星に触る

尾八原ジュージ

星に触る

「そういえば、この辺に天文台があるんでしょ?」

 日の暮れかけた野川公園を散策しながら、冴子さえこさんが歌うように言った。

 この七歳上の従姉は、時々思い出したようにぼくを訪ねてくる。今日も夕方になってから下宿先のアパートにやってきて「晃介こうすけ、どうせ運動不足なんでしょ? わたし、広いところで散歩したい!」と言いながら、待たせてあったタクシーにぼくを詰め込んだのだった。

「あるね。国立天文台、三鷹キャンパスっていうのが」

 ぼくがそう答えると、冴子さんは「うんうん」とうなずき、さらに続けた。

「きっと天体望遠鏡とか置いてあるんでしょうね。一回覗いてみたいなぁ」

 ぼくは思わず耳を疑った。彼女の口からそんな言葉が出てくるなんて、さすがにこれは意外だと思ったのだ。

 冴子さんは白杖を右手に持ち、左手をぼくの肘に添えている。彼女は生まれてから一度も、光というものを見たことがない。

「あっ、晃介、今変なこと言うな~と思ったでしょ! わかるんだから、そういうの」

 軽やかな笑い声が、紅葉し始めたソメイヨシノの並ぶ園路に響いて消えた。

「いや、だってさ、冴子さん目が見えないじゃない」

「それはそうだけど、天体望遠鏡なんてめったにあるものじゃないし、一度くらい触ってみたくない? それにわたし星を見たことがないから、見た気分だけでも味わってみたいんだよね」

「見た気分?」

「だって、星って基本『見る』しかなくない?」

 そう言われて、ぼくはふと空を見上げた。明るさの残る空に、星はまだ見えない。

 夜になれば、公園は街中よりもずっと暗くなる。星も少しは見やすいかもしれない。もっともそれは「ぼくにとっては」の話で、冴子さんには関係がないのだが。

 いつの間にか冷たくなった風が、ぼくたちの頬を撫でて通り過ぎる。冴子さんは「秋だね」と一言挟んでから、話を続けた。

「たとえば本だったら点字の本があるじゃない。絵を鑑賞するのは難しいけど、彫刻だったら美術館によっては触れられるものもあるから、芸術鑑賞もできるわけ。それにやっぱり、美術館独特のにおいって感じられるでしょ。あれ、いいよね」

 いいよね、と言われてもぼくにはわからない。目が見えない分、冴子さんは他の感覚がとても鋭い。ぼくとは世界の感じ方が違うのだ。

「スポーツだってスタジアムで観戦したら迫力がすごくってさ、やっぱり面白いのよ。でも星って『見る』だけじゃない? 音もしないし、匂いもしないし、触れないし――まぁ隕石だったら触れるけど、それはもう落ちてきちゃったやつだから、ノーカンよね」

「まぁ、そうかもね」

「しし座流星群とかニュースで聞くたびに、いいなぁと思って。わたしも星を見るのとか探すのとか、フリだけでもやってみたいなぁって」

「ははは」

 ぼくは半ば感心、半ば呆れて、気の抜けた笑い声をあげてしまう。

 まったく、何でも挑戦したがる冴子さんのバイタリティには、目を見張るものがある。今は一般企業で働くOLだが、幼少期から習っているピアノはかなりの腕前だ。性格は明るく、愛嬌のあるタヌキ顔は人に好かれやすくて友達が多い。海外にも平気で行くし、英語も日常会話以上のレベルで操ることができる。

 ぼくには、冴子さんのことが眩しくてたまらないときがある。彼女の好奇心を、知性を、物怖じしない心を、なぜぼくは持っていないのだろう。幼いころから憧れていた従姉は、憧れのままどんどんぼくから離れていって、夜空の星のように手の届かないものになってしまう。今このとき、彼女の手がぼくの腕に触れているというのに、ぼくたちの距離はあまりにも遠い。

 来春、冴子さんは結婚して、アメリカに発つことになっている。

「点字みたいに、触って星を探せたらいいんだけどなぁ」

 ぼくの気持ちも知らず、ふいに立ち止まった冴子さんは、ぼくの腕から離した左手を空に向かって伸ばした。まるで星を掴もうとするかのようだ。薬指の指輪に嵌ったダイヤモンドが一瞬煌めく、と、彼女は突然「きゃっ!」と叫んで、左手をさっと引っ込めた。

「ああ、びっくりした。タイミングよすぎ」

「どうしたの冴子さん」

「虫が飛んできて触っちゃったみたい。まったく、流れ星かと思ったじゃない。紛らわしいなぁ」

「何言ってんのさ」

 冴子さんの言いがかりがあんまりなので、ぼくは楽しくなってしまった。いつもははるか高みで輝いている彼女が、今このときだけはぐっと地べたに近づいてきてくれたような気がして、ぼくは少し安心する。

 本当はぼくが星に近づく努力をすべきなのだと、わかってはいるのだが。

「あっそうだ。晃介、大学で彼女できたら報告してよ。絶対に教えること、いいね」

 冴子さんが突然そう言って、ぼくの腕にもう一度触れてきた。

「は? 何でだよ」

「いいじゃん。晃介ってわたしの弟みたいなもんだから、つい気になっちゃうのよ。叔母さんも心配してたしね」

「母さんが? 勘弁してよ。だいたいそんなもん簡単にできないよ」

 冴子さんがまた軽やかに笑う。ぼくはため息をついて天を仰いだ。

 ついさっき彼女が手を伸ばしていた夕空に、いつのまにか一番星が瞬いている。

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