第十一話 …夢うつつとは 世人定めよ
八六四年(
十四歳の
生後九か月で皇太子になり、八歳で即位した清和天皇には
八歳で即位した清和天皇は、ほかの天皇が執務するのを見たことがない。父の文徳天皇とは、御簾ごしに二度謁見しただけだから顔も声もおぼえていない。
すでに八歳から十四歳までは即位していたが、すべてを太政大臣の良房に任せて事後報告をうけていた。報告をされても、内容がわからない。
八歳から十四歳までの子供なら、それがあたりまえだ。清和天皇が好きなのは、
これもまた子供なら当然のことだ。
この正月の叙位で、一年も空席になっていた
大納言は、
もと大伴氏の伴氏から大納言がでるのは、大伴
中納言は、二百戸の
大納言になれば、百人を超える使用人が働ける邸を構えなくてはならない。私費で雇う従者も増やす必要がある。
太皇太后大夫と
忙しくしながら、善男は生涯の目的を果たして、生きるための原動力を失いつつあった。伴氏の復興に向かって自分を鞭打ってきた男は、達成感を得るともに
それを埋めるように、善男は残りの人生を自分を認めて引きあげてくれた仁明天皇への
仁明天皇の
正月末に、藤原
音人も実力者コースを、しっかり歩んでいる。そして良相の娘の
多美子は十七歳で従四位下をもらっている。基経の妹の高子は、
天皇が成人したので、太政大臣の
つぎの皇太子も藤原北家の娘の子を立てたい良房には、弟の娘の多美子も兄の娘の高子もおなじ姪だが、
ここで良房に死なれたら、五十一歳になる右大臣の良相の方が
そんなことを考えていたので、「クソッ!」と基経は
「あれっ?」という顔で基経のほうを見た業平。いくどか公の儀式で顔を合わせているが、親しく言葉をかわしたことはない。
「これは、
「このたび
そのあいだに、どうして、そうなったのか、業平が左近衛府に配属されて直属の部下になってしまった。どうせなら
「これは、在五さまですか。藤原基経でございます」と腹の虫を押さえて、基経もあいさつをした。業平は体がふれそうなほど近くまで来ると、建物の影の長さを測ってから、腕に袖をクルッとからめて額のうえにかざして空をみあげた。良い香りがする。
「ほら。もうすぐ陽が中天になりますよ。藤中将さま。そろそろ退庁の
それから「フワワ―」と、業平は大きなあくびを一つした。
「夜に、とりこみごとがありまして少しも眠っておりませんので、わたしは、これで退庁させていただきます。きょうも何ごともなくすごせて、よろしゅうございました」と、にっこり笑って行ってしまった。
でも業平は妹に手をだした男だ。そのスキャンダルで妹の入内が見合わされている。
とりこみごとがあって眠れなかっただと…基経は額にしわをよせて業平の後姿を睨みつけ、自分が人の目を集めているのに気がついた。左近衛府は
基経が荒々しく近衛府にむかうと、「プッ!」と吹きだす音がした。
ちがう視線を感じたのは、はじめてだった。これ…イヤじゃない。
五月五日の
少年天皇が望まれたので、今年は五日と六日の二日にわたって例年より盛大におこなわれた。
五日は六衛府の競い馬や、馬弓が競われた。左近衛は東に、右近衛は西に陣をとる。武官の正装をした
そこへ競技に出場する近衛兵が登場した。左近衛の選手を先導しているのは馬に乗った権少将の業平だ。
「だれが
「右近衛の先導も少将です。左近衛の少将のなかでは、在五どのより馬の扱いに優れる方はおりませんよ」と、舒がすまして答える。
業平に気がついた観客が、いっせいにどよめきはじめた。この男のまわりには、かずかずの恋と、恋の名歌がまとわりついている。それに人は憧れている。
自分に注がれるのは、とくに良房と一緒にいるときに感じるのは恐怖の目線なのに、業平に注がれるのは桃色の恋風視線だと、このときも基経は思った。
「
太政官を出たところで、やってきた業平に基経は声をかけられた。
「たいへんなことに、なりました」と、うれい顔の業平が親しげに寄ってくる。
