第九話 ・・・露とこたえて 消えなましものを


仁明天皇の喪があけた八五一年四月二十八日に、元号は仁寿にんじゅにかわった。

元号が仁寿になったあとで、良房よしふさは兄の長良ながらの三男で、甥になる基経もとつね加冠かかん(成人式)を東宮で行った。東宮を御座所ござしょとしていた文徳もんとく天皇が、それに出席した。


これまで昇殿しょうでんして、天皇のまえで成人式を上げた唯一の臣下は、藤原式家の緒嗣おつぐだけだ。父の百川ももかわを亡くした緒嗣のために、それを主催したのは百川を知古ちきと懐かしむ桓武かんむ天皇だった。

基経の成人式は、臣下の良房が主催して天皇の御座所を使っている。この出すぎた行いは影で大いにヒンシュクを買ったが、面とむかって良房に抗議するものはいない。


良房の兄の長良は穏やかな人で、妻と子供たちと一緒に琵琶第びわだいという一町の邸に住んでいる。長良の実子の基経も、兄弟と遊んだり喧嘩をしたりして子供時代を過ごした。兄弟のなかでは頭も良く、十三歳から勧学院かんがくいん(藤原氏のための大学別院)で学びもした。別院は私学で寄宿制だ。目立つほどの人気者ではなかったが、仲のよい友達もいたし声をかけて誘いあう仲間もいる、ふつうの藤原氏の少年だった。

東宮で元服して叔父の良房の猶子ゆうし(養子)になってから、基経の境遇は変わった。声をかけててくれる人が多くなり、重んじられるようにもなった。

だけど、それまでつるんでいた友までが距離をとりはじめた。十五歳の基経は語り合える友達や、一緒に騒げる仲間のいない孤独な少年になった。

次の年(八五二年・仁寿二年)から基経は文徳天皇の蔵人くろうどとなり、十六歳で宮仕えをはじめる。


淳和院じゅんないんの正子皇太后は太皇太后に格上げされて、文徳天皇の母の順子が皇太夫人から皇太后になった。順子は皇后の経験のない最初の皇太后だ。伴善男とものよしおも、皇太后大夫たいふになった。


十一月には、新天皇が即位したときにだけ行われる大嘗会だいじょうえが催された。大嘗会の叙位で、紀有常きのありつねは従五位下になり貴族の仲間入りをする。守平も正六位下をもらって官人として登庁しはじめた。


文徳天皇は、冷泉院れいせんいん新成殿しんせいでんに移った。いままで使っていた東宮や梨下院は宮城の中にあるが、冷泉院は宮城の外にある。

恒貞皇太子が廃太子にされたときに、仁明天皇が内裏の改装で仮住まいをしたところで、嵯峨の帝が亡くなったあとは嘉智子太皇太后かちこだいこうたいごうが住んだ後院ごいんだ。後院は引退した天皇、太上天皇のために作られている。

天皇は内裏に居住して政務を執る。清涼殿せいりょうでんを新築しても一年もあれば建つはずなのに、良房が引き延ばして再建するようすはない。

諸官庁は大内裏の中にあるから、右大臣の良房が動かしている。隠居所に押し込められた文徳天皇は、大きな儀式があるときは宮城まで出向くが、毎日、通勤するわけにいかないから日常の政務から遠ざけられてしまった。


文徳天皇を支えていた小野篁おののたかむらが、五十歳で亡くなった。

空いた参議の席に、良房は藤原氏宗うじむね(五十一歳)を推薦して入れた。

篁は亡くなるまえに、愛弟子の紀夏井きのなついを推薦して、小内記しょうないきとして文徳天皇のそばに仕えさせていた。伴善男や大枝音人もしたことがある内記ないきは、中務省なかつかさしょうに属して、大内記、中内記、小内記が各二人いる。

はじめて天皇が夏井なつい謁見えっけんしたときに、粗末な衣を着ていると近臣たちは意地わるくしのび笑った。

それを「おまえたちの知るところではないが、かれは疲れた駿馬しゅんばだ」と文徳天皇がたしなめる。父の仁明天皇をしのばせる言葉だ。

紀夏井は、美濃守みののかみで従四位下の紀善岑よしみねの三男だから、岐阜県南部の知事の三男で貧しいわけがない。師の小野篁も六尺二寸の大男だったが、夏井も六尺三寸(百八十二センチ)の大男で、官人の服は布の巾や長さが決っているからツンツルテンの着物を着ていたかもしれないが、ボロを着ていたわけではない。

夏井は篁とにていて、学識があり知能が高く、そのうえ正しい心をもっていた。


小野篁が亡くなるとすぐに、女御にょうごの子を親王と内親王にして、更衣こういの子は臣籍降下させることを太政官たちが奏上して決定された。すでに一年まえに女御は皇嗣と藤原氏と橘氏の娘で、そのほかは更衣とすると規定されている。

この二規約で、これからは親王と内親王の母は、皇女か藤原氏か橘氏に限定されることになった。橘氏は、太皇太后と右大臣を橘氏がしていた仁明天皇の治世下でさえ覇権はけんを逃したから、これから力をたくわえて復活するのは、むずかしい。まるで天皇の血を、藤原氏に入れ替えるためにつくられたような二つの規約だ。

この規約には、すでに認められた親王と内親王の同母の兄弟姉妹は除くという特例がついていた。太政官たちの奏上を認める代わりに、すでに認めた親王と内親王とその兄弟姉妹の地位は、文徳天皇が譲れなかった一線だ。

紀静子を母とする文徳天皇の第一皇子の惟喬これたか親王は、豪族系官人の母をもつ最後の親王の一人になった。



八五四年(仁寿四年)六月十三日に、左大臣の源ときわが四十二歳で亡くなった。左大臣は必ず置かなければならない職ではない。良房は、天皇と太政官に働きかけて左大臣を空席のままにした。

繰り返しになるが、左大臣と右大臣の俸禄ほうろく(給与)はおなじで、識封しきふう二千戸(この数の戸数の租税の半分を受けとれる)、識分田しきぶ゛んでん三十町、派遣する資人(使用人)二百人、そのほか、もろもろ…。大臣一人に莫大ばくだいな費用がかかる。

右大臣の良房は左大臣になるよりも、一人大臣として権力を行使するほうがおいしい。国のためにも大臣は一人のほうが安上がりだ。  

だが大納言だいなごんの源まことは不満だった。大納言は大臣候補だから、良房が左大臣になれば信が右大臣になるはずだ。…もしも良房が右大臣でいたいのなら、弟の死で空席となったのだから、自分が左大臣になってもよいと信は考える。封戸だけでも大納言の職封は八百戸。大臣になれば二・五倍の増収になり、太政官の頂上に立てる。だから信は、どうしても大臣になりたいと思った。 

源信は、左右の大臣を置くことを、太政官会議でしつこく要求しはじめる。赤ん坊の皇太子を擁立するときに手を組んだ、良房と信のあいだにも亀裂きれつが生じた。

八月になって文徳天皇は、良房の娘の明子が生んだ惟仁皇太子これひとこうたいしに、はじめて会った。三歳になった皇太子は片言を話す可愛いさかりだが、父の仁明天皇が自分にみせた態度を文徳天皇は思いだしていた。

仁明天皇には、幼い頃からそばに置いていた皇太子にした甥がいて、最愛の沢子女御が遺した親王たちもいた。文徳天皇にも、愛する静子更衣を母とする親王がいる。九歳の惟喬これたか親王とは親しく会っているし、やはり好きで結ばれた静子の子と、良房が後ろにいる明子の子は違う。

幼い皇太子や明子が憎いわけはないが、警戒心を持ってしまう。御簾があってよかったと文徳天皇はつくづく思った。

大枝音人おおえのおとんどは、同祖で学友の菅原是善すがわらのこれよしと共に次侍従になった。侍従じじゅうは八人、次侍従じじじゅうは百人までと決められている。

東宮学士とうぐうがくしの音人と、文章博士もんじょうはかせの是善が次侍従になったのは、いつでも天皇がそばによんで意見を聞くためだ。まだ正五位下と位階は低いが、音人は次代の日本を代表する有識者になった。

冷泉院れいせんいんに押し込められて政治からはなれている文徳天皇のもとに、紀夏井などの実力と正義感をもつものが集まりはじめていたが、残念なことに位が低い。いくら能力があっても上位にいる権力者の協力がないかぎり、天皇を本来の座に戻せない。

一人だけ、音人が連れてきた有力な人がいた。藤原氏の邸で育った文徳天皇には馴染の人だが、右大臣の良房の弟の良相よしみだ。良相は、良房より九歳下で大納言になっている。

良相は民を思い、民が豊かになる理想の政治を目指す、清く正しい藤原氏だった。


上が泥仕合をしていた仁寿にんじゅ年間のあいだ、庶民は本当の泥の中にいた。大型台風と大雨がつづいたのだ。土地が高い宮城でさえ、ぬかるみが多くて歩けないので大事な儀式をやめるほどだから、東西の市のまわりはドロドロ。東より低い南西は、路が泥の川になった。

雨が続けば作物も実らず備蓄米びちくまいも腐ってしまう。魚や野菜も届かないので市も立たない。米の値をはじめ物価が高騰こうとうする。

この災害に対して朝廷は神社や御陵にお参りをしただけだから、とうてい援助を当てにできなかった。



手下の乞食や浮浪者をあつめて、ホウは病人の看護にあたった。

ふだんは乞食姿で物乞いをしている手下だが、行基大僧正ぎょうきだいそうじょうの弟子の流れをくむ者たちだ。

行基ぎょうきは百五十年ほどまえに、街頭説法がいとうせっぽうをおこなった僧だ。街頭で演説して熱烈な支持者を獲得したのだから、人を魅了する力があったのだろう。行基が作った民を救うための布施屋ふせやという救済所は九か所、架けた橋は八か所、灌漑かんがいのために掘った溜池ためいけは十か所。寺は四十九か所も建てた。これを行基と庶民出身の弟子たちができたのは、専門技術をもつ土木建設者が強力したからで土師氏や秦氏が関わっていた。

