第八話 抜き乱る 人こそあるらし 白玉の・・・
八五〇年(
三月二十五日。
良房の邸の
大臣の
大きな邸を建てるのも好きで、いまは左京三条二坊の
隣り合った閑院と東三条第は、東西に通る小路をつぶして、それぞれが二町(三万平方メートル弱。約九千坪弱)の広さがある。南北の縦路をつぶして邸を四町に広げないのは、大臣の邸の大きさは二町までという規制があるからだ。
このすぐ北西に嘉智子太皇太后が住んでいた
そのほかに良房は、いままで住んでいた
百本の桜を植えた染殿は花盛りだ。ほのかなはずの桜の香りが、ここでは密にする。ジュツは眼を閉じて花の香りを楽しんでいる。すでに一刻ほどまえから邸のなかが騒がしい。そろそろだろうと思ったときに、染殿の
「皇子でございます。元気な皇子でございます。
母子ともに、お健やかです。さあ、はやく、お知らせください。
それぞれのお邸には、こちらから知らせをやります」と
ジュツは黙って頭をさげた。それから古い
今日は
染殿は都の最北東にある。ジュツは
在位のままで崩御した天皇は、平安京の
だから称徳天皇のときは、皇太子の
良房の供をしている昼の側番舎人で、シンと呼ばれている
「皇子さまでございます。母子ともに、お健やかです」とジュツが伝えた。
良房は、悲しい、苦しい、うれしいというような、もろもろの感情になれていない。必要に応じて笑みはつくるが、心から笑ったことも、怒ったこともないので、腹をよじって笑うことを知らない。それでも不思議なことに腹だけがヒクヒクとふるえる。
仁明天皇を深草の山陵に送る日に、明子が次期天皇の皇子を生んだ。
まさに天の配材だ…ツキがある。
葬列は深草まで行って法要をするから、良房が邸に戻ってくるのは遅くなるだろう。ジュツは昨日の昼から寝ておらず、夜は身じろぎもせずに良房のそばに
いまも足が定まらない。場所が悪いのか、それとも疲れたからか、と思いながら下を向いて歩いていたので、前からきた男にぶつかってしまった。
「気をつけろい!」
「すいません」
たぶん六条あたりだ。あやまってから歩きだそうとしたら、足の感覚がなくなって動かない。ジュツは、その場にしゃがみこんだ。怒鳴った男がもどってきた。
「どうした。気分でも悪いのかい」
「大丈夫です。すいません」
「ひどい汗だ」
「すいません。大丈夫です」
「今日は、
「大丈夫です。どうぞ行ってください」
「来な!」と勝手に腕をとられたので、放そうと両手を振りまわしたが、空気をかきまわしただけだった。
「いやだ!」ともがいたが、空いている方の腕もだれかにつかまれて、しばらく引きずるように運ばれて、ジュツは暗い家の中につれ込まれた。
頭がボーッとして事情がよく分からない。
耳が走ったあとの心臓のようにドクドクして吐き気までする。
ひんやりした板のうえにころがされて、逃げだそうと思ったが体が動かない。
いきなり
「水を、たっぷりやってくれ、それから欲しがるだけ塩をやれ」とジジイが言った。
このジジイを知っているような気が…頭が混乱している。
ひしゃくで無理に水を飲まされた。半分は口からこぼれたが何回も水を飲ませようとする。そのあいまに口の中にザラっとしたものが突っこまれる。塩といっていたが塩っぽくない。なにを飲ませているのだろう。
「おい。
アチャ。……あちゃ……かあちゃ……かあちゃん。そうだ。このジジイは、あのときのジジイだ。なんだ。夢のつづきなのか。
目覚めようともがいているつもりで、ジュツは気を失った。
「かあちゃん。かあちゃん……」
かあちゃんは答えてくれない。もう、ずっと、かあちゃんが動かない。ゆすっても、たたいても動かない。やわらかくて暖かい、かあちゃんの体が固く冷たくなってゆく。