「はい?」
「浅間の噴火です」と業平。
端午の節会から二十日後の五月二十五日に、駿河の国から富士山の噴火が報告された。すでに十日以上も噴火は続いて、溶岩が二十キロ先まで流れているらしい。
「それが?」と基経。
「被害の状況を、ごぞんじですか」と業平。
「そういえば……」と基経は思いだした。別れた高子を想う業平の歌が流行ったころに、この男は
「
「はい。都の山とは高さや大きさがちがいます。まわりに暮らす人々のことが気がかりでなりません。藤中将さま。なるべく早く、ご救助やご支援をしてください」と業平。どうやら本気で言っているらしい。
「どなたか、お知り合いでも?」と基経。
「はい。ふたたび会えない
「それは…」女性ですかと基経は聞けなかったが、業平のほうが言った。
「
オイ。複数かい!と、思いながら「そのう、在五さまは、そのように別れた方々のことを、いつも気になさっておられるのですか」と基経が
業平がツッと基経の右側に左肩をよせた。女性にかぎっての経験知だが、相手の右側から自分の左の顔を見せた方が、早く
「わたしに大切なことを教えてくださった、あの方のことは、片ときも忘れておりません。あの方のためになら、なにでもいたしましょう」とささやくと、スッと身を引いて軽く頭を下げる。
「では、藤中将さま」
「どちらへ?」
「浅間の噴火の被害者の救援を、
太政官府には、右大臣の良相や、参議の伴善男や南淵年名や大枝音人たちの、真面目な実力者が残って、まだ富士山噴火の被害をしらべている。
なるほど…と、業平を見送ったあとで、またも基経は、まわりから好奇の視線を浴びせられているのに気がついて、ニヤリとしてみせた。
「あの方」とは
どっちみち八月に、良相の娘の多美子が従三位下をもらい平棟子が入内した。
高子の入内など、とても考えられない。
富士山の噴火で、火山灰の
十月のはじめに、こんどは九州の
そして、ふたたび
天皇が成人してから
おなじころ、左大臣の源信が、
この書は
んだいなごん》の伴善男は見過ごすことができなかった。
左大臣の信のために、朝廷がだしている
病身の
宴会が好きで、三日と空けずに朝までの宴をしていた嵯峨の帝は、宴の席で親王と源氏を同等に並ばせた。公式な儀式でも、親王と源氏を並ばせることを回りくどいやりかたで、仁明天皇に望みもした。このあつかいが、
親王とおなじようにあつかわれ、いきなり参議になった源氏の一郎の
嵯峨源氏のなかにも「早く出家して、おだやかに過ごしたいね」と言い合っている人もいたのだが、信や融は「おれさまを誰だと思っている」と特別意識をもって生きてきた。
「仁明天皇への報恩
それに信は、
文徳天皇が即位したときに、すでに生まれていた子は親王や内親王の
そのうえ信は左大臣の自覚がない。いまだに自由に
嵯峨源氏も臣下になったのだから、天皇を敬い民のことを思うべきだ。成人後に与える初位も、他の
仁明天皇の子息の源
告発書の内容を問題にするのではなく、左大臣のくらしぶりを指摘した善男のいい分は正しいので、ほかの参議も同意した。信が許可なく邸において私用につかっていた、武芸で有名な官人たちは地方に赴任させられた。
信にとっては心外なことだ。名のある武人は競技会の優勝者が多い。それを身近に置くのはステータス・シンボルで、そんな
少年時代の源信は「頭が良くて、音楽や絵の才能もある子だね」と、父の嵯峨の帝に琴や笛を教えてもらったことがある。これは家族のなかの評価で、世間が認めたわけではない。家族のなかでも実際には弟の
信は笑顔で迎えてくれるところには行くが、そうでないところは避ける。
一人で上役に噛みつく善男とは正反対の性格だった。
このあと信は邸にこもって、酒と宴でうさを晴らすことが多くなった。
