第十話 月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ…
八六一年(
奈良の都は、にぎわっている。都が京に移ってから、はじめての盛況だ。
この日に、東大寺の
遣わされたのは、二品
ほかには、三品
「みごとでございます。叔父上」と
大仏殿の柱は錦の布でおおわれ、床には朱紫のジュウタンが敷きつめられている。
めずらしく、きらびやかな
行平は知らないが、カゴに入った仏師はサンセイの舅の
開眼式がすむと、大極殿のまえの庭につられた舞台で
しばらくすると異国の音楽が
楽人の出入りを差配している
人波を制御する東大寺の舎人たちのなかに、出家まえに生まれた真如の息子の
「行平どの!」と、肩がふれあうほどの人並みから声がかかった。見ると
なぜだか行平は嬉しくなって、子供のように両手を振って歯が見えるほどの笑顔でジャンプした。
やはり
むかし奈良に都があったときに、伴氏は大伴氏と名乗って天皇につかえていた。
宮城の正門になる大伴門を作り、西に並ぶもう一つの正門の佐伯門を作る佐伯氏と共に両門を守る武人だった。大伴氏と佐伯氏が、大伴門と佐伯門に
善男は、参議で正三位の中納言。貴族の中でも
このごろの善男は、伴氏と佐伯氏の縁者を都に移り住まわせている。散り散りになった一族に官人登用の機会を与えたいのだ。大伴氏が一族としてまとまっていた奈良の都。善男は甘酢っぱい思いを噛みしめていた。
祭りのあとの虚脱感と、興奮の余韻が残っている。
「それにしても、ずいぶん集めたな」と業平が言う。
東塔と西塔のまえに舞台をつくることはできなかったが、参道のそとに大道芸人と出店がでた。踊り子を集めて異国の音楽や踊りを指導してくれたのは、大山崎に住む
「なあ。ナーさま。ものは相談だが、ナーさまの歌を
「わたしの歌を?」と業平。
「ああ。小野さまからは、歌を使ってもよいとお許しをもらったんだよ」と白砥。
「小野さまって、もしかしたら
「そうだよ。小町さまの恋歌を、巫女たちが歌って国中に広めるのさ」と青砥。
「わたしの歌なら使ってもよいよ」と業平。
「焼けましたよーう」とサンセイとモクミが、丸々太ったキジの丸焼きをもってきた。キジは味がうまいので、勝手に射て食べてはいけないことになっている。鮎も美味しいから庶民は食べてはいけない。子供が飢え死にしそうでも、鴨川でピチピチはねる鮎を取って食ってはいけない。
「キジを、何羽か焼く~ゥ!」と聞いて、場所は
「
「モーさまのご家族にも、会えたの」と青砥。
「守平さまは、すっかり良いテテになんなすった」と雄角。
「守は、さっさと帰ったからな」と業平。
「楽しかったよ。みんな張り切っていた。これからは巫女や妓女に、歌や踊りをしっかり教えて広めるよう」と白砥。
「いつか
「天地がひっくりかえっても、そりゃないさ」という雄角の言葉に、みんなが笑う。
「みな、今夜は、うちの寺に泊まればよい」と業平。
「いいよ。わしらは、どこでも休めるさ」と青砥。
「つぎは、いつ会えるかな。おばさんさんたち。体を大切にして長生きしてよね」と業平。
「やさしいねえ。ナーさま。わしらのことなど気にするな」と白砥。
「わしらは、帝が御座なさる囲いの内を守るため、
満月に近い春の月が、中天に輝いている。
大仏會が終わった三月の末。桜の花も盛りをすぎて散りはじめころの夜。
「シャチさま、みたいでしょう?」と
「なんと、いうか…」と守平は言葉につまった。
小袖をなかに入れて
「守平さま。それじゃ盗賊ですよ。どこで暗色の
「あれ。守も来てくれたの?」と出てきた業平は、薄い桜色の
「鳴りものがいるだろう」と守平が、ふところから笛をのぞかせた。
「オッ。じゃあ、ひとさし舞えるかな」と業平が喜ぶ。
「
「昼に、たしかめた」と業平。
サンセイとモクミが、守平と業平に馬の手綱を渡す。それから睦子を馬の背に乗せるのに一苦労したが、結局一人ではムリだろうとサンセイが睦子を抱えて二人乗りをして、二つの袋を乗せた馬をモクミが引いた。