ネズミがきた。最初は恐る恐るネズミが一匹、顔をだして、かあちゃんに近寄ろうとするので、手を振りまわして追い払った。でも一匹が二匹、二匹が三匹。追い払っても追い払ってもネズミがくる。かあちゃんを食おうとネズミがくる。ネズミが、かあちゃんをかじって、かあちゃんの顔をかじって……。
ジュツは、ときどきうめいて、そのときだけ目が覚めた。
「居合わせてくれて助かった」と
「悪い病じゃないのかい?」と狛の息子の
ジュツが、ぶつかった男だ。東の市の外町にある
「うつるような病じゃない。目を覚ましたら、さいごにションベンをしたのは、いつか聞いてみろ」とホウ。
「なんだい。そりゃ」と狛の次男の
狛には息子が三人いて、長男の
「おそらく飯も食わず水も飲まずに一日以上、働いたのだろう。水気が体から抜けている。こんどからは、ときどき塩をなめて水ぐらいは飲めと言ってやれ。
起きてションベンが出来るようになったら、帰して大丈夫だ」とホウ。
「上物の布でこしらえた
「もしかしたら…あの口元の傷を、まえに見たような気がする」とホウが思いだそうとする。
「知っている男かい」と狛。
「ン。あれは
「そりゃ、ずいぶんと古い。十四、五年も前だろう」と狛。
「あのころは世の中が、ひどかった」とホウ。
「いまだって、ひどいさ」と狛。
「
まだ息があったので、しばらく面倒をみた」とホウ。
「ネズミにかじられたガキなぞ、めずらしくもない。たしかに、その子なのか」と狛。
「そう思ってみりゃ幼顔の面影がのこっている。
「ああ。うなされているがね」と妓女が答える。
きりょうは並だが、しっかり者で、
「寒がったら温めてやってくれ。
「だれが
「それ。
どうせ、しばらく店は休みだろうが」とホウ。
「ケッ!」と言いながら阿茶が小銭を取って行ってしまうと、ホウがつづける。
「あの子なら、京職の役人が頼み込んで、ある邸の
「どこだい?」と狛。
「十文」ホウが、すっと手をだす。
「チッ!」
うなされて
「かあちゃん」とジュツ。
「どうした」と阿茶。
「来てくれたの……」とジュツ。
「寒いかい」と阿茶。
「……かあちゃん。来てくれたの。来てくれたの。かあちゃん」
「さあ、ゆっくり休みな」
阿茶は横になってジュツを抱き寄せた。ジュツは子供のように阿茶の胸に顔を埋める。母ちゃんが冷たく固くなってから、はじめてジュツがふれた人肌の温もりだ。なつかしい母ちゃんの温もりだった。めずらしくジュツは深い眠りに落ちた。
「右大臣の邸か」と狛。
「とくに人使いが荒いとは聞いてないがな」と次男の栧。
「そういや、
「右大臣は葬列に加わっているから、知らせに走ったか」とおやじの狛。
「一度、聞いてみたかったのだが、狛さんよ。おまえさん、だれのために噂をあつめている。帝が
「わしらは帝のためにいる。藤氏のためじゃない。ただクセってやつが抜けねえのさ」と狛。
「それで、在五どのに入れ込んでいるってかい」とホウ。
「ありゃ別口だ。ただ楽しいのさ」と狛。
何日か後の昼に、ジュツは
それから月に一度か二度、
「十文!」と阿茶が値切ってくれた。
「おのれを切り売りする気かい」と剛。
「どうせ、店が開くまえのチョンの
「いつから、おれっちが
「目くじら立てちゃ、男がくさるよ。おやっさん」と阿茶。
仁明天皇のご遺体をおき去りにしてまで、
仁明天皇の初七日、
左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議の太政官たちは法要どころではない。皇太子が即位するまえに、決めなければならないことがある。
内裏も宮城も
「いままで
「幾百年にもおよぶ長い皇室の歴史のなかには、皇后所生でない帝もいらしたのではないか。帝の母后を皇太后とするのに、なんのさわりがある」と源氏の一郎の源
順子に肩入れをしているわけではない。異母弟で左大臣の
「皇后を名乗られたのは
良房の同母の兄だが、ずっと弟に先をこされている。それを気にしている風もない。良房との差は不動産を比べても、長良は