行基の弟子たちは乞食姿をしていて修行が物乞いだ。この乞食行こつじきぎょうで行基の弟子が全国を行脚あんぎゃして、奈良の東大寺の大仏の建立費をあつめる手伝いをした。

ホウの手下の物乞いや屑拾いは、行基の布施屋の看護法も伝えている。

岡田狛おかだのこまは市でおさえている食材が腐るので、それを集めて炊きだしをするのに大わらわだ。

淳和院じゅんないん正子太皇太后まさこだいこうたいごうも援助してくれた。

山崎の橋も半分崩壊した。都の橋は、どこもかしこもこわれていて、難波なにわ土師雄角はじのおづのは復興工事に忙しい。ふだんは機織りや染色をあつかっているはた氏が、こういうときは、むかし大路を作ったときのインフラ工事の経験を活かして人手を出してくれる。


それでも水害が起こると悲惨ひさんなことになる。大きい邸から小さい掘立小屋まで、各家には肥溜こえだめめがある。穴を掘って側面を石でふさいだもので、板で簡単にフタをしている。いつもならオワイ(汚穢)屋がこえを汲みとり田舎に運んで肥料にするのだが、大雨が降ると雨水が流れこんで中から肥があふれてくる。きわめて非衛生だ。

桓武かんむ天皇が長岡京ながおかきょうをすてた原因の一つが、水害のあとで水が引かず、人口が密集していた長岡に疫病が流行ったからだ。

仁寿にんじゅ年間も大雨や長雨がつづき疫病が流行った。もともと庶民は、いつも栄養失調だから、病が流行れば亡くなる人が多い。

八四五年(仁寿四年)には疱瘡ほうそうが大流行して、庶民の幼児の半数近くが亡くなった。

疱瘡が流行っている最中の十二月三日に、石見国いわみのくに(島根県西部)から泉が湧きでて、すぐに枯れたと報告があった。ちょっと吹き出ただけだが、それでも「それはめでたい。天が今の治世を祝福している」と改元が行われて、仁寿は斎衡さいこうにかわる。

大雨がつづいた次の年はカンカン照りの旱魃かんばつで、雨乞いをしなければならなかったから、天は今の治世を祝福するどころか怒っているようにしか思えない。なにが、めでたいくて、どこが良政りょうせいなのか、だれにも分からない。


文徳天皇は冷泉院に遠ざけられて、政治に関わることができなかった。子供の半数が亡くなった疱瘡とうそうにも、餓死する庶民にも何の対策もしないで、天が祝福していると改元するような治世は、右大臣の良房が執っていた。



八五六年(斎衡さいこう三年)三月。

奈良の東大寺の東塔のそばに造られた修理東大寺役所しゅうりとうだいじやくしょに、真如しんにょに呼ばれた業平なりひらが、サンセイを連れてやってきた。

うららかな春だ。野辺には花が咲き、空には小鳥がさえずり、若草山わかくさやま草萌くさもえてえて、さかりのついた鹿が鳴く。

平城へいぜい天皇を祖父にもつ在原家ありわらけにとって、南都奈良は、ゆかりの土地だ。

平安京では高床を木で張って、そこに円座をおいて座るが、奈良に都が在ったころは生活の中で机や椅子を使っていた。この修理東大寺役所の入り口にある大きな部屋は、現場との出入りの便利さを考えてか土間に椅子や机をおいている。

人に囲まれた叔父の真如を遠くに見つけて、眼が合ったときに業平は軽く頭をさげた。

そばにいる弟子の一圓いちえんに、なにか指示して、真如は仕事を続けている。一圓がスタスタと、業平たちのところにやってきた。

「そのへんの椅子におかけください。すぐに参られます」と一園。

相変わらず真如は、洗いざらしのような粗末な僧服を着ている。おなじように自分でつくろったらしいぎのある僧衣を着た一圓が、奥に引っ込んで冷たい清水をサンセイの分まで椀に入れて運んできた。

僧形だから年齢が分かりずらいが、弟子といっても出家した時期が遅いだけで、一圓は真如より三歳ぐらい歳下なだけだ。

「一圓どの」と業平。

「はい」と、一圓がキラキラした目を向けた。

「なぜ、よりによって叔父上の弟子なのですか」と業平。

「さあ……」

「ほかに立派な御坊ごぼうが、いくらでも、おいででしょうに」と業平。

「馬が合うのでございましょうね」と一園。

一圓の俗姓は大中臣氏。曾祖父そうそふが右大臣になった大中臣清麿おおなかとみのきよまろだから、りっぱな貴族の家に生まれている。もともとは神祇官じんぎかんをつとめる家系で、神さまから仏さまに鞍替くらがえして出家した。

真如は僧侶だが、四品親王という位階があるから朝廷から俸禄ほうろくが入るが寺はない。真如自身が修業僧しゅうぎょうそうの気軽な身を好んでいるから、真如の弟子になっても僧侶の世界で出世する見込みがない。一圓も船に寝たり野に暮したりしていたから、たしかに馬が合うのだろうが。

しばらくすると、真如がやってきた。

伊都いつどのとシャチどのは、お変わりないか」と真如。

「はい。元気です」と業平、

長岡ながおかは、にぎやかです。モクミの子を二人も育てて頂いております」と立ったままでサンセイが答える。

「そりゃ、よかった。サンセイ。わたしが落ちつかないから椅子に座ってくつろげ。ところで、業平。地下じげに落とされた気分は、どうだ?」と真如。

今年の正月の評定で、業平は従五位下の散位から正六位上の散位になった。一階級の降格だが貴族と地下のちがいがあり、この一階級降格はとても大きい。それまで邸にきていた資人も来なくなった。来なくてセイセイするから、これは良いが、殿上にあがれなくなり、俸禄もガタンと減った。出世欲がないし困窮こんきゅうもしないから、これも、まあ良しとしよう。ただ登庁するときにもんを織り込んだ布を使えないのは残念だ。五位以上の人と出会うと、頭をさげて路を譲らなければならないのも好きじゃない。

でも降格こうかくされてから、自分が打たれ強いことに業平は気がついた。十代から色好みの評判が立ち、つねに好奇の目にさらされてきただけのことはあった。

「とりたてて、どうってことはありませんが、分からないのは、どうして降格されるような評定がでたのでしょうかねえ」と業平。

「なにが、ねえだ。おまえの失点ぐらい、いくらでも数えられるぞ。夜遊びがすぎるから遅れてやってきては居眠りをしている。音人おとんど行平ゆきひらも考えるだけで愉快だったろうよ」と真如。

「え?」と業平。

「あれ? 音人が帝に、おまえの降格を願いでたことを聞いていなかったのか」と真如。

「え―ッ!」

打たれ強いと思っていたが、ドスンと腹を殴られたように、業平は息が吸えなくなった。兄たちが帝に直訴じきそした。なぜ。どうして。

行平はともかく音人までも。五位から六位への降格を耐えていた業平の心が折れた。

「業平。おい。業平。サンセイ。体を温めてやれ。一圓。たのんだよ」

…真如の声が薄れていく。寒い…とっても寒い…


「気がついたか」と真如が言う。

業平は、小さないおりに寝かされていた。一枚しとみが上げられて、影のような山の上に十五夜のおぼろ月が出ている。小山と見えるのは御陵ごりょうで、木々の香りが濃密だ。

「わたしの庵だ」と真如。サンセイが、そっと出て行った。

「すまなかった。知っていると思っていたから不用意な口をきいた。六位に降ろされたことで気張っていただろうにな」と真如がやさしく言った。

一圓とサンセイが、土鍋や器を運んでくる。

「食べながら、ゆっくり聞いてくれ」と真如が言う。

業平が起きるのをサンセイが助けて肩に衣包を掛ける。一圓が給仕をする。

「おまえの降格は、次侍従じじじゅうをしている音人おとんどが帝に奏上して、帝が決められた」これは、すでに聞いているから衝撃はない。

惟喬親王これたかしんのうと、静子更衣しずここういとと、おまえを守るためだ」と真如。

「?」と、業平が真如の顔を見た。

「惟喬親王は十二歳。すぐに成人される。

良房を快く思わないものが惟喬親王の成人をしおに、幼い惟仁これひと皇太子を降ろそうと言い出すかもしれない。そのようなたくらみが、あるかないかは分からないが、悪巧わるだくみばかりしてきた良房なら、そう勘ぐるだろう。

惟喬親王は、良房にとっては目障りな存在だ。

惟喬親王を始末するには、静子更衣とおまえの恋の噂を流すだけですむ」と真如。

「はあーッ!」こんどの衝撃で、業平は覚醒かくせいした。

「静子更衣は六番目のお子をもうけられて、もうすぐ宿下がりをなさる。

更衣の里は、おまえの邸のとなりで、あるじ有常ありつねは、おまえの舅だ。日ごろ親しく行き来しているから、そのような噂を流されたらたまらないと、音人や行平は考えた」と真如。

「考えすぎでしょ! 

静子さまが戻ってこられるときは、帝のお子を懐妊されておられます。

そのような方と、いくらなんでも、このわたしが。何を考えているのです!」と業平。

「おまえだからこそ、世間は納得する。

静子更衣は帝が寵愛ちょうあいされる方だ。

その方の相手は、おまえのほかに、誰がいる。

女好きで色男で皇孫だ。これほどの適材はない」と真如。

「わたしは、どなたの思い人も、とったりしません! 

