖父の継人つぎとが起こした藤原種継射殺たねつぐしゃさつ事件で解体されて縮小した伴氏を、もとの地位へ戻すことができた。

中納言は、二百戸の職封じきふと三十人の資人しじんを与えられるが、大納言は、職分田しきぶでん二十町、職封八百戸、資人百人があたえられる。

大納言になれば、百人を超える使用人が働ける邸を構えなくてはならない。私費で雇う従者も増やす必要がある。

太皇太后大夫と民部卿みんぶきょうと参議を兼任している伴善男は多忙で、大納言としての体裁をととのえるのは息子や家人にまかせた。使用人の数が多いから、すべての使用人の性癖や交友関係までまで調べて、邸に雇っただけではない。

忙しくしながら、善男は生涯の目的を果たして、生きるための原動力を失いつつあった。伴氏の復興に向かって自分を鞭打ってきた男は、達成感を得るともに空虚くうきょも抱えこんだ。

それを埋めるように、善男は残りの人生を自分を認めて引きあげてくれた仁明天皇への報恩ほうおんささげげはじめる。伴善男は忠実な大王おおきみの大伴人だった。帝のために闘って命をなげだす武人の、直情的で激しい気性も受けついでいる。

仁明天皇の深草御陵ふかくさごりょうのそばに立てた自分の別荘を、善男は報恩寺ほうおんじという名の寺に変えた。もろ、ひねりのない名だ。



正月末に、藤原常行つねゆき(良相の嫡男)と藤原基経もとつね(良房の猶子)と大枝音人おおえのおとんどが参議に加えられた。

音人も実力者コースを、しっかり歩んでいる。そして良相の娘の多美子たみこが、十四歳の清和天皇に入内して女御にょうごとなった。

多美子は十七歳で従四位下をもらっている。基経の妹の高子は、五節ごせちの舞姫をしたときに従五位下をもらったが、もう二十二歳になるのに入内を見合わせている。

天皇が成人したので、太政大臣の良房よしふさは政治に関われなくなった。

つぎの皇太子も藤原北家の娘の子を立てたい良房には、弟の娘の多美子も兄の娘の高子もおなじ姪だが、基経もとつねには妹と従妹で、ぜんぜんちがう。

ここで良房に死なれたら、五十一歳になる右大臣の良相の方がうじ長者ちょうじゃとなるだろう。清和天皇には、まだ皇子も皇女も誕生していないのが救いだが、同じに二十八歳の常行に比べると、どんどん不利になって行く。

そんなことを考えていたので、「クソッ!」と基経は左近衛府さこのえふのまえで小石をけった。小石はコチンと壁にあたって、ちょうど左近衛府から出てきた業平の足もとに転がった。

「あれっ?」という顔で基経のほうを見た業平。いくどか公の儀式で顔を合わせているが、親しく言葉をかわしたことはない。

「これは、籐中将とうのちゅうじょうさま」と業平が寄ってきた。遠目でも色白で女性的な面立ちと見ていたが、近くで見ても色白で肌がスベスベしている。たしか十一歳年長のはずだから三十九歳。くやしいが歳よりずっと若く見える。

「このたび権少将ごんのしょうじょうになりました、在原業平ありわらのなりひらでございます。よろしくおねがいします」と業平。

基経もとつね左近衛中将さこのえのちゅうじょうだが、就任したばかりの参議に慣れようと毎日、太政官府に出仕して、近衛府に顔を出していなかった。

そのあいだに、どうして、そうなったのか、業平が左近衛府に配属されて直属の部下になってしまった。どうせなら常行つねゆきが中将をしている右近衛府うこのえふに配属したら、どうなのだ!

「これは、在五さまですか。藤原基経でございます」と腹の虫を押さえて、基経もあいさつをした。業平は体がふれそうなほど近くまで来ると、建物の影の長さを測ってから、腕に袖をクルッとからめて額のうえにかざして空をみあげた。良い香りがする。

「ほら。もうすぐ陽が中天になりますよ。藤中将さま。そろそろ退庁の銅鑼どらが鳴ると、あっ。鳴りました!」

それから「フワワ―」と、業平は大きなあくびを一つした。

「夜に、とりこみごとがありまして少しも眠っておりませんので、わたしは、これで退庁させていただきます。きょうも何ごともなくすごせて、よろしゅうございました」と、にっこり笑って行ってしまった。

基経もとつねは十六歳から宮仕えをしている。宮中には四十人余りの親王がいる。桓武天皇の孫の平高棟たいらのたかむねからは、王や王女が臣籍降下して平氏になりはじめたが、それでも王とよばれる皇族が優に百人を超すほどのこっている。源氏も、嵯峨天皇、仁明天皇、文徳天皇の皇子が名乗って数がふえた。少数だが在原氏も皇孫だ。これらの貴種のほとんどが藤原氏より位が低いが、藤氏はていねいな態度をくずさない。それを政治家の心得としている。

でも業平は妹に手をだした男だ。そのスキャンダルで妹の入内が見合わされている。馬寮めりょうのムチを持ってきて尻を叩いてやりたい。

とりこみごとがあって眠れなかっただと…基経は額にしわをよせて業平の後姿を睨みつけ、自分が人の目を集めているのに気がついた。左近衛府は陽明門ようめいもんの両脇にあるので人の通りが多い。通りすがりの人々が立ち止まって、おもしろそうに基経を見ている。

基経が荒々しく近衛府にむかうと、「プッ!」と吹きだす音がした。

良房よしふさ猶子ゆうしとなって登庁してから、基経は死に神を見るような恐怖を押さえたこおる視線を肌身に感じてきた。

ちがう視線を感じたのは、はじめてだった。これ…イヤじゃない。


五月五日の端午たんご節会せちえは兵士の競技会のようなもので、左右近衛このえ、左右兵衛ひょうえ、左右衛門えもん六衛府ろくえふに、各四百人ずつ配置された二千四百人の兵士が、左と右にわかれて技を競う。