「歴代の皇后と皇太后についてのご説明を。伴どの」と
太政官の会議で、こんな初歩的なことに説明がいるのがおかしい。
「歴代の皇后は、聖武天皇の光明皇后を初代として、
わが国で皇后になられた方は七名。その内のお二人は亡くなってからの遺贈で、お一人は廃されました。もうお一人は皇太子が即位なさるまえに亡くなられました。
皇后に立ち天皇の母后となられたのは、光明皇后と嘉智子皇后のお二人だけです。
皇太后も光明皇太后をはじめてとします。これまで皇太后とよばれた方は、光明皇太后と、嘉智子皇太后と、正子皇太后の、お三方だけになります」と善男。
「正子皇太后は天皇の母后ではないのに、皇太后といっているのだろう」と信が突っ込んだ。
正子が皇太后になったときは、息子の
「皇后ではない天皇の母后は、どうお呼びしましたか?」と良房が
「
「では皇太夫人とお呼びすることで、よろしいでしょう。まず親王を決めて、皇太子を立てなければなりません。そのまえに
仁明天皇の
これまで、藤原不比等の娘を母とする聖武天皇と孝謙天皇(称徳天皇)、藤原
どれも藤原じゃないかと思うのは他人ごとだからで、
思えば、よその藤原さんの娘が生んだ嵯峨の帝を
妹の子の文徳天皇の即位は、良房の大きな節目となった。
ただ、その文徳天皇が、第一皇子を親王にと望んでいるために、やっと天皇の外戚になれた良房とのあいだがこじれはじめた。
一か月のあいだに、息子の仁明天皇と娘の秀子内親王の二人に先立たれた橘嘉智子太皇太后は、娘の正子皇太后が住む
翌日に葬送がおこなわれると聞いて、めずらしく
「父上は御存じでしたが、わたしは亡くなった
「生涯、わがままを言ってくれと、どなたの口がおっしゃいました?」と倫子。
体を心配しただけなのに倫子に睨まれた守平は、しかたなく
牛を引く牛飼い童の
「いえねえ。守さまには、ぶっちゃけますが、牛飼い童は仲がよくて
車から降りて見送りたいと倫子がいうので、踏み箱を下りる倫子を守平は慎重に支え
た。つづいて車の中から
「守平さま」
「なぜ、ついていらしたのです。妙信さん」と妙信を降ろしながら、守平が聞く。
「倫子さまが心配だからと、言ったでしょう」と妙信。
「物見高いだけでしょうに!」と守平。
淳和院は、右京四条二坊に四町の広さをもつ邸だ。
淳和天皇が若いころに居住していて退位後もくらしていた。
淳和天皇が亡くなったあとは正子皇太后の住まいとなり、いまは息子の
「
父の阿保親王の葬儀のときは、
淳和院のまわりには官人の姿も近衛兵の姿もない。かわりに数百人の
「あの人たちは、なにをしているのだろう」と守平が不思議そうにつぶやいた。
「正子皇太后さまの母上の葬列を送りにきたのですよ」と倫子。
「どうして」
「正子皇太后さまの炊きだしで命をつないでいるからです。暖かいものを食べることができれば、三日は命をのばせます。わたしも母も、どんなにお世話になったことか」と倫子。
「正子皇太后は、炊きだしを行っておられるのか」と守平。
「浮浪児や孤児をお邸に引きとって、養ってくださってもいます。
嘉智子太皇太后さまは存じませんが、正子さまの母上なら、正子さまのためにお見送りしたいのです」と倫子。
質素な葬列が門をでた。棺を乗せた
痩せた浮浪者たちが、いっせいに手を合わせて大声で泣きだした。自分たちにできることは声を上げて泣いて、正子さまを慰めるだけ。ふだんは腹をすかして声をだす気力もないのだが、体中の力を集めて大声をしぼりだす。
その姿がいじらしいと守平は胸が熱くなった。
「わたしも炊きだしの、お手伝いをさせてもらおうかしらん」と妙信尼。
そのとき、門のまえで葬列を見送っている尼僧の一人に浮浪者が話しかけた。
「
「愛玲……?」と、耳ざとい妙信が反応して人を分けて動きだす。
「妙信さん! ・・・ったく。はぐれたら一人で帰ってくださいよ!