そのような美意識を持ち合わせておりません。それで降格ですか?」と業平。

「音人や行平は、おまえを良房に利用されたくなかった。

貴族ではなく地下の官人にして、たぶん病欠の届けを出すはずだ。

おまえの身柄は、わたしがあずかる。そう申し合わせた」と真如。

「断りも無く、勝手なことを、しないでください!」と業平。

「なあ、業平。奈良と長岡に住んで都には近づくな。

惟喬これたか親王と静子さまのために、恋もせず歌も詠まずに、おとなしく世間から消えてくれ」と真如。

「……ずっと?」

兄たちに嫌われたのではないと分かると、気分がスーッとして腹の虫が鳴った。

一圓がかゆをいれた椀を渡してくれる。

「帝は二十九歳で、赤子の皇太子が成人するまでには十二、三年はかかる。

良房は五十二歳のはずだ。…ん。うまい」と真如が、若菜を刻み込んだ粥をすする。

「良房も、自分の歳を気にしているはずだ。そのうち、なにか画策かくさくするだろう。さきが見えるまでは静かにしていろ。

ところで業平。いくつになった?」と真如。

「フー。フー。三十一歳」

米と豆と若菜に塩を少しいれて、煮込んだ粥は甘くてやさしい味がする。

「夜目遠目なら二十歳に見える。ますます怪しくなってきた」と真如。

「ほめてます?」

「じつはな。かや御所ごしょのあとに建てる寺のことだが。

その本尊を、おまえに任せてみようかと思っている」と真如。

「むりでしょう。素人にできませんよ」と業平。

「仏師も、宮大工も、鋳造師ちゅうぞうしも、絵師も、漆師も、いまは国中の仏づくりの技者わざものが、ここに集まっている。

おまえは構想をねって指示するだけでよい」と真如。

「でも…おかわり!」「おかわり!」と真如と業平がわん一圓いちえんに突きだした。


去年、八五五年(斎衡二年)の五月の末に、東大寺の大仏の首が、地震でも大風でもないのに落ちた。斎衡二年といっても、改元されたのが前年の年末なので、元号が変わってから半年も経っていない。

ちょっと泉がでて枯れたから、めでたいと元号を変えても、良いことは起こらずに悪いことは起こった。馬寮めりょうの馬が、ほとんど死んでしまったし、とどめのように大仏の首が落ちた。

落ちた大仏の首は、新しく鋳造ちゅうぞうすることになった。建立のときに、行基ぎょうきの弟子が乞食行脚こつじきあんぎゃをして寄付をあつめたので、それにならって今回も庶民の寄付をあつめて修理をする。

その大仏修理のための大仏司だいぶつのつかさ、つまり総責任者が、正式には検校傳燈修業賢大法師けんぎょうでんとうしゅぎょうけんだいほっしという長い肩書をもつ真如だ。朝廷からは、大納言で右近衛の大将の藤原良相よしみが補佐する。

いい香りのする艶っぽい甥と、小さな庵で粥をすする真如のもとには、たしかに日本中の技者があつまっている。

「そういうの、公私混同では?」と業平。

「技者たちが望み、こちらが工賃をだせば文句なかろう」と真如。

「仏師もいるのですか」

「新しい盧舎那仏るしゃなぶつの御尊顔の下地を作るために、仏師たちもあつめた。どうだ。やってみないか。

父上(平城天皇)も兄上(阿保親王)も、よろこばれるだろうよ」と真如。

やりたくなった。とても魅力的な誘いだ。業平は、建築や衣装や工芸などの芸術全般に興味がある。

「その寺の名だが、不退寺ふたいじというのは、どうだろう?」と真如。

「不退寺?」

「父上は退位されていない。嵯峨の帝に譲位されたわけではない」と真如。

「…ロコツすぎません?」と業平。

「なあに、仏教用語だ」

五十七歳の真如がカラカラと笑う。日に焼けて笑うと目元にシワができるが、雰囲気は歳をとらないなと業平は叔父の顔をつくづく見入った。



この年に藤原長良ながらが亡くなったので、良房よしふさの同母の妹弟は、妹の順子皇太后と、弟の良相よしみ(四十三歳)だけになった。

亡くなった長良の三男で、良房の猶子ゆうしになった基経もとつねと、良相の嫡男ちゃくなん常行つねゆきは、勧学院かんがくいんで机を並べた同年の二十歳。

ときわが亡くなって二年が経つが左大臣は置いていない。

大臣候補となる大納言には、源まことと藤原良相よしみがなっていた。



冷泉院れいせんいんに追われても、だいじな恒例の儀式のときには文徳天皇は宮城まで出かけて出席したいたが、十一月十六日の新嘗祭にいなめさいを欠席した。

新嘗祭を欠席して、文徳天皇は冷泉院の庭で北面して天をあおぎ、自分の名を板札に書いた。それを藤原良相などにもたせて河内かわち交野かたのに行かせ、十一月二十五日に郊天祭祀こうてんさいしを行わせた。

中国の礼書れいしょに乗っている郊天祭祀を行ったのは、これまで桓武かんむ天皇、ただ一人だ。

桓武天皇は光仁こうにん天皇の第一皇子だが、皇后所生こうごうしょせい他戸おさべ皇子が先に皇太子になっていた。それを父の光仁天皇が、妻の井上皇后を呪詛じゅその罪で廃して、その息子の皇太子も廃し、桓武天皇を皇太子に立てた。

まだ幼い皇后所生の皇太子を廃し、母の出自が低い壮年の第一皇子を皇太子に代えた。その皇太子が桓武天皇で、河内の交野は桓武天皇が郊天祭祀を行った場所であり、桓武天皇の生まれ故郷だった。

母の身分が低い第一皇子の桓武天皇が、即位して何年かあとに自ら行ったのと、更衣を母にする第一皇子を皇太子にしたいと父の文徳天皇が行うのとでは事情がちがうから、桓武天皇は父の光仁天皇の名を書いて天に国の主と伝えたのだが、文徳天皇は自分の名を書いた。

それでも文徳天皇が、幼い惟仁これひと皇太子を廃して、静子更衣所生の第一皇子の惟喬これたか親王を皇太子にしたいという思いは伝わる。そして国の主は天皇である自分だと、天に向かって示したい気持ちも良く分かる。

二十三歳で即位して六年。内裏に住んで政務を執ることを妨害された二十九歳の文徳天皇は、正面から良房に挑戦した。それを手伝った大納言の良相も骨のあるところを見せた。


それから二か月後の、八五七年(斎衡四年)一月二十一日に、文徳天皇が内宴ないえんを楽しまれていると、すべての職を引退したいと良房よしふさが届けてきた。文徳天皇は良房の辞表を受けとらなかったが、それでも、くりかえして辞表が提出される。

「とても疲れたから辞職したい。そうなると源信が大臣になるが心もとないので、弟の良相も大臣に立てたい。わたしは名誉職として留まるだけにしたい」と良房が言っていると、文徳天皇は母の順子皇太后からも聞いた。

良相が大臣になるのは、正しい政治を望む者にとってはよい話だ。

二月十九日に、天皇のみことのりで最高人事を決めた。

太政大臣だじょうだいじんに藤原良房よしふさ。左大臣に源まこと。右大臣に藤原良相よしみ

いままで右大臣が一人しかいなかったのに、いきなり三人に増えた。

良房が就任した太政大臣という職は微妙なものなのだが、念願の左大臣になった信は細かいことを考えない。

太政大臣は故人の功労をたたえて追贈ついぞうするときに使うが、これには問題がない。存命中に太政大臣になった人は、これまでに四人しかいない。

内の二人は二百年もまえで、皇太子時代の大友皇子と天武天皇の第一子の高市皇子。

後の二人は百年まえで、独身女帝の寵臣ちょうしんだった藤原仲麻呂なかまろと僧道鏡どうきょうだ。

二百年まえの二人はちょっとおいて、百年前の藤原仲麻呂は紫微内相しびないそうという太政大臣に相当する地位を得て、自分の邸で育てた猶子ゆうしのような淳仁じゅんにん天皇を奸計かんけいを用いて天皇に立て、政権を握ろうとした。良房と文徳天皇の関係が、仲麻呂と淳仁天皇のものと似ているのだ。

良房が太政大臣になったことで、官人たちは先のようすを冷ややかに見守り始めた。

三人に増えた大臣にかかる費用を封戸ふうとだけで示すと、良房は三千戸。千戸は返納して二千戸を受けとっている。源信は二千戸。良相は千戸を辞退して千戸。ただでさえ国庫に貯えがないのに、これでゆとりは無くなった。


二月二十一日に、年号が天安てんあんにかわった。

良房が太政大臣になったあとで、百年も空席だった太政大臣の職権しょっけんについての審議しんぎがされた。まさしく泥縄どろなわで、泥棒をつかまえてから縄をるようなことをする。

あつまったのは、藤原氏からは、太政大臣の藤原良房よしふさ(五十三歳)、右大臣の藤原良相よしみ(四十四歳)、藤原氏宗うじさだ(四十八歳)、藤原貞守さだもり(六十歳)。

源氏からは、左大臣の源まこと(四十七歳)、源ひろむ(四十四歳)、源さだむ(四十二歳)、源まさる(三十八歳)、源とおる(三十六歳)。

ほかに、伴善男とものよしお(四十七歳)、平高棟たいらのたかむね(四十八歳)。

おなじ源氏でも、源まさるは仁明天皇の子だ。仁明天皇と一緒に出家したが還俗げんぞくした。藤原氏と源氏のほかの伴善男は、いまは藤原順子じゅんこに仕える皇太后大夫こうたいごうたいふで、平高棟は桓武天皇の皇子の葛原親王くずはらしんのうの長子。妻は良房よしふさ猶子ゆうしになった基経もとつねの姉で、長良ながらの娘の有子ありこ。ずっーと後のことで余計なことだが、七十二年後に高棟の弟の高見の曾孫の平将門たいらのまさかどが、関東で風雲を巻き起こす。この二人は良房につく。

この太政官の審議しんぎで「太政大臣は名誉職めいよしょくで未成年の天皇の補佐をするが、それ以外のときは政治に関わらない」という結論がでた。

良房は飾りもの。政治に関わらないというところを重くみて、これを数の多い源氏が通してしまった。良房にとって、源氏ほど扱いやすい氏族はいないだろう。

しかし決定を聞かされるだけの貴族と地下官人は、この太政官の職権に首をひねる。仲麻呂が出るまで、もともと太政大臣は名誉職だった。それに未成年の天皇の補佐云々…とつけるのは、なぜだろう?