少年天皇が望まれたので、今年は五日と六日の二日にわたって例年より盛大におこなわれた。

武徳殿ぶどくでん御簾みすのなかに天皇が御座し、親王や公卿はその周りに居並んで見物する。御前の広場のまわりは、人垣ひとがきができている。

五日は六衛府の競い馬や、馬弓が競われた。左近衛は東に、右近衛は西に陣をとる。武官の正装をした左近衛さこのえ中将ちゅうじょう基経もとつねと、右近衛うこのえ中将ちゅうじょう常行つねゆきが目立つ。

そこへ競技に出場する近衛兵が登場した。左近衛の選手を先導しているのは馬に乗った権少将の業平だ。

「だれが在権少将ざいごんのしょうじょうに、選手の先導をたのんだのです?」と基経は、となりの源のぶるに聞いた。中将は三人ほどいて舒も左近衛の中将だ。

「右近衛の先導も少将です。左近衛の少将のなかでは、在五どのより馬の扱いに優れる方はおりませんよ」と、舒がすまして答える。

業平に気がついた観客が、いっせいにどよめきはじめた。この男のまわりには、かずかずの恋と、恋の名歌がまとわりついている。それに人は憧れている。

自分に注がれるのは、とくに良房と一緒にいるときに感じるのは恐怖の目線なのに、業平に注がれるのは桃色の恋風視線だと、このときも基経は思った。


藤中将とうのちゅうじょうさま」

太政官を出たところで、やってきた業平に基経は声をかけられた。

「たいへんなことに、なりました」と、うれい顔の業平が親しげに寄ってくる。

「はい?」

「浅間の噴火です」と業平。

端午の節会から二十日後の五月二十五日に、駿河の国から富士山の噴火が報告された。すでに十日以上も噴火は続いて、溶岩が二十キロ先まで流れているらしい。

「それが?」と基経。

「被害の状況を、ごぞんじですか」と業平。

「そういえば……」と基経は思いだした。別れた高子を想う業平の歌が流行ったころに、この男は東下あずまくだりをしていたはずだ。

在権少将ざいごんのしょうじょうは、浅間の大山おおやま(富士山)を、ご覧になったことがおありでしたね」と基経。

「はい。都の山とは高さや大きさがちがいます。まわりに暮らす人々のことが気がかりでなりません。藤中将さま。なるべく早く、ご救助やご支援をしてください」と業平。どうやら本気で言っているらしい。

「どなたか、お知り合いでも?」と基経。

「はい。ふたたび会えないえにしでも、わが身に起こったように辛いのです」と業平。

「それは…」女性ですかと基経は聞けなかったが、業平のほうが言った。

旅枕たびまくらを交わしたいとしき方々です。どうぞ、救ってやってくださいませ」と業平。

オイ。複数かい!と、思いながら「そのう、在五さまは、そのように別れた方々のことを、いつも気になさっておられるのですか」と基経がさぐった。

業平がツッと基経の右側に左肩をよせた。女性にかぎっての経験知だが、相手の右側から自分の左の顔を見せた方が、早くれあえると業平は心得ている。

「わたしに大切なことを教えてくださった、あの方のことは、片ときも忘れておりません。あの方のためになら、なにでもいたしましょう」とささやくと、スッと身を引いて軽く頭を下げる。

「では、藤中将さま」

「どちらへ?」

「浅間の噴火の被害者の救援を、陳情ちんじょうにまいったのです」と業平。

太政官府には、右大臣の良相や、参議の伴善男や南淵年名や大枝音人たちの、真面目な実力者が残って、まだ富士山噴火の被害をしらべている。

なるほど…と、業平を見送ったあとで、またも基経は、まわりから好奇の視線を浴びせられているのに気がついて、ニヤリとしてみせた。

「あの方」とは高子たかいこのことだろう。分かりたくないが、あの男が女に騒がれるのが分かる気がする。高子など子供をだますように、あっけなく取りこめただろう。だけど世間知らずで色気にとぼしく気の強い妹が、あの男に教えるような大切なことなどあったのだろうか?

どっちみち八月に、良相の娘の多美子が従三位下をもらい平棟子が入内した。

高子の入内など、とても考えられない。


富士山の噴火で、火山灰の微粒子びりゅうしがまき散らされた。関東では昼でも太陽がぼんやりとかすむ日がつづく。日照がさえぎられるうえに雨も降らず、関東地方は作物が実らなくなった。

十月のはじめに、こんどは九州の阿蘇山あそざんが、土石流どせきりゅうを噴出した。日本火山列島が活動し始めたのだ。

そして、ふたたび咳逆病かいぎゃくびょう(インフルエンザ)が流行った。

天皇が成人してから東三条第ひがしさんじょうだいに戻っていた良房も、病にたおれた。良房は満六十一歳。この病気は、若くて健康な人の命もうばってしまう。老齢の良房がたおれたという知らせに、政界が動きはじめた。

おなじころ、左大臣の源信が、参議さんぎの源とおるや、右衛門督うえもんのかみの源つとむなどの弟とはからって、反逆を企てているという一通の書が送られてきた。犯罪を摘発てきはつする告訴は、告訴人の身元がはっきり分からなくてはならない。告訴とともに告訴人の身柄も拘束される。内容が嘘の可能性があり、その場合は罪になるからだ。

この書は匿名とくめいだった。取りあげる必要のないものだが、伴大納言《ば

んだいなごん》の伴善男は見過ごすことができなかった。


左大臣の信のために、朝廷がだしている資人しじんは二百人。信の邸は、朝廷の帯刀舎人によって警備されている。だが信が、左馬寮さまりょう小属しょうさかんや、左衛門府生さえもんふしょうで武者として有名な男たちを、自分の邸に食客しょっかくのように住まわせているのは有名だ。このような書が送られるのも、その生活態度に問題があるからではないかと善男は食いさがった。自分より上位のものに噛みつく善男らしいやりかただ。