亡き仁明天皇が力をいれたのは、民を飢えから救うことだった。そのために自分の食や衣服や諸費用を半減して、諸臣が見習わざるをえないような行動をとった。天皇や高級官僚のための莫大な経費を半減すれば、てっとりばやく国費が節約できる。
環境につよい
仁明天皇は民政に心を向けていた。多くの餓死者がでるのを
信と善男の対立は、年を超えて春になっても収束しなかった。
おなじ頃、
八六五年(貞観七年)の三月の異動で、業平は
右馬寮の一番上になったので
馬寮には
左右馬寮は宮城の西にあるので、東にある近衛府や太政官府とは職場がはなれた。そのかわり
二十一歳になった
富士山の地震も阿蘇山の活動もつづいている。畿内も気候が不順になって、四月になっても霜が降りるほど寒い日がある。
畿内に実害が及ぶようになって、はじめて朝廷は神社や御陵に災害から国を守ってもらうように使いを送りはじめた。
十五歳になった
そのまえに少年天皇は、七月七日に行われる
六月二十六日に相撲の
左の相撲の司は、嵯峨源氏で中納言の源
右の司は、参議で嵯峨源氏の源
源氏が八名、藤原氏が八名、その他が八名の二十四人だ。
打ち合わせが終わると、左大臣の信が火中の人なので源氏たちは早々に引きあげた。源氏は新しい氏族だから団体行動をとる。藤原氏は互いをよく知っていて、ほかの氏族に対しては団結するが、同族間で権力闘争をくり返すほどに自立している。
常行を先に行かせて、基経は最後まで残っていた。ほかにいたのが大枝音人と在原行平と業平だ。
「おかげんは、いかがですか」と音人が、業平のそばに寄って聞いている。
「ここにきて長年のお疲れがでたのでしょう。伏せっておられる日が多くなりました」と業平が答えている。
だれのことかと、帰り支度をしながら基経は聞き耳を立てた。
「心労の多い方でしたから」これは行平の声だ。
「お見舞いにあがってもよいのでしょうか」と音人がたずねた。
「よろこばれます。兄上」と業平。
兄上? そうだ。ここにいる三人は兄弟だったと、あらためて基経は気がついた。大枝音人が阿保親王の子だということは、なかば公認されている。三人は、どことなく似ているし仲が良さそうな雰囲気がする。
大枝音人は藤原良相の姻戚で、基経にとっては競争相手の常行側の人だと思っていたが、業平を通せば基経の妹の元彼の兄になる。ちょっとばかりヘンな縁だが、まったくの無縁ではない。
「どなたか、お悪いのですか」と思いきって基経は聞いてみた。
「
「三条の方が」と基経。
「はい」
「それは、ご心配なことです。どうぞ、おだいじに。では、お先に失礼します」
年が近い業平でも、十一歳上の四十歳。世代が違うおじさんたちに会釈をして、基経は部屋をあとにした。
基経の実父の
常行は、父の良相が右大臣で五十二歳。妹の多美子が清和天皇の女御になっている。
妹の高子と業平の恋は、ただの噂なら七十五日が何回もすぎたから、とっくに忘れられてよいはずなのに、いまだに歌が残っている。自分の娘が、この歌で手習いをしているのを知って基経は仰天したばかりだ。
歌が良すぎる。名歌だ。歌とともに高子の名も残ってしまう。適齢期は十五歳ごろなのに高子は二十三歳になってしまった。こうなったら噂を気にするより、堂々と入内させたらどうだろう。注目を集めることは、まちがいない。
七月二十一日と二十三日に行われた相撲の節会のあとで、清和天皇が内裏に移るために、
九月五日。大枝音人は大勢の供をつれて
残念ながら、昨冬いらい寝込んでいた良房の病気が治った。看護僧として献身的に世話をした
「身にあまります」と音人が読みあげた勅をきくと、平蜘蛛のように這いつくばっていた一圓が、さらに体を床にこすりつけた。特別な賞与や昇級をしたときに、まず断るのが礼にかなっている。一圓は這いつくばったままで言葉をつづける。
「わたしは修業中の身で知識も
「一圓どの。顔をあげられませ」と音人。
「勅使さま。おねがします。修業僧にもどしてください。権僧正はつとまりません。どうぞ、お許しください」と一園。