文徳天皇は三十歳。良房は五十三歳。病弱でもない文徳天皇は、あと二十年は息災だろう。未成年の天皇が即位する可能性は少なく、良房が未成年の天皇の補佐をする可能性は、もっと少ない。

そのなかの一握りの人たちは、良房が未成年の天皇の補佐ができるのは、惟仁これひと皇太子が成人するまでの十年以内に、それも良房の年齢を考えると早い時期に、文徳天皇が譲位するか亡くなって幼い皇太子が即位するときしかないと考えた。

未成年の皇太子に譲位する気のない文徳もんとく天皇も、自分がめられたことを知った。


四月十九日に、太政大臣の良房に従一位、右大臣の良相に従二位が授けられた。

そして、おなじこの日に、文徳天皇は第一皇子の惟喬これたか親王に帯剣たいけんを許すみことのりをだす。

惟喬親王は十三歳。元服まえの親王に帯剣を許すのは、第一皇子を特別に思っている。日嗣ひつぎ御子みこに立てたいという表明だ。

ここからは大騒ぎになった。太政大臣の良房も、左大臣の源信も、右大臣の良相も、許されないことが分かっていて辞表を提出したり、俸禄ほうろくを返上したいと奏上そうじょうする。平城へいぜい天皇を追い詰めるために、良房の祖父の内麻呂が使ったやりかたとおなじだ。

文徳天皇の方は、すでに怪しげなこと(もののけや祟り)が起こっているからと、東寺の大僧正だいそうじょう真済しんぜいを呼び、五十人、六十人、ときには百人の僧に、大極殿だいごくでん冷泉院れいせんいんで経をあげさせて講話こうわをさせる。こっちは僧侶を盾にして、こもってしまった。


この年の新嘗祭にいなめさいにも、宮城のなかにある催事場さいじじょう神嘉殿しんかでんに文徳天皇はでなかった。新嘗祭は十一月の中卯なかう下卯しもうの日に行うので、この年は二十二日が乙卯おつうの日。

天皇欠席のままで神官たちが催事をおこなった。翌、二十三日には、いつもの催事場の豊楽院ぶらくいんではなく、冷泉院れいせんいんに人をあつめて、文徳天皇は宴と叙位をした。二十五日に、もう一度、文徳天皇は五節舞ごせちのまいを冷泉院に呼んでいる。

そして十二月一日。文徳天皇は、自らの手で十三歳の惟喬これたか親王の元服を行って四品を贈った。その席に太政大臣の良房と、左大臣の源信を立ち合わせた。



翌、八五八年(天安てんあん二年)。

四品惟喬親王が、大宰師だざいのそちになった。

そして無位のままでいた紀静子は従五位下に、静子の後見人で兄の従五位上の紀有常きのありつね備後権守びんごのかみになる。従四位下の在原行平ありはらのゆきひらは、中務大輔なかつかさのたいふになり、大枝音人おおえのおとんどは、すでに左小弁さしょうべんになっている。

文徳天皇は、惟喬親王と紀静子の力となりそうな人を昇位させた。


五月の末に、またも大雨がつづいて水害がでた。それからも雨がやまず水害の救助や支援に追われて、やっと落ちついたのが八月。


八月十九日に、文徳天皇は右大臣の良相よしみを冷泉院に招き、御簾みすの中に入れて長時間に渡って話しをした。そして身につけたことのある着物を贈った。成人した天皇の在位中は政務に関われない良房は、いまは太政官会議に出ることができない。良相が太政官をまとめてくれれば、惟喬親王を皇太子に代える詔がだせる。惟喬親王は成人しているから、詔が出ると良房の出番は無くなる。

天皇として内裏に住んで政務を執りたい。文徳天皇が相談したのは、このことだ。良相は承諾した。

だが良相と会った四日後の、八月二十三日の夕方に文徳天皇が倒れた。


異変が起こったと聞いて、藤原基経もとつねも九条の自邸から冷泉院れいせんいんへ駆けつけた。

二十二歳と若いから馬を飛ばしてきたので、早くついたほうだった。冷泉院のなかは人が右往左往して騒然としている。

「なにがあったのです」と女房をつかまえては聞くのだが、うろたえていて訳が分からない。

基経は十六歳から蔵人くろうどとして文徳天皇に仕えた。そのあとは少納言で侍従になったから冷泉院のなかをよく知っているが、天皇の御座ござには勝手に近づけない。やっと文徳天皇が食後に倒れられたと聞きだした基経は、内膳司ないぜんしのあるほうへむかった。

そのとき、内善司のほうから顔を伏せてきた女房とすれ違った。後ろからは基経を追い越して右中弁の紀夏井きのなついがやってきて、さきに膳所に入った。

「帝のご膳は」と夏井が問いかけている。

「もう洗ってかたづけました。ああ…。ご薬湯を入れたおわんが足りませんでしたが、たった今、持って来られて、まだ、そこに」

「どういう薬湯です」と夏井。

桂皮けいひ(シナモン)です」

滑りこむように椀のそばに坐ると、夏井は指を入れて椀の内側をこすってめた。

「洗ってある」と夏井。

「そんなはずはございません。戻されたばかりです」

「お膳をだしたのは」と夏井が聞く。

「一刻ほどまえです。騒いでおりますが、なにか、ございましたか?」

大きな体を丸めて座った夏井が、首を振った。

気づかれてないようなので、そっと基経は内膳司をでた。さっき、すれちがった女房は文徳天皇の女房ではなく、良房の妹の古子女御こしにょうごに仕える女房だった。返した椀が洗われていたということは…古子を使っての…毒殺。

基経は、いやなものを飲みこんだ。


順子じゅんこ五条第ごじょうだいから駆けつけたときには、文徳天皇は冷泉院の新成殿しんせいでんで、御簾みすのなかに寝かされていた。

「帝。帝。起きて…道康みちやす…しっかりするのです。道康!」

わずかに体温はあるが人事不省じんじふしょう。呼びかけにも反応しない。

「大夫!」と順子は、皇太后大夫こうごうたいふ伴善男とものよしおをよびよせた。

「一人ですごせるように、とりはからってください」

文徳天皇のようすをみた義男が「受けたまわりました」と退席して、御簾のそとで待機している太政大臣の藤原良房よしふさ、左大臣の源まこと、右大臣の藤原良相よしみ、および公卿たちを説得して東の釣殿つりどのに移し、女御にょうご更衣こういたちは東の一殿にあつめた。

御簾のなかには、順子と僧と医師と薬師だけが残った。

「どうしたのです。帝は、どうされたのです。なにが起こったのです」と問いかけているが、順子には現実感がない。病んでもいなかったのに、どうして、いきなり…。

「冷泉院の侍医から知らせをうけて、わたしが最初にまいりましたが、そのときから、ご容体は変わっておりません」と内薬正ないやくのかみ大神虎主おおみわのとらぬしが答える。

「なんとかしてください。手立ては! 手立てはあるのでしょう!」と順子。

「皇太后さま。心をしずめておききください」と静かに真済しんぜいが言った。弘法大師こうぼうだいし空海くうかい直弟子じきでしで医薬にも通じている。

夕餉ゆうげのあとで薬湯やくとうを召されたそうです。すぐに苦しまれて意識を失われたとききます。侍医じいが呼ばれたときは、お脈がとれませんでした。即効性の異物でしょう」と眞済。

「なにをいっているのか、分かりません。どういうことです! 異物とは何です!」と順子。

「毒を召されました。解毒するにも、すでに嚥下えんげなさる力がございません」と真済。

声は聞こえるし言っていることも分かるが、順子には理解できない。座っている床が

やわらかくなって体が沈んでいくようだ。

「なにも、できないのですか!」自分の声が、他人の声のように外から聞こえる。思っているより子供っぽい声だ…。手のほどこしようがない。道康が死ぬ? 衝撃が強すぎて、順子は感情も感覚もにぶくなった。

二十四日になって太政官が新成殿に入り、夜に文徳天皇の学士だった文章博士もんじょうはかせ菅原是善すがわらのこれよしが呼ばれて遺言を書いた。


太政官と入れかわって順子は御簾の外にでた。文徳天皇は無呼吸で脈がなく体温も低下した。ふつうにいうなら、倒れたときに亡くなっていた。順子は体がむくんだように足がうまく運べない。耳の奥が痛い。皇太后大夫の伴義男が、すばやく追ってきた。

「どちらへまいられます。女御にょうごさまがたのところでしょうか」と善男。

答えようとしたが頭も口も動かない。善男がまえに出て、順子についている女房にょうぼうたちに「わたしの肩を……」と言っているのが聞こえる。

女房のだれかが、順子の手を善男の肩においた。小柄なので杖の代わりにはちょうどよく、順子は善男の肩につかまって女御たちがあつまっている部屋へゆき、六人の女御をながめた。感情も感覚もない。

三条町さんじょうのまち(紀静子)!」と、自分でも思いがけない甲高かんだかい声がでた。

「こちらです」と善男がうながす。

冷泉院は、後宮こうきゅうも内裏のように大きくない。それでも女御は独立したむねを、更衣はおなじ棟を分けて使っている。静子は更衣だが、去年から惟喬親王が紀氏の邸から移って来ていて、親王に賜るはずの邸が決まるまで一緒に一棟ひとむねを使っている。順子の女房がさきに知らせたので、静子と惟喬親王が手をついて出迎えていた。

善男を杖にして歩く廊下も長かった。重い雲の上を歩いているような妙な感覚だ。それに色がない。すべてが灰色に見えて、まわりが暗い。心因性の色覚異常しきかくいじょう視野狭窄しやきょうさくが起こっている。

その眼で順子は、のぞき穴から見るように静子をとらえた。必要がなかったから、順子は静子にも、その子らにも会ったことがない。それでも、すぐに静子が分かった。ドタッと横に腰を落とすと、順子は手をついている静子の肩をつかんで揺さぶった。なにがしたいのか自分でも分からない。

善男が動く気配がして、どうじに惟喬親王これたかしんのうが順子と静子のあいだに割って入った。

「皇太后さま。おしずまり下さい」と善男の声が聞こえる。

順子は狭くなった視野で、目のまえの惟喬をモノトーンで見ていた。

道康みちやす…」

頭の回転が速い伴善男は、順子の言葉を理解した。善男も、はじめて惟喬親王に会うが、仕草や表情が皇太子のころの文徳天皇にそっくりだ。

「道康…」あごを突きだし背中を丸めて、順子がつぶやく。

「……」と静子が顔をあげて問いかけた。

昨夜から女房たちが大騒ぎをしている。蔵人くろうどや宿直の侍従が、あちらこちらに知らせに向かった。今日は宮城と冷泉院のあいだを、ひっきりなしに使者が行き交っている。噂が乱れ飛んだが、ほんとうのことは誰も知らされていない。