病身の仁明にんみょう天皇を苦しめたのは、父の嵯峨の帝の押しつけだった。

宴会が好きで、三日と空けずに朝までの宴をしていた嵯峨の帝は、宴の席で親王と源氏を同等に並ばせた。公式な儀式でも、親王と源氏を並ばせることを回りくどいやりかたで、仁明天皇に望みもした。このあつかいが、臣籍降下しんせきこうかした嵯峨源氏をカンちがいさせた。

親王とおなじようにあつかわれ、いきなり参議になった源氏の一郎のまことと、仁明天皇の猶子ゆうしになった八郎のとおるは、親王意識が強い。

嵯峨源氏のなかにも「早く出家して、おだやかに過ごしたいね」と言い合っている人もいたのだが、信や融は「おれさまを誰だと思っている」と特別意識をもって生きてきた。


「仁明天皇への報恩いのち!」となった伴大納言には、見過ごせない思い上がりだ。

それに信は、むらじかばねとする善男のことを蔑視していた。

文徳天皇が即位したときに、すでに生まれていた子は親王や内親王の宣下せんげを受けたのに、善男の養女がもうけた子だけは臣籍降下させられたという過去の恨みもある。

そのうえ信は左大臣の自覚がない。いまだに自由に鷹狩たかがりがしたいと、個人的な要求を太政官会議で出してくるから業務が滞る。

嵯峨源氏も臣下になったのだから、天皇を敬い民のことを思うべきだ。成人後に与える初位も、他の蔭子おんじと同じ五位か六位にして、仕事をおぼえて実力のあるものが昇位すればよいと善男は思う。

仁明天皇の子息の源まさるや、親王宣下が受けられなかった善男の養女がもうけた源能有よしありは正五位下の侍従から仕事をはじめている。

告発書の内容を問題にするのではなく、左大臣のくらしぶりを指摘した善男のいい分は正しいので、ほかの参議も同意した。信が許可なく邸において私用につかっていた、武芸で有名な官人たちは地方に赴任させられた。

信にとっては心外なことだ。名のある武人は競技会の優勝者が多い。それを身近に置くのはステータス・シンボルで、そんな些細ささいな私生活を問題にされては、たまらないと信は思った。

少年時代の源信は「頭が良くて、音楽や絵の才能もある子だね」と、父の嵯峨の帝に琴や笛を教えてもらったことがある。これは家族のなかの評価で、世間が認めたわけではない。家族のなかでも実際には弟のときわかなわなかった。

信は笑顔で迎えてくれるところには行くが、そうでないところは避ける。

一人で上役に噛みつく善男とは正反対の性格だった。

このあと信は邸にこもって、酒と宴でうさを晴らすことが多くなった。



亡き仁明天皇が力をいれたのは、民を飢えから救うことだった。そのために自分の食や衣服や諸費用を半減して、諸臣が見習わざるをえないような行動をとった。天皇や高級官僚のための莫大な経費を半減すれば、てっとりばやく国費が節約できる。

環境につよい蕎麦そばや麦を植えることを奨励しょうれいしたのも、凶作にそなえて飢えから庶民を救おうとしたからだ。自分で環境に強い植物をえらび、育てるようにと詔をだした天皇はめずらしい。

仁明天皇は民政に心を向けていた。多くの餓死者がでるのをうれい、消費をけずって国庫をゆたかにして、不況のために備えようとした。善男は仁明天皇の志をつぎたい。右大臣の良相も民政を考えていた。

清涼殿せいりょうでんの新築。仕事をしていない太政大臣の良房と左大臣の信にかかる経費。国庫に米や金を蓄えるゆとりがない。

信と善男の対立は、年を超えて春になっても収束しなかった。

おなじ頃、真如しんにょに置いてゆかれた僧の一圓いちえんは、インフルエンザで寝込んだ太政大臣の良房に呼ばれて、東三条第の邸で寝ずの祈祷きとうと看護をしていた。祈祷僧の一圓は、相手がだれでも病で苦しむ老人を放っておけなかった。



八六五年(貞観七年)の三月の異動で、業平は右馬頭うまのかみとなった。

右馬寮の一番上になったので昇格しょうかくしたようにみえるが、この日に、元の右馬頭は左馬頭へ、元の左馬頭は業平の代わりに左近衛権少将になったから、ただの人事異動だ。

馬寮めりょうは馬を飼育して調教するところで、左右の馬寮に官人は各六、七人しかいない。ほかは調教師や飼育師たちがいて、こちらは各六十人近くいる。かれらは専門職の品部しなべで、生涯を馬と共に過ごして異動がない。

馬頭うまのかみの仕事は、牧から献上されてくる馬をしらべ、馬の状態や飼い葉の消費量や、調教する馬飼部たちの勤務状況を記すことで、それは下官のすけじょうがしてくれる。太政官の直轄寮ちょっかつりょうなので、正月の青馬あおうまの節会や、加茂の祭り、端午たんご節会せちえでつかう馬も用意する。

馬寮には御牧みまき(皇室の牧場)から、よりすぐった名馬があつめられている。馬好きの業平には楽しいつとめだ。散位でぶらぶらしている守平は、よく訪ねてくる。かみは報告を受けて書類に署名するだけでよいのだが、業平は守平やサンセイやモクミをつれて調教場にも出かける。書類をみるより、そっちにいることが多い。