「一圓どの。顔をあげてください。声がこもって聞きとれません」と音人。
恐る恐る一圓が顔をあげた。礼儀としての辞去ではなく本気で断っているらしい。これでは裁きの場に引きだされた罪人ではないか。
「勅使さま。わたしは、まだ学ばねばならないことが色々ございます。おねがいします。わたしを、もとの身にもどしくださいませ」と一園。
「勅は、お伝えしました。お役目は終えましたが、帝のご厚情のありがたさに権僧正さまは動揺されているように見受けます。しばらく、わたしにときをいただきたい」と音人は、仰々しく連れてきた供人を下がらせることにした。副使の
秀才の
「一圓どの。帝の勅です。ご辞退の
「書にすれば、よろしいのですね」と一園。
「はい。ただ今回は、太政大臣さまの御病気を治した一圓どのの功を評しての表彰です。辞退の書を奏上されても、お許しにならないでしょう」
「それは、こまります。ほんとうにこまります。勅使さま」と一園。
「大枝で結構です」と音人。音人の実母は中臣氏で、一圓は大中臣氏の出身だから同祖になり、大中臣氏のほうが格が上だ。
「一圓どの。なにがお望みですか?」と音人。
「いままで通り薬師寺で修業をさせていただきたいとぞんじます」と一園。
「帝の勅で権僧正になられたあなたを、薬師寺はもてあますでしょうよ」と音人。
一圓が、シュンとなった。
「都にいて政争に巻きこまれるのが、おいやなのでしょう。
一圓は、子供のような眼で音人をみあげた。
一か月半後の十月十六日に、一圓は真如と一緒にくらした草庵のあとに建てられた超昇寺の座主となった。いくども書面で願いでたが、権僧正の辞退は許されなかったが、貴族ではなく貧しいものを
命の恩人である一圓の存在は、良房と在家や音人のつながりを良好にした。
清和天皇の対立候補として、すぐに名があがる惟喬親王と、惟喬親王に密着している色好みの業平と豪族系の紀有常。
じゃま者を刈り取る除草剤のような良房に、そう思われたのは、いいことだ。
伊勢への使いなので、伊勢の斎王の
朝廷からの正使は、
業平は右馬寮から馬と人をつれてきた。私舎人としてサンセイとモクミもつれた。馬医は二人しかいないから都に残して、若い見習いをつれた。
官費を使っての豪勢な接待旅行など、めったにないチャンスだから身近な人を便乗させて、秋の駅路をのんびりと行き、三日目の朝のうちに
住むところと、そこに住む人におなじ言葉をつかうので、恬子内親王のことも伊勢の斎宮とも呼ぶが、分かりづらくなるので、ここでは恬子内親王を斎王と、斎王の住む場所を斎宮と書き分けることにする。
斎宮は、伊勢大神宮から十五キロメートルほど離れた
出迎えた伊勢権守の藤原
「あすは歓迎の宴がもうけられますので、ごゆっくり、お休みください」と業平が通された部屋は、恬子斎王の住む
「なんとも、静かですな」とモクミ。
「
「このごろは月も日も、ぼやけてばかりじゃないか」と業平。
「春も夏も秋も、空にかすみがかかってすっきり晴れませんな」とモクミ。
「たしか静子さまと引きはなされて
「おまえの娘は、いくつになった?」と業平。
「上は四歳、下は二歳になりました。ジジイの
「慶行は跡つぎが欲しかったのだろう?」と業平。
「孫娘が生まれたら、そんなことは忘れて、もう夢中で可愛がっていますよ」とサンセイ。
「うちのガキを、四歳と二歳の娘の婿にもらって、奈良の仏師の技を伝えると言いだしました」とモクミ。モクミは小夜とのあいだに二人の男子がいる。上は十六歳で下は十三歳、長岡の邸で生まれて育った。二人とも奈良の慶行の元で仏師の修業をしている。
「そりゃいい」と業平。
「まあ娘たちが育って、嫌わなければの話ですが」とサンセイ。
「息子たちが嫌われるはずがない」とモクミ。
「シッ!」とサンセイ。気配を感じたモクミも身構えた。かすかな足音が近づいてくる。業平も加わって、そっと外をのぞいた三人はアゼンとした。