「……いかがでございますか」と静子の声が、途中からはっきり聞き取れた。

道康のことを聞いている。道康は脈もなく呼吸も止まっていた。道康は亡くなった。…この女さえいなければ…この母子さえ居なければ。

思いがけずに一粒の涙が順子の頬に流れた。すると色がもどって視野が広くなった。感情が戻って頭も動きだした。

この子と、この女さえいなければ、道康が亡くなることはなかった。だが、この子と、この女だけは、道康を害することがない。

「帝は予期せぬことで崩御ほうぎょされました」と順子。

静子の顔から血の気が引く。惟喬の目が次第に充血してくる。

この場に関係のないことを、順子は思いだした。去年の新嘗祭にいなめさいが終わってから、道康は惟喬のために五節の舞いを冷泉院で行わせた。皇太子は御簾ごしに謁見えっけんしただけなのに、惟喬のためには五節の舞を二度も舞わせると良房が怒っていた。

八歳になったばかりの惟仁皇太子これひとこうたいしは、道康の顔も声も知らないだろうが、この少年は道康を知っている。道康の声も温もりも考えも知っている。

良かった…。道康は愛するものと楽しいときを過ごしていた。愛する子と愛する更衣の記憶に残った。

「ここから去りなさい。はやく去りなさい」と順子。

惟喬親王と静子の顔がこわばる。伴善男が、順子の顔をじっと見て聞いた。

紀夏井きのなついをよびましょうか」

「……真済しんぜいを」と順子。

夏井とおなじく真済も紀氏の出身だ。混乱しながらも順子は、静子と惟喬を守ろうとしていると善男は判断した。

「皇太后さまは、お二方の身を案じられています。真済どのとご一緒に分からぬように冷泉院を離れて身をお隠しください。わたくしが手配いたします」と善男。

血塗られた家系を立て直そうと生きてきた、英才えいさいの胸に灯がともった。天皇家のために闘いつづけた武人の血が、現役天皇の不審死ふしんしで騒ぎだした。


八月二十七日に、三十一歳の文徳天皇の崩御ほうぎょが発表された。

文徳天皇には六人の女御がいたが、子のある女御は、惟仁これひと皇太子と儀子よしこ内親王の母の明子だけで、更衣は十三人いて二十五人の子がある。

更衣の子で親王と内親王の宣下せんげを受けたのは十三人で、その内の六人が静子の子だ。

文徳天皇がせがまれるので、屏風に描かれた滝の絵をみて、静子が詠んだ歌がある。


想ひせく 心のうちの たきなれや おつとは見れど 音の聞こえぬ

(物思いが多い 心のなかの滝なのでしょう 落ちると見えますが 音は聞こえません)


文徳天皇が命をかけて愛した更衣の、表にだせない涙が体内をつたわって腹の底にしみいるような歌だ。



十四年まえに皇太子の交代があり、八年まえには在位中の仁明天皇が亡くなったから、なれている良房は要領よく動いた。

すぐに神璽しんじ宝剣ほうけん節符せっぷ鈴印れいいんなどの天皇のしるしとなるものを、皇太子の直曹じきそうに運んで警備し、八月二十九日には祖母の順子とおなじ輿に乗った皇太子が東院に入った。  

文徳天皇を山陵さんりょうに送ったのは九月六日。

そのあとで太政大臣の良房によって、叙位や任官が立て続けにおこなわれた。文徳天皇が信頼した紀夏井は、讃岐守さぬきのかみ(香川県)として四国に飛ばされた。

十一月七日に、宮城内の大極殿だいごくでん惟仁これひと皇太子が即位した。のちの諡号しごう清和せいわ天皇という満八歳の史上初の幼帝だ。幼帝の即位で、正式に太政大臣が政務を執ることになった。

良房よしふさは、天皇に代わった。



十二月八日に、年の終わりを告げるへいをささげる十陵四墓じゅうりょうよんぼが、八歳の天皇のみことのりとしてだされた。

十陵のほうは、天皇か皇后か天皇の母后の御陵で、そのときどきで多少の変化はあるが、いままでも、ことあるごとに幣をまつって大切にしてきたものだ。

なじみのない四墓は、藤原鎌足かまたり、藤原冬嗣ふゆつぐ、藤原美都子みつこ源潔姫みなもとのきよひめの墓。良房の始祖と両親と妻の墓で、これが御陵とおなじ扱いをうけることになった。

官僚としての良房は、嵯峨さが天皇、淳和じゅんな天皇、仁明にんみょう天皇、文徳もんとく天皇と四代につかえた経験があるだけ、したたかな力がある。エサで釣る、ばら撒き作戦に卓越たくばつしているが、国のためや国民のためになる政治はなにもしていない。

四墓を天皇陵とおなじ扱いにした八歳の天皇の詔には、良房の弟の良相よしみや、猶子ゆうし基経もとつねでさえ反感をもった。それに始祖となる鎌足は死ぬまで中臣で、藤原を名乗ったのは鎌足の子として登場した不比等ふひとからだ。不比等は天武てんむ系の天皇につくし、鎌足は天智てんじ系の天皇につくしたから、いまの天智系の天皇家に迎合げいごうして鎌足を持ちだしたところまで気持ちが悪いと基経は思った。



文徳天皇が崩御されてからも、業平なりひらは「奈良から動くな!」と真如しんにょにとめられていた。真如は真済しんぜいと兄弟弟子だから、静子しずこ惟喬これたか親王の身の安全は聞いている。

大仏の頭は新造するはずで、真如は鋳型いがたを作るときの参考にと、各寺の仏師も集めていたが鋳造ちゅうぞうできる技術者がいなかった。

そこで京に住む斎部文山いんべのふみやまを呼んで、落ちた頭部をつり上げて接着することになった。

このころの奈良の仏師は各寺に所属していて、新しい仏像を造る機会にめぐまれない。すでに、お寺には御本尊が奉られているからだ。集めてみたが必要のなかった仏師が不退寺ふたいじ聖観音像せいかんのんぞうの制作を手伝ってくれている。

だから業平も制作に熱をあげていて、真如にとめられなくても奈良を離れる気はなかった。天皇の交代で官人たちは多忙だったが、正六位上で散位の地下官人のことなど、どこでなにをしていようが、だれも思いださなかった。



清和せいわ天皇の即位から一週間後の十一月十四日に、文徳もんとく天皇の女御にょうごで、右大臣の良相よしみの娘の藤原多賀幾子たかいこが亡くなった。多賀幾子の母は大枝氏で音人おとんどの一族になる。

清和天皇が即位しているので惟喬親王の身辺はしずかになり、多賀幾子の葬儀のために久しぶりに業平は京に戻った。

良相の邸は西三条第にしさんじょうだいで一町の広さだ。

従二位の階位をもつから、りっぱな四脚門しきゃくもん朱雀大路すざくおおじに面して構えられている。

父の良相は忙しく、喪主は息子の常行だった。現役の右大臣の娘の葬儀なので、ここぞとばかりに参列者が多い。業平は地下官人だから目立たないように末の方にひかえていたが、それでも視線が集中する。

もはや中年の三十三歳。はなやいでいた美貌の青年貴族は、存在感のある麗人れいじんになっていた。恋もせず歌もまずに二年余りも奈良に引っこんでいたから、人の視線が心地よい。

左小弁さしょうべんになった大枝音人おおえのおとんどは少しだけ顔をだして、業平を見つけると連れと一緒に寄ってきた。

在五ざいごどの。お久しぶりでございます」と音人。

大枝音人が阿保親王の第一子なのは世間が承知していることだが、人まえでは他人行儀たにんぎょうぎな態度をとる。

「大枝さま。このたびは、ご愁傷しゅうしょうなことでございます」と業平。

「ご紹介しましょう。こちらは、在原業平どの。こちらは大蔵大輔おおくらのたいふ左中弁さちゅうべんの、高階岑緒たかしなのみねおさまでございます」と音人。

音人は四十七歳。高階岑緒は、それより少し年上にみえる

「あの有名な在五どのでございますか。ご病気でご療養中りょうようちゅうとききましたが、お加減はいかがでございますか」と高階岑緒が、業平には心地よい好奇心を顔に浮かべた。

「ようやく戻りつつあります。よろしく、お見知りおきください」と業平。

「こちらもよろしくおねがいします。お歌を楽しみにしておりますよ」と岑緒。

音人が親しくしている友人は学者が多く年齢も高い。知識人は自信があるうえに好奇心が強いから、感性の業平を暖かく受けいれてくれる。

音人の上司である高階真人岑雄たかしなのまひとみねおは、むかし太政大臣になった高市たけち皇子の子で、藤原四兄弟に冤罪えんざいをきせられて子まで縊死いしさせられた長屋王ながやおうの四世孫。母親が藤原不比等ふひとの娘の長娥子ながこだったので「長屋王の変」を生き延びて、「橘奈良麻呂の変」で流刑になった黄文王きぶみおうの子孫だ。正五位下で、酸いも甘いも心得た天武天皇系の能吏のうりだ。

娘の多賀幾子を亡くしてから、良相は藤原氏のくらしに困っている子女たちのための救済と援助に私財を使いはじめる。



翌八五九年(天安三年・貞観じょうがん元年)。

文徳天皇の諒闇りょうあん中なので正月の行事はなかったが、叙位と任官は行われて、行平ゆきひらは従四位下の左馬頭さまのかみ守平もりひらは従五位下で宮内省に属して食事を担当する大膳大夫だいぜんのたいふ大枝音人おおえのおとんどは正五位下で右中弁うちゅうべんになった。

四月十五日、年号は貞観じょうがんと改号された。

喪も明けた八月に、畿内と畿外の諸国司しょこくのつかさが、たかやはしたか(小型の鷹)を飼うことを禁止する令がでる。これを提議ていぎして決議に導いたのは右大臣の良相よしみだった。

もともと良相は、速く高く飛べない小鳥を馬に乗って追いかけて、疲れたころに鷹を放って襲わせる鷹狩たかがりが好きではない。しかも鷹狩のときに小鳥を追って田畑に馬で入り、百姓が丹精たんせいをこめて作っている作物を踏み荒らしてしまう。いくら注意をしても、そういう不逞ふていやからが絶えなかった。鷹狩をするのは貴族と一部の富裕層に限られているから、注意してもダメならと鷹とはしたかの飼育を禁止してしまった。

良房は、人事には関心があるが、いわゆる政務はしない。すべての政務を任せている。

だが、これが発端になって、左大臣の源信みなもとのまことと右大臣の藤原良相のあいだには、しこりができる。源信の趣味が鷹狩だった。

十月一日に、静子の娘の恬子内親王やすこないしんのうが、伊勢神宮の新しい斎王さいおう卜定びくじょうされた。まだ幼い十一歳の恬子やすこは、すぐに母や家族とはなされて潔斎けっさいに入った。