左右馬寮は宮城の西にあるので、東にある近衛府や太政官府とは職場がはなれた。そのかわり弾正台だんじょうだいが近くなった。

二十一歳になった惟喬これたか親王は、弾正伊だんじょういんとして弾正台に登庁している。ときには兄の守平と一緒に、業平は惟喬親王にところにもよく顔をみせる。

富士山の地震も阿蘇山の活動もつづいている。畿内も気候が不順になって、四月になっても霜が降りるほど寒い日がある。

畿内に実害が及ぶようになって、はじめて朝廷は神社や御陵に災害から国を守ってもらうように使いを送りはじめた。



十五歳になった清和せいわ天皇が、それまで居住していた東宮から内裏に移ることが決まった。清涼殿せいりょうでんが新築されて十五年ぶりに天皇が内裏に住む。

そのまえに少年天皇は、七月七日に行われる相撲すまいの節会を、例年よりも大がかりにすることを望んだ。

六月二十六日に相撲のつかさがきまり、そのあとで場所をかえて打ち合わせを行った。

左の相撲の司は、嵯峨源氏で中納言の源とおる。参議で左衛門督さえもんのかみの仁明天皇の子の源まさる。参議で左大弁の南淵年名みなぶちのとしな。参議で左近衛中将さこのえちゅうじょうの藤原基経もとつね左兵衛督ひょうえのかみの在原行平ゆきひら。左中弁の藤原家宗いえむね。左近衛少将の源のぶる兵部少輔ひょうごのしょうふの源すなお左馬頭さまのかみの藤原秀道ひでみち左衛門権佐さえもんごんのすけ紀春枝きのはるえ左兵衛権佐さひょうえごんのすけの藤原直方なおかた

右の司は、参議で嵯峨源氏の源いける。参議で右衛門督うえもんのかみの藤原良縄よしただ。参議で右大弁うだいべん大枝音人おおえのおとんど。参議で右近衛中将うこのえちゅうじょうの藤原常行つねゆき右兵衛督うひょうえのかみの源つとむ。同じく右近衛中将うこのえちゅうじょうの源おこる右近衛少将うこのえしょうじょうの藤原有貞ありさだ右衛門権佐うえもんごんのすけの藤原広元ひろもと右中弁うちゅうべん多治比貞岑たじひのさだみね右兵衛佐うひょうえのすけの源いたる右馬頭うまのかみの在原業平なりひら

源氏が八名、藤原氏が八名、その他が八名の二十四人だ。

打ち合わせが終わると、左大臣の信が火中の人なので源氏たちは早々に引きあげた。源氏は新しい氏族だから団体行動をとる。藤原氏は互いをよく知っていて、ほかの氏族に対しては団結するが、同族間で権力闘争をくり返すほどに自立している。

常行を先に行かせて、基経は最後まで残っていた。ほかにいたのが大枝音人と在原行平と業平だ。

「おかげんは、いかがですか」と音人が、業平のそばに寄って聞いている。

「ここにきて長年のお疲れがでたのでしょう。伏せっておられる日が多くなりました」と業平が答えている。

だれのことかと、帰り支度をしながら基経は聞き耳を立てた。

「心労の多い方でしたから」これは行平の声だ。

「お見舞いにあがってもよいのでしょうか」と音人がたずねた。

「よろこばれます。兄上」と業平。

兄上? そうだ。ここにいる三人は兄弟だったと、あらためて基経は気がついた。大枝音人が阿保親王の子だということは、なかば公認されている。三人は、どことなく似ているし仲が良さそうな雰囲気がする。

大枝音人は藤原良相の姻戚で、基経にとっては競争相手の常行側の人だと思っていたが、業平を通せば基経の妹の元彼の兄になる。ちょっとばかりヘンな縁だが、まったくの無縁ではない。

「どなたか、お悪いのですか」と思いきって基経は聞いてみた。

惟喬これたか親王の母君が、このごろ、めっきり弱られましてね」と気軽に業平が応じてくれた。惟喬親王の母といえば、文徳天皇の寵妃ちょうひの紀静子更衣こういのことだなと基経は頭をめぐらせる。

「三条の方が」と基経。

「はい」

「それは、ご心配なことです。どうぞ、おだいじに。では、お先に失礼します」

年が近い業平でも、十一歳上の四十歳。世代が違うおじさんたちに会釈をして、基経は部屋をあとにした。


基経の実父の長良ながらは故人だ。実の兄が二人いるが頼りがいはイマイチの感じで、息子のない良房の猶子ゆうしになったが、良房はいつポックリ逝ってもおかしくない。二十九歳の基経が頼れるのは、実姉の夫で大納言の平高棟たいらのたかむねと、母方の従弟になる仁明天皇の皇子の時康ときやす親王と元康もとやす親王だけになる。かれらは血統はよいが皇嗣系なので派閥を持たない。

常行は、父の良相が右大臣で五十二歳。妹の多美子が清和天皇の女御になっている。

能史のうりといわれる大枝音人と仲がよいのなら、在原氏と親しくなっても良いかもしれない。

妹の高子と業平の恋は、ただの噂なら七十五日が何回もすぎたから、とっくに忘れられてよいはずなのに、いまだに歌が残っている。自分の娘が、この歌で手習いをしているのを知って基経は仰天したばかりだ。

歌が良すぎる。名歌だ。歌とともに高子の名も残ってしまう。適齢期は十五歳ごろなのに高子は二十三歳になってしまった。こうなったら噂を気にするより、堂々と入内させたらどうだろう。注目を集めることは、まちがいない。

七月二十一日と二十三日に行われた相撲の節会のあとで、清和天皇が内裏に移るために、方違かたたがえや、大祓おおはらいなどの行事がはじまった。



九月五日。大枝音人は大勢の供をつれて西寺さいじに向かった。

残念ながら、昨冬いらい寝込んでいた良房の病気が治った。看護僧として献身的に世話をした一圓いちえんを、権僧正ごんのそうじょうにするとちょくがでて、音人が勅使ちょくしになった。生涯、修業僧を名乗った真如の弟子だったので、このとき一圓は西寺においてもらっていた。