倫子。わたしにも、なにかできないだろうか。多少の米や銭なら出せるとおもうが」と守平が聞く。
「守さま。あなたって善い人だけど世間知らずのお調子者です。それじゃ良房さまのなさることと同じじゃありませんか。
米を配られてもナベもマキもありません。小銭を与えられたら襲われます。
少しの米や銭のかわりに、弱いものは命を落とすことがあります。
だから、そのときに食べてしまえる炊きだしが一番なのです。でも炊きだしは思いつきだけでは長つづきしませんよ。よく、お考えなさい」と倫子。
守平はシュンとなった。倫子が守平の手をとって指をからませる。
「ほら。そんな顔をしないで。たしか
「うん。紹介されたことはある」と守平。
「なにかをしたいと思うのなら、ホウさんに寄付なさい。炊きだしや薬に使ってくれます」と倫子。
「へーえ。代書屋って、そんなにもうかるの?」と守平。
もう一度、倫子に怖い顔で睨まれた守平に、連れてきた舎人のムカデが声をかけた。
「あの・・守さま。若い尼さんをつかまえた、ウチの隣の尼さんが手をあげて呼んでいるみたいッスよ」
「なんだろう」と守平。
「さっき、どなたかが、あの方を
珍しい名ですが、なぜか聞き覚えがあるような気がします」と倫子。
「行ってみよう」と倫子をかばいながら、守平が近ずくと、
「
「
「じゃあ、逸勢さまの
「はい。正子皇太后さまに引きとられまして、このたび
物見高くて、でしゃばりな隣の尼さんのお蔭だが、これを人と人をつなぐ
仁明天皇の病気の
嵯峨の帝と嘉智子皇后の娘として生まれた正子皇太后は、若いころは兄の仁明天皇より目立つハデで気の強い内親王だった。淳和の帝のもとに入内したときは十五歳。そのとき淳和の帝は四十歳だったから二十五歳の歳の差があった。
正子が入内したときに、すでに亡くなった
淳和の帝と正子皇后は仲がよく、つぎつぎに子供も生まれたのだが、淳和帝が亡くなったあとはハデで気が強く頭の良い正子は表にでなくなった。淳和の帝の子が、つづいて
先の高志皇后の子や孫が死去のときは、正子は朝廷に
息子の
この淳和院のある右京には、良房の弟の
左京にある紀氏のとなりの邸は、丸ごと業平が使うことになっている。
蒸し暑い夏のあいだも、太政官たちは討論を続けていた。
伊勢の
通常でない仕事では、まず
仁明天皇が生前に、皇后について討論させたことがあった。そのときに皇后は、内親王と、藤原氏と、橘氏から選ぶという結論がでていた。それの内親王のところを皇女とかえて女御にあてた。この規約以後は、
即位した
しかし親王と内親王の選考がもめている。
良房以下の藤原氏と源氏の参議は、女御の子を親王と内親王に、更衣の子は臣籍降下させることを求めた。これが通ると思って、良房は先に女御の
女御の子は仁明天皇を
そこに文徳天皇が
苦節数十年。やっと天皇の外戚になった
太政官会議にあつまっている太政官は、十四人。
藤原
源氏からは、左大臣の
ほかは、
こちらは亡き仁明天皇に実力を認められて、参議になった強者ぞろいだ。
すでに誕生している皇子の母は、この実力派参議の娘が多い。天皇の望みであれば、それに、かれらは賛同する。太政官の意見を一つにまとめるには、良房も賛同せざるをえない。
「目立たぬように…」と
右大臣になってから良房が居住しているのは、路を挟んで東隣にある
ここで殺されて埋められても、だれも気がつかない。小柄だから、遺体を埋める穴だって小さくてすむし…。
迎えの従者たちに続いて、並べられた
廊の途中で
そこに案内された善男は廂で平伏した。参議として審議に加わっているときは、それが仕事だから意見もいうが、良房は従二位の右大臣で善男は従四位上の
「そこでは話もできません。お進みください」と部屋のなかから良房が声をかけた。
一人で座っているが、奥に
善男が参議になれたのは、仁明天皇と嘉智子太皇太后という後ろ盾があったからで、二人が亡くなってからは不安定な立場にいる。
「そう硬くなられると、さきに一
「はい」
「
「はい」
良房は、のどかに
難航しているのは
良房は
善男に考えるときを与えてから、良房は言葉をつづけた。