十一月十六日から、新天皇が即位された年だけ行われる大嘗会だいじょうえが催された。官人にとっては記念すべきもので、それを企画したり準備したり参加することで、気分を一新して今上天皇を盛りあげようというものだ。お祭り騒ぎは人心を一つにまとめやすい。

例年の新嘗祭にいなめさいと手順はおなじだが、幼帝の即位で不安だらけの今回の大嘗会は派手だ。神事や叙位が終わった十九日に打ちあげの大宴会が用意されている。この日に一番人気の歌舞音曲かぶおんぎょくが行われる。アルコールと食事つきの野外コンサートのようなものだ。

朝堂院ちょうどういんの西にある豊楽院ぶらくいん広廂ひろひさしに、清和天皇が出座しゅつざされ、庭に五位以上の殿上人がすわり食事と酒がだされる。

演台では多治氏たじしの田舞い。伴氏ともし佐伯氏さえきし久米舞くめまいいが続く。琴を弾くのは伴氏、刀を持って踊るのは佐伯氏。歌うのは大歌所おおうたどころの職員。久米舞いは勇猛果敢ゆうもうかかんな武人の舞いだ。

参議で正三位、皇太后宮大夫こうたいごうたいふ伴善男とものよしおの腹に、その歌がひびきわたる。阿部あべ氏の吉志舞きしまい、美しい内舎人うとねりの若者が踊る倭舞やまとまいがおわり、夜になって篝火かがりびが灯されたころに、大嘗会の最後を飾る五節ごせちの舞姫が登場した。

五節の舞姫は、通常の新嘗祭のときは四人、大嘗会のときは五人。貴族の娘たちが舞姫をつとめる。貴族の娘は人前に顔をだすことがないので、百官が期待して心待ちにしている出しものだ。

舞姫はの日に内裏に入るから、すでに十三日から常寧殿じょうねいでんにつくられた五節所ごせちしょという場所でくらしている。それだけで空気に色香いろかが混ざったかのように若い貴族はワクワクする。五節舞姫は、一人で十人前後の女房と、童女二人を従えている。ほかに髪上げ(ヘヤースタイリスト)、下仕え、樋洗ひすまし(トイレ係)の女童がついてくる。童女と女房たちは、そろいの衣装を着るし、下仕えなども、そろいの衣装を新調するから、舞姫をだす家は金がかかる。舞姫の女房が、どんな衣装をそろえてくるのか、男だけでなく女も見たくてたまらない。かれらが使う道は筵囲むしろがこいがしてあり、舞姫が移動するときは、まわりを四人の男子が几帳きちょうめぐらせてかくすから、見たい覗きたい心理が、いやでもかきたてられる。

のちに大嘗会や新嘗祭の五節舞いがはじまるまえに、若い貴族が乱痴気騒らんちきさわぎを起こす下地ができていた。

文徳天皇が亡くなって一年半。その亡くなり方への不審ふしんは五節舞がはじまるころには、まぎれつつあった。

今回の舞姫のなかで、人々の関心を一番に集めているのは十七歳になる藤原高子たかいこ太政大臣だじょうだいじん良房よしふさの亡兄の長良ながらの娘で、良房が猶子ゆうしにした基経もとつねの妹になる。

「おい。もり。藤氏の姫はどれだ」と、立ち見をしている人垣から声を掛けられて、席に戻ろうとしていた守平はびっくりした。

なり。いつ都に戻ってきた?」と守平。

「藤氏の娘を教えろ」と業平。

「真ん中の娘だ」

「化粧がこくて素顔が分からないな。動きはぎこちなくて舞いは下手だ」と業平。

仲平なかひらは病で休職中だが、行平と守平と音人は五位以上の貴族だから豊楽院ぶらくいんに席を与えられている。正六位上の業平は地下人で席がない。

「太政大臣は、あの姫を入内じゅだいさせるつもりだときいた。相手は、まだ子供だぞ。年ごろの娘が気の毒だと思わないか」と業平。

「なにを考えている?」と守平。

「わたしの好みではないが…まあ、しかたがない」と業平。

「おい。業!」

業平は、目元で笑って闇にまぎれた。



五条第ごじょうだいに?」と業平。左京三条四坊三町にある業平の邸のなかだ。

「はい。五節舞姫をつとめられましたので、従五位下を下賜かしされました。

いまは宮中にあがってからの行儀見習いだそうですが、五条第のあるじの順子さまは帝につきそって東宮に移られて、お留守です。この春には戻られるはずでしたが、内裏から五条第に移られるのは方位が悪いとかで、右京三條一坊にある良相よしみさまの西二条第にしにじょうだい方違かたたがえをされて帰っておられません」と業平の大叔母で、藤原高子の乳母の睦子むつこか説明する。

「ずっとですか」と業平。

「はい。戻られるようすがありません。良相さまとお話が合うのでしょう」と睦子。

「じゃあ、いまの五条第には……」と業平。

「西の棟に高子さまだけが住まわれています。なぜ、そのようなことを聞かれます?」と睦子。

「いや。なに…」と業平が鼻の横を人差し指でこすった。

「そのくせ。ちっとも、お変わりになりませんね」とクスクス笑いながら睦子は「もしかして、高子さまの元に忍ばれるつもりでは…。あっ。図星づぼしですね。なにを求められて、わたしを呼ばれました。恋の達人に手引きが必要ですか」

「…ん」

高子たかいこさまは、わたしが手塩てしおにかけて、お育てした姫です。幼くても帝ですから、入内じゅだいされるのは光栄なことだと思っております。

でも、今回のことで、いろいろと考えました。

順子さまは年下の仁明天皇に入内されて第一皇子をもうけられ、ずっと籐氏のためにくしてこられました。その挙句あげくに大切な一人息子を亡きものにされた。あまりの仕打ちでしょう。

どんなに高貴な生まれでも、母にとって子は子。かえがたい宝です。子を失くす悲しみに変わりはございません。我が子の命にくらべれは、皇位など、どうでもよいことです。

順子さまが西二條第から戻ってこられないのは、おなじように多賀幾子さまを亡くされたばかりの良相さまとおられると、心がやすまるからでしょう。

業平さま。わたしは高子さまには、ご自分で選ばれた道を、我がままに実り豊かに生き抜いて欲しいとねがっています」と睦子。

「と、いうことは、睦子どの」と業平。

「話はしましょう。業平さま。高子さまは自分で考えて自分で判断ができる、頭の良い方です。ご自分で決められるでしょう。すべては高子さまのお考え次第です。

さてっと…。本日はお暇をいただいてまいりましたので、こちらに泊めていただきましょうか」と睦子。

「エ…えーッ! ただいま、お送りさせます。すぐに仕度をさせますから…」と業平。

「どうぞ、お気づかいなく」と睦子。

「いえ。いえ。気を使わせてください」

「では、お言葉に甘えて。夕餉ゆうげのお仕度は、まだでしょうか? 冷えてまいりました。さきにオササ(酒)でも頂きましょうか。あら、なにを渋っておられます。寝込みをおそいはしませんから、ご安心なさいな」

三十半ばを過ぎた未亡人の睦子は、ますますドンとしてデンとしている。



八六〇年(貞観二年)の二月二十五日に、僧の真済しんぜいが亡くなった。

そして桜の花が散るころから、「鬼一口おにひとくち」という話がちまたに広がった。


……昔々、あるところに、いやしい身分の男がいて、帝の元に入内するはずの大臣の姫に恋をした。げられない身分違いの恋なので、どこか遠くで一緒に暮したいと、男は姫を背負せおって駆け落ちする。

逃げる途中の山道で、草についた夜露が月の光にきらめくのを「あれは、なあに?」と背負った姫が聞いたのに、追手を恐れた男は先を急いで返事をしなかった。やっと山のなかに一軒の粗末そまつな小屋を見つけた男は、大切な姫をなかに入れて休ませて自分は外で見張りをした。

つぎの朝、追手が来ないことを確かめた男が小屋の中に入ってみると、衣だけを残して姫の姿は消えている。その小屋は鬼の住処すみかで、男が外で寝ずの番をしているあいだに姫は鬼に食べられてしまった……。

哀しみにくれて、男が詠んだ歌


白玉しらたまか 何ぞと人の いし時 つゆとこたへて えなましものを

(あれは白玉か なにかとあなたが聞いたときに あれは草に付いた露ですと答えて 露のように消えてしまえば良かった…)


なんとなく恐ろしくて哀しく、月光に照らされて山を逃げる男と背負われた姫という絵になる話なので、アッというまに「鬼一口」は庶民に広まった。しばらくして、男は在五、姫は藤家の娘だという噂が伝わった。

まれな美貌と歌の才で、若いころに一世を風靡ふうびしていた庶民のアイドルの在五が、四年ぶりに戻ってきた。

それも良房が幼帝のもとに入内させようとしている娘との、人目をしのぶ危険な恋をともなって、苦しい日々をおくる庶民のウサを、おとぎ話で楽しませてくれた。

喝采かっさいしたのは庶民だけではない。良房に反感をもつ官人も溜飲りゅういんを下げた。入内を予定している娘に、あれは玉かときかれて、あんなものは、ただの露だろうと言って消えればよかったという歌だが、玉を玉座と解釈すれば意味は大きくちがってくる。

この話のモデルの実年齢は、帝の清和せいわ天皇は満十歳。姫の高子たかいこは十八歳。恋する男の業平は三十五歳。かなり歳の差のある三角関係だ。

さらに身分違いの恋というが、在五は正六位上で貴族ではなく地下人。大嘗会だいじょうえに五節を舞った高子は従五位下をもらって一階級上位にいる。高子を入内させたい良房は、幼帝に代わる太政大臣として国の頂点にいる。たしかに身分違いだ。

しかし良房はあくまでも臣下で、在五は平城へいぜい天皇の第一皇子の阿保親王あぼしんのうの子。母は桓武天皇の娘の伊都内親王いつないしんのう

権勢欲に駆られた良房の父の冬嗣と祖父の内麻呂が画策かくさくせずに、正しい嫡子相伝ちゃくしそうでんがなされていたら、もっとも皇位に相応ふさわしいしい血を持っている。



人々が「鬼一口」に夢中になっていた夏のはじめに、業平は奈良にいた。

不退寺ふたいじの聖観音像ができあがった。流れるような曲線を描き、蓮の花を手にして腰をひねった観音さまは、幅の広い紅色のリボンを頭に巻いている。

「美しいな」と真如。

「開眼が終わったら、わたしは都に引きあげます」と業平。

「業平。おまえは、どうせ正六位上の散位だ。ヒマだろ。もう少し、いないか」と真如。

「叔父上。惟喬これたか親王は、太政大臣にとって無力な存在になったはずです。

それに二条三坊に邸を構えられて静子さまも移られましたから、うちの隣の紀氏の邸には舅の有常どのと、うるさい尼さんと、尼さんの娘の眞子さましかおりません。

ねえ。叔父上。惟喬親王のお邸は父上の邸跡だと知ってます? 