「身にあまります」と音人が読みあげた勅をきくと、平蜘蛛のように這いつくばっていた一圓が、さらに体を床にこすりつけた。特別な賞与や昇級をしたときに、まず断るのが礼にかなっている。一圓は這いつくばったままで言葉をつづける。

「わたしは修業中の身で知識もとぼしく、なんの力もありません。どうぞ、わたしを南都に帰してください。なにとぞ薬師寺の修業僧にもどしてください」と一園。

「一圓どの。顔をあげられませ」と音人。

「勅使さま。おねがします。修業僧にもどしてください。権僧正はつとまりません。どうぞ、お許しください」と一園。

「一圓どの。顔をあげてください。声がこもって聞きとれません」と音人。

恐る恐る一圓が顔をあげた。礼儀としての辞去ではなく本気で断っているらしい。これでは裁きの場に引きだされた罪人ではないか。

「勅使さま。わたしは、まだ学ばねばならないことが色々ございます。おねがいします。わたしを、もとの身にもどしくださいませ」と一園。

「勅は、お伝えしました。お役目は終えましたが、帝のご厚情のありがたさに権僧正さまは動揺されているように見受けます。しばらく、わたしにときをいただきたい」と音人は、仰々しく連れてきた供人を下がらせることにした。副使の良岑経世よしみねのつねよが心得て、西寺の僧や供人をつれて去った。

秀才の大枝音人おおえのおとんどは五十四歳。堂々とした貫録をつけて、阿保親王あぼしんのうに似てきた。

「一圓どの。帝の勅です。ご辞退の奏上そうじょうをなさるのでしたら、書をしたためてお出しください」と音人。

「書にすれば、よろしいのですね」と一園。

「はい。ただ今回は、太政大臣さまの御病気を治した一圓どのの功を評しての表彰です。辞退の書を奏上されても、お許しにならないでしょう」

「それは、こまります。ほんとうにこまります。勅使さま」と一園。

「大枝で結構です」と音人。音人の実母は中臣氏で、一圓は大中臣氏の出身だから同祖になり、大中臣氏のほうが格が上だ。

「一圓どの。なにがお望みですか?」と音人。

「いままで通り薬師寺で修業をさせていただきたいとぞんじます」と一園。

「帝の勅で権僧正になられたあなたを、薬師寺はもてあますでしょうよ」と音人。

一圓が、シュンとなった。

「都にいて政争に巻きこまれるのが、おいやなのでしょう。超昇寺ちょうしょうじ座主ざすになられては、いかがでしょうか。超昇寺の座主なら薬師寺も対応がしやすいし、近いから通うこともできますよ」と音人。

一圓は、子供のような眼で音人をみあげた。

一か月半後の十月十六日に、一圓は真如と一緒にくらした草庵のあとに建てられた超昇寺の座主となった。いくども書面で願いでたが、権僧正の辞退は許されなかったが、貴族ではなく貧しいものを祈祷きとうや薬で看護かんごしつづけた。一圓、または一演とも書く。

命の恩人である一圓の存在は、良房と在家や音人のつながりを良好にした。

清和天皇の対立候補として、すぐに名があがる惟喬親王と、惟喬親王に密着している色好みの業平と豪族系の紀有常。良相よしみの姻戚になる大枝音人を、良房は危険分子とみなさなかった。

じゃま者を刈り取る除草剤のような良房に、そう思われたのは、いいことだ。



右馬頭うまのかみの業平が「りの使い」として伊勢に向かったのは、秋も深くなった九月の末だった。「狩りの使い」は中央政府から送られる、地方行政の視察団で、ゆく先々の地方官からご接待をうければよい。

伊勢への使いなので、伊勢の斎王の恬子やすこ内親王に、母の紀静子や、兄の惟喬これたか親王や、成人して四品になり邸をかまえた次兄の惟条これえだ親王や、加茂の斎院からもどった述子内親王、その妹の揚子内親王、珍子内親王の兄弟姉妹から、山ほどの手紙やおみやげを預かったのはいうまでもない。

朝廷からの正使は、駅路えきろにある駅屋うまやを利用する。大路に造られた貴族のための宿泊施設で、駅馬えきばを飼っていて乗り代えることもできる。

業平は右馬寮から馬と人をつれてきた。私舎人としてサンセイとモクミもつれた。馬医は二人しかいないから都に残して、若い見習いをつれた。

官費を使っての豪勢な接待旅行など、めったにないチャンスだから身近な人を便乗させて、秋の駅路をのんびりと行き、三日目の朝のうちにはらい川を渡って伊勢の斎宮にたどりついた。

住むところと、そこに住む人におなじ言葉をつかうので、恬子内親王のことも伊勢の斎宮とも呼ぶが、分かりづらくなるので、ここでは恬子内親王を斎王と、斎王の住む場所を斎宮と書き分けることにする。

斎宮は、伊勢大神宮から十五キロメートルほど離れた多気たきというところにある。東西二キロ、南北七百メートル。邸ではなく小都だ。仕える役人も四百人。役人には、役人に仕える従者や雑色がいるので、人口はもっと多い。

出迎えた伊勢権守の藤原よろしに案内されて、御簾みすのなかの恬子やすこ斎王にあいさつをして、家族からあずかってきた品を献上する。恬子斎王が伊勢に向かったときは、高階岑緒たかしなのみねおが伊勢権守として付いていったが、ほんの数か月まえに藤原宜と交代していた。宜は、ひょうひょうと器用に世渡りができる廷臣らしく練れた人柄だった。五位ぐらいの貴族のなかには、家族を守って、つつがなく世を過ごすことを願うものがたくさんいる。