「皇太夫人には頼りとなる方がおりません。皇太夫人の力になってもらえるとありがたいのですが」
良房は、だれにたいしても偉ぶらない。おっとりしていて言葉づかいもていねいで、なにより感情的になることがない。そういう意味でも政治家といえる。
「わたくしでよろしければ、お仕えさせていただきたくぞんじます」と善男は平伏した。これで良房は伴善男を取り込んだ。
奥の
善男は御簾の方に向き変えて平伏した。女性の香のかおりが流れて、順子の女房が盃と酒を運んでくる音がする。
仁明天皇が亡くなられたことを、もう二度と、その声を聞くことも、その姿を見ることもないのを、体中に針が刺さるような寂しさで善男は実感した。
「…こうして夜を過ごされることはなかった」と常が言った。
二人の異母兄になる亡くなった仁明天皇のことだ。日帰りの
「痩せられましたな。左大臣」と弘。
「二人だけだ。むかしのように、呼んでもらえないだろうか。
左大臣の常と中納言の弘は同年の異母兄弟で、五歳から十六歳までは兄の信の邸で一緒に寝起きしていた。子供から成人するまでの大切なときを共有した仲だ。
「どこか悪いのか。
「つかれた……。このごろ、なぜか息苦しくて起きるのがだるくなった」と常。
「酒を飲んでもよいのか」と弘。
「少しぐらいなら……」
二十五歳で大納言に、二十八歳で右大臣に、三十二歳で左大臣になった常は、いつも源氏の兄弟の最高位にいて異母兄の仁明天皇を支えてきた。仁明天皇の
「……なあ。弘」と常。
「ん……」
「一郎どのと一姫は、とくべつの仲だったのか」と常。
一郎は二人の異母兄で大納言の
「いまさら。おなじ邸で育って、ほんとうに気がつかなかったのか」と弘。
「そういうことに、うとい」と常。
「下世話ないいかたをすると、あの二人はできてたと思うよ。異母兄妹の婚姻が禁止されたのは、そんなに前じゃない、それまでは堂々とおこなわれていた。思春期の男と女をおなじ邸に住まわせて、恋をするなというほうが
「じゃあ明子女御は一郎どののお子だろうか」
「一姫が良房のもとに移ったあとのことだ。そこまでは知らない」と弘。
「どちらにしろ、一郎どのは思い入れは深いだろうな」と常。
「明子女御がもうけられた皇子を、皇太子に
「なにも……」
「参議の定や明やわたしだけでなく、一郎どのは、ほかの源氏たちにも明子女御がもうけられた皇子を皇太子に押すように説いている。
なあ、常。いくら我ら源氏の姉妹の孫でも、生まれたばかりの赤子を皇太子にしてもよいのだろうか」と弘。
「外戚になる良房の
わたしが異をとなえれば、源氏の兄弟が二つに割れる」と常。
「だけど常。一郎どのは・・」と弘。
「弘。わたしは、もう
「うん。そうか」と弘は、どんよりした空を見上げた。
源氏の一郎の信は、亡くなった仁明天皇や常のように深く考えられる人ではない。
嵯峨天皇は父で、仁明天皇は兄弟だった、文徳天皇にとって源氏は叔父だ。親や兄弟よりつながりは薄い。これからの源氏は、どうすればよいのだろう。
「……すまない。常。わたしは
「わたしも、そうだ。弘。身の丈に合わない職を与えられて、なにもできなかった……」と常。
弘には成人を迎える源
小屋のなかから話し声が聞こえる。客がいるのだろう。
「いいかね」と狛がホウの小屋に声をかけると、「じゃあ」と切りあげて出てきた先客は、良房にジュツと呼ばれている
狛はジュツの顔を知っているが、ジュツは狛の息子の
守平たちのそばを通るときに、ジュツは足を止めて季節ははずれの
「あれ。まあ。在四どのと在五どの。それに見たことがある舎人の…」とホウ。
「サンセイともうします」「モクミでございます」
「ほう……」
「ムカデです」
「おまえさんは、たしか
「在原家の
「こりゃまた…おそろいで。さあ…まあ、その辺のものをどかして、あがってくだされや。すまぬが舎人どの。かってに白湯などで、おもてなしをしてくださらんか」とホウ。
「いや。ゆっくりできない。これから
白砥と青砥が
「ほう。で、わしのところに寄ったのは…」とホウ。
「在さまがたが、おまえさんの炊きだしに寄付をしてくださるそうだ」と狛。