「なんだ。その荷物は」と守平が聞くと「花びらと
「睦子さま。
「よい夜だなあ」と細い
「守さま。
「だいじょうぶだ。人が見たら
守平は三十八歳、業平は三十六歳、サンセイとモクミと睦子は四十に近いだろう。
「よい夜だ!」と守平は、もう一度、大きく声にだした。
その夜、
桜のころは雨が多い。今夜のように、さわやかな夜は珍しいから
論陣を張れば向かうところ敵なしで、問われれば即答できる豊富な知識はあるが、このようなときの善男は口数が少ない。
尼僧になった順子も黙っている。二人で黙って細い月をみている。
「西の棟から物音がします」と、五条第を警備する
皇太后の順子は五十四歳。息子をうばわれたいまは、怖いものなど、なにもない。
「さわがないように。わたくしのまわりを固めて、そのまま静かにひかえなさい」と舎人に命じる。順子のところから西の棟がよく見える。刀帯舎人が庭にならんでひかえた。
西の棟の
どこから飛んできたのか風もないのに花弁が舞う。
「…在五さま?」と順子の女房がつぶやいた。
「あれが、在五どのですか」と順子。
「お会いしたことはございませんが、在五さまではないでしょうか。
舞い終えた男は、襟にさした桜の小枝を手にもって、真っすぐのばすと歌いあげた。
月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
(月も違う 春も去年の 春ではない わたしだけが一人 去年と変わらない思いを 抱く身でいるというのに)
桜吹雪が一斉に舞い、素早く
「……在五さま」「在五さま!」と西の棟に駆けだしそうな女房たち。
「まちがいないでしょう。わざわざ危険をおかして恋歌を
「怒らないのですか。こんどこそ、高子さまの入内がむずかしくなります」と善男。
「ここに高子はおりませんし、思いを絶てない男を払えと兄に頼まれておりません。高子の入内がどうなろうと知ったことではありません。大夫こそ、怒りもせずにみいっていらした」と順子。
「わたしにも歌人の血が、わずかながら流れております」
「あらぬ、ならぬと、くりかえして、さいごに、ひっくり返す。在五さまは腕をあげられましたな。それにしても、わたしのように不細工な小男が歌ったら、気もち悪い。別れたあとまで未練がましいと、石でも投げられそうな歌ですな」と善男。
「ホホホ。でも、みごとに…心をつかみますねえ」
文徳天皇を亡くしてから、はじめて順子がほほ笑んだ。月日はうつり変わるが、わが身一人は元のままに、順子は息子を
歌を流すときには、会っていたころの気持ちも業平はつけ足した。
人知れぬ わが
(人に隠れて わたしが通う道の 見張りは 夜になるたびに 眠っていればよいのに)
去年の「鬼一口」とちがって、つややかな大人の情愛の歌。いく夜もの
このころから業平の歌は、わきあがる感情を
「高子の耳には絶対入れるな!」と、さっそく
すでに高子は、
大仏會が終わって、一か月も経たない四月のはじめ。
「叔父上。おつかれさまでした」と
「いやいや。
「なにも手伝わなかったわたしが、来てもよかったのかな」と遠慮なしに、自分で酒をそそぎながら
「大仏會の
「送別会?」と守平。
「大仏會が、わたしの最後の仕事だと言ったはずだ」と真如。
「それは、まあ。聞きましたが…」と、竹串に刺した焼き魚をかじりながら、もぐもぐと業平が答える。
「
音人は
「……こちらへ」と安貞が上座にうながすが、音人は端に陣どって頭を下げた。
「真如さま。ごぶさたしております」音人は五十歳。すでに上に立つ者の風格をにじませている。
「このたびは、
「そのつもりだ」と真如。
「それだけのことで、別れの宴をされるような真如さまではないはずです」と音人。
「大枝さま」と善淵が改まって座りなおした。
「南海道をまわったあとで、父は
音人が怖い顔をして庭をにらんだ。闇が降りた庭に、若芽時の匂いがたまっている。
「安貞どの。酒を…」と、つがれた酒を一気に飲みほして、
「お一人で渡海されるつもりですか。叔父上」と音人。