なつかしいでしょう」と業平。

「あのな。ちょっと手伝ってもらいたい」と真如。

「なにを?」

大仏會だいぶつえだ」

東大寺の大仏の修理が終わった。それを祝う大仏會の総責任者になった真如は、あれこれ企画したのだが思うようにいかなかったらしい。

「いいか。業平。

にしきあやも制限なしの使い放題、なんでも使える。

貴賤きせんの別なく、みんなが楽しめる大きな催しにしたいのだ。わたしの最後の仕事だ。手伝え」と真如。

「そのようなことを、わたしは命じられておりません」と業平。

「おまえ…なあ。ずっとまえに、チョコッと仁明にんみょう天皇の蔵人くろうどをしただけで、その歳になるまで何かの職についたことがあるか。

ずっと散位さんいだろ。朝廷は、おまえを必要としていない。

おまえに何かを命じたりしない」と真如。

「本人のまえで、よく言えますね」と業平。

「本当のことだろ。それにくらべて民は、おまえを必要としている。

どこがよいのか、おまえの歌を愛してくれている。ありがたいことだ。

この大廬舎那仏だいるしゃなぶつは朝廷のものではない。

帝のものでも、まして太政大臣、良房のものでもない。民のものだ。

この国に生きている、すべての命のためにある。

大仏會の手伝いを命じられるのは朝廷ではなく、生けるすべての人々だ。

命を与えられた鳥や獣や草や木や、すべての生きものたちだ。

仏の国では、みなが等しい。みなの勧進かんじんによって造られた盧舎那仏の再興の祝いだぞ。うーんと派手なやつを考えろ。ちゃんと病欠の届けは出してやる」と真如。

「病欠って! 評価もなしの、ただ働きですか」と業平。

「ときどき登庁できるように胃弱にしておく」と真如。

「叔父上!」

「功徳だと思え、業平。人は一時ひとときでも、うつつを忘れて夢を見たいのだ」と真如。

できあがった不退寺ふたいじを維持するために、上毛野内親王、叡努内親王、石上内親王たち、つまり奈良の帝の娘や孫娘たちが水田を布施してくれた。


「竹ヒゴで形を作って薄布を張ると?」と真如。

「ええ。作りものの花で堂内を飾ります。

柱には錦の布を巻き、床も布を敷きつめます。床は紫か赤。どっちかな…。

ここには張り出しの舞台をこしらえて、庶民にも見えるように歌舞音曲かぶおんぎょくを催します。舞台のまわりも作りものを飾りましょう。

仏師や宮大工にできるかどうか……。

東塔と西塔のまえの広場にも、小舞台をつくって催しものをしたいな。

歌や踊りや琵琶や笛などができる人が、そんなにいるかなあ」と自分で作った絵図面を見ながら、業平は夢中になっている。

「奈良の帝のえにしだろうな」と真如が腕を組んだ。

「なにが?」

「作り物の技人てひとは、わたしが呼んでおく。

それから、ずっと昔にかや御所ごしょで、おまえも会ったことがあるはずだが、行教ぎょうきょうという僧が男山おとこやまに八幡宮をつくっている。おまえの舅の有常ありつねが、よく知っているはずだ。

そのふもとの山崎に色町があるそうだ」と真如。

「ああ、はい。はい」たしか青砥せいと白砥はくとが移ったはずの色町だ。

「八幡信仰を広げるために、おもしろいことを企んでいる。歩き巫女みこだ。

歌や踊りを教えて、札をもたせて諸国を巡らせる。春もひさぐのだろうが、女一人では危ないからはた土師はじが関わるらしい。

遊女を集めるわけにはゆかないが、巫女なら、どうだ?」

「そちらは、わたしが手配します」と業平。

「あん。出来るのか?」と真如。

「有常どのにたのみます」

「ああ。おや……あの娘は?」と真如が、遠くでサンセイと話している娘に目をやった。

「仏師の慶行けいぎょうの娘で、たしか……桔梗ききょうとか」と業平。

「身ごもっているように見えるぞ」と真如が業平を見る。

「種馬のように、わたしを見ないでください。サンセイの子ですよ」

「そうか。それは、めでたい!」と真如がポンと手を叩いた。



数日後に、八人ほどの異風の集団が不退寺ふたいじにやってきた。無冠むかん藍染あいぞめの身軽な衣装をまとっている。腕とすねには、長い藍の細布を巻きしめている。

「おお!」とサンセイが、驚きの声をあげた。

「知り合いか?」と業平。

小野山人おのさんじんです」

小野山は都の東北にある。サンセイは小椋谷おぐらだにの出だから近い。都からは東北の鬼門きもんになるが、山を東に降りれば琵琶湖びわこの西南になる場所だ。

「立派な寺になったな。なにか用か? なり」と男の一人が近寄ってきた。

「兄上? えっ! 仲兄なかにい? 

邸をたずねても、いつも留守だと追い払われました。文にも返事がない。

いったい、ぜんたい、あのう…。どうしたのですか。その格好は」と業平。

「悪かったな。そろそろ死亡届を出そうと思っている」と仲平。

「えッ!」

宮仕みやづかえをするよりも、わたしには、このほうが生きやすい。

叔父上から、おまえが、わたしを必要としていると連絡をもらった」と仲平。

「わたしをさけて、叔父上とは連絡をしていたのですか?」と業平。

「今回の盧舎那仏るしゃなぶつの修理で活躍した、斎部文山いんべのふみやまを紹介してもらったのだ。ロクロの扱いを教わるためにな。

子供みたいに、すねるなよ。弟の役に立つなら、わたしができることは、なんでもすると約束しただろう。なんの用だ」と仲平。

「業さま。小野山人おのさんじんはヒゴ細工が得意です。かがり火や炭つくりも他にかなうものがおりません」とサンセイが説明した。


「わしの弟子にならないか?」

東大寺の仏師の慶行けいぎょうの家は、工房をもつ田舎屋だ。

眼のまえには、稲穂いなほが実った水田が広がってイナゴが飛んでいる。桔梗ききょうが、茹でたひしの実をザルにいれて運んできた。慶行の妻の奈津が、亀の肉をもりあげた湯気の立つ皿をもってくる。

「弟子にするには歳をとりすぎているが、それだけ手先が器用ならきたえがいもある」と慶行。

サンセイが、こまったような顔をする。

不退寺ふたいじの観音像を作っているあいだに、サンセイは桔梗と出会った。幾度か会ううちに互いにひかれあった。南都に住む仏師の一人娘は、都の女たちとちがって素直でのびやかだ。

サンセイは三十半ばをすぎたのに、きまった妻がいない。はじめての恋。はじめての妻。まだ十七歳の桔梗が愛しくてたまらない。

慶行の弟子になって、桔梗と一緒に水田をながめてくらしたい。生まれてくる子と桔梗の両親とで、木の香りをぎながら、おだやかにくらしたい。

そう思えば思うほど、切なくなってサンセイはうつむいた。涙がポタリと床におちた。

「…だめか」と慶行。

桔梗の父だが四十歳になったばかりで、サンセイと歳がちがわない。

「そうしたい。そうしたいが…」とサンセイが声をつまらせる。

在家さいけから許しがでないか」と慶行。

「許しはでる」

「…では、なぜ」

「うまくいえないが、在五ざいごさまを捨てられない」とサンセイ。

「業平さまから離れがたいのか」と慶行。

「業さまなら離れられるが、在五ざいごさまは、さいごまで見届けたい。

どう話せばよいか分からない。業さまは、若いころから仕えたあるじだ。望まれて仏師になるといえば、喜んで祝ってくれるはずだ。

在五さまは、わたしも手を貸して一緒につくった都一番の、いいや。この国一の雅男みやびおだ」とサンセイ。

日が暮れはじめて、田の虫が泣きはじめた。

「…分かるような気がする」と、しばらくして慶行がポツリと言った。サンセイが目をあげる。

「仏師も彫った仏とは離れがたい。まして生きている人をつくったのなら、さいごまで手を貸したいだろう。サンセイ。生まれてくる子を、わしの弟子にくれないか」と慶行。

「女かもしれない」とサンセイ。

「女も男も、これから増えるのだろう?」と慶行。

「…」

「都へ行っても、せっせと通ってこい。わしの跡継ぎをつくってくれ。

在五さまを見届けたら、かならず、ここへ帰ってこいよ」と慶行。

田の虫の声がうるさくなった。



秋のひととき。

業平が都の邸に戻ってくつろいでいると、「よっこいしょ」と蔵麿が座った。

和仁蔵麿わにのくらまろ叫古井さけびのふるいは、守平と業平の邸を適当に交代してみている。二人とも事業じぎょうだ。

「かわりはなかったか。じい」と業平。

「いっとき下火になったのに、また賑わってまいりましたな」と蔵麿。

「なにが」

「在五さまの邸を見物にくる人です。見料でも取って中も見せましょうか。

あ…そうそう。睦子むつこどのから使いがありまして、帰ってこられたら知らせて欲しいとおっしゃっています。

ぜひとも、お目にかかりたいそうですが、どうします」と蔵麿。

「どう思う?」

「なにか、あったのでしょうな」

二日後のよいの口に、睦子は息子の邦雄くにおと下働きの娘をつれて現われた。部屋にあがるなり「ああ痛い! もうダメ!」と下働きの娘が足を投げだして、ひっくり返った。声を聴いた業平が飛び上がる。