「こりゃ、ありがたい。ご
「はい。これから毎月、わたしが届けさせてもらいます」と蔵麿。
「ありがたいことです。よろしく、おねがいします」とホウ。
このまま引きあげればよかったのだが、すこし引っかかったので狛は聞いてみた。
「ところでホウさん。さっき出ていった男だが、よく来るのかい?」と狛。
「おまえさんのところで倒れてから、わしのことを思いだしたらしい。あいつは、これを届けてくれる」とホウが荒い麻袋をしめした。
「なんだ」と狛。
「仕えている邸の畑で、あいつが育てた野菜だ。あいつが子供のころ、半年ぐらいだったか治療がてらあずかった。
ほんとうの
人嫌いな子だったから、食べ物を与えるときに安心して食えるように、いちいち、なにによいかを教えたものだ。
それを覚えていたのか、畑のすみで青菜などを作っている。
じつはな。あいつが、妙なことを……」と守平たちをチラッと見て、ホウが声をひそめる。
「なにをしゃべっても、だいじょうぶなのかい」とホウ。
「まずいことには、ならないだろう。見てのとおりだ。あれで皇孫さまだ」と狛。
ホウと狛が話しているあいだに、サンセイとモクミと守平が散らかったホウの小屋をセッセと片付けている。ムカデが井戸から汲んできたらしい水を水ガメに注ぐのを、蔵麿が見張っている。業平は物をよけてつくった空間に寝転んでいる。
「なじんでる…」とホウ。
「だろ」と狛。
「ふん。在五さまの和歌を広める手伝いが、楽しいか。おまえさんの目を信じよう。じつはな、あいつが言うには、おかしな薬草園があるらしい」とホウ。
「どこに」
「奴が勤めている邸の、西隣の邸だ」
「ああ…」と狛。
「あの邸は、ふだんは留守番だけをおいて使っていないらしい。
その奥まったところに高い塀で囲まれた薬草園があるそうだ。
奴は二、三度ほど、そこへ使いに行った」とホウ。
「使いってのは」と狛。
「主にいわれて、一度は水薬が入っている茶色い
粉薬の包は二度とりにいったそうだ」とホウ。
「薬草園なら主の薬を作るだろうから、おかしくい話じゃないな」と狛。
「その薬は主が服用するものではないらしい。
それと薬草園の警戒が、ずいぶん厳しいそうだ。薬をとりに行っても畑が見えない小屋で待たされる。
人ってのは隠されると見たくなるものだろう。奴は天井近くの羽目板にすきまをみつけて覗いて見たそうだ。
一度は春先で淡い緑色の花が、たくさん咲いていたそうだ。
おい。そこの、サンセイどのとモクミどの。おまえさんたちは山育ちかい」とホウ。
「まだ都人にみえませんか」とサンセイ。「すぐに分かるとは、気落ちします」とモクミ。
「見えるさ。どう見ても、しゃれた都人だが、ただ名がな・・・」とホウ。
「名が、どうかしました?」とモクミ。
「いや、いいや。なんでもない。で、おまえさんたちは山育ちかい」とホウ。
ホウも、なじんでいるではないか…。
「はい。
「草木のことは分かるかい」とホウ。
「はい」「少々なら」
「では春先に咲く小さなつりがね型の花で、あわいミドリ色だ。花の内側だけに赤紫の細かい網目のような模様がある。そんな花を知っているかい」とホウ。
「ハハかな?」「そうだな。ハハクリでしょう」
「わしも、そう思った。ほかには思い当たらないよな」とホウ。
「はい」
「それは薬草か」と、そばにきた守平が聞く。
「はい。球根を干して粉にして、
「多く飲むと呼吸ができなくなり、けいれんを起こして死にます」とモクミ。
「薬草は毒にも薬にもなるからな。そのときに
「はい」とサンセイ。
「奴は口数が少ないが子供のころから花が好きで、花のことだけは楽しそうに話してくれるのだが…そのとき、下から立ち上がる河原藤と、百本はありそうなシキミの木に、いっせいに咲いた地味な小花が辺りを黄色に染めて、それは美しかったと話してくれた」とホウ。
「シキミ。神事につかうシキミか」と業平も加わってきた。
「あんな木を薬草園に植える邸があるのか。神官の邸かな?」と守平。
「線香をつくる家かもしれません。匂いをつけるために樹液を使うのでしょう」とモクミ。
「線香づくりが、薬草園をもつお邸に住むか?」とサンセイ。