「そのつもりだ」と真如。
「言葉も分からず、食も異なり、習慣もちがう。知る人もいない国へ、なぜ行かれます」と音人。
「仏の道を
聞けば聞くほど、この目で見たくなった。この国のほかに多くの国があり、多くの民がくらしている。行ってみたいのだ」と真如。
「お幾つになられました」と音人。
「六十二歳だ。今やらねば悔いをのこして死ぬことになる」と真如。
「空海さまが
「わたしの勝手で、一園を引きまわすことはできない」と真如。
音人は、
「わたしは大枝に生まれて、大枝に育ち、大枝を名乗っております。まったく、あなたがた
「どなたも、こなたも……」と、音人は肩を動かして息をついだ。
「善淵どのと安貞どのは了解されたのですか」と音人。
「父の、たっての望みです。反対したところであきらめる人ではありません。ほっておいたら勝手にいなくなりますから」
「ただ歳が歳ですから心配です」と口々に二人が言う。
「
新羅は半島の統一国だが、ずっと政情が安定していない。唐に行くには半島に上陸して陸路を通るほうがよいのだが、日本は新羅に関わらない姿勢をとっているので国交が断絶している。
「唐の商船ならだいじょうぶでしょう。乗船する船は決まっていますか。叔父上」と守平。
「いや。まだだ」
「伊勢氏のほうに頼まれますか。それとも母にさがさせましょうか」と守平。
「守平。叔父上を、そそののかすな」と音人。
「シャチどのは、まだ船党とつながりがあるのか」と真如のほうは、守平ににじりよる。
「母の兄たち。つまり、わたしの母方の伯父たちは陸に上がったようですが、わたしの従兄たちは海に生きていますしィ・・・」と守平が言葉をにごす。
「し…なんだ?」と聞く業平を無視して、
「南海道から帰られたら、母に連絡して下さい。船便をさがしておきます」と守平。
「出航の日が決まったら、善淵どのと安貞どのから、仏教修行のために渡海すると朝廷に奏上してください。そのほうが、あとの面倒がありません。わたしが、どうにかしましょう。ところで、仲平!」と音人は、はじめて目にする仲平の山人姿に向き合った。
「は…」と赤飯を口に入れたところで、仲平が頬をふくらませた顔をあげる。
「なぜ
「あ―」と飯を噛みながら、仲平は首を傾げてチョット考えた。
「兄上。わたしは病死したことにならないだろうか」と仲平。
音人は拳をにぎりしめたが床はたたかず、太いため息をついて手を開いた。
「死んで、おまえはどこに行くつもりだ。唐か。それとも天竺か」と音人。
「小野山の
「それは、また、ずいぶんと近い…なに、木挽き~ィ!」と音人。
「足を引っぱりあう宮仕えには向いていない。自然のなかで木を伐り、細工物を作ってくらしたい」と仲平。
「身分を捨てるつもりか。妻子はどうする。おまえの持っている田や邸は? まったく在家は…。仲平! 死亡届を出してしまうと復元はむりだ。よく考えてのことなのか?」と音人。
「何年も考えた。家族とも話し合った。考え抜いたすえに決めた」と仲平。
「…おまえが、どうしてもというのなら、保証人を立てて新籍をつくれ。仲平。小野山は京か近江か、どっちだ?」と音人。
「山は、またがっている」と仲平。
「氏と戸籍を申請するまえに知らせてくれ。その地の国守に声をかけておく」と音人。
「大変だな。音人も」と真如が同情する。
「言える立場ですか。父上。唐へ行ったと奏上する、息子の身にもなってください」と善淵。
「帰ってこられるかどうかも、分からないのですよ」と安貞。
「別れたときが最期だと思ってくれ。いつも、そのつもりで生きろ。わたしは、わたしの好きなことをする。心配せずに喜んでくれ」と真如。
「守平!」と音人。
「はい?」
「休んでばかりいると、職籍を失うぞ」と音人。
「子供が小さいから、しばらく育児のために休暇はとれませんか」と守平。
「そんな理由が通ると思うか」と音人。
「まあ、まあ。音兄。あまり熱くならないでください。ゆっくりしましょうよ。この一瞬も命のときです」と守平が、坊主のようなことを言って真如と顔を合わせた。