「あすは歓迎の宴がもうけられますので、ごゆっくり、お休みください」と業平が通された部屋は、恬子斎王の住む内殿ないでんの近くの、中殿ちゅうでんに用意されていた。


「なんとも、静かですな」とモクミ。

朧月おぼろづきですか」と十三夜を見あげてサンセイ。

「このごろは月も日も、ぼやけてばかりじゃないか」と業平。

「春も夏も秋も、空にかすみがかかってすっきり晴れませんな」とモクミ。

「たしか静子さまと引きはなされて潔斎けっさいに入られたときに、斎王さまは十一歳でございましたね。それから十三歳で、こちらにこられて、さぞ心細い寂しい思いをなさったでしょうね」とサンセイ。

「おまえの娘は、いくつになった?」と業平。

「上は四歳、下は二歳になりました。ジジイの慶行けいぎょうや、母の桔梗ききょうにまといついています」とサンセイ。

「慶行は跡つぎが欲しかったのだろう?」と業平。

「孫娘が生まれたら、そんなことは忘れて、もう夢中で可愛がっていますよ」とサンセイ。

「うちのガキを、四歳と二歳の娘の婿にもらって、奈良の仏師の技を伝えると言いだしました」とモクミ。モクミは小夜とのあいだに二人の男子がいる。上は十六歳で下は十三歳、長岡の邸で生まれて育った。二人とも奈良の慶行の元で仏師の修業をしている。

「そりゃいい」と業平。

「まあ娘たちが育って、嫌わなければの話ですが」とサンセイ。

「息子たちが嫌われるはずがない」とモクミ。

「シッ!」とサンセイ。気配を感じたモクミも身構えた。かすかな足音が近づいてくる。業平も加わって、そっと外をのぞいた三人はアゼンとした。

内殿から中殿への渡殿を静かに渡ってきたのは、灯りを持った二人の童女に先導された恬子斎王やすこさいおうだった。御簾ごしに拝謁はいえつしたときには、よく見えなかったが、朧月に照らされた姿は母の静子の若い日に生き写しだ。眼を合わせた三人は即座に動きだした。

恬子斎王が部屋のまえに立ったときには、業平は下座で平伏していて、まわりに几帳きちょうがめぐらされていた。金木犀きんもくせいやクチナシなどを乾かしてつくる、サンセイとモクミ特製の匂い袋を隠したので花の香りがする。

恬子斎王がフラッとゆれた。業平が進みでて、その体を支えて中に入れ上座に座らせて寄りそった。

「…おぼえています。この香りをおぼえています。昼にお会いしたときにも、この香りがなつかしくて切なくて、いきなり胸が苦しくなりました。兄上が馬のジイと呼んで親しんでいらした、あの業平さまですね」と恬子。

「はい。あなたさまがお小さいころに、お抱きしてあやしたことが、いくどかございます」と業平。

「このたびの狩りの使いは、とくに親しい大切な方だからと、母の手紙に書いてありました。ただ業平さま。母の手跡しゅせきが乱れております」と恬子。

「……」

「母の身に、なにか変わりがありましたのでしょうか」

「……」

「いつも母は、自分のことは心配しないように、つつがなく健やかに暮していると書いてまいります。でも、あの文字の乱れは、心配しないようにといわれても無理です。なにかございましたか。教えてください」と恬子。

それを知りたいために忍んできたのだろう。その場だけのなぐさめを、業平は口にできなかった。

「斎王さま。静子さまは不快がつづいて伏せっておられます」と業平が告げた。

恬子内親王の顔が白くなり体が震えている。業平はこわれそうに細い体を、そっと抱いた。

「病んでいらっしゃるのですか。お悪いのでしょうか」と恬子。

「できるかぎりのことは、いたします」と業平。

「とても、お悪いのですね…わたくしは帝から、都に帰りたまうなと別れのくしをいただきました。母に会うことができません。話をかわすこともできません。もう一度だけでよいから、母の顔が見たい。母の声が聞きたい…もう一度だけ母の手に触りたい。その手で髪をなぜてもらいたい」と恬子。

「わたしが、恬子さまの思いをお伝えします。わたしが、そばについておりましょう。恬子さま…」

チラッと業平は頭のすみで、ここでは仏教に関する言葉を口にするのは禁止されているはずだと思った。でも知っちゃいない。まだ十五歳の清和天皇が退位する日か、身内の人が亡くなるまで都に戻れない恬子斎王は、いつか家族の訃報を一人で聞き、一人で受けとめなければならないだろう。少しでも、そのときのなぐさめになりたかった。

「もしも…哀しいことが伝えられましても、静子さまは帝のもとに参られたとお思いください」と業平。

「父上のもとへ」

「帝が浄土じょうどで待っておられます。帝は命をかけて、心から静子さまを愛されました。愛してくださる方がいて、愛せるあなたや惟喬これたか親王がいらっしゃる静子さまは幸せです。恬子やすこさま。哀しいことですが、人の世には必ず別れがございます。別れの哀しみが大きいほど、送る方も送られる方も幸せな方々なのです」と業平。

「この香りは母や兄や叔父を思いださせます。叔父の邸で暮らしたときの母の笑顔を思いだします。あたたかくて、なつかしくて、切なくて…とても哀しい」

嗚咽おえつをもらす恬子を、愛しそうに業平が抱きしめた。恬子斎王の出立を見送ってから四年が過ぎている。業平は四十歳。恬子は十七歳になっていた。

影のようにひかえていたサンセイとモクミが動きはじめる。サンセイが、業平のそばに、そっと燭台しょくだいをおく。音もたてずに蔀戸しとみどが閉められる。恬子が供なってきた童女二人は、離れたところに移して寝かせる。そのあとで広廂ひろびさしにならんで座って、サンセイとモクミは寝ずの番をはじめた。