内殿から中殿への渡殿を静かに渡ってきたのは、灯りを持った二人の童女に先導された
恬子斎王が部屋のまえに立ったときには、業平は下座で平伏していて、まわりに
恬子斎王がフラッとゆれた。業平が進みでて、その体を支えて中に入れ上座に座らせて寄りそった。
「…おぼえています。この香りをおぼえています。昼にお会いしたときにも、この香りがなつかしくて切なくて、いきなり胸が苦しくなりました。兄上が馬のジイと呼んで親しんでいらした、あの業平さまですね」と恬子。
「はい。あなたさまがお小さいころに、お抱きしてあやしたことが、いくどかございます」と業平。
「このたびの狩りの使いは、とくに親しい大切な方だからと、母の手紙に書いてありました。ただ業平さま。母の
「……」
「母の身に、なにか変わりがありましたのでしょうか」
「……」
「いつも母は、自分のことは心配しないように、つつがなく健やかに暮していると書いてまいります。でも、あの文字の乱れは、心配しないようにといわれても無理です。なにかございましたか。教えてください」と恬子。
それを知りたいために忍んできたのだろう。その場だけのなぐさめを、業平は口にできなかった。
「斎王さま。静子さまは不快がつづいて伏せっておられます」と業平が告げた。
恬子内親王の顔が白くなり体が震えている。業平はこわれそうに細い体を、そっと抱いた。
「病んでいらっしゃるのですか。お悪いのでしょうか」と恬子。
「できるかぎりのことは、いたします」と業平。
「とても、お悪いのですね…わたくしは帝から、都に帰り
「わたしが、恬子さまの思いをお伝えします。わたしが、そばについておりましょう。恬子さま…」
チラッと業平は頭のすみで、ここでは仏教に関する言葉を口にするのは禁止されているはずだと思った。でも知っちゃいない。まだ十五歳の清和天皇が退位する日か、身内の人が亡くなるまで都に戻れない恬子斎王は、いつか家族の訃報を一人で聞き、一人で受けとめなければならないだろう。少しでも、そのときの
「もしも…哀しいことが伝えられましても、静子さまは帝のもとに参られたとお思いください」と業平。
「父上のもとへ」
「帝が
「この香りは母や兄や叔父を思いださせます。叔父の邸で暮らしたときの母の笑顔を思いだします。あたたかくて、なつかしくて、切なくて…とても哀しい」
影のようにひかえていたサンセイとモクミが動きはじめる。サンセイが、業平のそばに、そっと
「いかに在五さまといえ、人に知れたら大ごとだな」とサンセイ。
「…ここには、神さまが居られるだろう」とモクミ。
「そうだ。神さまが見ておられる」とサンセイ。
「どうなっても、神さまのおぼしめしだろうに」とモクミ。
「そうだな。なあ。モクミ。神さまは、われらには気前がよかったなあ」
「ああ。サンセイ。良い仕事と良い
「なんと恵まれたことだ。ありがたい」「われらは果報ものだなあ」「神さまが、罰を与えられるなら、それでいいじゃないか…」「そうだな…」
十一月四日に、
この年も、何度か台風が上陸したうえに寒冷だった。凶作で、
八六六年(
一月二十三日。正月の行事や叙位が終わって一段落したあとで、とんでもない
「物や酒をねだる者がいるから、十人以上の集会は届け出て許可をとること。病で必要なときと神にささげるとき以外の、飲酒を禁止すること」
無許可の集合禁止令と禁酒令だ。ふつうに集まりふつうに酒を飲んでいたのに、いきなり禁止令がでて違反者は罪に問われることになった。
しかも凶作のために、都の米の値段が
地方の百姓の若者を徴集して
「はあ。
「攻めてくるそうだ」と守平。東の市の外町にある狛の息子の
「ない。ない。ない」と守平がつれてきた男が手をふる。
「どうしてだ」と狛。
「海をなめんなよう。馬や兵器や食料や水を、どうやって運ぶ。補充はどうする。それに、どれだけの船団がいる。えっ。グスン。それによう、たとえば新羅が、この国をのっとったとしよう。