音人は頭を振りながら、胸のあたりに手を当てた。久しぶりに酔ったらしい。それを見た業平が、首から下げた自分の小袋のさきをチョイと出して微笑んだ。
「いちばんの困りものが、業平だ!」と音人の
「ん?」
「人知れぬ 我が通い路だと。みんなが知っているぞ。なにを、どうすれば、藤家の姫との密会の歌を、都中の老若男女が大っぴらに口にして、おまえの通い路とやらを見物にいくのだ。わたしが、そそのかしたようにいわれてメイワクだ」と音人。
「太政大臣には、
「わたしの切ない恋心が、ケチですか!」と業平。
守平が部屋のすみにおいてある琵琶をとって、ベロン、ベロンとつまびく。
「業平…わたしを訪ねるときは、表からではなく、やはり裏からしのんでこい」と、柱に寄りかかった音人は、つぶやきながら半ば夢のなか。
大枝氏の長者の音人が、怒鳴って酔いつぶれることができるのも、この血族と一緒のときだけだった。
九月一日。
二年まえに
ふつう天皇一代につき一人の内親王が
もともと内親王には婚姻の規制があって、斎王にならなくても独身のままで生涯をすごすことが多いのだが、とくに
幼い内親王が
千人に近い行列をひきいるのは、新しく
十三歳の
小さな窓に下げられた
ならんだ新しい
斎王の輿に同乗していた
十三歳の少女は、涙をあふれさせて見逃さないように、腹に力を入れて目を開いた。姿は見えないが、すぐそこに母や兄がいる…。二条の角はどんどん遠ざかり、やがて死角になってしまった。
赤いトンボが一羽、静子の車のほうから飛んできて、斎王の
「…あぶない…転びますよ」と
「業平…ナリ‥ヒ‥」
「母上!」と業平。
業平が幼かったころの、夢をみているのだろう。業平は声をあげて泣いた。
九月十九日。住み暮らした
葬儀も埋葬もおわってから、有名人として始めての四国巡礼の旅をおえて、南海道から帰ってきた
伊都の仏前で経を唱え終えた真如に、ゆで栗をもった皿をすすめながらシャチが伝える。
「難波の港に、
「乗れるのでしょうか」と真如。
「はい。水も食べ物も変わります。ほんとうに、お一人でだいじょうぶですか」とシャチ。
「はい」
「内陸はわかりませんが、港には知るものもいます。いつでも頼ってください」とシャチ。その横で、業平がヨヨヨと泣き崩れて鼻をすすった。
「業平。そう、いつまでも落ちこむな。伊都さまは、じゅうぶんに生きられた。
命のあるものは滅びる。かならず別れのときがくる。おまえにも滅びのときは訪れる。木の葉が枯れて落ちるように、それを自然のことと受けとめよう。な」と真如。
「ここにも、在五さまを
伊都さまは、それを楽しまれておりました。良い息子をもった良い人生です。
ご
さ。シャキッと、しっかりなさい! 業平さま」とシャチ。
「兄上の墓。いや考えていなかったが、兄上のほんとうの墓はどこにあります」と真如。
「
伊都さまは、阿保さまのご遺髪をご自分のお墓に、伊都さまのご遺髪を阿保さまのお墓に埋めることを望まれました。
わたしも
「シャチどのも髪を兄上の墓に埋めるのですか?」と真如。
「いいえ。真如さま。船から海に流してください。海で死ぬつもりでしたが、どうも守平のそばで旅立つことになりそうです」とシャチ。
「そういうことでしたら、はい。ついでに尼僧になる許しもとっておきましょう」
「格好だけじゃ、ダメですか?」とシャチ。
「まあ…。その気になったらで、
「それから、もし
「これは字でしょうか?」と板に書かれたノタウッタ模様を見て真如が聞く。
「はい。羅越で読み書きができる人に見せれば分かります。わたしの息子のところに案内してくれるでしょう」とシャチ。
「ヘッ!」「エッ!」と、真如と業平。
「息子って、シャチどの。守のほかに息子がおられたのですか?」と伊都が亡くなってから、
「はい」
「守の兄君ですか、弟君ですか?」と業平。
「兄です」
「ってことは、わたしの異母兄の、異父兄?」と業平。
「日本の人ですか」と真如。