「聞き捨てにならないのは、秋に使いに行って覗いたときに、シキミの実を収穫しているのを見たというのだ。どう思う。サンセイどの。モクミどの」とホウ」。
「……」
「そこは神主の邸でも線香屋でもない。留守番しか置かず、ふだんは使わない邸だ。その薬草園は塀で囲まれて、使いの者も中を覗くことができないほど警備されている」とホウ。
「どうした。サンセイ。モクミ」と守平。
「シキミの実は毒物です。薬には使いません」とモクミ。
「どこの邸?」と業平。
「…
「路からイチイの木が何本も見えます」とサンセイ。
「それも毒性があるのかい」と狛がたしかめる。
「はい」とサンセイ。
「あいつも、なにか感づいて、それで、わしに話したのだろう」とホウ。
「それ、だいじょうぶですか」とモクミが、ジュツが持ってきた麻袋をさす。
「あいつが持ってくるのは滋養になるものだ」とホウ。
「ホウの先祖は
資格はないが腕はたしかな医師や介護士を知っています」と狛が説明する。
「救済院って朝廷の?」と業平。
「いやいや。
「・・・?」
「じゃあ、蔵麿さん。在家に負担になってはいけませんが、ホウさんの炊きだしに、末永いご布施をねがいますよ」と狛。
「やりくりはまかせなさい」と蔵麿が胸をはる。
「青砥や白砥のとこに顔をだしてよ。ホウさん」と狛。
「
「忙しいからムリだろう」と狛。
「内裏の
「人の手配なら、すぐにできるだろうが、なんでも石灰で固めた
「新しく建てる清涼殿の木材や礎石の手配はしたのか」とホウ。
「いや。それが、どうも変なぐあいで…新築の依頼は受けてないそうだ」と狛。
「妙だな。移築のまえに、新材の手配をするものだろうが」とホウ。
「なにを話している? 清涼殿を移築するって言ったか?」と守平が聞いた。
「あれ。知らなかったのですか。
帝が亡くなられたから移築して寺の
「知らない。だれも知らないだろ。このごろ、わたしは休まずに登庁している。
だれも、そんな話をしていないよ」と業平。
「じゃあ、そのうちに発表されますよ」と狛。
「どうして知っているの。ねえ。どうして」と業平。
「おまえら何者?」と守平。
「マァ、マァ。さあ業さま。白砥と青砥が待ちかねています。
そのお顔を袖でかくしてサッサと参りましょう。
守さまも、いつまで腕を剥きだしにしているのです!」
やはり狛は楽しかった。
気候不順で大雨ばかり降る。雨水が川のように流れるから、朝廷はありがたそうに
太政官たちの話し合いも連日のように続いている。
「では、すでに誕生された皇子を親王にと
「伴氏は
だいたい宿禰が、
昔から
亡き仁明天皇が残した十二人の太政官の中で、宿禰は伴善男だけ。姓の使いかたは、
文徳天皇の更衣の伴江子が皇子を生んでいる。その皇子は親王と認めない。ついでに参議の伴善男も認めたくないと信は言ったのだ。
伴氏の皇子を親王に望むつもりのなかった
十月十六日に、
十一月十九日に、右大臣の良房によって
》が与えられた。
文徳天皇の親王と認められたのは、
十一月二十三日に、文徳天皇が出羽の地震の被害者救援の
おなじ、この日に文徳天皇は皇太子を発表する詔もだす。
詔は、百官を並べて天皇が自らの思いを口で伝えることも、ごくまれにはあるが、ふつうは天皇が命じることを
それをせずに詔をだすと、奈良の帝のように太政官たちが辞表を上げて政務を
この十一月二十三日に、文徳天皇が発表しようとした皇太子は第一皇子の
そして十一月二十五日に、右大臣の良房によって
良房が読み上げたのは「親王諸王、諸臣百官人など、公民もよく聞け。
良房の孫になる惟仁皇太子は三月二十五日に誕生したばかりで、この日から九か月目になるが生後二百二十四日。グレゴリオ暦では七ヵ月半の赤子だ。
文徳天皇は、まだ会ったこともない。いくら
良房と源氏に押し切られた文徳天皇にとっては不本意な
赤ん坊の皇太子につく
この立坊に熱心だったから満足だろう。
皇太子の家政機関である春宮坊の一番上の
そして皇太子の教師の
皇太子のことも東宮とか春宮というが、役職名も統一されていない。
翌年の八五一年(