「いかに在五さまといえ、人に知れたら大ごとだな」とサンセイ。

「…ここには、神さまが居られるだろう」とモクミ。

「そうだ。神さまが見ておられる」とサンセイ。

「どうなっても、神さまのおぼしめしだろうに」とモクミ。

「そうだな。なあ。モクミ。神さまは、われらには気前がよかったなあ」

「ああ。サンセイ。良い仕事と良いあるじと良い家族と、そして良い友をあたえてをくだされた」

「なんと恵まれたことだ。ありがたい」「われらは果報ものだなあ」「神さまが、罰を与えられるなら、それでいいじゃないか…」「そうだな…」

こずえからミミズクの声が聞こえた。



十一月四日に、清和せいわ天皇が内裏に入られた。仁明天皇の崩御から十五年。やっと内裏に成人した天皇が戻った。十一月十四日から行われた新嘗祭にいなめさいは、いつもより盛んだった。右馬頭の業平も、右近衛や右衛門や右兵衛と共に、清和天皇に物をたてまつり、楽をそうした。

この年も、何度か台風が上陸したうえに寒冷だった。凶作で、武蔵国むさしのくに(東京都と埼玉県。神奈川県の東部)は年貢を免除された。関東だけでなく稲穂の実りは、どこも悪かった。



八六六年(貞観じょうがん八年)。

一月二十三日。正月の行事や叙位が終わって一段落したあとで、とんでもないみことのりが発令される。

「物や酒をねだる者がいるから、十人以上の集会は届け出て許可をとること。病で必要なときと神にささげるとき以外の、飲酒を禁止すること」

無許可の集合禁止令と禁酒令だ。ふつうに集まりふつうに酒を飲んでいたのに、いきなり禁止令がでて違反者は罪に問われることになった。

しかも凶作のために、都の米の値段が急騰きゅうとうした。それまで一しょうが二十六もんだった白米が四十文に、十八文だった黒米が三十文になった。

地方の百姓の若者を徴集して衛門府えもんふに配属し、朝廷の門を見張らせる衛士えじという職の日給が二十文だ。人は米だけで暮らしているわけではないから、まず貧民が飢えはじめた。

陰陽寮おんみょうりょうは、まえから半島で新羅国しらぎこくが戦火を起こしているから、外敵が攻めてくるだろうと発表する。甲占は油で細工しないかぎり偶然を判読するが、占いの多くは太陽と月と肉眼で見える土星までの惑星の配置を基にする。陰陽寮は熒惑けいこく(火星)の配置を問題にしている。熒惑のマイナー・アスぺクトには、戦乱のほかに火による災いという意味があるが、なぜか陰陽寮は外敵だけを強調した。



「はあ。新羅しらぎが?」とこま

「攻めてくるそうだ」と守平。東の市の外町にある狛の息子のえいの店で、禁酒令下なのに昼間から飲んでいる。

「ない。ない。ない」と守平がつれてきた男が手をふる。

「どうしてだ」と狛。

「海をなめんなよう。馬や兵器や食料や水を、どうやって運ぶ。補充はどうする。それに、どれだけの船団がいる。えっ。グスン。それによう、たとえば新羅が、この国をのっとったとしよう。貢物みつぎものは船で本国に運ぶのかい。グスン。割りが合わねえ。島国が半島や大陸に攻め入ることがあっても、反対はねえや。新羅の正規軍は来ねえよ。来るのは戦乱を逃れた避難民や、どさくさにまぎれて強盗を働こうって奴だ」

「サメ。飲みすぎだ。酒の臭いをさせて出歩くと、しょっぴかれるぞ」と守平。

「なんなら、ずっと、あずかりましょうか。守さま」と狛。

「いや。ちょっと船頭とやりあって逃げて来ただけだ。こいつは陸では生きられない。頃合いをみて船党にワビを入れさせる。それまで、せいぜい、こきつかってやってくれ」と守平。

「おやっさん」と狛の息子の栧が呼んだ。

「なんだ」

「アチャのところへ」と拽。

栧のうしろにいるジュツを、チラッと見て狛が頷いた。

阿茶は無事に男の子を産んで、もう五歳になる。生まれてすぐに麻疹はしかにかかって視力を失ったが、それでも命は助かった。麻疹は死亡率の高い病だから子供の生命力が強かったのだろう。家原芳明いえはらのよしあきのジュツが、眼は見えなくても声は聞こえるだろうと、蝉丸せみまると名をつけた。

相変わらず月に二度ほど、えいの店の裏をぬけて、ジュツは狛の家の下女をしている阿茶に会いにくる。たまにしか來ないし、ほとんど話もせずに一刻(約二時間)ほどを、阿茶を手伝ったり蝉丸をあやして過ごすだけだが、いつのまにか蝉丸が「父ちゃん」と呼びはじめた。ジュツは照れたが、いやがらなかった。

狛は、長男のごう市籍人ししゃくにんの株をゆずった。老いて股関節が痛み歩行が困難になっているが、守平や業平が外町に来るようなことがあると、剛か栧におぶさって、どこへでも出てくる。



左京二条三坊十六町にある惟喬これたか親王の邸では、「…起こして」と静子が惟喬親王をまねいた。惟喬が静子を抱えおこす。惟条親王、述子内親王、掲子内親王、珍子内親王の静子の子らと、静子の姉の妙信みょうしんと、姪の涼子りょうこが周りを囲んでいる。

「顔を…見せてください…みんなの…お兄さまは…」と静子。

「お父さま」と、涼子が声をあげる。

「ここに」と有常ありつねが答えた。

「在五さまは……」

「あなた!」と涼子。

「ここにおります」と有常のよこで、業平なりひらはポロポロと涙をこぼして泣いている。

仲平なかひらさまは…」と静子。

日置ひおき棟梁とうりょうは、庭にひかえております」と惟喬。

邸が建ったあとも仲平は、惟喬親王を心配して木挽こびきを連れてやってくる。そして闇夜に木を切る音や叩く音を響かせたから、惟喬親王の邸は、うす気味悪いと評判がたって不穏ふおんなものがよりつかない。