「羅越の人とのあいだに生まれた息子で、ずっとまえに守平も会ったことがあります。大家族の一人として育てられて、いまでは自分が大家族の
ショックを
外洋にでてから、シャチの髪は一房を残して海に流した。
むかしから、あこがれていた兄の妻だ。少しぐらい、もらってもよいだろう。
業平のように、秘めごとを、おおやけにするのも恋。…密かに一人であこがれつづけるのも恋・・・。
奈良の帝の孫の業平は、おなじころに
そのときに
名にし
(その名前を持つなら 聞いてみようか 都鳥よ 私の思う人は 都で生きているのか もういないのか)
つぎの年(八六二年・
「お兄さま~。少しお休みください。白湯をおもちしました」と
「まるで山で生まれて育ったようです」と業平。
「わたしはなにもできない。
鉋は箱型ではなくヤリの穂先が曲がったようなものなので、平らに引くのがむずかしい。
「みかけだけは、立派な
仲平は、もとから建っている古い邸にあがらず、庭に座って仲間を呼んだ。
「業。おまえの引いた図面だが、どうも
「気がつきましたか」と業平。
「やはり
「一町に収まる形にしますが、もっと、まとまった良いものができるはずです。
いままでのように独立した
ハレの場の西と東に対になる棟を建てる。ケの場はハレの場のうしろにおき、廂と渡り廊ですべてをつなぐ。屋根は
「古邸に使われていた木材は、できるだけ使う。おまえや
左京二条三坊十六町は、交換して官地になっていた元の
「仲平どの。いまのくらしは楽しいですか」と
「性にあっているのでしょう。ほんの少しでも
「達成感ですか」と惟喬。
「子供のころは、昨日できなかったことが今日はできたという、喜びがありましたでしょう。あれとおなじものです。
「濁りがたまらないのは人柄ってやつで。わしらも人の
「うちの
「棟梁とよんでいるのですか」と業平。
「へ」「
「棟梁、ねえ。
いつまでも生活臭を感じさせない業平も、もうすぐ息子が元服する。
「もしかして、阿子の名ですか?」と静子。
「そうらしいですね。静子お姉さま。うちの歌よみは、切ない恋心は言葉になるらしいのですが、息子の名も
痩せて寂しげだが、くったくなく静子が笑った。
一方、
息子や孫息子が造り、娘や孫娘が維持費にと田を寄付した不退寺と超昇寺に挟まれて、奈良の帝とよばれた
八六三年(
去年の暮れから、
寒気がするので自邸にいる左大臣の源
源氏の六郎の
源氏の二郎の
つづけて二人を亡くした信は五十三歳。清和天皇が元服すれば
なぜ良房が病になって死ななかった。このままでは病にしろ暗殺にしろ、つぎに命を失うのは自分だろう。眼を血走らせて信は馬を描きつづける。
この序列による階級とはべつに、
大納言の弘と定の死で、源氏の次期大臣候補がいなくなった。いまの中納言は、
インフルエンザで亡くなったのは弘や定だけではなく、栄養が悪く抵抗力のない庶民が多数亡くなった。官僚も何人か亡くなったので、二月の
大枝音人は
桜も散った四月のはじめ、細い月をながめながら、
業平と紀有常は、清和天皇の対抗馬とみられていた
「お召だとうかがったのですが、ご
「せっかくの春ですから、ちょっと飲みたいですねえ」と業平。
「ここでは、いけませんでしょう」と善淵。
「ほんとうに、あったのですか?」と有常。
「なにが」と業平。
「鬼の足跡ですよ」と有常。
「はい。はい。見てはいませんが、人の三倍はある大きさだったそうです」と善淵。
「足跡だけなら、つくれましょうに」と業平。
正月に、侍従所の庭に鬼の足跡が残されていたそうだ。ただいま宮中では、
「見たかったですねえ」「ええ。見たかったです」
「ここに、朝まで居なければいけないのでしょうか。忘れられたのでは…」と業平。
「もうすこし待ってみましょう。業平どの。女房の壺などを、さまよわないでくださいよ」と善淵。
「叔父上から、便りはないのですか」と業平。
「唐を出て
「羅越ねえ」と業平。
「帰ってくる気はないようです」と善淵。
「真如さまは、六十四歳になられますね。いまごろ南の国で夜空を見ておられるのでしょうか」と有常。
