地下鉄

津田薪太郎

第1話

 地下鉄


 今から二、三年程前に、百物語というものをやった。

 真夏の昼間だというのに、暗く締め切った部屋の中で、怪談をやると言うのだ。

 涼しくなりたいのはよく分かるが、私はその為に怖い話を用意するのが億劫で、何かインターネットに転がっているものを読み上げるのでは、と思っていたが、座長格の友人が、

「イヤ、イヤ、こういう事は、例えどれだけつまらぬものでも、実際に体験したものでなくてはならぬ」

 というので困り果てていた処、そういえば、と思い出した体験があった。


 例の会から遡る事二ヶ月ばかり。五月ごろの事だった。その頃私は地下鉄のS駅を使って通学をしていた。S駅は乗り換えも乗り入れもない様な小さな駅で、恐らくは使う人も、私の学校の生徒くらいのものだろうという位である。

 さて、地下鉄駅というのは地上から空気を取り込んだり、地下水を排水したりしなくてはならぬから、その為の管やダクトなどが天井などに複雑に入り組んで固定されていることが多い。

 当時のS駅もそうで、ホームの天井には何本もの排水管とダクト等が複雑に絡み合っていた。

 その中でも一際目立つものが、言うなれば飲食店の裏側にある様な大きな口を開けた(恐らくは)中の空気を外へ排気する為のダクトで、ステンレスの板を貼り合わせた大きな四角の管が、ホームの端の天井から出口階段前の壁まで延々と続いていたのである。

 具体的には東京中央の方に行く列車の一両目が停まるところからずっと伸びていて、エスカレーターと改札階への階段を経て、終点へと向かうわけであるが、何しろ大変に太いので、人よりも背の高い私などは、頭をぶっつけるのが怖くて、無意識に下で頭を下げてしまう。

 一度私よりも背の高い、恐らくは2メートル近いであろう人が、そのままエスカレーターに乗ってダクトの下に髪を擦らせているのを見たことがある。

 その日はシトシトと煮え切らぬ雨が降っており、入口階段から駅の通路へ降りると、ゴム底の靴が高い音を立てて、赤茶色のタイルの上を滑った。黄土色の偽煉瓦は水が滲み出た様に濡れて、酷く湿った空気を作っていた。

 私が駅の中に歩いて行くと、例のダクトの終点に差し掛かった。壁に穴を開けて、そこにカバーをかけてダクトを差し込むわけである。経年劣化のせいであろうか、所々穴が空いている様で、ダクトからは、底から響く薄気味悪い音と、空気の漏れる音が混じり合って聞こえた。

 さて、私がダクトの隣を通り抜けようとした時。

 バン、バン、という大きな音が二回ほどダクトから聞こえたのである。

 熱いお湯をシンクに捨てる時、金属が膨張してああした音が鳴る事はよくあるが、あれに似たものだと思う。

 私は一瞬びくりとしたが、程なくして音は止んだので、単にステンレス製特有のものだろうと考えて、切符を買いに足の向きを変えた。

 バン、バン。もう一度同じ音がした。今度は驚きはしなかったが、どうも音の位置がずれている様な気がした。最初は壁との接続部から聞こえたのが、今度はそこから離れた天井から聞こえているのである。また少しして、バン、バン。そして、多少耳を澄まして聞く余裕が出てきた私は、その音の中に異なる別の音を聞き出した。