高子たかいこさま…ええーっ!」

「こんなに歩いたのは生まれてはじめて。足の裏が、すごく痛い。ふくらはぎも腿も背中までイタイ! どうしてくれるのよ!」と高子。

「やはり高子さまですね。睦子どの。これは、どうしたことです」と業平。

「さきに、申しあげたはずです。わたしは高子さまを我ままに育てました」と睦子。

「人に見られたらどうします。お邸のかたは、ごぞんじなのですか?」と業平。



鬼一口おにいとくち」が話題になって、高子は実家の枇杷第びわだいにつれもどされた。父の邸だったが、いまは長兄の国経くにつねが、母の乙春おつはるとくらしている。五条第ごじょうだいよりも目が届くし、まわりには藤原北家の邸が多くて、いかに業平でも通えない。

「蔵麿どのから知らせをいただいて、この二日、病気のふりをしてせっておられましたから、お邸の方は寝込んでいると思われるでしょう」と睦子。

「なぜ危ないことをなさいます。途中でなにかあったら、どうするつもりだったのです」と業平。

「在五さまに、どうしても言いたいことがあります。あの話を、わたしは好みません!」と高子。

「はい?」

「鬼に食べられる話!」と高子。

「どこが、お気に召さない?」と業平。

「あれでは、二人は小屋の内と外。結ばれるまえに、わたしは鬼に食べられてしまいます」

入内じゅだいされるのでしょう。高子さまには、この先があります。

姫をしたって連れだした男とは、清いままで引きさかれてしまう。

あなたを思いやってのことではないですか」と業平。

「そうやって恩ぎせがましく、わたしのせいにするところが、いやらしい。

あなたって、卑怯ひきょう姑息こそくで無情な、最低の男です!」と高子。

「ん!」と業平がつまった。

「わたしが帝より八歳も歳上なのは、だれでも知っています。

帝も好まれないでしょうが、わたしも好んで入内するわけではありませんから、在五さま。自分の言い訳に、わたしを使わないください!」と高子。

「言い訳ですか…」

「十八にもなって、月光に輝く露も知らないほど、わたしはおろかかな娘ですか?」と高子。

深窓しんそうに、お育ちになりましたから」と業平。

「深窓といわれる場所がある邸は、庭も広くて虫も草も露も多いことぐらい、ご存じでしょう!」と高子。

「それは、あなたの高貴さを印象づけるためで…」

「好き合った二人なら、山の中で小屋を見つければ、まず抱き合うでしょうに」と高子。

「だから、あなたの純潔を…」と業平。

「お黙りください! 

在五さま。あの話は、だれにあてて作られました。だれに向けて、あの歌を詠まれました。

わたしを利用して広く世に広めようと、自分の評判のためだけに詠まれたのではないでしょうか。根性、くさってませんか?

利用するだけならともかく、恩をきせるような言い訳までされたのでは、腹がたって腹が立って…。恨みます。呪います。祟りますよ! 

きれいな別れ方ができないのなら、このまま、ずーっと、まといついて別れません!」と高子。

「はあ?」

「たとえ一時の恋でも、相手だけをみて、その人のためだけに身も心をけずってみたらどうです。

一心に思われて、はじめて恋はうつくしく浄化じょうかされて思い出になります。人の評価など、どうでもいいでしょう。

あなたの心を切り取って、わたくしにください!」と高子。

「こういう、お顔でしたか。

いつもは暗いし、白塗りをされているから分かりませんでした」と業平。

「話を、そらさないでください。

あなたが夢中になるほど、わたくしは美しくありません。

入内するかもしれない藤家の娘という、利用価値しかありません!」と高子。

「これはまた、ケチくさいことを口にされる。

自分を美しくないと卑下ひげするなど、卑怯ひきょう姑息こそくじゃありませんか。

まあ並みのお顔立ちです。とくにみにくく生まれついたわけではありません。高子さま。美しさは鍛練たんれんして作りあげるものです。分かりますか。

美しくなろうという意思があり努力を重ねれば、表情一つ、仕草しぐさ一つで、だれよりも優雅に、だれよりもあでやかになることができます。

努力もせずに自分を卑下するとは、なんとゴウマンな」と業平。

「努力って、どうすればいいの」と高子。

「まず鏡でご自分をたしかめなさい。人の動きやしぐさを真似るのも良いでしょう。顔の表情や体の動きをまねることは、そういう動きをするときの人の心も感じます。美しさとは生み出すもの。自分の力で作り上げるものです。

自分を知って、人の反応を知ることです。

高子たかいこさま。相手を思い、その人のために身をけずる。

はかなく消えても、燃えあがる情愛とはそういうものでした。

あなたは、わたしの目を覚ましてくださった。わたしの歌を待っていてください。

そして、あなたは、だれよりも輝く女性になる努力をしてください。

きっと、あなたなら、美しく輝く人になれます」と業平が保証した。


暗いうちに帰ったのに、つぎの日の朝に睦子むつこが一人でやってきた。

「どうなさいました」と業平。

「こんどは、お暇を出されてしまいました」と睦子。

「昨夜のことで?」

「昨夜のことは、高子さまの物思いがつのってフラフラと彷徨さまよわれたことになっております。

ただわたしは信用がありませんから、いつまでも高子さまが物思いにふけられるのは、わたしがいるせいだと追っ払われてしまいました」と睦子。

「これから、どうなさるおつもりですか。よかったら母と一緒に暮らされませんか」と業平。

「いえ。右大臣の藤原良相よしみさまが、六条に藤氏の子女の救済所をつくって、雑仕女ぞうしめつのっておられますから、そこで働きます。

藤氏にかかわっていれば、いつか高子さまの噂が届くかも知れません」と睦子。

邦雄くにおどのは?」

「あの子は舎人わらわとねりとして登庁とうちょうして、舎人寮に属しています」と睦子。

「睦子どの。五条第ごじょうだいがどうなっているか、ご存知ですか?」

順子じゅんこさまが帰っておられます。

業平さま。なにかたくらむつもりでしたら、わたしも加えてくださいな」と睦子。

「つぎの桜が咲くころまでに、少し軽くなってくださるのなら」

「は?」

「すこしお痩せにならないと馬がめげます。睦子どの」と業平。



にいさん。おまえも変わった人だねえ」と岡田剛おかだのごう

晩秋の光が差す、客足がとだえた遊亀楼ゆうきろうの昼下がりだ。

「アチャは、もう妓女ぎじょじゃない。うちの下働きだ。下働きにだいを払って、いつまで会いにくるつもりかい」と剛。

良房の側番舎人そばばんとねりのジュツが、月に一度か二度、会いに来ていた阿茶あちゃは、年季ねんきが空けて遊亀楼の下働きになった。琵琶びわが上手いので客のまえで披露するが、客とまくらを交わすことはない。

それでもジュツは十文払って会いにくる。ジュツが阿茶の手からおけをとりあげて雑巾ぞうきんしぼりはじめた。何回も流産したが、いまも阿茶は身ごもっている。

「揚げ代を払って掃除を手伝う気かい。どうだい。いっそのこと一緒になっちまえば」と剛。

ジュツは黙って床をふいているが、どっこいしょと座った阿茶が、剛にまくしたてる。

「剛のおやっさん。冗談いっちゃいけないよ。どこのだれがテテ親か、あたいにだって分からないが、この人の子じゃないことは確かだよ!」と阿茶。

「えらい剣幕だ」と剛。

「あたいだけが分っているってやつだ」と阿茶。

「へーえ。揚げ代を払って妓女ぎじょに会いに来ていただっけて、ことかい」と剛。

「いつもじゃないけどさ。この子のテテではないよ」と阿茶。

「こんどは、ちゃんと生まれて育つといいな。アチャ。いつごろだい」と剛。

「つぎの夏のごろだ」と阿茶。

「だけどな。腹が出てきたら、ここにゃ置けない。下女が腹ボテだと客が引いちまうだろうよ」と剛。

「追いだす気かい。こっちは行く当てがないんだよ。この鬼畜生おにちくしょう!」と阿茶。

「おれのおやじの足腰が立たねえ。そっちの世話をしてくれ。なあ。兄さん。もしもアチャの子が無事に生まれたら、名をつけてくれねえか」と剛。

ジュツが、不思議そうな顔をして剛を見た。

「なにもアチャやガキを、おまえさんに押しつけようってんじゃない。

テテが、だれか分からないのは、生まれてくる子のせいじゃない。せめて、おめえのテテがつけた名だと言ってやりてえと思ってよ。

兄さんが、どこのだれかは知らねえが、妓女の顔を見にくるだけで下女に揚げ代を払って、掃除を手伝おうって変人なら、打ってつけじゃねえか」と剛。

ジュツが照れくさそうにうつむいた。

剛は、ジュツの素性も家原芳明いえはらのよしあきという名も知っている。良房が、身寄りのない孤児を童雑色わらわぞうしきにして、その中から側番舎人そばばんとねりというものを選んでいるのもしらべている。

孤児を雇うは美談のようだが、おなじことでも淳和院じゅんないんの正子太皇太后だいこうたいごうは、孤児が成人すると役所に届けでて戸籍と家を作って独立させている。

それとはちがうようで、良房の側番舎人は、良房のそばに仕えて急死するか失踪しっそうする。何か裏がありそうなのだが、この男は、いい奴だ。

「兄さん。あとで、おやじの家に行く道を教えるから、次からアチャに会いたくなったら、おやじのとこへ行ってくれ。ここへは来るなよ。商いのジャマだ」と、つっけんどんな強面こわおもてで剛は言った。



この冬に、そんなに鷹狩たかがりがしたいのなら、迷惑をかけないようにと、左大臣の源まことのために宇治うじに鷹狩用の土地を二十五町も、国が下賜げしした。つづいて弟の源とおるのために、鷹狩用地として宇多野うたのの土地をあたえた。

幼帝の清和せいわ天皇を補佐するのは太政大臣の良房だが、左大臣は臣下の筆頭にいる。その左大臣の源信が、太政官会議で一年以上も、自分の趣味のために鷹を飼うことを禁止した条例に文句をいっていた。

右大臣の良相はうんざりし、参議の伴善男とものよしおは、仁明にんみょう天皇を苦しめた嵯峨さがの帝の姿を信の上に重ねた。
















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