内裏は宮城の中央東寄りに、二重の塀で囲まれて建っている。清涼殿の他にも紫宸殿や政務を執る場所や、後宮や、蔵人や女房が住むところなど多くの建物が建っている。天皇が住む清涼殿は、すぐに新築すべきなのだが良房が止めた。さいしょは一周忌が過ぎるまではという理由で、そのあとは、もう少し土地の
即位してからも東宮や
そのころ巷では、こんな歌が流行っていた。
(オオエをこえて 走って超えて 上に踊り上がって 我らが守る田を あさり食うシギは 強いシギだな)
大枝は
この歌には、惟喬親王をおさえて、この国をあさり食うとは、なんというやりかただという意味もある。それだけだと悪口になるから、さいごに「雄々しい鴫」をくっつけている。
わらべ歌や
子供でも歌えるこの歌を、つくって流行らせる人が、どこかにいた。
「行こう!」と業平と近衛の兵たちが馬を並べておしかけた。都をはなれるときは許可がいるので、ちゃんと届けも出している。
「兄者。いったい、どなたが亡くなられた?」と砂浜にならんで座った業平が聞く。
「母だ」と行平。
「いつ?」と業平。
「十日まえに喪の届けをだした」と行平。
「一昨日、母君の礼子さまと、そっくりの方に、礼子さまが暮らされる
どうして、そんなウソを」と業平。
「わたしにだって嫌になることはある。あれほど藤氏の
「それで怠けている」と業平。
「難を避けている。降格されるより復職しやすいだろ。おまえは好き勝手に生きていて、いいなあ」と行平。
「どこが」と業平。
「おまえが作ったろう」
「なにを」
「大枝を超えて 走り超えて……」
「ああ。シギの歌。歌風がちがいます。わたしじゃありませんよ」と業平。
「下手は上手に作れないが、上手は下手に作れるだろう。おまえの歌を広げているのと、おなじ
「狛たちが?」
「帝は
「
「
「
「倒れられたのは
「悪い奴ほど、強くて幸運ですねえ。いつか天罰があたるのでしょうか」と業平。
「いや。まあ、半々だろうなあ」
浜に打ちあげられた貝殻で、業平が砂をならして歌を書いた。
(だれかが 白玉を
玉は散ってしまうのか 受けとめるには わたしの袖は狭すぎるのに)
「玉と
「兄者でさえ読みとける歌を名を入れて広めれば、わたしはどうなります。島流しにされたら、どうしてくれるのです。
行平は手で業平の歌を消すと、
「
行平は立ちあがって砂を払うと、大声で浜に遊ぶ近衛の友を集めた。
「オーイ。みんな。このさきに滝があるから見に行こうよー」
裏山にあるのは
「
わが世をば 今日か明日かと 待つかいの 涙の滝と いづれ
(自分が出世する日を 今日か明日かと 待つかいがあるのだろうか 待ちながら流す涙と この滝に落ちる水と どちらの水量が多いだろうか)
セッコイ歌!…と業平が眉をひそめる。
行平は従五位上の貴族で、業平より一階級上だ。滝より多くの涙を流して出世をねがうほど最低最悪の身ではない。
全国に四百人しかいない貴族が、貧しいの、位が低いの、みじめだの、あばら家に住んでいるのと歌っても、ぜったいに信用してはならない。
つづいて、業平が歌う。
抜き乱る 人こそあるらし 白玉の 間なくも散るか 袖の狭きに
行平の思惑が外れて、だれもあとに続かなかった。登ってくるときは騒がしかった近衛の若者がシーンとしている。着々と力をたくわえている実力者を、非難するような歌に続くほどの、お調子乗りはいない。なにしろ
「帰ろか…」と、しょんぼりした行平。
「業。あの歌の責任は一人でとってくれ。おそらく出世がとまるだけだろう。万が一、おまえが
「自分だけ逃げる気ですか。それなら頼みがあります。兄上」と業平。
「ん?」
「噂では、美しい姉妹を
「それで、ここまで来たのか。見せただけで汚れてしまう」と行平。
「姉君か妹君か、どちらかが琴などをたしなまれますか。せめて琴の音だけでも」と業平。
「口にするな。見るな。聞くな。寄るな。触るな。素泊まりだけはさせてやる」と行平。
「えっ。めしは?」と業平。
兄弟が家路をたどる山道から、木の間ごしに
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