「みんな、ありがとう…帝がみえられ…」

梅の香りがする庭で、日置の棟梁の仲平が月光をうけて板を叩きだした。トン・トン・トン。

惟喬親王の腕に抱かれた静子の目が、少し開いて動かなくなった。

文徳もんとく天皇が愛した紀静子は三十九年の人生を終えた。惟喬これたか親王は二十二歳になっていた。



静子が亡くなったあとに、業平の歌が市井しせいに流れた。詞書のない相聞歌そうもんかだ。


君やこし 我やゆきけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか   よみ人しらず

(あなたがいらしたのか 私が行ったのか 思い出せなくて 夢を見ていたのか本当だったのか 寝ていたのか起きていたのかさえ…分かりません) 作者不明


かきくらす 心のやみに まどひにき 夢うつつとは 世人定めよ 在原業平 

(心の闇に迷ったのです 夢か本当かは 世の人が決めればよい) 在原業平


我が子や親が飢えて死にそうな人々の耳には届かないだろうが、飢えずに明日を迎えられそうな人々のあいだには、秘密めいた一夜の情事を歌った恋歌は、赤いほむらのように燃え走った。



「なにも、ごぞんじない?」と行平ゆきひら

「ぞんじません!」と紀有常きのありつね

「ほんとうに?」

「ほんとうです!」

「相聞歌にみせていますが、どちらも業平の歌でしょう」と行平。

「夢かうつつか 寝てか覚めてか、と反意語を並べてくりかえすのは、業平さま独特の手法ですから、まちがいなく二歌ともに業平さまが詠まれたのでしょう」と有常。

「なんのために、わざわざ相聞歌にして、世に流したと思いますか」と行平。

「はて…会う手立てのない、どなたかにむけて歌われた。どなたかに届けと相聞の形で呼びかけられた…」と有常。

「…でしょうね。で、だれに…? なぜ、いま?」と行平。

「うーん・・・。はーァ」と有常は、静子が亡くなったときの業平のなげきぶりを思いだして、ため息をついて肩を落とした。

「はあ」と行平も、ため息をついて肩を落とした。考えられる相手は、ゼッタイ考えたくない相手だ。

右京三条三坊四町の邸では、大枝音人おおえのおとんども、行平たちとおなじ結論に達していた。この歌は、どちらも業平の作で、禁断の相手への恋歌だ。静子が亡くなったからなのか…。いったい、なにをしでかした。



三月に閏月うるうづきがあった。月の満ち欠けで、ひと月を決める陰暦いんれきなので、ひと月は二十九日か三十日。ときどき閏月を入れて修正しないと、季節がずれてしまう。歳星さいせい(木星)の周期(グレゴリオ暦の一年)が、この修正に不可欠なのは分かっていて、歳星は秩序を戻す星として崇められている。この年は、三月と閏三月と、三月が二度も繰りかえされた。

三月二十三日に、清和せいわ天皇は右京にある右大臣の良相よしみの邸に御幸して、花見をして文人の詩を楽しんだ。もちろん事前に許可をとった、アルコールなしの宴会だ。

そして閏三月一日に、こんどは左京にある太政大臣の良房よしふさ染殿そめどのに御幸して、花見をして池の魚や田植えを見た。染殿のほうには、昨年もおなじように花見に訪れている。田植えを披露して、一粒の米を作るために農民がどれほどの労力を使っているのかを、少年天皇に分かってもらおうと企画したのは、左京大夫の紀今守きのいまもり。それまでに赴任ふにんした地方の民に慕われて、右大臣の良相が良吏りょうりと評した男だ。

文徳天皇の寵臣ちょうしんで、四国の讃岐守さぬきのかみ(香川県知事)として左遷させんされた紀夏井きのなついも、民に慕われて留任を求められるほどの良吏で、いまは肥後守ひごのかみ(熊本県知事)として赴任したばかりだ。民政を心がける力量のある中級官吏を紀氏は抱えている。

染殿の花見でも、良房は五万文の銭と二千五百包の飯を貧民にくばった。

関東はいうまでもなく都の人も凶作で苦しんでいるのに、貴族たちは右大臣の西二条第の桜の宴と、太政大臣の染殿での桜の宴を楽しんだ。



桜の花が咲くころ、業平は惟喬これたか親王の供をして、水無瀬みなせの離宮に出かけることが多かった。水無瀬の離宮は、仁明にんみょう天皇が気に入って訪れたところで、父を敬った文徳もんとく天皇にも思い入れの深い場所だ。大山崎の泊りの対岸にあるこの離宮も、桜の花がうつくしい。


染殿の花見で、良房が娘の明子に送った歌がある。


としふれば よはいはおいぬ しかはあれど はなをしみれば ものおもひもなし 良房

(年をとれば 年齢も老います でも花のような あなたをみたら 思い悩むこともありません)


静子が亡くなったあとで、水無瀬の離宮で惟喬親王と桜花を見て、業平が詠んだ歌もある。


散ればこそ いとど桜は めだたけれ うき世になにか さしかるべき 業平

(すぐに散るからこそ さくらはうつくしい この世に何か 永久のものがあるでしょうか)


おなじころに、おなじ桜を歌ったというだけの、贈答歌ぞうとうかでもない二つの歌を貴族たちは並べて楽しんだ。底意地が悪い。五・七・五・七・七と言葉を連ねれば、だれにでも和歌はつくれるが、言魂ことだまを吹き込めるのは、ごく希少きしょうな人だけ。そういうことさえ理解できない人が、自分も和歌をつくって披露したりする。この二つの歌を並べて腹の中であざけるのは、さぞや楽しかっただろう。



染殿の花見から九日後の、閏三月十日のうしこく(午前一時から三時ぐらい)に、宮城の朝堂院ちょうどういんの正門になる、応天門おうてんもんが炎上した。












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