「先日、父に田を
「いけません」「いただけるものは、おとなしく、いただきましょう」
「叔父上がいらした
「庶民も参加できる祭りが、また、あればよいのですがねえ」と有常。
有常は、たくさんいる妹や娘や姪を藤原氏とむすびつけて、我が行く道は歌の道ときめている。善淵は「五十歳になったら出家しますから、それまでは官吏として働かせていただきます」と、はじめて位階をもらったときに
する気やる気がない三人のおじさんを、
「ねえ。そこのお若いかた。帝がお休みになられましたら退散しますので、知らせてくださいませーぇ」
庶民も加われる大きな催しがあればと、だれもが思っていたようで、五月十日に、天皇が花見や
祟り神と恐れられる人々の魂をしずめる催しもので、祟り神は
おめでたさや楽しさには欠けるが、ふだんは覗くこともできない神泉苑のなかに庶民を入れるという。
天皇と太政大臣と左右大臣と大納言や中納言などの公卿が引きあげたあとで、神泉苑の各門が開かれて下級官僚や庶民が入ってきた。
「大枝さま。どうして、この
「
従四位下で
五十二歳になった
「今回は、藤原
基経は長良の三男で、太政大臣の良房の
菅原道真が知りたがるように、このたび奉られた六霊は、いつもと一味ちがっている。
平城天皇の即位の後に、謀反の罪で投獄されて水と食を与えられずに餓死した
近い霊では、流刑地に送られる途中で衰弱死した、
従者に訴えられた文屋宮田麻呂も奉られた。この御陵會から三か月後に、官に没収されていた宮田麻呂の財産は、なぜか藤原氏の菩提寺の
もう一霊。古いがはじめて
これらの霊が恨んでいるのは、内麻呂、冬嗣、良房とつづく藤原北家だ。良房の孫になる清和天皇に災いがおこらないようにと、天皇の成人のまえの
しかし現役の天皇が非業の死を遂げたと認められないから、一番先に祀って崇めるべき文徳天皇の霊基はない。霊基はないが、そのことは庶民でさえも知っていた。
藤原仲成の
背中に二十本の矢をさした「やなぐい」を背負い、太刀をつけて弓を持った武官の正装で、女たちがまわりを囲んでいる。
「おや。在五どのだ。おいくつになられました。かわらず妖しく美しい」と菅原是善が言う。
目線を感じたのか、業平がゆっくり体をしならせて、音人のほうに向きをかえた。
遠いので音は聞こえないが、業平が動くと、まわりの女の一人、二人が、ヘナっとしゃがむ。あのバカが!と眉をしかめるところだが、音人は目のまえの青年と業平を、ついつい比べてしまった。
去年、
神泉苑は、萌える若葉にいろどられている。枝は天にむかって広がり、いまは夏の香りを放って生き生きしているが、いずれ
大池から流れでる曲水は、やがて江にたどりつき、大海の一滴になる。
道真は木で、業平は水。道真は直線で、業平は曲線。
「でも、この六霊をえらぶ基準はあったのでしょう」と、まだ道真が聞いてくる。
この子は遊びがなくて融通がきかない。右大臣の良相にも、そういうところがある。
チラッと音人に目礼をして、
そこに一人の尼僧と守平の妻の倫子がいる。倫子は紹介してもらっているから、もしかすると連れの尼は話に聞いた
ここに奉られている祟り神には、まだ身近な親族が生きている。
業平など、奈良の帝をかばった仲成だけでなく、伊予親王は伊都の母方の従弟。吉子は伊都の叔母だ。
そんな入り組んだ人間関係のなかで、ほとんどの祟り神を生みだした良房の血をつぐ幼帝が成人する。
神経質に理屈をならべる道真がうるくなって「お話は、いずれ、ゆっくりと」と音人は場所をかえた。
この青年が何十年かのちに日本屈指の祟り神となり、やがて学問の神の「天神さま」として奉られていくことなど、知るよしもなかった。
「
「なんでしょう。兄上」
「
七月二十六日。右獄に配置された右兵衛の兵が囚人に傷つけられた。武官出身の行平は気になったのだろう。
「これから
「どうも治安が悪すぎる。あの御霊會が、かえっていやな記憶をよみがえらせたのかもしれない」と行平。