 バン、バンと叩く音の後、ごく僅かにぎぃ、ぎぃという小さな音が混じっている。少し考えて、私はその音が、何かが体重をかけたときの音だと気がついた。

 それを裏付ける様に、ダクトの板は、音がするたびに軋んでたわみ、小さく出っ張りができては消えていく。

 何か、それも虫ではない大きなものが中にいることを、不思議なことに私は速やかに悟った。動きこそ遅いが、出口は同じ駅の中にある。

 私は、あの中の得体の知れぬ何かと同じ場所にいることが、途方もなく恐ろしいことの様に思えて、急に冷や汗を体に感じ、走る様にして慌てて駅から逃げ出した。

 そのまま青の歩行者信号を息を切らせて渡り、一時間かけて数キロの道を歩き、家まで帰り着いた。

 再びの遭遇は、その次の日にあった。

 例の事があってから私はS駅を使いたくなかったのだが、その日は塾があり、歩くのではとても間に合わなかったのだ。

 どうか何も居ないように、と念じながら私は階段を降り、駅の中へと進んだ。

 駅のトンネルは僅かにアーチ型になっていて、どこか防空壕の様にも見える。それを一部は裸の電球が照らしているので、夜は大変不気味であろうと想像できた。

 怯えつつもタイルを踏みながらトンネルを抜けようとすると、また例のダクトが目に入った。相変わらず空気の出入りする音がやかましく響いていたが、その音は今日は何かしらの得体の知れなさを強調しているように感じた。

 ぎっ。その音に反射的に振り返った。管の付け根から、押し殺した様な音が聞こえたのである。

 私は敏感にそれの気配を感じ取った。昨日の様な、明確に存在をアピールするのではなく、存在を隠してこちらを狙う様なものである。

 単なる気の迷いと信じたかった。

 しかし、空気の出入りする音の中に、確実な裏付けが混じり込んでいた。

 ごお、という流れる様に続く音の中に、一定のリズムで反復される音が混じっている。

 間違いない。私は今にも冷静さを失いそうになりながら、ダクトから目を背けた。

 間違いない、あれは呼吸音だ。空気が一方向に出入りする音ならともかく、吸って吐き出す音などダクトからするはずがない。

 こちらをじっと見つめているそれと、知らぬ間に目があった様な気がして、私は躊躇いつつ一歩を踏み出した。

 ぎっ、ぎっ。私が歩く度に、また押し殺した音が移動する。私が止まると、音も移動を止める。

 私を狙っているのか。凡そ生涯の中で、何か異なる生物に狙われる経験などする者は殆どいないだろうが、正にその時の私はピラミッドにおける普段の立ち位置にはおらず、ただそれに狙われる餌の立場に居たのである。

 私は無駄な事とは知りながら、出来うる限り足音を立てない様に、ダクトに沿って切符売り場まで歩いた。

 ぎっ、ぎっ、という音はぴったりと着いてくる。もしこのまま出口まで行ってしまったなら、私はどうなってしまうのだろうか。

 それは次第に剣呑な雰囲気を中から放ち始め、もしも私が走って逃げようものなら、ダクトを引き破ってこちらに姿を表すのではないかとさえ思われたのである。

 しかし、私は今こうして話している時ほど冷静ではいられなかった。

 恐慌寸前で足を返し、階段の方へと走ったのである。

 あえて文字に起こすなら、くここっ、というくぐもった鳴き声がした。喉を震わせたその声は、怒りであるのか、それとも狩りの獲物を見つけた笑いだったのか。

 私が走り出した時、ばん!という一際大きな音がして、側面の板にくっきりと影が映った。異様に細く長い指が四本の歪な手の形が浮かび上がり、近くの板の継ぎ目からは、その指自体が僅かに出て来ている。光を浴びた事の無い洞窟生物の様な白い指は、所々に走る血管のせいで薄く桃色かかって見えた。

 私は泣きそうになりながら必死で階段を駆け上り、駅から出る事ができた。


 結局のところ、それが何なのか調べる勇気は私にはなかった。

 私以外に狙われた人があるのか、そもそも何の生き物なのか。

 何もわからぬうちに、駅のダクトは解体されてしまったそうである。

 私もその日以来、通学でその駅を使うことは無くなった。

 ただ、三日前、私は偶々その駅を通過する列車に乗った。

 その時私は間違いなく見た。私の座る椅子のちょうど眼前の排気口から、それが私を見つめているのを見たのだ。

 肌はあの日見たかのごとく真っ白で、歪な四本指の手。身体の形状はどこか人に近い様に見える。そして、退化した痕だろうか、顔には一対の窪みがあって、その下には口というより裂け目というべき器官がくっついていた。

 それは私の方に窪みを向けて、確かに笑ったのである。

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