「サメ。飲みすぎだ。酒の臭いをさせて出歩くと、しょっぴかれるぞ」と守平。
「なんなら、ずっと、あずかりましょうか。守さま」と狛。
「いや。ちょっと船頭とやりあって逃げて来ただけだ。こいつは陸では生きられない。頃合いをみて船党にワビを入れさせる。それまで、せいぜい、こきつかってやってくれ」と守平。
「おやっさん」と狛の息子の栧が呼んだ。
「なんだ」
「アチャのところへ」と拽。
栧のうしろにいるジュツを、チラッと見て狛が頷いた。
阿茶は無事に男の子を産んで、もう五歳になる。生まれてすぐに
相変わらず月に二度ほど、
狛は、長男の
左京二条三坊十六町にある
「顔を…見せてください…みんなの…お兄さまは…」と静子。
「お父さま」と、涼子が声をあげる。
「ここに」と
「在五さまは……」
「あなた!」と涼子。
「ここにおります」と有常のよこで、
「
「
邸が建ったあとも仲平は、惟喬親王を心配して
「みんな、ありがとう…帝がみえられ…」
梅の香りがする庭で、日置の棟梁の仲平が月光をうけて板を叩きだした。トン・トン・トン。
惟喬親王の腕に抱かれた静子の目が、少し開いて動かなくなった。
静子が亡くなったあとに、業平の歌が
君やこし 我やゆきけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか よみ人しらず
(あなたがいらしたのか 私が行ったのか 思い出せなくて 夢を見ていたのか本当だったのか 寝ていたのか起きていたのかさえ…分かりません) 作者不明
かきくらす 心の
(心の闇に迷ったのです 夢か本当かは 世の人が決めればよい) 在原業平
我が子や親が飢えて死にそうな人々の耳には届かないだろうが、飢えずに明日を迎えられそうな人々のあいだには、秘密めいた一夜の情事を歌った恋歌は、赤い
「なにも、ごぞんじない?」と
「ぞんじません!」と
「ほんとうに?」
「ほんとうです!」
「相聞歌にみせていますが、どちらも業平の歌でしょう」と行平。
「夢かうつつか 寝てか覚めてか、と反意語を並べてくりかえすのは、業平さま独特の手法ですから、まちがいなく二歌ともに業平さまが詠まれたのでしょう」と有常。
「なんのために、わざわざ相聞歌にして、世に流したと思いますか」と行平。
「はて…会う手立てのない、どなたかにむけて歌われた。どなたかに届けと相聞の形で呼びかけられた…」と有常。
「…でしょうね。で、だれに…? なぜ、いま?」と行平。
「うーん・・・。はーァ」と有常は、静子が亡くなったときの業平のなげきぶりを思いだして、ため息をついて肩を落とした。
「はあ」と行平も、ため息をついて肩を落とした。考えられる相手は、ゼッタイ考えたくない相手だ。
右京三条三坊四町の邸では、
三月に
三月二十三日に、
そして閏三月一日に、こんどは左京にある太政大臣の
文徳天皇の
染殿の花見でも、良房は五万文の銭と二千五百包の飯を貧民にくばった。
関東はいうまでもなく都の人も凶作で苦しんでいるのに、貴族たちは右大臣の西二条第の桜の宴と、太政大臣の染殿での桜の宴を楽しんだ。
桜の花が咲くころ、業平は
染殿の花見で、良房が娘の明子に送った歌がある。
としふれば よはいはおいぬ しかはあれど はなをしみれば ものおもひもなし 良房
(年をとれば 年齢も老います でも花のような あなたをみたら 思い悩むこともありません)
静子が亡くなったあとで、水無瀬の離宮で惟喬親王と桜花を見て、業平が詠んだ歌もある。
散ればこそ いとど桜は めだたけれ うき世になにか
(すぐに散るからこそ さくらはうつくしい この世に何か 永久のものがあるでしょうか)
おなじころに、おなじ桜を歌ったというだけの、
染殿の花見から九日後の、閏三月十日の
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