警護していたにもかかわらず、七月二十九日に、三十人の囚人が集団脱獄をした。すぐに兵をだして追ったが一人もつかまえられなかった。治安が悪いのに、朝廷の警備は手薄で統制がとれていなかった。
十月末になって、清和天皇が太政大臣の良房の六十歳(満五十九歳)を祝う宴をひらいた。数々の祝いの品が天皇から良房に与えられる。
清和天皇の贈り物は六十にちなんだ六品そろえ。衣装も天皇が召されたものが六品。貴人が贈る祝いの品は、新品よりも身につけられていたものや、使われていた中古品のほうが、ずっと価値がある。
良房の私用人も贈位された。この宴には
高子も多美子も良房にとってはおなじ姪で、弟の良相でも甥で猶子の基経でも、どちらが藤原北家をついでもいいような気に、このころの良房はなっていた。ただ不安なのが、良相が清く正しく、まじめにすぎるところだ。
十一月の
十二月に
十二月の末に、明子は、こんどは良房の六十を祝う盛大な宴を染殿でもよおした。
親王や
夜もふけて人気がなくなった染殿に、良房はのこっていた。都の冬は底冷えがする。
「お父さま。おつかれになりましたか。横になられたらいかがです」と明子が言った。
「いや。あなたがお休みになるまで付いておりましょう」と良房。
「ご無理をなさらないでください。いつまでも、ご息災であられますように」
「ありがとう。明子さま。なにも思い悩まれませんように、安心してゆっくりおやすみください」と気遣いながら、良房はさりげなく明子の
「お父さまも…」と
この二か月、明子は
こんなに長く緊張を維持したのは、はじめてだ。ホッとしたとたんに
スッーと壊れるのなら楽なのに…。壊れてしまえば鈍くなる。ダンゴムシのように丸くなって、ただ転がっていればいい。でも壊れるまえに、火がついたように気が高ぶったり、ドスンと落ちて死にたくなったりする…その揺れが怖い。いつから、こうなったのだろうか…母に似てきたのだろうか…痛い。頭が痛い。
「お父…」と明子。
「どうしました。明子さま」と良房。
「なんでもありません。大丈夫…すこし頭痛がして…」と明子。
「明子さま。明子さま。どうされました?」と良房。
「頭が…いたい。気持ちが…わるい…」と明子。
「桶を持って来なさい」と良房がそばの女房に言いつける。
「…だれ…わたしのお父さまは…だれ」と明子。
「さあ、吐きなさい。戻してしまえば楽になります」と良房が背中をなぜる。胃の中のものを吐き出すと、明子は肩で息をしている。
「…虫が」と明子。
「虫。どこに?」と良房。
「ここ。這ってる…何百も…何千も…アリが…イヤ。イヤ とって。たすけて…何万も…アリ…たすけて」と着物の上から自分の太ももを引っ掻いていた明子が、自分のむき出した腕や喉に爪を立てて掻き始める。
「皇太后さま。皇太后さま! しっかりなされ。気をしっかり持ちなされ。
お狐さまだ。暴れないように押えて。そっと傷つけないように」と良房。
女房が、明子の腕を押えようとした。明子が、それを払って立ち上がった。
「…
お子もないあなたが、どうして正一位をいただいたの。帝に呼ばれもしなかった、あなたが、なぜ正一位になったの?」と明子。
「明子さま。だれもおりません。落ち着きなさい。この父が付いています。
気をしっかりお持ちなさい。コンなどという女狐なんかに惑わされてはいけません」と良房。
「なぜ、ご褒美をいただいたの? 古子。なにをしたご褒美なの? あなたが帝を殺したの? あなたが帝を殺したの? 出ていって。染殿から出ていって。でないと、あなたなんか壊してやる。ぶっ壊してやる! 何度も何度も叩いて壊してやる。叩いて、叩いて」と明子が、なにかをもちあげて振り下ろすような仕草をする。そしてフラッと倒れた。
「気を失われた。皇太后さまを御寝所にお連れして、いつものように休ませてください。息を塞がないように、顔の向きを確かめてください」と良房が、染殿の女房たちに命じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます